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1巻
1-2
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2、【ディエゴ視点】興味か、それとも
「ご主人様、死んじゃったのか……? 寂しいよなぁ」
今日出会ったばかりのこの善良な男は、そんなふうに呟きながら俺の体を優しく撫でた。
俺を見下ろす青い瞳と労るような手が気持ち良すぎて、何も言えなくなる。
俺はプス……と鼻を鳴らしながら床に顎をつける。
申し訳ないが俺に『ご主人様』などいたことは、ついぞない。なんせ俺は狼獣人で、その気になれば人型を取れるのだから。
この男についてきたのは、単なる好奇心からだった。
今日は珍しくしくじって、銀の鬣を持つA級魔物グラスロに致命傷に近い傷をつけられたのが、その発端だ。
俺はS級ランク目前、自分で言うのもなんだがかなり凄腕の冒険者で、いつもならグラスロはこっちが狩る側。でも、あいつはおそらく長い時を経た個体で、強さも狡猾さもずば抜けていた。気配を消して襲いかかってきたヤツに不意打ちをくらって背中にとんでもなく深い傷を受け、命からがら逃げる。
運悪く回復薬を切らしていて、追いつかれたら確実に殺られると思った。スピードだけは若干勝っていたから、狼に姿を変えなんとかヤツを撒いたのだ。森を抜けてやっと草原へ出てだだっ広い中にキラキラ煌めく湖が見えた瞬間、そのあまりののどかさに俺は気が抜けてしまった。
それに背中の傷は多分かなり深い。血を流しすぎている。
自分の体が冷たい地面に倒れ込むのが分かって、気が遠くなっていく。
――そんな時だった。
何かが近づく気配に、俺は最後の気力を振り絞って威嚇する。
「ガウッッッ」
「ひぃっ!!」
なんとも情けない声があがって、ヌプッと湿った音がした。かすみかけた目に、尻餅をついて震えているヒョロい優男が映る。
あ……人間だったか……
一瞬申し訳なくなったが、こんなところにいたらこの男も危ないかもしれない。
俺はグルルルル……と唸った。撒いたとは思うが、さっきのグラスロが俺のニオイを追ってここに来ないとも限らない。
俺に威嚇されたくらいで腰を抜かしている優男に、あのグラスロの相手が務まるとは到底思えなかった。巻き込まれたら可哀想だ。
俺はもう動けない。頼むからこの場所を離れてくれ……
そこに、悲しそうな呟きが聞こえた。
「なんだよもう、助けてやろうと思ったのに……」
何……!?
信じられない言葉を聞いた気がして、遠くなりかける意識を必死で繋ぎ止める。
「びっくりしすぎてポーション、投げちゃったし……」
耳を疑う。
やっぱり今、助けようと思ったって言ったよな!? しかも、ポーション!? 見ず知らずの、しかも人間でもない相手に、ポーション……!?
なんてお人好しなんだ。驚愕してその男を見ると、彼はポーションを拾い四つん這いで後ずさろうとしていた。
嘘だろ……?
「心配しなくても近づいたりしないよ。もう帰る」
冗談じゃない!
俺は慌てる。
「きゅ、キューン! キューン……!」
ま、待ってくれ! さっきは悪かった……!
そんな思いを声に乗せて、必死で引き留める。
人間が聞いたら切なそうに聞こえるはずの声で、優男の良心に訴えかけた。
こんな俺にポーションを使おうなんて考えたくらいだ、お前は優しい人間なんだろう? 頼む、待ってくれ! 俺にはそのポーションが必要なんだ……!
「くぅん、くぅん、キューン。ぴすぴす、キューン」
「もしかして、僕に帰らないでほしいの?」
「わふっ」
通じた!!
俺も心底嬉しかったが、優男もそうらしい。彼の笑った顔は思いのほか愛嬌があって可愛かった。
俺のせいで尻餅をついて両手両足は勿論腰から下がずっぷりと泥にまみれている。顔にも泥の飛沫が飛んでいるっていうのに、こんな顔で笑えるなんて。
「お前、やっぱり飼い犬だったことがあるんだろ。現金だなぁ」
少なくともさっきよりは優男が警戒を解いてくれたみたいで、俺は安心した。
「傷を治してやるから、近づいても怒るなよ?」
「わふっ!」
やっぱり優しい奴だ。
「頼むから、傷が治った途端に襲ってきたりしないでくれよ……?」
「わふ」
当たり前だ。襲うもんか。
その思いを込めて、俺は返事した。
まだビビッている男の顔でも、ゆっくりと近づいてくるのが嬉しい。足元がよろめいているのは、きっと腰を抜かしたせいだろう。本当に申し訳ない。
そんな気持ちを分かってほしくて、しっぽをパタ、と振った。
俺の傍に来た優男は、自身に防護結界を重ねがけしてから膝をつく。
それなりの危機意識はあるようで何よりだ。俺は彼に命を預けるように目を閉じた。
「うわー、エグい傷」
小さな呟きと共に、傷口にポーションが塗り込まれる。
「ぅっ!」
めっっっっっっっっちゃ痛い!! 体がびくつくのを抑えるだけで精一杯だ。
「グルルルル……」
耐えきれずに、唸り声を漏らしてしまった。
怖がっていないかと心配になってうっすらと目を開けると、逆に心配そうに覗き込まれている。
ポーションをたっぷり傷口に塗り込まれていくうちに痛みはなくなり、傷口が塞がったのだろうと俺は安堵した。
すると優男がポーションの残りを手のひらに取って、口元に差し出してくれる。
どこまでも優しい。ちょっと涙が出た。
ポーションを舐めると、活力が漲る。ゆっくりと動いてみたら、ちゃんと立ち上がれた。
完璧ではないが、これならなんとか戦える。
「もう大丈夫そうだな」
おかげさまで。
自分の体がなんとかなった途端に、この男が心配になってきた。
この場所には俺のニオイも血臭もバッチリ残っている。さっきのグラスロが来るかは未知数だが、一刻も早く立ち去ってほしい。
だが勿論、優男がそんなことを知るはずはなく、周囲を眺めながらゆったりと歩いている。こののどかな風景。この辺りは本来、大きな危険がない場所なんだろう。この優男も軽装だしな。
湖のほとりでふと立ち止まって周囲を見回した彼は、心配でついてきた俺に気付き、優しく笑いかけてくれた。
「元気になって良かったな。僕のことは気にしなくていいから住処に帰りな」
呑気なことを。
ついため息が漏れるが、心配するのはこっちの勝手だ。
体力が戻ってきたから人型に戻って事情を伝えようかとも考えたが、A級冒険者だってのに格下の魔物に遅れをとって死にかけたのを知られるのが嫌で、獣形を保つことにした。
優男ときたら本当に呑気なもので、いきなり服を脱いで湖に入る。体や服を洗い始めたのに、驚くやら呆れるやらだ。
だが、まぁ、泥だらけだったしな。気持ちは分かる。
優男が水浴びしているのをぼんやり見ているうちに、グラスロを撒いてからそこそこ時間が経っているし心配しなくても大丈夫か……という気がしてきた。
全裸で水浴びしている優男をジロジロ見るのは憚られて、目を閉じようとしたその時だ。
「っ……!」
嗅ぎ慣れた瘴気に顔を顰める。
やっぱり追ってきやがった。しかも、俺よりも簡単に食え、かつ柔らかそうな優男に標的を定めていやがる。
それに気が付いた瞬間、俺の中に猛烈な怒りが湧いてきた。
この個体が俺よりも強いのはすでに分かっている。相手にもそれなりに傷を負わせていたが、俺だって完全じゃない。勝てるかどうかはギリギリだろう。
それでも。
優男は命の恩人だ。たとえ死んだって、コイツには指一本触れさせるもんか。
そう心に決めて、俺は銀の鬣を持つ魔物、グラスロに踊りかかった。
結果としては辛勝だ。
ジリジリと傷が増え追い込まれていたところに、あの優男がポーションで加勢してくれたらしい。どうやったのかは分からなかったが、傷が癒えて急に体が軽くなった。
それがなかったら、多分あのまま嬲られるように殺されていただろう。
しかも、それまで一瞬たりとも隙を見せなかったグラスロが、ほんの瞬きをする程度の時間固まったからこそ、俺はヤツの喉笛に喰らい付いて仕留められた。
あの一瞬のタイミングが、俺にとってどれほど貴重だったか。まさに生死を分ける一瞬だったと言っても過言ではない。
グラスロの不自然な硬直は優男が何かしたに違いなかった。俄然、男に興味が湧く。
いそいそと服を着る優男をジッと凝視した。
ぱっと見は呑気でお気楽そうだ。身長も体格も人族ではごく一般的で特徴らしい特徴がない。短く刈り込んだ金の髪も空みたいな青い目も、割とよくある配色だと思う。垂れ目がちなところや笑った顔は可愛いと感じるが、それだけだ。
どこにでもいそうな奴なのに、とんでもなく優しくて善良なのには驚いたが、もっと驚いたのは俺がグラスロと戦っている最中にサポートしたことだった。
A級同士の戦いに手を出せる輩なんて多くない。次元が違いすぎて見ていることしかできないのが大半だ。
つまりこの優男は、見かけに反してそれなりに肝が据わっている。俺に威嚇されて腰を抜かした貧弱な奴だという評価は、一旦、保留にした。
どうやって俺をサポートしたのか。この男がどんな人間なのか。
もっと知りたい。この男の色んな顔が見てみたい。
湧き出てくる好奇心が俺を突き動かす。
幸い今は急ぎの依頼は入ってないし、たまには自分を知らない奴のもとでのんびり過ごすのもいいかもしれない。
よし、この男についていってみよう。
勝手にそう決意する。
俺の考えていることなど知る由もない優男は、服を着終わったかと思うとなんとグラスロの屍体をほったらかして帰ろうとしていた。
「わふっ!?」
何やってんだ!
A級魔物の討伐報酬と素材の値段、いったいいくらだと思ってんだよ……!
驚いて引き留めようとしたが、勢いが強すぎたらしく押し倒してしまった。やっぱりコイツは貧弱なんだろうか……
疑念を持ちつつ説教し、素材の採取を促した。俺の命の恩人はとんでもなく優しいが、どうにも頼りない。
まぁいい、しばらくの間くらいなら面倒を見てやらんでもない。なんせ命の恩人なんだから。
そう思って優男……いや、そう言えば冒険者ギルドで会っていた男にラスクと呼ばれていたから、名はラスクと言うのだろう。
そのラスクの家に無理やりついていったわけだが――
「よーし、じゃ洗うよー!」
「キャウン……」
信じられないことに、容赦なく水をぶっかけられ丸洗いされてしまった。いい匂いの石鹸でアワアワのゴリゴリに洗われる。
「僕ん家に入るなら風呂でくまなく洗ってから」
そう宣言された通り、本気で何度も何度も。耳の先からしっぽの先まで。肉球どころか足指の股まで。体は地肌に近いふわ毛の中の中にまで指を突っ込まれ耳の中をも指先で丹念に洗われて、俺は次第にぐったりしてきた。
人型の時でもこんなに丁寧に洗ったことなんかない。本当に瘴気や雑菌を全て洗い流そうとでも思っているんだろうか。洗い方に執念みたいなものを感じて、俺は目を瞑って耐えた。
水浴びキライ……
「うわふっっっ!?」
突然、急所を擦られて、さすがの俺も飛び上がる。
「こーら、暴れないの」
これが暴れずにいられるか!
「わ、わふっ! ガウウッ、ガッ……」
必死で抗議してラスクの腕から抜け出そうとしたものの、突然、体が動かなくなった。
「はーい、ちょっとだけ我慢してね~、すぐに終わるから」
のんびりした声でそんなことを言いながら、ラスクが俺のタマを丁寧に洗い、しまいにはしっぽを持ち上げてケツの穴まで洗い始めた。
なんたる屈辱……!!
しかしどんなに悔しくても、体がぴくりとも動かない。
この体の動かなさ。絶対に魔術だ。拘束魔術を使ったに違いない。
「はい、おしまい! よく頑張ったね」
体を柔らかいタオルで拭き上げられてヨシヨシと頭を撫でられても、もはや声も出なかった。
為す術なくとんでもないところを洗い倒されて傷心の俺は、ヨロヨロと部屋の隅に向かい、ペションと床に伏す。
ピス……と情けない息が漏れた。
なんなんだ、コイツ。ヒョロヒョロの優男のくせに。
なんでS級目前の俺に、あんなにガッチリ拘束魔術をかけられるんだ。
グラスロの動きが急に止まったのも、きっとこの拘束魔術のせいだったのだろう。
一つ謎が解けた。
……謎は解けたが、あのグラスロは一瞬だったのに、俺は洗い終わるまでの間しっかり拘束されたのがプライドを傷付ける。
いや、きっとあのグラスロは魔法耐性がズバ抜けて高かったんだ……
またピス……と鼻息が漏れる。
「もう、まだ拗ねてんの?」
拗ねてるんじゃなくて怒ってるんだ……!
ラスクが声をかけてきたけど無視してやった。俺はまだ許してないからな!
俺の恥ずかしいところをあんな……! 問答無用で洗い倒すなんて許せるはずがない。
ツーンとそっぽを向いて、耳もしっぽも動かさないように気を配る。
ところが、だ。
「ま、いいや」
俺がまったく反応を見せずにいると、ラスクはあっさりと諦めた。
「飯でも作るか」
「わふっ!?」
飯という言葉に思わず反応してしまう。
俺をほっといて飯を作ろうとしているのは気に食わないが、ぶっちゃけ腹が減っているし、飯に罪はないもんな!
いそいそと買ってもらった肉を持ち出し、ラスクに一生懸命訴えて焼いてもらった。さすがに生肉は最終手段だ。できることなら焼きたいし、勿論味が付いているほうがいい。
首を傾げながらも肉を焼いてくれるラスクの姿を見て、俺の怒りは少しずつおさまってきた。
俺のためにたっぷりの肉を焼いて皿に山盛りにした後で自分の分を作っている背中を見ると、今度は逆に申し訳なくなってくる。
そうだよな。
風呂であらぬところを洗われた衝撃でついつい怒ったが、そもそもラスクに興味があって勝手におしかけているのは俺だ。
しかも、命の恩人だから面倒を見てやってもいい、なんて偉そうに思っていたが、冷静に考えてみると面倒を見るどころか世話してもらいっぱなし。さすがにヘコむ。
俺は何をしに来たんだ……
いや、やっぱりこの姿だから世話をやかれる羽目になっているわけで、人型になれば。
しかしそうなると、こんなにも気を許してくれるだろうか。
一緒に屋台を巡り、風呂に入り、微妙に通じている感じで言い合いながら飯を食う。それが存外楽しくて。
ころころ変わる表情も、文句を言いながらも楽しそうに世話をやいてくれるのも、嬉しかった。
俺は仮にもこんな小さな町じゃお目にかかれないだろうA級冒険者だ。そうと知られれば、これほどあけすけには話してくれないかもしれない。なぜ宿に泊まらないのかと不審がられるだろうし、少なくとも家に入り込むのは無理だ。
……それはちょっと寂しい。
湧き起こってきた自分の感情にちょっとびっくりする。
獣人の親離れは早い。人間だったらまだ『学校』とやらに行っている年齢で独り立ちして身を立てる。俺も例に漏れず十二の年を数えたくらいで家を出て、それから十四、五年というものひとりで身を立てて生きてきた。
その間、ひとりが寂しいとか、誰かと一緒にいたいとか、なんて思ったことはない。
冒険者パーティーに誘われたことも何度だってあるが、ソロを貫いてきたのは単純に他人と一緒にいるのが面倒だからだ。
ソロは気楽で稼ぎもいいし、なんだって自分がしたいようにできる。誰かに気を遣う必要もない。
最高に俺に合っている、そう思っていた。
なのになぜ、この優男――ラスクとは一緒にいたいと思うのか。
「ご主人様、死んじゃったのか……? 寂しいよなぁ」
そんなふうに優しく呟いた後は何も言わず、ただひたすらに俺の体を優しく撫でてくれるラスク。俺が特に反応を示さなくても、その手はゆったりと体の上を滑っていく。
他人にこんなふうに撫でられることなんてなかった。
あったかい手でゆっくりと撫でてもらえるのがこんなに気持ちいいなんて知らなくて、もうちょっとだけこの優しい手で撫でてほしい、なんて考える。
床に寝そべる俺に合わせるように横に座っていたラスクの太ももにそっと顎を乗せてみた。すると、ラスクは俺の耳の付け根を揉むように撫で始める。
暖炉の前のふかふかとあったかい絨毯の上、しかも人肌に寄り添って撫でられていると、次第に体中の力が抜けうとうとと眠くなってきた。
気を抜いたら寝落ちしそうだ……と思った頃、ラスクが小さな声で喋り始めた。
「なぁ真っ黒ワンコ、お前はどんな町や森を冒険してきたの?」
腹の辺りを撫でながら、囁くようにそんなことを言う。
「僕さぁ、いつかエリクサーを作れるような、そんな薬師になりたいんだよね……」
思わず見上げると、空色の瞳と目が合った。照れくさそうに笑うのが可愛い。
「おかしいだろ? 夢みたいなことだからさ、あんまり人に言ったことないんだけど」
確かに。エリクサーって確か、伝説の万能薬だよな。
効能については諸説ありすぎて結局どんな効果があるのか分からんっていう、摩訶不思議な代物だ。全ての病を治せるとか、状態異常や体力・気力も全回復するとか、死人を生き返らせるとか、不老不死になれるとか。
そもそも誰もそのエリクサーなる薬を見たことがないんだから、何が本当か分からない。まさに伝説って感じだ。
「僕の親ね、流行病で死んだんだ。日に日に衰弱していって……本当に酷いもんだった。父さんが死んで、母さんもいよいよ息を引き取った時にさ、エリクサーがあればってどれだけ泣いたかしれないよ」
この、のほほんとした様子の男にそんな悲しい過去があったとは。
なんで急に俺なんかにそんな話をしたのかは分からない。だが、ぼそぼそと呟くラスクがあまりにも悲しそうな眼をしていたから、つい伸び上がって鼻先で顎をちょんと突いてやった。
「はは、慰めてくれるの? お前意外と優しいな」
ラスクがちょっと笑ってくれたので、俺も少しホッとする。
慰めようとしたのかは自分でも分からない。ただ、ラスクが悲しい顔をしているのが辛くて、気が付いたら触れたくなっていたのだ。
人族というのは、他の種族に比べて体が弱い。
肉体も貧弱で脆いが、病にも弱く寿命が短い。だから、ラスクが語った内容は充分にあり得る話だ。
彼もきっと俺に比べたら脆くて弱い。ラスクがあっさり死んでしまって、もう二度と撫でてもらえなくなるのは嫌だ……ふと、そう思う。
だが、死にやすい種族だからこそなのか、人族は生にとても貪欲だ。もしかしたらエリクサーみたいな薬を作り出すのは、人族なのかもしれない。
「今さらエリクサーを作ったって親が戻ってくるわけじゃないけどさ、でも、病で苦しむ人を救うことはできると思うから」
穏やかな声でそう言うラスクの目はとても優しいけれど真剣で、本気で言っていることだけは理解できた。
「勿論エリクサーなんて伝説だからさ、レシピを探すところからで、道のりは遠いんだけど」
やっぱり薬師から見ても伝説なのか。そりゃあ遠い道のりだろう。
俺にはエリクサーがどんな薬なのかは分からない。でも、いつかラスクが作り出せればいいのに。
「多分レシピを探すのも大変だし、使う素材もここにいるだけじゃ手に入らないと思うんだ。だから世界中を旅してレシピや素材を手に入れようと思って、僕でもできるような魔術を覚えたり体を鍛えたりしてるんだけどさぁ」
その言葉にびっくりして、俺はラスクの顔を二度見した。
体を鍛えている……!? これで!? 筋肉があるようには見えなかったぞ!?
あ、でも拘束魔術は見事だったから、鍛錬しているのは確かだ。本職の薬の勉強もあるだろうに、ご苦労なことだ。
「お前くらい強かったら、そんなことする必要もないんだけどね」
見上げる俺の背中を撫でつつ、ラスクが笑う。
「お前はきっと、ご主人様とたくさんの場所を冒険したんだろうなぁ。なぁ、どっかでエリクサーの情報ってなかった?」
「クゥン……」
すまん、聞いたことがない。今までエリクサーなんて気にしたことがないから、もしかしたら何かあったのかもしれないが。役に立てなくて申し訳ない。
「ダメかぁ。ま、そう簡単にいくわけないよな」
くすくすと笑いながらラスクが俺の首にスリ……と頬を寄せた。なんだか凄く落ち着かない。
でも、あんな寂しそうな瞳を見た後では避けるわけにもいかなくて、俺はただ受け止める。
「今はまだ薬の知識をつけたり、いつか旅に出られるようにせめて護衛を雇えるくらい稼ごうって頑張ってるんだけどさ。お前がすっごい魔物を倒してくれたから一気に夢が近づいたよ。まぁ知識がまだまだ足りないから、もうちょっと師匠のもとで学んでからだけど」
あ、そうか。グラスロの討伐報酬と素材の代金が入ったんだもんな。普通に稼ぐ数年分になったはずだ。冒険者はハイリスクハイリターンだから、A級の魔物を仕留めたら数年は遊んで暮らせる。
そこそこ腕の立つ冒険者だって雇えるだろうから本当なら今すぐ旅立ったっていいのに、ラスクはそれなりに慎重派らしい。俺なら小躍りして飛び出している。
「あー、なんか話したらスッキリしたなぁ。夢がデカすぎてあんまり人に言えなくてさ、モヤモヤしてたんだ。聞いてくれてありがとな!」
そっか、とちょっと納得した。なんで急に狼である俺にそんな話を始めたのか不思議だったけど、多分ラスクは突然夢に一歩大きく近づいたことに戸惑い、そのきっかけである俺に話すことで頭の中を整理したかったに違いない。
「なー真っ黒ワンコ、……って、ずっと真っ黒ワンコって呼ぶのも変か」
さすがに気が付いたか。どうするつもりかとちょっとワクワクする。
「でもなー……もしかしたら、ご主人様とはぐれただけかもしれないもんなぁ、お前」
ご主人様などいない。が、それを伝える術はないんだよなぁ。
「ま、お前の飼い主が見つかるまでの仮の名前って思えばいいか。お前、何がいい?」
「わふ……」
「クロ? ポチ? タマ?」
「ガウウッ!?」
それはねぇだろ! 仮の名前にしてもいい加減すぎる……!
「なんだよ急に。気に入らないのか?」
「グルルルル……」
当たり前だろ。俺にはディエゴっていう、立派な名前があるんだよ!
3【ラスク視点】今すぐ! 人型になって!!
「――そんなに怒らなくても」
挙げた名前に文句をつけるように唸る真っ黒ワンコに、僕は思わず笑ってしまった。
本っっっ当に嫌なんだろうな。適当に言ったのがバレたのかなぁ。
しばし考えて、今度はちゃんと合いそうな名前を口にする。
「じゃーお前、真っ黒でかっこいいから、ネロとかどう? どっかの国で黒って意味だよ」
あ、ちょっと考えている。結局はクロなのに、捻ってたらいいのかよ。
「……わうっ!」
「お、気に入ったか! んじゃお前、クロ……じゃなくて、ネロね! ネロ、よろしくな!」
「わふっ」
可愛い。孤児院を出てひとり暮らしを始めてからこっち、家の中がこんなに賑やかだなんて初めてだ。でっかいナリして喜怒哀楽が激しい真っ黒ワンコ――僕命名ネロを、僕はすっかり気に入っていた。
楽しいけれど、今日は色々あって疲れたし、明日も仕事だ。
ふわぁ、という欠伸が勝手に口から出る。
「ご主人様、死んじゃったのか……? 寂しいよなぁ」
今日出会ったばかりのこの善良な男は、そんなふうに呟きながら俺の体を優しく撫でた。
俺を見下ろす青い瞳と労るような手が気持ち良すぎて、何も言えなくなる。
俺はプス……と鼻を鳴らしながら床に顎をつける。
申し訳ないが俺に『ご主人様』などいたことは、ついぞない。なんせ俺は狼獣人で、その気になれば人型を取れるのだから。
この男についてきたのは、単なる好奇心からだった。
今日は珍しくしくじって、銀の鬣を持つA級魔物グラスロに致命傷に近い傷をつけられたのが、その発端だ。
俺はS級ランク目前、自分で言うのもなんだがかなり凄腕の冒険者で、いつもならグラスロはこっちが狩る側。でも、あいつはおそらく長い時を経た個体で、強さも狡猾さもずば抜けていた。気配を消して襲いかかってきたヤツに不意打ちをくらって背中にとんでもなく深い傷を受け、命からがら逃げる。
運悪く回復薬を切らしていて、追いつかれたら確実に殺られると思った。スピードだけは若干勝っていたから、狼に姿を変えなんとかヤツを撒いたのだ。森を抜けてやっと草原へ出てだだっ広い中にキラキラ煌めく湖が見えた瞬間、そのあまりののどかさに俺は気が抜けてしまった。
それに背中の傷は多分かなり深い。血を流しすぎている。
自分の体が冷たい地面に倒れ込むのが分かって、気が遠くなっていく。
――そんな時だった。
何かが近づく気配に、俺は最後の気力を振り絞って威嚇する。
「ガウッッッ」
「ひぃっ!!」
なんとも情けない声があがって、ヌプッと湿った音がした。かすみかけた目に、尻餅をついて震えているヒョロい優男が映る。
あ……人間だったか……
一瞬申し訳なくなったが、こんなところにいたらこの男も危ないかもしれない。
俺はグルルルル……と唸った。撒いたとは思うが、さっきのグラスロが俺のニオイを追ってここに来ないとも限らない。
俺に威嚇されたくらいで腰を抜かしている優男に、あのグラスロの相手が務まるとは到底思えなかった。巻き込まれたら可哀想だ。
俺はもう動けない。頼むからこの場所を離れてくれ……
そこに、悲しそうな呟きが聞こえた。
「なんだよもう、助けてやろうと思ったのに……」
何……!?
信じられない言葉を聞いた気がして、遠くなりかける意識を必死で繋ぎ止める。
「びっくりしすぎてポーション、投げちゃったし……」
耳を疑う。
やっぱり今、助けようと思ったって言ったよな!? しかも、ポーション!? 見ず知らずの、しかも人間でもない相手に、ポーション……!?
なんてお人好しなんだ。驚愕してその男を見ると、彼はポーションを拾い四つん這いで後ずさろうとしていた。
嘘だろ……?
「心配しなくても近づいたりしないよ。もう帰る」
冗談じゃない!
俺は慌てる。
「きゅ、キューン! キューン……!」
ま、待ってくれ! さっきは悪かった……!
そんな思いを声に乗せて、必死で引き留める。
人間が聞いたら切なそうに聞こえるはずの声で、優男の良心に訴えかけた。
こんな俺にポーションを使おうなんて考えたくらいだ、お前は優しい人間なんだろう? 頼む、待ってくれ! 俺にはそのポーションが必要なんだ……!
「くぅん、くぅん、キューン。ぴすぴす、キューン」
「もしかして、僕に帰らないでほしいの?」
「わふっ」
通じた!!
俺も心底嬉しかったが、優男もそうらしい。彼の笑った顔は思いのほか愛嬌があって可愛かった。
俺のせいで尻餅をついて両手両足は勿論腰から下がずっぷりと泥にまみれている。顔にも泥の飛沫が飛んでいるっていうのに、こんな顔で笑えるなんて。
「お前、やっぱり飼い犬だったことがあるんだろ。現金だなぁ」
少なくともさっきよりは優男が警戒を解いてくれたみたいで、俺は安心した。
「傷を治してやるから、近づいても怒るなよ?」
「わふっ!」
やっぱり優しい奴だ。
「頼むから、傷が治った途端に襲ってきたりしないでくれよ……?」
「わふ」
当たり前だ。襲うもんか。
その思いを込めて、俺は返事した。
まだビビッている男の顔でも、ゆっくりと近づいてくるのが嬉しい。足元がよろめいているのは、きっと腰を抜かしたせいだろう。本当に申し訳ない。
そんな気持ちを分かってほしくて、しっぽをパタ、と振った。
俺の傍に来た優男は、自身に防護結界を重ねがけしてから膝をつく。
それなりの危機意識はあるようで何よりだ。俺は彼に命を預けるように目を閉じた。
「うわー、エグい傷」
小さな呟きと共に、傷口にポーションが塗り込まれる。
「ぅっ!」
めっっっっっっっっちゃ痛い!! 体がびくつくのを抑えるだけで精一杯だ。
「グルルルル……」
耐えきれずに、唸り声を漏らしてしまった。
怖がっていないかと心配になってうっすらと目を開けると、逆に心配そうに覗き込まれている。
ポーションをたっぷり傷口に塗り込まれていくうちに痛みはなくなり、傷口が塞がったのだろうと俺は安堵した。
すると優男がポーションの残りを手のひらに取って、口元に差し出してくれる。
どこまでも優しい。ちょっと涙が出た。
ポーションを舐めると、活力が漲る。ゆっくりと動いてみたら、ちゃんと立ち上がれた。
完璧ではないが、これならなんとか戦える。
「もう大丈夫そうだな」
おかげさまで。
自分の体がなんとかなった途端に、この男が心配になってきた。
この場所には俺のニオイも血臭もバッチリ残っている。さっきのグラスロが来るかは未知数だが、一刻も早く立ち去ってほしい。
だが勿論、優男がそんなことを知るはずはなく、周囲を眺めながらゆったりと歩いている。こののどかな風景。この辺りは本来、大きな危険がない場所なんだろう。この優男も軽装だしな。
湖のほとりでふと立ち止まって周囲を見回した彼は、心配でついてきた俺に気付き、優しく笑いかけてくれた。
「元気になって良かったな。僕のことは気にしなくていいから住処に帰りな」
呑気なことを。
ついため息が漏れるが、心配するのはこっちの勝手だ。
体力が戻ってきたから人型に戻って事情を伝えようかとも考えたが、A級冒険者だってのに格下の魔物に遅れをとって死にかけたのを知られるのが嫌で、獣形を保つことにした。
優男ときたら本当に呑気なもので、いきなり服を脱いで湖に入る。体や服を洗い始めたのに、驚くやら呆れるやらだ。
だが、まぁ、泥だらけだったしな。気持ちは分かる。
優男が水浴びしているのをぼんやり見ているうちに、グラスロを撒いてからそこそこ時間が経っているし心配しなくても大丈夫か……という気がしてきた。
全裸で水浴びしている優男をジロジロ見るのは憚られて、目を閉じようとしたその時だ。
「っ……!」
嗅ぎ慣れた瘴気に顔を顰める。
やっぱり追ってきやがった。しかも、俺よりも簡単に食え、かつ柔らかそうな優男に標的を定めていやがる。
それに気が付いた瞬間、俺の中に猛烈な怒りが湧いてきた。
この個体が俺よりも強いのはすでに分かっている。相手にもそれなりに傷を負わせていたが、俺だって完全じゃない。勝てるかどうかはギリギリだろう。
それでも。
優男は命の恩人だ。たとえ死んだって、コイツには指一本触れさせるもんか。
そう心に決めて、俺は銀の鬣を持つ魔物、グラスロに踊りかかった。
結果としては辛勝だ。
ジリジリと傷が増え追い込まれていたところに、あの優男がポーションで加勢してくれたらしい。どうやったのかは分からなかったが、傷が癒えて急に体が軽くなった。
それがなかったら、多分あのまま嬲られるように殺されていただろう。
しかも、それまで一瞬たりとも隙を見せなかったグラスロが、ほんの瞬きをする程度の時間固まったからこそ、俺はヤツの喉笛に喰らい付いて仕留められた。
あの一瞬のタイミングが、俺にとってどれほど貴重だったか。まさに生死を分ける一瞬だったと言っても過言ではない。
グラスロの不自然な硬直は優男が何かしたに違いなかった。俄然、男に興味が湧く。
いそいそと服を着る優男をジッと凝視した。
ぱっと見は呑気でお気楽そうだ。身長も体格も人族ではごく一般的で特徴らしい特徴がない。短く刈り込んだ金の髪も空みたいな青い目も、割とよくある配色だと思う。垂れ目がちなところや笑った顔は可愛いと感じるが、それだけだ。
どこにでもいそうな奴なのに、とんでもなく優しくて善良なのには驚いたが、もっと驚いたのは俺がグラスロと戦っている最中にサポートしたことだった。
A級同士の戦いに手を出せる輩なんて多くない。次元が違いすぎて見ていることしかできないのが大半だ。
つまりこの優男は、見かけに反してそれなりに肝が据わっている。俺に威嚇されて腰を抜かした貧弱な奴だという評価は、一旦、保留にした。
どうやって俺をサポートしたのか。この男がどんな人間なのか。
もっと知りたい。この男の色んな顔が見てみたい。
湧き出てくる好奇心が俺を突き動かす。
幸い今は急ぎの依頼は入ってないし、たまには自分を知らない奴のもとでのんびり過ごすのもいいかもしれない。
よし、この男についていってみよう。
勝手にそう決意する。
俺の考えていることなど知る由もない優男は、服を着終わったかと思うとなんとグラスロの屍体をほったらかして帰ろうとしていた。
「わふっ!?」
何やってんだ!
A級魔物の討伐報酬と素材の値段、いったいいくらだと思ってんだよ……!
驚いて引き留めようとしたが、勢いが強すぎたらしく押し倒してしまった。やっぱりコイツは貧弱なんだろうか……
疑念を持ちつつ説教し、素材の採取を促した。俺の命の恩人はとんでもなく優しいが、どうにも頼りない。
まぁいい、しばらくの間くらいなら面倒を見てやらんでもない。なんせ命の恩人なんだから。
そう思って優男……いや、そう言えば冒険者ギルドで会っていた男にラスクと呼ばれていたから、名はラスクと言うのだろう。
そのラスクの家に無理やりついていったわけだが――
「よーし、じゃ洗うよー!」
「キャウン……」
信じられないことに、容赦なく水をぶっかけられ丸洗いされてしまった。いい匂いの石鹸でアワアワのゴリゴリに洗われる。
「僕ん家に入るなら風呂でくまなく洗ってから」
そう宣言された通り、本気で何度も何度も。耳の先からしっぽの先まで。肉球どころか足指の股まで。体は地肌に近いふわ毛の中の中にまで指を突っ込まれ耳の中をも指先で丹念に洗われて、俺は次第にぐったりしてきた。
人型の時でもこんなに丁寧に洗ったことなんかない。本当に瘴気や雑菌を全て洗い流そうとでも思っているんだろうか。洗い方に執念みたいなものを感じて、俺は目を瞑って耐えた。
水浴びキライ……
「うわふっっっ!?」
突然、急所を擦られて、さすがの俺も飛び上がる。
「こーら、暴れないの」
これが暴れずにいられるか!
「わ、わふっ! ガウウッ、ガッ……」
必死で抗議してラスクの腕から抜け出そうとしたものの、突然、体が動かなくなった。
「はーい、ちょっとだけ我慢してね~、すぐに終わるから」
のんびりした声でそんなことを言いながら、ラスクが俺のタマを丁寧に洗い、しまいにはしっぽを持ち上げてケツの穴まで洗い始めた。
なんたる屈辱……!!
しかしどんなに悔しくても、体がぴくりとも動かない。
この体の動かなさ。絶対に魔術だ。拘束魔術を使ったに違いない。
「はい、おしまい! よく頑張ったね」
体を柔らかいタオルで拭き上げられてヨシヨシと頭を撫でられても、もはや声も出なかった。
為す術なくとんでもないところを洗い倒されて傷心の俺は、ヨロヨロと部屋の隅に向かい、ペションと床に伏す。
ピス……と情けない息が漏れた。
なんなんだ、コイツ。ヒョロヒョロの優男のくせに。
なんでS級目前の俺に、あんなにガッチリ拘束魔術をかけられるんだ。
グラスロの動きが急に止まったのも、きっとこの拘束魔術のせいだったのだろう。
一つ謎が解けた。
……謎は解けたが、あのグラスロは一瞬だったのに、俺は洗い終わるまでの間しっかり拘束されたのがプライドを傷付ける。
いや、きっとあのグラスロは魔法耐性がズバ抜けて高かったんだ……
またピス……と鼻息が漏れる。
「もう、まだ拗ねてんの?」
拗ねてるんじゃなくて怒ってるんだ……!
ラスクが声をかけてきたけど無視してやった。俺はまだ許してないからな!
俺の恥ずかしいところをあんな……! 問答無用で洗い倒すなんて許せるはずがない。
ツーンとそっぽを向いて、耳もしっぽも動かさないように気を配る。
ところが、だ。
「ま、いいや」
俺がまったく反応を見せずにいると、ラスクはあっさりと諦めた。
「飯でも作るか」
「わふっ!?」
飯という言葉に思わず反応してしまう。
俺をほっといて飯を作ろうとしているのは気に食わないが、ぶっちゃけ腹が減っているし、飯に罪はないもんな!
いそいそと買ってもらった肉を持ち出し、ラスクに一生懸命訴えて焼いてもらった。さすがに生肉は最終手段だ。できることなら焼きたいし、勿論味が付いているほうがいい。
首を傾げながらも肉を焼いてくれるラスクの姿を見て、俺の怒りは少しずつおさまってきた。
俺のためにたっぷりの肉を焼いて皿に山盛りにした後で自分の分を作っている背中を見ると、今度は逆に申し訳なくなってくる。
そうだよな。
風呂であらぬところを洗われた衝撃でついつい怒ったが、そもそもラスクに興味があって勝手におしかけているのは俺だ。
しかも、命の恩人だから面倒を見てやってもいい、なんて偉そうに思っていたが、冷静に考えてみると面倒を見るどころか世話してもらいっぱなし。さすがにヘコむ。
俺は何をしに来たんだ……
いや、やっぱりこの姿だから世話をやかれる羽目になっているわけで、人型になれば。
しかしそうなると、こんなにも気を許してくれるだろうか。
一緒に屋台を巡り、風呂に入り、微妙に通じている感じで言い合いながら飯を食う。それが存外楽しくて。
ころころ変わる表情も、文句を言いながらも楽しそうに世話をやいてくれるのも、嬉しかった。
俺は仮にもこんな小さな町じゃお目にかかれないだろうA級冒険者だ。そうと知られれば、これほどあけすけには話してくれないかもしれない。なぜ宿に泊まらないのかと不審がられるだろうし、少なくとも家に入り込むのは無理だ。
……それはちょっと寂しい。
湧き起こってきた自分の感情にちょっとびっくりする。
獣人の親離れは早い。人間だったらまだ『学校』とやらに行っている年齢で独り立ちして身を立てる。俺も例に漏れず十二の年を数えたくらいで家を出て、それから十四、五年というものひとりで身を立てて生きてきた。
その間、ひとりが寂しいとか、誰かと一緒にいたいとか、なんて思ったことはない。
冒険者パーティーに誘われたことも何度だってあるが、ソロを貫いてきたのは単純に他人と一緒にいるのが面倒だからだ。
ソロは気楽で稼ぎもいいし、なんだって自分がしたいようにできる。誰かに気を遣う必要もない。
最高に俺に合っている、そう思っていた。
なのになぜ、この優男――ラスクとは一緒にいたいと思うのか。
「ご主人様、死んじゃったのか……? 寂しいよなぁ」
そんなふうに優しく呟いた後は何も言わず、ただひたすらに俺の体を優しく撫でてくれるラスク。俺が特に反応を示さなくても、その手はゆったりと体の上を滑っていく。
他人にこんなふうに撫でられることなんてなかった。
あったかい手でゆっくりと撫でてもらえるのがこんなに気持ちいいなんて知らなくて、もうちょっとだけこの優しい手で撫でてほしい、なんて考える。
床に寝そべる俺に合わせるように横に座っていたラスクの太ももにそっと顎を乗せてみた。すると、ラスクは俺の耳の付け根を揉むように撫で始める。
暖炉の前のふかふかとあったかい絨毯の上、しかも人肌に寄り添って撫でられていると、次第に体中の力が抜けうとうとと眠くなってきた。
気を抜いたら寝落ちしそうだ……と思った頃、ラスクが小さな声で喋り始めた。
「なぁ真っ黒ワンコ、お前はどんな町や森を冒険してきたの?」
腹の辺りを撫でながら、囁くようにそんなことを言う。
「僕さぁ、いつかエリクサーを作れるような、そんな薬師になりたいんだよね……」
思わず見上げると、空色の瞳と目が合った。照れくさそうに笑うのが可愛い。
「おかしいだろ? 夢みたいなことだからさ、あんまり人に言ったことないんだけど」
確かに。エリクサーって確か、伝説の万能薬だよな。
効能については諸説ありすぎて結局どんな効果があるのか分からんっていう、摩訶不思議な代物だ。全ての病を治せるとか、状態異常や体力・気力も全回復するとか、死人を生き返らせるとか、不老不死になれるとか。
そもそも誰もそのエリクサーなる薬を見たことがないんだから、何が本当か分からない。まさに伝説って感じだ。
「僕の親ね、流行病で死んだんだ。日に日に衰弱していって……本当に酷いもんだった。父さんが死んで、母さんもいよいよ息を引き取った時にさ、エリクサーがあればってどれだけ泣いたかしれないよ」
この、のほほんとした様子の男にそんな悲しい過去があったとは。
なんで急に俺なんかにそんな話をしたのかは分からない。だが、ぼそぼそと呟くラスクがあまりにも悲しそうな眼をしていたから、つい伸び上がって鼻先で顎をちょんと突いてやった。
「はは、慰めてくれるの? お前意外と優しいな」
ラスクがちょっと笑ってくれたので、俺も少しホッとする。
慰めようとしたのかは自分でも分からない。ただ、ラスクが悲しい顔をしているのが辛くて、気が付いたら触れたくなっていたのだ。
人族というのは、他の種族に比べて体が弱い。
肉体も貧弱で脆いが、病にも弱く寿命が短い。だから、ラスクが語った内容は充分にあり得る話だ。
彼もきっと俺に比べたら脆くて弱い。ラスクがあっさり死んでしまって、もう二度と撫でてもらえなくなるのは嫌だ……ふと、そう思う。
だが、死にやすい種族だからこそなのか、人族は生にとても貪欲だ。もしかしたらエリクサーみたいな薬を作り出すのは、人族なのかもしれない。
「今さらエリクサーを作ったって親が戻ってくるわけじゃないけどさ、でも、病で苦しむ人を救うことはできると思うから」
穏やかな声でそう言うラスクの目はとても優しいけれど真剣で、本気で言っていることだけは理解できた。
「勿論エリクサーなんて伝説だからさ、レシピを探すところからで、道のりは遠いんだけど」
やっぱり薬師から見ても伝説なのか。そりゃあ遠い道のりだろう。
俺にはエリクサーがどんな薬なのかは分からない。でも、いつかラスクが作り出せればいいのに。
「多分レシピを探すのも大変だし、使う素材もここにいるだけじゃ手に入らないと思うんだ。だから世界中を旅してレシピや素材を手に入れようと思って、僕でもできるような魔術を覚えたり体を鍛えたりしてるんだけどさぁ」
その言葉にびっくりして、俺はラスクの顔を二度見した。
体を鍛えている……!? これで!? 筋肉があるようには見えなかったぞ!?
あ、でも拘束魔術は見事だったから、鍛錬しているのは確かだ。本職の薬の勉強もあるだろうに、ご苦労なことだ。
「お前くらい強かったら、そんなことする必要もないんだけどね」
見上げる俺の背中を撫でつつ、ラスクが笑う。
「お前はきっと、ご主人様とたくさんの場所を冒険したんだろうなぁ。なぁ、どっかでエリクサーの情報ってなかった?」
「クゥン……」
すまん、聞いたことがない。今までエリクサーなんて気にしたことがないから、もしかしたら何かあったのかもしれないが。役に立てなくて申し訳ない。
「ダメかぁ。ま、そう簡単にいくわけないよな」
くすくすと笑いながらラスクが俺の首にスリ……と頬を寄せた。なんだか凄く落ち着かない。
でも、あんな寂しそうな瞳を見た後では避けるわけにもいかなくて、俺はただ受け止める。
「今はまだ薬の知識をつけたり、いつか旅に出られるようにせめて護衛を雇えるくらい稼ごうって頑張ってるんだけどさ。お前がすっごい魔物を倒してくれたから一気に夢が近づいたよ。まぁ知識がまだまだ足りないから、もうちょっと師匠のもとで学んでからだけど」
あ、そうか。グラスロの討伐報酬と素材の代金が入ったんだもんな。普通に稼ぐ数年分になったはずだ。冒険者はハイリスクハイリターンだから、A級の魔物を仕留めたら数年は遊んで暮らせる。
そこそこ腕の立つ冒険者だって雇えるだろうから本当なら今すぐ旅立ったっていいのに、ラスクはそれなりに慎重派らしい。俺なら小躍りして飛び出している。
「あー、なんか話したらスッキリしたなぁ。夢がデカすぎてあんまり人に言えなくてさ、モヤモヤしてたんだ。聞いてくれてありがとな!」
そっか、とちょっと納得した。なんで急に狼である俺にそんな話を始めたのか不思議だったけど、多分ラスクは突然夢に一歩大きく近づいたことに戸惑い、そのきっかけである俺に話すことで頭の中を整理したかったに違いない。
「なー真っ黒ワンコ、……って、ずっと真っ黒ワンコって呼ぶのも変か」
さすがに気が付いたか。どうするつもりかとちょっとワクワクする。
「でもなー……もしかしたら、ご主人様とはぐれただけかもしれないもんなぁ、お前」
ご主人様などいない。が、それを伝える術はないんだよなぁ。
「ま、お前の飼い主が見つかるまでの仮の名前って思えばいいか。お前、何がいい?」
「わふ……」
「クロ? ポチ? タマ?」
「ガウウッ!?」
それはねぇだろ! 仮の名前にしてもいい加減すぎる……!
「なんだよ急に。気に入らないのか?」
「グルルルル……」
当たり前だろ。俺にはディエゴっていう、立派な名前があるんだよ!
3【ラスク視点】今すぐ! 人型になって!!
「――そんなに怒らなくても」
挙げた名前に文句をつけるように唸る真っ黒ワンコに、僕は思わず笑ってしまった。
本っっっ当に嫌なんだろうな。適当に言ったのがバレたのかなぁ。
しばし考えて、今度はちゃんと合いそうな名前を口にする。
「じゃーお前、真っ黒でかっこいいから、ネロとかどう? どっかの国で黒って意味だよ」
あ、ちょっと考えている。結局はクロなのに、捻ってたらいいのかよ。
「……わうっ!」
「お、気に入ったか! んじゃお前、クロ……じゃなくて、ネロね! ネロ、よろしくな!」
「わふっ」
可愛い。孤児院を出てひとり暮らしを始めてからこっち、家の中がこんなに賑やかだなんて初めてだ。でっかいナリして喜怒哀楽が激しい真っ黒ワンコ――僕命名ネロを、僕はすっかり気に入っていた。
楽しいけれど、今日は色々あって疲れたし、明日も仕事だ。
ふわぁ、という欠伸が勝手に口から出る。
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