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病棟を彷徨う亡霊
痛みは所詮
しおりを挟むぐぅ~
憂鬱な気分とは裏腹に、元気な腹の虫が鳴り響く午前11時。同室の皆に見送られ、いよいよ迫る手術に息を飲む。
「ふふっ」
「笑わないでよ~」
昨日の惨事をぼんやりと思い出しながら流れる廊下の天井を見つめた。少しの緊張が乾いた空気を震わせる。埃を引きずったキャスターがガラガラと派手な音を響かせ、床の継ぎ目に掬われる。
「·····ぐっ」
その度に自由のきかない身体が小さく跳ね骨を揺らす。寝転びながら、ナースのお姉様とすれ違う度「頑張れ」と声援を贈られた。こんな時に限っては『白衣の天使』なんて言葉もあながち嘘ではないと感じてしまう。
「頑張ってくれるのは三上先生なんだけど」
「ぶっ」
「だってそうでしょ?」
「三上先生、プレッシャーね」
マスク越しに少しくぐもった声が降ってくる。視線が合うと、お姉様は目を優しく細め、俺に笑いかけた。
「いよいよだ」
ここ数日、歩けない身体でどうやって手術室まで行けばいいのか地味に悩んでいた俺。そんな悩みを知ってか知らずか、お姉様方はいとも簡単に解決してくれた。
「もう痛いの嫌だなぁ」
お姉様は軽快にキャスターのロックを外すと、ベッドに寝転んだままの俺を手術室へと容易く運ぶ。そのなすがままの様は、まるで王様にでもなったかのような錯覚をさせる。
「これからが本番よ~」
「げげげっ」
お姉様方にベッドを押され、無機質な廊下を進む。数歩先には父と母が心配そうにこちらを見つめ、よくよく目を凝らすと母の紺色のワンピースの端から見慣れた黒い毛がわさわさと揺れていた。
「はぁ」
期待を吐き出し、諦めを肺いっぱいに思い切り吸い込む。
「友誠っ!!バレてんだぞっ!!練習さぼんなっ!!」
「·······ッ!!!···」
久しぶりに腹から声を出すと骨がギシギシと軋み、途端に痛みが走る。あぁもう。少し動くだけで気が滅入る。俺の身体はもう数日、こんな事を繰り返していた。
「愛くん静かにっ」
何事かと皆がこちらを振り返り、病室から顔を覗かせる人さえ居た。父と母は苦そうな笑顔を浮かべ、気まずそうに会釈する。カッと目を見開いたお姉様が、顔を歪める俺を見つめた。方々から笑い声が聞こえてくるも、不思議と心地がいい。
「母さんも父さんも待ってるからな···」
「···········俺も」
遠慮がちにボソッと消え入りそうな声で呟く友誠。母のワンピースと同じ色の練習着を着ているからか、並んでると本当の家族のようにも見える。
「お前は絶対帰れ。帰らなかったら絶対許さないからな絶対だぞ」
目を細め警告すると、視線を泳がせながら、友誠は気まずそうに父の背に隠れ、不服そうな声を微かに響かせた。
「········わかった」
父と母とお姉様の無言の会話が数回、頭上で飛び交うと二人の握りあった手がぎゅっと強ばった。
「「よろしくお願い致します」」
「愛を治してください」
父と母が頭を下げれば、数刻遅れて友誠も見様見真似で頭を下る。その様はあまりにも不格好で、思わず笑ってしまった。なんだか救われた気さえする。
「ははっ、治してもらってくるな」
途端に静まり返った廊下。手術中の文字に灯りがつき、複数の祈るような視線が一点に重なった。
午後4時。無機質にその身を主張していたランプの点灯が消えた。約5時間にも及んだ手術がようやく終了したのだ。
「お疲れ様でした」
「ありがとう」
玉のような汗を拭い、手馴れた手つきで医療用ゴム手袋とマスクを外す三上。緊張の糸が切れ、途端にふわふわとした浮遊感が全身を包む。酸素と糖が足りなくなった脳が普段は決して飲まない、身体に悪そうないちごミルクを欲す。
「無事に終了しましたっ」
長時間していたマスクで火照った頬を手の甲で冷やしながら三上は父、文義に力強く呟いた。
「·····あぁ」
床を見つめていた母、沙希が溢れる涙を抑えながら文義に近寄る。
「ありがとうございますっ先生っ」
大きな深呼吸と共に安堵の声が廊下に響き、淀んだ空気が一気に晴れた。
「あら?」
「いとしとまたバスケ出来るっ??」
緊張の糸が切れ、若干やつれた文義から威勢のいい子供の声が響く。
「あぁ、いや」
悪戯がバレた子供のようにバツの悪そうな表情を浮かべる文義。
「バスケ出来るか!!」
声は益々大きくなる。
「あらあら?」
すると若干の涙を浮かべた友誠が、文義と沙希の間をくぐり抜け、三上の手術着を切に掴む。
「えぇ、出来るわよ」
「先生っ俺に出来る事あるかな?」
「えぇ、勿論」
「何!?」
「まずは愛くんが起きるまでにお家に帰ること」
「!?」
「で、今日サボった分を取り戻すこと」
全てを見透かした三上。途端に真ん丸の琥珀色の瞳がキラリと輝いた。
「そうね」
「きっとバレたら怖いぞ~。暗いからもう少ししたら車で送ってあげよう」
まるで怪談話でもするかのように、携帯の液晶を顎に当て、友誠に語りかける文義。その演出は、常に明るい病院ではまるで意味をなさず、滑稽にさえ見える。皮脂で曇った画面には、友誠の母の番号が映し出されていた。
「うん」
「まだ大丈夫よ。麻酔が切れるまであと1時間は掛かると思います」
飲まず食わずで待ち続けた三者を察し、三上が語りかけた。
「下の食堂でも行くか?」
腹を緩く擦りながら、文義は沙希に同意を求めた。
「そうね、友誠くん何食べたい?」
「········」
「愛は、下のプリンが好きなのよ~」
「愛がっ?」
床目と友になりかけていた友誠が勢いよく顔を上げた。
「もう、好きすぎてお母さんのプリンまで食べちゃうんだからっ」
過分に誇張された誘惑に揺らぎ始める小さな身体。今日はまだ役目を果たせていないバッシュが床を鳴らす。
「でも、俺····」
渋る友誠を見かねて、大きく伸びをする沙希。事実、友誠の腹の虫は愛よりも活発で、ぐぅぐぅと鳴り続けていた。
「私、たらこスパゲティ食べたくなってきちゃった~」
目配せをする沙希に脇腹を突かれた文義がゴホンと一つ咳払いをして、役者になりきる。
「ぼ、僕はナポ、ミートソースが、良、いなー」
しかし、聞こえてくる声は何処かたどたどしく、ぎこちない。普段、食べたいとも思わない子供が好みそうな食べ物が文義の頭の中を埋めつくし、言葉を濁す。すると笑いを堪えていた三上が、普段使わない一人称を使う文義に合いの手を入れた。
「先生もいちごミルク飲みに行かなくちゃ~」
三者の視線は下へと向かい、静かに琥珀色の瞳を見つめた。眉間には深い溝が刻まれ 目を瞑り、唸り続けている。
「········じゃあ俺、タコわさ食いたい···」
「「「···渋いね」」」
友誠の希望はきっと叶わない。
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