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第135話 再びの越境

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【これより公国領。何人なんぴとたりとも許可なき立ち入りを禁じる】

 山中の古びた立て札にはそう記されていた。
 共和国領と公国領をへだてる国境線がここに存在することを示す立て札だ。
 もちろん関門があるわけでも衛兵がいるわけでもなく、立ち入りを禁ずと記されていても立ち入る者をさえぎるものは何もない。
 そんな国境を越えて7人の赤毛の女と1頭の黒熊狼ベアウルフ、そして1羽のたかは山中を進み続けていた。

「エミル様を誘拐ゆうかいした犯人は山道を迷うことなく進んでいます。おそらくこの辺りを入念に下調べしていたのでしょう。そうした活動に慣れている者たちの犯行であることがうかがえます」

 捜索そうさく隊の隊長であるアーシュラは敵の足跡を追跡しながら、皆にそう告げる。
 敵のよどみない歩調は残された足跡から丸分かりだった。
 山道を迷う様子もなく進めるのは事前準備があるからだろう。
 あるいは敵がアーシュラのような黒髪術者ダークネスであれば、その超感覚で山道を迷わずに進むことも不可能ではない。

「この方角ならばアリアドで間違いなさそうですね」

 学舎【ユーフェミア】の優秀な学徒であるエステルは空を見上げ、太陽の位置から方角を読みながらそう言った。
 そんな中、プリシラは弟が遠く連れ去られていったことにあせりを隠し切れず、アーシュラの背中に声をかける。

「このまま歩いてアリアドに向かうのでは時間がかかり過ぎませんか? 隊長」
「このまま歩き続けることはありません。おそらく敵は山を降りた後は馬などで移動したでしょう。実はブリジットが先遣隊に命じて、公国側の農村から馬車を調達できるよう手はずをつけておいて下さいました。山を降りたら馬車移動で時間を短縮します」

 そう言うとアーシュラは振り返ってプリシラに目を向けた。

あせる気持ちは当然だと思います。ですが冷静さこそがこうした作戦にとっては最大の武器です。プリシラ。あなたは特にそのことを学んでおかなければなりません」

 アーシュラの言葉の意味は分かる。
 プリシラはいずれ次代の女王になる立場だ。
 その時の国際情勢によっては家族を人質に取られることもあるだろう。
 そうなった時に女王があわてるわけにはいかない。

「……すみません。隊長。心得ました」

 プリシラは自分を落ち着かせるように胸に手を当てるとそう言った。
 そんな彼女の後に続くハリエットが、木々の間に見えてきた光景に声を上げる。

「見えて来たわよ!」

 ハリエットがそう指差す先、木々の間に馬車が見えてきた。
 数人の赤毛の女たちがそのすぐそばにいるのが見える。
 同胞の姿に、若きダニアの戦士たちは思わず安堵あんどの表情を浮かべた。

 そこから木々を回り込むようにして小道を進み、開けた場所に出る。
 そこは山を切り開いて作った街道だった。
 時折、馬車が往来するようで土の地面にわだちが残されている。
 アーシュラは敵の足跡から目をらさず、街道の地面にしゃがみ込んだ。
 そして地面に残された痕跡こんせきを正確に読み取る。
 
「ここで2頭の馬に乗って移動したようです。彼らの足跡が途切れ、代わりに馬のひづめの跡が残されています」

 そう言うとアーシュラは数十メートル先の街道で馬車を用意して待っている数名の仲間たちを呼び寄せた。
 そして仲間たちから馬車を受け取ると感謝の言葉を述べて同胞たちと別れた。
 ここから一行は馬車移動になる。
 もちろん自分達だけで馬車も運用するので、御者台にはアーシュラとエステルが乗った。
 プリシラたち他の5名と1頭と1羽はほろ付きの荷台に乗り込む。
  
「ここはすでに公国領。公国軍のみならず侵略中の王国軍とはち合わせする恐れもあります。全員、休息は取りつつ、常に戦える状態を保ちなさい」

 アーシュラは皆にそう言うと、自ら手綱たづなを手に馬を走らせるのだった。

 ☆☆☆☆☆☆

「坊や。お食事を済ませたらお出かけの時間よ」

 寝室に入って来たオニユリは、エミルの昼食をせたぼんを手に笑顔でそう言った。
 エミルは息を飲む。
 ここ数日、ずっとこの寝室で過ごし、移動できるのはかわやと浴室のみだった。
 いい加減に外の空気が吸いたくてたまらなくなっている。

(外に出られる……)

 そしてそれはこの館の中にいる時よりも格段に自由度が上がるということだ。
 逃げる好機も生まれてくる。
 ここ数日、行動範囲が限られる生活の中でエミルは自身の筋力のおとろえを感じたため、意識的にベッドの上でも出来る足の運動などをして、筋力を落とさないようにしていた。
 見張りの若い男に見られていたが構わなかった。
 いざという時に足が動かず走れないのでは逃げるのもままならない。

 食事も出されたものをきちんと食べるようにした。
 ここに来たばかりの頃は食欲もなかったが、食べなければ生きていけない。
 生きる活力が無ければ逃げることも出来ない。

 エミルはまだ絶望していなかった。
 ここまで泣いても悲嘆ひたんに暮れても状況は好転しなかった。
 誰かが今すぐ助けに来てくれるわけじゃない。
 ならば自らの足で逃げ出すしかないのだ。

「そうそう。坊やのお着替えを持って来ないとね。坊やに似合う服を見つけたのよ。ちょっと待っていてね。持ってくるから」

 思い出したようにそう言うとオニユリは部屋を後にする。
 エミルはその間も食事を続け、最後にお茶の入った陶器とうきの湯飲みに手を伸ばした。
 その瞬間だった。

【……て……ないで】

 頭の中にかすかに声が響いたような気がした。
 エミルはあわてて湯飲みに伸ばした手を止める。

「……え?」

 エミルはおどろいて息を飲む。
 そしてもう一度、頭の中の声を聞こうとした。
 だが、声はもう聞こえなかった。
 確かに誰かが自分に何かを伝えようとしていたのだ。

 だが今のエミルは黒髪術者ダークネスの力を失っている。
 それ以上は何も聞こえてこなかった。
 それまで先ほどまでとは違い、湯飲みに入っているお茶を飲みたくないようなそんな気がした。
 それは少し変わった味がするがおいしいお茶で、朝食の時にだけ出される。

 昨日まで迷わずに飲んでいたお茶だが、今は飲みたいとは思えなかった。
 なぜだかは分からないが、どうしようかと逡巡しゅんじゅんした結果、エミルは自身の感覚に従うことにした。
 その時、とびらの向こう側からオニユリの足音が響いてくる。

(どうしよう……残したら何か言われるかな)

 エミルは咄嗟とっさに湯飲みをつかむと、中身のお茶をベッドの下に捨てた。
 それは高価な絨毯じゅうたんらして染み込んでいく。

(気付かれませんように)

 エミルは茶をたった今飲み終えたようなフリをして口をつけ、それをテーブルの上に置いたところで、ちょうど着替えを持ったオニユリが入って来た。

「あら。お茶を飲みきっちゃったのね。おかわりはいかが?」
「だ、大丈夫です……ごちそうさまでした」

 エミルがそう言うとオニユリは満足げにうなづき、手に持ってきた着替えの服を嬉しそうにエミルに見せて、あれこれとおしゃべりを始めるのだった。
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