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9.朝の攻防

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 目覚めたはずなのに、目が開かない。
 とは言え、いつまでも目を瞑っているわけにもいかない。
 鈴花は無理矢理、重いまぶたをこじ開けた。
 とたん、朝日が目に突き刺さる。

「ん……」

 思わず呻くと、すぐ傍から衣擦れの音がする。
 何の音か理解する前に、柔らかくて少し冷たいなにかが、両のまぶたに順番に触れた。

「おはよう。よく、眠れた?」
「あ……、夏々地さん? おはようございます」

 腫れたまぶたにキスされたのだと気づき、鈴花はくすぐったさに首を竦めた。
 夏々地は片腕を支えにして上半身を起こした姿勢で、満足そうに微笑んだ。

「涼って呼んでよ、鈴花」
「りょ、涼さん……?」
「はい、良くできました」

 ちゅっと小さな音を立てて、夏々地は鈴花の頬に口づけた。
 キスはほんの一瞬で、身体を離すと彼はまじまじと鈴花の顔を見つめた。

「あの……なにかついてますか?」

 あまりに見つめられて恥ずかしい。堪えられなくなった鈴花はおずおずと尋ねた。
 よだれの痕でもあったら居たたまれないので、さりげなくそっと布団を口元まで引き上げようとする。
 が、にこにこと満面の笑みを浮かべながら、夏々地は顔を隠すなとでも言うように布団を引き下げた。笑顔に似合わぬ力強さで、鈴花の目論見はあっさり撥ねのけられた。

「――んー、少し目が腫れてるみたいだね。そういうのもすごく色っぽくて良いけれど、君本人としては目、辛いよね。なにか冷やすものと……それから朝食を持ってくるよ」

 そう言うと部屋を出て行く。
 暫くすると、濡れたタオルと朝食の膳を持って帰ってきた。
 鈴花の布団の脇にそれらを置くと、なぜか夏々地は鈴花を後ろから抱きしめるような形で座った。
 いったい何なの? と思いつつ、昨日の疲れで身体に力が入らない鈴花は、夏々地のなすがままだ。
 彼の胸に背中を預けるしかない。

「夏々地さん?」
「目を冷やすのも大事だし、朝食を取るのも大事だよね? 両方いっぺんにしちゃおうかと思って」
「……ひゃっ!?」

 言い終わるや否や、つめたいタオルが目の上に乗せられた。
 急に暗くなった視界と、ひんやりとした冷たさに鈴花は奇声のような悲鳴を上げた。

「はいはい、怖くないからね。おとなしくして」

 やけに楽しげな声が耳のそばでする。
 驚きが過ぎると、タオルの冷たさが気持ちよくて、無意識にほう、とため息が漏れた。

「口を開けて」
「え?」
「いいから口を開けて?」

 おずおずと口を開けると、香ばしい匂いのするものが舌の上に乗せられた。
 反射的に咀嚼すると、川魚独特の淡泊な香ばしさと爽やかな香りがする。塩加減も絶妙でつい頬が緩む美味しさだった。

「美味しい……」
「今朝、里の者が持ってきてくれた鮎だよ」

 『里の者』と聞いて、鈴花はこの世界にも人里があるのかと思ったものの、あやかしの世界なら里に住むのもおそらくあやかしなのだろうと思い直す。
 夏々地の口ぶりからして、彼の配下というのか、領民というのか、とにかくそういう人々がいるらしいと言うのが察せられた。

「もう一口どう? それとも次は違うものを食べたい?」

 夏々地の声で、鈴花は物思いから現実に引き戻された。
 よくよく冷静になって考えてみれば、この体勢はとても恥ずかしいものなのではないかと、今更ながらに気が付いて狼狽える。

「自分で食べられますから!」

 と慌てて拒否するものの、肩をがっちり抱きすくめられているので、腕から逃げ出すことは叶わないし、それどころかまぶたの上のタオルを取るのも無理だ。

「ほらほら、聞き分けのないことを言わない。あんまり暴れるなら口移しにするけど、そっちのほうがいい?」
「く、口!? 今のままで結構です! よろしくお願いします!!」

 鈴花は即座に断ると、『さあ食べ物を放り込んで!』と言わんばかりに大きく口を開けた。
 夏々地は「何だ、残念」と忍び笑うと、今度は玉子豆腐を鈴花の口に入れる。
 彩りとして添えられた木の芽の香りがほのかに移っており、とろっとした甘さと香ばしさの中にも、爽やかな風味が香る。

「はぁ……美味しい……」

 鈴花はため息交じりに呟く。

「だろう? うちの料理は素材も、料理人の腕も確かだからね。さぁ、もっとたくさん食べて」
「はい! いただきます」

 柔らかい口調で告げられ、鈴花は大いに頷いた。
 夏々地の手で食べさせられていることについてはもう割り切った。口移しよりはまだマシだろう。
 そう諦めて、鈴花は頬が落ちるほど美味しい朝食を堪能することに決めた。
 美味しい、美味しいと繰り返しながら食べる鈴花を見つめる夏々地の目は、執着の色を隠しもしない。

「鈴花がたくさん食べてくれて嬉しいよ」

 目を冷やすタオルが目隠しとなっているため、夏々地がほくそ笑んだことを、鈴花は知らない。





「かが……涼さん」
「なんだい?」
「ちょっとお願いがあるんですけれど」

 朝食が終わり、一段落ついたところで、鈴花はそんなことを切り出した。

「僕に叶えられることなら何でも。――新しい着物がほしい? それとも洋服? もしかして宝石? いや、急だったから簪や小物類の用意が少し心もとなかったんだよね。そっち?」
「ち、違います! そういうことじゃなくて……」

 鈴花は慌てて夏々地を遮った。
 着物や洋服はもとより、装飾品も小物もびっくりするほどの数が用意されている。
 先ほど青に手伝ってもらって着替える際に、彼女から箪笥の中を見せられて、驚愕したばかりだ。

「やっぱり一度、家に帰りたいなと思いまして……」

 おずおずと切り出したとたん、周りの空気が変わった気がした。

「せっかくのおねだりだから叶えてあげたいけれど、それは許可できないな」
「で、でも、私の荷物のほとんどは家に置いてありますし、そのまま放置するわけにもいきません。それに私がこっちの世界に来るとしたら家の処分も考えないと……」
「それは僕のほうで上手くやっておくから」

 夏々地の顔には笑顔が浮かんでいるものの、どこか不穏な雰囲気を醸し出している。
 鈴花は何か気に触ることを言っただろうかと自問自答しつつ、無意識に夏々地から一歩退いた。

「そこまでご迷惑をかけるのは――」
「迷惑じゃないさ。そんなこと造作もないことだ」

 即答だった。

「それより、君、今なんて言った? 『家へ帰る』? どこへ? 君の家はもうここだろう?」
「あ……!」

 どうやら失言をしたらしい、と思った時には既に遅かった。
 痛みを微塵も感じないほど優しく押し倒されていた。

「こ、言葉の綾です!」
「君がいるべき場所はここ。ここしか……ないんだ」

 鈴花を見下ろす夏々地の目は、人のそれの形をしているのに虹彩が赤く染まり始めている。
 その中に暗い情欲の熱を見てしまい、鈴花はゾクリ、と背を震わせた。
 背を走った戦慄は甘く、決して恐怖が引き起こしたものではない。
 昨日のように精も根も尽き果てるまで睦み合うのは怖い、けれど壊れるほど、我を忘れるほど貪られたい――鈴花の中に相反する願いが生まれる。

「鈴花は僕と一緒にいながら、余計なことを考えていたんだね。悪い子だな。僕のことしか考えられないようになればいいのに」

 夏々地は赤い目をスッと細めた。
 怜悧な印象を与えるその目は、獲物を見つめる捕食者の目だ。
 一度絡め取られたら、二度と外せない鎖に似ている。

 ――ああ、食べられる……。

 思った矢先、夏々地の顔が近づき、唇を食まれた。
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