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短夜
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寒気と言い切るには難しい──背中に百足や芋虫といった類の虫達が這っているような感覚がする。それはここに住み着いている限り、一向に離れてくれないように思う。
早く、誰か私を拾ってくれやしないだろうか。何故、私がこんな狭苦しい箱の中に閉じ込められているのか。何故、こんな場所でも息ができてしまうのか。それを既に理解していたはずなのに、もう何もわからなくなってしまった。
◇
午前三時に出歩くことが、私の日課になっていました。都会の喧騒を忘れることができるのです。朝も昼も何人もの人間が行き交い、咄嗟に耳を塞ぎたくなります。それに比べて、夜の街は静かです。人とすれ違うことはありますが、朝や昼ほどの視線は感じなくて済みます。
まるで世界に私一人の人間しか生きていないようで、何とも言えない興奮を覚えます。出歩く理由を訊かれると、直ぐに答えを出すことはできないでしょう。
きっと私は夜の人間なのだろうと、時々考えることがあります。平日──と言っても、多くて週に三度ほどしか外に出ない私にとって平日は限りなく休日に近いです。仕方なく外出したところで、日光が肌に当たるだけで灰になってしまうような気さえ起こしてしまうのです。多分、前世は吸血鬼だったのかもしれません。人間でないだけ有難い。
そんな馬鹿げたことを脳味噌の詰まっていない頭で考えながら、私は迷うことなくいつものように自販機へと向かいます。マンションから徒歩三分。経営難の為に潰れてしまった店の隣にそれらはぽつんと置かれています。住宅街の中にあるものですから、自販機の明かりだけに照らされた夜道は不気味です。しかし、私はそれが好きです。変に煌びやかな昼の街より、こういう風景が私を落ち着かせてくれます。
さて、店の前に張り紙があります。そこに一言『お前のせいです』と書かれているのを見る度、何か私は悪いことをしてしまったのではないかという感情に支配されます。どうやら店主は自殺したようです。皆薄々気が付いていたでしょうが、周りは何も言いませんでした。自殺という形で片付けられたものの、きっと誰かに殺されたのでしょう。
この張り紙は、一向に剥がされません。誰か不気味に思わないのでしょうか。それとも、こんな異様な状況に慣れてしまったのか。私だけに見えるものなのか。仮にそうだとして、この店主は私に何を伝えたいのやら。特段、接点があったわけでもあるまい。こんなことを深く考えたところで、当の本人は死んでしまっているわけだし、何より一種の現実逃避に過ぎない。
さっさとコーヒーでも買って、帰ってしまおう。
自販機の隣にトラッシュボックスが置かれているのですが、ペットボトルや空き缶以外の物も捨てられています。それはまるで人間の欲が詰め込まれているようで、今にも溢れそうです。
自販機は三つ置かれています。青、赤、白。その殆どは飲み物を売っているのですが、そうでないもの──飲み物を売っていない自販機が一つあります。飲み物以外の自販機と言えば、アイスクリームや菓子などを想像するでしょうが、残念ながら間違いです。そんな甘いものではありません。
正解は、人間です。
やはりこの街は変です。そんな自販機が置かれているのに、誰も気に留めることはありません。目当ての飲み物を買うなり、颯爽と帰っていきます。目を逸らしているように見えるのは、果たして気の所為でしょうか。
思い返せば、その自販機がこの街に現れたのは例の店主が自殺した後だったと記憶しています。初見の際、それは驚きました。人間──赤いワンピースを着た長い髪の女が中に居るのですから。まるで、ホラー映画に出ることができるような風貌と言ったら想像しやすいでしょうか。両目を見開き、金魚の如く口をパクパクと動かしている異様な姿。脳裏に焼き付いて、その夜は眠ることができませんでした。
◇
いつものように夜道を歩く。が、今は午前三時ではない。まだ空は暗く、夜が顔を出し始めたばかりだ。ズボンのポケットに突っ込んだスマートフォンを見る限り、日付が変わって間もない。
何故、珍しくこんな時間に外に出ているのか。簡潔に言えば──家出に近い。母親との喧嘩が原因だ。誰も私のことなど解ってくれない。口先だけの「休めば、また元気になるよ」に呆れてしまった。大学生になっても自立できない。いや、したいとは思っている。家族の足手纏いになるくらいなら。もう干渉などされずに、たった一人、何処か誰も私を知らない場所に行ってしまいたいゆえ、もうあの家には帰らないことを決めた。
気が付けば、あの自販機の前に来ていた。変わらず女は中に居る。どんな経緯でこんな姿になったのか。生きているのか、人間なのか、霊と言われるような何かなのか。そもそも自販機なんて存在せず、ついに私が狂ってしまったのか。名前の付けようのない鬱々とした気持ちに侵食されてしまったのかもしれない。しかし、この際もう何でもいい。そう考えてしまうほど、私は既に──。
改めて自販機の前に立つ。女の生気のない目を見る。気の所為だと信じたいが、どこか私に似ているような気がしてならない。そんなはずはない。
今日も、女は内側からショーケースを叩いている。ずっと叩いているのだろうか、両の掌が真っ赤に染まってしまっている。何故か救いたいと思ってしまった。紙幣の投入口の上に、『1000円』と黒のマジックで書かれた紙切れが雑に貼られている。ズボンのポケットから財布を取り出し、中から1000円札を抜き取る。そうか、この女の価値はたった一枚の紙切れなのか。そうか。そうなのか。
1000円札を入れてしばらくすると、ガチャリと音が鳴った。この自販機にはドアのような取っ手が付いている。例えるならば、コンビニに陳列されているドリンクコーナーの冷蔵庫。あれだ。恐る恐る取っ手を掴んで開く。心なしか、コンビニのものより重く感じられる。片手では開けられそうもないので、両手で掴み、両足に全体重をかける。
何とか開いてくれた。冷気が顔に降りかかる。さぞ寒かっただろう。女に手を差し出すと、驚いたように目を見開きながらも手を重ねてくれた。氷のように冷たい。しかし、真っ赤な血が妙に生温かい。思わず離してしまいそうになる。手を引くと、女は地上に降り立った。ドアを閉め、改めて女に視線を移す。背は私と変わらず、手と足が棒のように細い。靴は履いていない。声は、出るのだろうか。
「あの、こんにちは」
この時間帯に『こんにちは』は間違っているだろうと、言い終わった後に気が付く。冷静を装っているつもりが、混乱しているのかもしれない。現に、手の震えは止まることを知らないようだ。
女は、黒というより灰色が多い目をこちらに向けている。口を開く。うう、と呻き声にも似た音を発している。どうやら声は出せないようだ。──会話が苦手な私にとっては都合がいい。
さて、どうしたものか。家には帰りたくない。帰ったところで、この女が一緒ならばそれこそ幻滅されてしまうだろう。本当に頭がおかしくなったのか、病院に行け、と。それだけは避けたい。
「散歩にでも行こう」
聞こえているか解らないが、とりあえず声をかけてみる。途端に口角を上げ、にんまりと微笑んだ。言葉は理解している、らしい。正直今すぐにも逃げ出したいが、この人間になりきれていないような人間と過ごすのも良いかもしれない。
とりあえず近くの公園にでも行くとしよう。女に背を向けて歩き出す。数歩進んだところで後ろを振り向くと、歩くこともせず、その場に留まっていた。思わず嘆息が漏れる。女の元へ戻ると、血に塗れた手を差し出してきた。仕方なく手を繋いで歩き出す。そういえば、こうして誰かと並んで歩いたのはいつぶりだろう。
夏の夜道、得体の知れない女と手を繋いで歩くことになろうとは。生きていたら面白いこともあるものだ。ふと、女の横顔を見る。横顔と言っても、先ほどから俯いて歩いているから表情は見えない。ワンピースから覗く折れそうな足は、何も身に着けていない裸足。
「足、痛くない?」
そう問いかけると、頷き、子供のように繋いだ手を振り始めた。小学生の娘を持つ母親になったような気分になる。微笑ましい。──私の母親もこんな気持ちだったのだろうか。母の手を繋いでいた小学生の頃を思い出す。母の顔を見上げていた頃より、私も成長して今となっては同じ身長だ。そう、今手を繋いで隣を歩いている女のように。考えることはやめよう。心配しているなら連絡くらいするはずだ。未だに着信が無いということは、つまりそういうことだろう。
それ以来、特に会話をすることもなく公園に着いた。ブランコと滑り台があるぐらいの小さな公園だ。夏の夜は静かで、本当に静かで、それが余計に不気味さを際立たせている。蝉一匹、鳴いてくれたらいいものを。そうしてくれたら少しでも暑さを感じることができるのに──生憎、夜は涼しい。
高校時代、家に帰りたくない日はここに来たものだ。人も滅多に来ない。唯一、私が一人になれる場所だった。
そんな場所に初めて人間を連れてきた。つい数分前に出会った人間を『信用している』と言うのは変だろうが、どこか私と似たようなものを感じる。そういう人間をやっと見つけることができた。
手を繋いだまま、公園の片隅に置かれている古ぼけた小さなベンチに座る。とりあえず公園に来てみたものの、何をすればいいのか解らない。何かを話したい気持ちはある。しかし、どう言葉にしていいのか迷ってしまっている。普段言えないことも、ここでなら。
「何かさ、全部怖いんだ」
女の顔を見ることはせず、前を向いて言葉を放つ。自然と、握っている手に力が入る。
中学生の時、『大人になった自分へ』と題して手紙を書いた。成人式の日に渡されるらしい。あの時、何と書いただろう。私は、私の未来に何を見たのだろう。
確か、将来の夢を書いたような気がする。そして、真面目にその夢に向かって走ってきたつもりだ。しかし、走ることにも疲れ、歩いていると、皆に追い越されていく。もう歩く気力すらない。
「もう疲れちゃって。周りに助けを求めても何も変わらなくて、『そういう日もあるよ』とか『すぐ直るよ』とか『大丈夫だよ』とかさ」
何故、私は言葉を発さない人間に話してしまっているのだろう。助言が得られるわけでも、アドバイスを貰えるわけでも、共感してもらえるわけでもないのに。何故、人は誰かに話したくなるのだろう。何故、聞いてもらいたくなるのだろう。
女は、相変わらず何をするわけでもなく視線を地面に落としている。声が届いているのかすら怪しい。しかし、その方が有難い。綺麗事のような言葉をつらつらと並べられて励まされるほど、悲しいことは無い。二十年も生きていないが、ここまで生きてきて解ってしまったことだ。
そんなことを知るくらいなら大人になどなりたくない。生きることの難しさのようなものを知ってしまった。好きなことを続ける難しさと辛さを知り、好きでもないことと向き合わなければいけない現実を見てしまったのだ。夢など幻想に過ぎない。
将来の夢を堂々と恥ずかしげもなく、教室の真ん中で声高らかに発表していた小学生の私に言ってやりたい。いや、道を迷わぬように、言ってあげたい。
「……夢なんて見たって、無駄だって分かっちゃった。私」
改めて口に出すと、更に自分が情けなく思えて力なく微笑むことしかできなかった。
そういえば、と思い出したように女に視線を移す。危うく息が止まるところだった。黒というより灰色の多い両眼で瞬きもせずに、こちらを見据えていた。何か言いたいことがあるなら伝えてくればいいのに。あれほど言葉など不必要だと信じていたのに、今だけは言葉を欲している自分に驚く。哀れみでも軽蔑でも何だって良いから。今だけはあなたの言葉を、あなたの口から聴きたい。
永遠に繋がれているのかもしれないと思っていた手が離れ、空中を動く。それは私の頭上に置かれた。その突然の出来事に、思わず「え?」の形も成していない変な音の声が出る。女は出会った頃のにんまりとした気味悪い笑顔ではなく、ただ優しい笑みを顔に浮かばせた。そして、私を慰めるかのように頭を撫でた。血の温もりも相まって、その手は母親を彷彿とさせる。そう思うと、素直に女の顔を見ることができない。意味もなく足元を見つめてみる。
途端に身体が傾く──どうやら女に抱き寄せられたようだった。未だに緊張で震えている肩に細い一本の腕が置かれ、もう一本は腹の上に添えられている。頭が追い付かない。しかし、不思議と嫌な気分では無かった。
うう、と女の呻き声にも似た声が頭上から降ってくる。次の言葉を待つ。ゆっくりでいいよ。言葉を発して誰かに伝えることは意外と難しいことなのだから。
数秒が経った後、
「がんばっ、た、ね」
あまりに優しい声色だった。途切れ途切れで、それが「頑張ったね」という一つの励ましの言葉だと理解することに、また数秒の時間を要してしまった。ああ、きっと私は誰かにそう言ってほしかったんだ。「頑張れ」と言われ続けてきた身だ。もう応援など必要としていない。ただ私は誰かに認めてほしかったのだろう。
「ありがとう」を言わなければならないということは解っていたが、今声を出すと永遠に泣いてしまいそうだった。ゆっくりでいいよ。言葉を発して誰かに伝えることは意外と難しいことなのだから。顔を見て言うことには慣れていない。だから目を瞑り、そのままの体勢で小さく呟く。頭を優しく撫でられる。聞こえたようだ。そういうことにしておこう。
まるで赤子に還ったようだ。そう意識した途端、家に帰りたいという思いが頭の中を駆け抜ける。
学校にも家にも居たくないと、そう思っていた時期があった。最近もそう。私の帰りを歓迎してくれる場所など、私が帰っていい場所など何処にも存在しないと信じていた。しかし、私の帰りを待ってくれている人は確かに存在する。そして、それは言い表せられないほどの幸福だ。
家に帰ろう。帰って謝ろう。勇気は要るし緊張もする。心配も迷惑もかけた。怒られる準備は出来ている。
できるならば、ずっとこうしていたい。この女と離れたくないとすら感じる。しかし、所詮他人であり、私達は別々の道を生きていかなければならない。名残惜しいが、もう少しでお別れだ。
人間というものは、別れがあると知りながら出会ってしまう生き物。何故なんだ。と疑問を抱えて生きてきたが、今日その答えが解ったような気がする。
この夜は一生涯忘れないであろう。あなたもどうかそうでありますように。
何時間経っただろう。蝉の声が耳に届いたから──もうすぐ夜が明ける。
◇
行きと同様、手を繋いで自販機の前まで歩いて戻る。
手が離れる。向かい合って立つ。
「じゃあ、私帰るね。……どうかしっかり生きて」
女は俯いている。俯きながら両手で頭を搔きむしっている。何だろう。何だろう、この気持ちの悪い違和感は。
何とも言えない恐怖が全身に纏わりつく。女に背を向けて歩き出した直後──
「本当に帰れると思った?」
首筋に生温い息を感じる。振り返ることができない。手足が動かない私は、まるで棒人間のそれだ。恐怖が頂点に達する。数時間前に聞いた、あのたどたどしい発音ではないこと。それも恐怖を感じる一つの要素ではあったが、それより怖い事実がもう一つ。
耳元で聞こえたその声には明らかに聞き覚えがあった。それは毎日聞いて、毎日発している──自分自身の声であった。
私は、私の運命を悟った。意を決して、固まった手足と首を動かして何とか振り返ることに成功した。紛れもなく、目の前に居る女は私自身だった。自分で好きになることのできなかった私。もはや思考など停止している。そんな機能していない頭でも理解できたことは──もうあの家に帰ることができない。ただそれだけであった。
元々大人になどなりたくなかった。ならば、ここで幕を閉じよう。ここで人間としての幕を閉じた方が、自分という人間にとってかっこいいに違いない。涙も出ず、声を出す気力もなく、そう考えることによって自分が確かに歩んできた人生を正当化したかった。
子供に戻らなくて済むように、大人にならなくて済むように、次に生まれ変わったら良い人生を生きてみよう。だから、私の人生は目の前に居るあなたに託すことにするよ。
女は笑っていた。私も笑った。涙が零れぬようにと懸命に笑った。
物心ついた時には親から名前を与えられ、その名の付いた一人の人間として生きていく運命を背負った。私が私である確証も無いままに。
私は、いつの間にか赤いワンピースを身に纏っていた。棒のような手足が視界に入る。興味本位で頬に手を当てると、骨が浮き出るほど痩せていた。胸の辺りまで伸びた髪は軋み、ほんの少し指を間に通しただけで何本も抜け落ちていく。そして、知った。
──ああ、既に、私は私でなくなっていたのか。
◇
"絶えずあなたを何者かに変えようとする世界の中で、自分らしくあり続けること。それがもっとも素晴らしい偉業である。"(ラルフ・ワルド・エマーソン)
何者にもなれないと嘆いていた頃を、未だに覚えている。私ではない誰かになりたいのに、他の誰にもなりたくないと願っていた。肩書きや地位や名誉を欲しがっていたこともある。自分より頭の良い友を横目に、何もできない自分を責める毎日だった。
しかし、もうそんな事はどうでも良い。もう、どうでも良いのだ。人間など骨に皮膚を纏った、ただそれだけの存在である。名前など後から付けられる。この世に生まれ落ちた瞬間は、皆同じ姿ではないか。
そんな考えても無駄な事を、誰に披露するわけでもない持論を頭の中で思案しながら──今日も私は内側からショーケースを叩いている。
その透明な板に映る両眼に、光など宿っていなかった。
早く、誰か私を拾ってくれやしないだろうか。何故、私がこんな狭苦しい箱の中に閉じ込められているのか。何故、こんな場所でも息ができてしまうのか。それを既に理解していたはずなのに、もう何もわからなくなってしまった。
◇
午前三時に出歩くことが、私の日課になっていました。都会の喧騒を忘れることができるのです。朝も昼も何人もの人間が行き交い、咄嗟に耳を塞ぎたくなります。それに比べて、夜の街は静かです。人とすれ違うことはありますが、朝や昼ほどの視線は感じなくて済みます。
まるで世界に私一人の人間しか生きていないようで、何とも言えない興奮を覚えます。出歩く理由を訊かれると、直ぐに答えを出すことはできないでしょう。
きっと私は夜の人間なのだろうと、時々考えることがあります。平日──と言っても、多くて週に三度ほどしか外に出ない私にとって平日は限りなく休日に近いです。仕方なく外出したところで、日光が肌に当たるだけで灰になってしまうような気さえ起こしてしまうのです。多分、前世は吸血鬼だったのかもしれません。人間でないだけ有難い。
そんな馬鹿げたことを脳味噌の詰まっていない頭で考えながら、私は迷うことなくいつものように自販機へと向かいます。マンションから徒歩三分。経営難の為に潰れてしまった店の隣にそれらはぽつんと置かれています。住宅街の中にあるものですから、自販機の明かりだけに照らされた夜道は不気味です。しかし、私はそれが好きです。変に煌びやかな昼の街より、こういう風景が私を落ち着かせてくれます。
さて、店の前に張り紙があります。そこに一言『お前のせいです』と書かれているのを見る度、何か私は悪いことをしてしまったのではないかという感情に支配されます。どうやら店主は自殺したようです。皆薄々気が付いていたでしょうが、周りは何も言いませんでした。自殺という形で片付けられたものの、きっと誰かに殺されたのでしょう。
この張り紙は、一向に剥がされません。誰か不気味に思わないのでしょうか。それとも、こんな異様な状況に慣れてしまったのか。私だけに見えるものなのか。仮にそうだとして、この店主は私に何を伝えたいのやら。特段、接点があったわけでもあるまい。こんなことを深く考えたところで、当の本人は死んでしまっているわけだし、何より一種の現実逃避に過ぎない。
さっさとコーヒーでも買って、帰ってしまおう。
自販機の隣にトラッシュボックスが置かれているのですが、ペットボトルや空き缶以外の物も捨てられています。それはまるで人間の欲が詰め込まれているようで、今にも溢れそうです。
自販機は三つ置かれています。青、赤、白。その殆どは飲み物を売っているのですが、そうでないもの──飲み物を売っていない自販機が一つあります。飲み物以外の自販機と言えば、アイスクリームや菓子などを想像するでしょうが、残念ながら間違いです。そんな甘いものではありません。
正解は、人間です。
やはりこの街は変です。そんな自販機が置かれているのに、誰も気に留めることはありません。目当ての飲み物を買うなり、颯爽と帰っていきます。目を逸らしているように見えるのは、果たして気の所為でしょうか。
思い返せば、その自販機がこの街に現れたのは例の店主が自殺した後だったと記憶しています。初見の際、それは驚きました。人間──赤いワンピースを着た長い髪の女が中に居るのですから。まるで、ホラー映画に出ることができるような風貌と言ったら想像しやすいでしょうか。両目を見開き、金魚の如く口をパクパクと動かしている異様な姿。脳裏に焼き付いて、その夜は眠ることができませんでした。
◇
いつものように夜道を歩く。が、今は午前三時ではない。まだ空は暗く、夜が顔を出し始めたばかりだ。ズボンのポケットに突っ込んだスマートフォンを見る限り、日付が変わって間もない。
何故、珍しくこんな時間に外に出ているのか。簡潔に言えば──家出に近い。母親との喧嘩が原因だ。誰も私のことなど解ってくれない。口先だけの「休めば、また元気になるよ」に呆れてしまった。大学生になっても自立できない。いや、したいとは思っている。家族の足手纏いになるくらいなら。もう干渉などされずに、たった一人、何処か誰も私を知らない場所に行ってしまいたいゆえ、もうあの家には帰らないことを決めた。
気が付けば、あの自販機の前に来ていた。変わらず女は中に居る。どんな経緯でこんな姿になったのか。生きているのか、人間なのか、霊と言われるような何かなのか。そもそも自販機なんて存在せず、ついに私が狂ってしまったのか。名前の付けようのない鬱々とした気持ちに侵食されてしまったのかもしれない。しかし、この際もう何でもいい。そう考えてしまうほど、私は既に──。
改めて自販機の前に立つ。女の生気のない目を見る。気の所為だと信じたいが、どこか私に似ているような気がしてならない。そんなはずはない。
今日も、女は内側からショーケースを叩いている。ずっと叩いているのだろうか、両の掌が真っ赤に染まってしまっている。何故か救いたいと思ってしまった。紙幣の投入口の上に、『1000円』と黒のマジックで書かれた紙切れが雑に貼られている。ズボンのポケットから財布を取り出し、中から1000円札を抜き取る。そうか、この女の価値はたった一枚の紙切れなのか。そうか。そうなのか。
1000円札を入れてしばらくすると、ガチャリと音が鳴った。この自販機にはドアのような取っ手が付いている。例えるならば、コンビニに陳列されているドリンクコーナーの冷蔵庫。あれだ。恐る恐る取っ手を掴んで開く。心なしか、コンビニのものより重く感じられる。片手では開けられそうもないので、両手で掴み、両足に全体重をかける。
何とか開いてくれた。冷気が顔に降りかかる。さぞ寒かっただろう。女に手を差し出すと、驚いたように目を見開きながらも手を重ねてくれた。氷のように冷たい。しかし、真っ赤な血が妙に生温かい。思わず離してしまいそうになる。手を引くと、女は地上に降り立った。ドアを閉め、改めて女に視線を移す。背は私と変わらず、手と足が棒のように細い。靴は履いていない。声は、出るのだろうか。
「あの、こんにちは」
この時間帯に『こんにちは』は間違っているだろうと、言い終わった後に気が付く。冷静を装っているつもりが、混乱しているのかもしれない。現に、手の震えは止まることを知らないようだ。
女は、黒というより灰色が多い目をこちらに向けている。口を開く。うう、と呻き声にも似た音を発している。どうやら声は出せないようだ。──会話が苦手な私にとっては都合がいい。
さて、どうしたものか。家には帰りたくない。帰ったところで、この女が一緒ならばそれこそ幻滅されてしまうだろう。本当に頭がおかしくなったのか、病院に行け、と。それだけは避けたい。
「散歩にでも行こう」
聞こえているか解らないが、とりあえず声をかけてみる。途端に口角を上げ、にんまりと微笑んだ。言葉は理解している、らしい。正直今すぐにも逃げ出したいが、この人間になりきれていないような人間と過ごすのも良いかもしれない。
とりあえず近くの公園にでも行くとしよう。女に背を向けて歩き出す。数歩進んだところで後ろを振り向くと、歩くこともせず、その場に留まっていた。思わず嘆息が漏れる。女の元へ戻ると、血に塗れた手を差し出してきた。仕方なく手を繋いで歩き出す。そういえば、こうして誰かと並んで歩いたのはいつぶりだろう。
夏の夜道、得体の知れない女と手を繋いで歩くことになろうとは。生きていたら面白いこともあるものだ。ふと、女の横顔を見る。横顔と言っても、先ほどから俯いて歩いているから表情は見えない。ワンピースから覗く折れそうな足は、何も身に着けていない裸足。
「足、痛くない?」
そう問いかけると、頷き、子供のように繋いだ手を振り始めた。小学生の娘を持つ母親になったような気分になる。微笑ましい。──私の母親もこんな気持ちだったのだろうか。母の手を繋いでいた小学生の頃を思い出す。母の顔を見上げていた頃より、私も成長して今となっては同じ身長だ。そう、今手を繋いで隣を歩いている女のように。考えることはやめよう。心配しているなら連絡くらいするはずだ。未だに着信が無いということは、つまりそういうことだろう。
それ以来、特に会話をすることもなく公園に着いた。ブランコと滑り台があるぐらいの小さな公園だ。夏の夜は静かで、本当に静かで、それが余計に不気味さを際立たせている。蝉一匹、鳴いてくれたらいいものを。そうしてくれたら少しでも暑さを感じることができるのに──生憎、夜は涼しい。
高校時代、家に帰りたくない日はここに来たものだ。人も滅多に来ない。唯一、私が一人になれる場所だった。
そんな場所に初めて人間を連れてきた。つい数分前に出会った人間を『信用している』と言うのは変だろうが、どこか私と似たようなものを感じる。そういう人間をやっと見つけることができた。
手を繋いだまま、公園の片隅に置かれている古ぼけた小さなベンチに座る。とりあえず公園に来てみたものの、何をすればいいのか解らない。何かを話したい気持ちはある。しかし、どう言葉にしていいのか迷ってしまっている。普段言えないことも、ここでなら。
「何かさ、全部怖いんだ」
女の顔を見ることはせず、前を向いて言葉を放つ。自然と、握っている手に力が入る。
中学生の時、『大人になった自分へ』と題して手紙を書いた。成人式の日に渡されるらしい。あの時、何と書いただろう。私は、私の未来に何を見たのだろう。
確か、将来の夢を書いたような気がする。そして、真面目にその夢に向かって走ってきたつもりだ。しかし、走ることにも疲れ、歩いていると、皆に追い越されていく。もう歩く気力すらない。
「もう疲れちゃって。周りに助けを求めても何も変わらなくて、『そういう日もあるよ』とか『すぐ直るよ』とか『大丈夫だよ』とかさ」
何故、私は言葉を発さない人間に話してしまっているのだろう。助言が得られるわけでも、アドバイスを貰えるわけでも、共感してもらえるわけでもないのに。何故、人は誰かに話したくなるのだろう。何故、聞いてもらいたくなるのだろう。
女は、相変わらず何をするわけでもなく視線を地面に落としている。声が届いているのかすら怪しい。しかし、その方が有難い。綺麗事のような言葉をつらつらと並べられて励まされるほど、悲しいことは無い。二十年も生きていないが、ここまで生きてきて解ってしまったことだ。
そんなことを知るくらいなら大人になどなりたくない。生きることの難しさのようなものを知ってしまった。好きなことを続ける難しさと辛さを知り、好きでもないことと向き合わなければいけない現実を見てしまったのだ。夢など幻想に過ぎない。
将来の夢を堂々と恥ずかしげもなく、教室の真ん中で声高らかに発表していた小学生の私に言ってやりたい。いや、道を迷わぬように、言ってあげたい。
「……夢なんて見たって、無駄だって分かっちゃった。私」
改めて口に出すと、更に自分が情けなく思えて力なく微笑むことしかできなかった。
そういえば、と思い出したように女に視線を移す。危うく息が止まるところだった。黒というより灰色の多い両眼で瞬きもせずに、こちらを見据えていた。何か言いたいことがあるなら伝えてくればいいのに。あれほど言葉など不必要だと信じていたのに、今だけは言葉を欲している自分に驚く。哀れみでも軽蔑でも何だって良いから。今だけはあなたの言葉を、あなたの口から聴きたい。
永遠に繋がれているのかもしれないと思っていた手が離れ、空中を動く。それは私の頭上に置かれた。その突然の出来事に、思わず「え?」の形も成していない変な音の声が出る。女は出会った頃のにんまりとした気味悪い笑顔ではなく、ただ優しい笑みを顔に浮かばせた。そして、私を慰めるかのように頭を撫でた。血の温もりも相まって、その手は母親を彷彿とさせる。そう思うと、素直に女の顔を見ることができない。意味もなく足元を見つめてみる。
途端に身体が傾く──どうやら女に抱き寄せられたようだった。未だに緊張で震えている肩に細い一本の腕が置かれ、もう一本は腹の上に添えられている。頭が追い付かない。しかし、不思議と嫌な気分では無かった。
うう、と女の呻き声にも似た声が頭上から降ってくる。次の言葉を待つ。ゆっくりでいいよ。言葉を発して誰かに伝えることは意外と難しいことなのだから。
数秒が経った後、
「がんばっ、た、ね」
あまりに優しい声色だった。途切れ途切れで、それが「頑張ったね」という一つの励ましの言葉だと理解することに、また数秒の時間を要してしまった。ああ、きっと私は誰かにそう言ってほしかったんだ。「頑張れ」と言われ続けてきた身だ。もう応援など必要としていない。ただ私は誰かに認めてほしかったのだろう。
「ありがとう」を言わなければならないということは解っていたが、今声を出すと永遠に泣いてしまいそうだった。ゆっくりでいいよ。言葉を発して誰かに伝えることは意外と難しいことなのだから。顔を見て言うことには慣れていない。だから目を瞑り、そのままの体勢で小さく呟く。頭を優しく撫でられる。聞こえたようだ。そういうことにしておこう。
まるで赤子に還ったようだ。そう意識した途端、家に帰りたいという思いが頭の中を駆け抜ける。
学校にも家にも居たくないと、そう思っていた時期があった。最近もそう。私の帰りを歓迎してくれる場所など、私が帰っていい場所など何処にも存在しないと信じていた。しかし、私の帰りを待ってくれている人は確かに存在する。そして、それは言い表せられないほどの幸福だ。
家に帰ろう。帰って謝ろう。勇気は要るし緊張もする。心配も迷惑もかけた。怒られる準備は出来ている。
できるならば、ずっとこうしていたい。この女と離れたくないとすら感じる。しかし、所詮他人であり、私達は別々の道を生きていかなければならない。名残惜しいが、もう少しでお別れだ。
人間というものは、別れがあると知りながら出会ってしまう生き物。何故なんだ。と疑問を抱えて生きてきたが、今日その答えが解ったような気がする。
この夜は一生涯忘れないであろう。あなたもどうかそうでありますように。
何時間経っただろう。蝉の声が耳に届いたから──もうすぐ夜が明ける。
◇
行きと同様、手を繋いで自販機の前まで歩いて戻る。
手が離れる。向かい合って立つ。
「じゃあ、私帰るね。……どうかしっかり生きて」
女は俯いている。俯きながら両手で頭を搔きむしっている。何だろう。何だろう、この気持ちの悪い違和感は。
何とも言えない恐怖が全身に纏わりつく。女に背を向けて歩き出した直後──
「本当に帰れると思った?」
首筋に生温い息を感じる。振り返ることができない。手足が動かない私は、まるで棒人間のそれだ。恐怖が頂点に達する。数時間前に聞いた、あのたどたどしい発音ではないこと。それも恐怖を感じる一つの要素ではあったが、それより怖い事実がもう一つ。
耳元で聞こえたその声には明らかに聞き覚えがあった。それは毎日聞いて、毎日発している──自分自身の声であった。
私は、私の運命を悟った。意を決して、固まった手足と首を動かして何とか振り返ることに成功した。紛れもなく、目の前に居る女は私自身だった。自分で好きになることのできなかった私。もはや思考など停止している。そんな機能していない頭でも理解できたことは──もうあの家に帰ることができない。ただそれだけであった。
元々大人になどなりたくなかった。ならば、ここで幕を閉じよう。ここで人間としての幕を閉じた方が、自分という人間にとってかっこいいに違いない。涙も出ず、声を出す気力もなく、そう考えることによって自分が確かに歩んできた人生を正当化したかった。
子供に戻らなくて済むように、大人にならなくて済むように、次に生まれ変わったら良い人生を生きてみよう。だから、私の人生は目の前に居るあなたに託すことにするよ。
女は笑っていた。私も笑った。涙が零れぬようにと懸命に笑った。
物心ついた時には親から名前を与えられ、その名の付いた一人の人間として生きていく運命を背負った。私が私である確証も無いままに。
私は、いつの間にか赤いワンピースを身に纏っていた。棒のような手足が視界に入る。興味本位で頬に手を当てると、骨が浮き出るほど痩せていた。胸の辺りまで伸びた髪は軋み、ほんの少し指を間に通しただけで何本も抜け落ちていく。そして、知った。
──ああ、既に、私は私でなくなっていたのか。
◇
"絶えずあなたを何者かに変えようとする世界の中で、自分らしくあり続けること。それがもっとも素晴らしい偉業である。"(ラルフ・ワルド・エマーソン)
何者にもなれないと嘆いていた頃を、未だに覚えている。私ではない誰かになりたいのに、他の誰にもなりたくないと願っていた。肩書きや地位や名誉を欲しがっていたこともある。自分より頭の良い友を横目に、何もできない自分を責める毎日だった。
しかし、もうそんな事はどうでも良い。もう、どうでも良いのだ。人間など骨に皮膚を纏った、ただそれだけの存在である。名前など後から付けられる。この世に生まれ落ちた瞬間は、皆同じ姿ではないか。
そんな考えても無駄な事を、誰に披露するわけでもない持論を頭の中で思案しながら──今日も私は内側からショーケースを叩いている。
その透明な板に映る両眼に、光など宿っていなかった。
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