1 / 45
山下町ライフはじめました
1
しおりを挟む
くっきりとした二重の目を細め、彼がほほえんだ。
「心配ありません。大丈夫ですよ」
聞く者を心酔させる、まろやかな囁き。にもかかわらず、その声は右から左、耳を素通りする。目下、得体のしれない代物に頭をおおわれた私はそれどころじゃないのだ。
「や、やめてください、お願いします……」
懇願。帽子状のかぶりものに手をかけると、彼も重ねてきた。全身がこわばる。低い体温が伝わってきただけでなく至近距離に迫られたせいで。
「僕はあなたを信じています」
って、どんだけ魅惑のフェイスで言われても無理なもんは無理だよ。
涙がにじみ、後悔ばかりが駆けめぐる。ああ、私が誘惑に負けなければ。ふかふかのシフォンケーキさえ食べなければ。こんなことには――!
◇
こうして思い返しても、あのときの私の判断が正しかったのか、いまだに自信がもてない。実際のところ、それは世間からみて不正解だったのだろう。正直者が馬鹿をみるという言葉があるように、理不尽がまかりとおるのが世の常というのは若輩者といえどそれなりに理解もしている。
だとしても、職場のヒアリングで同僚がパワハラを受けているのをありのまま報告したのは、人として間違っていない気がするのだけれど。
「正直に。誠実に。感謝と思いやりを大事にせんといかん」
幼いころ、母方の祖母が言っていた。それは、こずるい知恵を授けようとする両親の教えよりも圧倒的に胸に響き、その思想どおり懸命に日々をおくる姿に子どもながら感動すらおぼえた。
この人の心はぴかぴかの宝物だ! 私もこんな大人になりたい!
そう思ったからこそ、つたないながらも可能なかぎり『正直』『誠実』『感謝と思いやり』を心がけてきた。
……まあ、その結果たどり着いたのが『無職』なわけですが。
現状を再認識。ふうっと深呼吸。九月なかばの晴れわたる午後。山下公園のベンチに座り、カフェモカで一息つく。市営地下鉄の関内駅からスタジアムのある横浜公園経由でここまで歩いてきたのは、引っ越す前に好きな景色を目に焼きつけておくためだ。
大学進学を機に移り住んで五年ちょい。みなとみらいのランドマークタワーや観覧車もいわゆる〈横浜〉らしくて好きだけれど、両親がはまっていたドラマの影響もあり、ベイブリッジに氷川丸というのが地元にいたときから思い描いていた情景だ。
おまけにこの場所は、なんだかとっても浮世ばなれしていて。時代も場所もファッションも違うけれど、昔なにかで見たことのある絵画――たしかスーラのグランド・ジャット島の日曜日の午後――を彷彿とさせ、訪れるたび癒される。
本日も公園内の芝生広場では、みなさん思い思いにくつろいでいらっしゃる。レジャーシートを広げたり、そのまま裸足でごろんと寝転がったり、わんちゃんをお腹の上にのせてお昼寝したり。のどかで素晴らしい。
ゆったり心地に感化され、両手をあげてうーんと伸び。涼しめの海風が、昨日ボブにしたばかりの髪を揺らす。
厳しい残暑は例年ほど続かず、ある日を境に快適な気温をキープするようになった。お天気キャスターさんが「日中の不要な外出は控えてください」と注意を呼びかけた酷暑と、ぽこぽこ発生する台風を交互にくり返した夏が嘘みたいに。しかも、いつもは季節をすっとばして冬に突入していたけれど、今年はしっかり秋がある。ありがたいことだ。なにをするにも過ごしやすくて。
無職になってからというもの、金銭的や社会的な不安はあれど、好きなことを好きなように好きなだけできるのは最高だった。朝は二度寝どころか三度も四度も寝られる。そのうえ、こうして平日の昼間にぼけーっと海を眺めることだって。そう考えれば、悪いことばかりでもない。
例のヒアリングのあと、問題の上司は会社から注意を受けただけで、それ以上のおとがめはなかった。なにかが劇的に変わるとも期待していなかったし、そのせいで矛先が私に変わるのも覚悟のうえだった。けれど当の同僚からも嫌がらせをされるようになったのは、まったくの想定外。
噂によれば彼女は、私が波風をたてたことに立腹したらしかった。それを知ったときの率直な気持ちは「まじすか」という困惑。さんざっぱら泣きついてきたから解決したがっているのだと思い、どうにか手助けできればと捨て身で頑張ってみたのが、ありがた迷惑になっていたとは。
けっきょく、とりつく島のない彼女に本当の理由はきけずじまい。私が間違っていたのかなぁと悩んだりしているあいだにも上司のいじめと彼女の嫌がらせは日に日にエスカレートし、やがて周囲にも波及。私は孤立することになった。
学生時代も浮き気味で似たような目にあってきて慣れているため、それについてのダメージはそんなになかったけれど、仕事の妨害や失敗の責任を押しつけられたり、出勤日数を勝手にへらされたりしたのはいただけなかった。就活に失敗し、時給だけで決めたコールセンターのアルバイト。お給料に響くのはもってのほかだったのだ。
それと仕事自体、精神的に限界を感じたのも一因だった。電話ごしで顔が見えないせいか、考えられないほど横暴なことを要求するお客さんも少なくなかった。全員が悪人じゃないことくらい理解している。まじめに、親切に、ひたむきに。それこそ正直で誠実に、感謝と思いやりを持って生きている人がいることだって。
とはいえ、さすがに辟易したのも事実。それで先月、未練なく退職。預金残高が心もとなくて、いっそのこと実家に戻ってのんびり次の仕事を探そうかと親に相談したら「せっかく大学までいかせたのに」「みんな苦労してるんだ甘えるな」だのと辛辣なお叱りをうけ、果ては冗談か本気か「子育て失敗した」とまで言われてしまった。帰ったところで、どのみち針のむしろだろう。
ほかにあてといったら、おばあちゃん家くらい。九州の山奥。バスは二時間に一本。こじゃれたショップとかはないけれど、自然はたらふくある。人は少なく、動物は多い。空気も澄んでいる。
やっぱりそうしよう。多少不便でも心の健康のほうが大事だ。おばあちゃんなら私をむげにしない。二人で仲良くお野菜を育ててシマ吉(飼い猫・オス・五歳)と遊ぼう。そして近くの川のせせらぎを聞きながらお昼寝をして、お夕飯にはぜんまいを煮つけてもらうんだ。レシピを教わったら、私も作ってみよう――。
「心配ありません。大丈夫ですよ」
聞く者を心酔させる、まろやかな囁き。にもかかわらず、その声は右から左、耳を素通りする。目下、得体のしれない代物に頭をおおわれた私はそれどころじゃないのだ。
「や、やめてください、お願いします……」
懇願。帽子状のかぶりものに手をかけると、彼も重ねてきた。全身がこわばる。低い体温が伝わってきただけでなく至近距離に迫られたせいで。
「僕はあなたを信じています」
って、どんだけ魅惑のフェイスで言われても無理なもんは無理だよ。
涙がにじみ、後悔ばかりが駆けめぐる。ああ、私が誘惑に負けなければ。ふかふかのシフォンケーキさえ食べなければ。こんなことには――!
◇
こうして思い返しても、あのときの私の判断が正しかったのか、いまだに自信がもてない。実際のところ、それは世間からみて不正解だったのだろう。正直者が馬鹿をみるという言葉があるように、理不尽がまかりとおるのが世の常というのは若輩者といえどそれなりに理解もしている。
だとしても、職場のヒアリングで同僚がパワハラを受けているのをありのまま報告したのは、人として間違っていない気がするのだけれど。
「正直に。誠実に。感謝と思いやりを大事にせんといかん」
幼いころ、母方の祖母が言っていた。それは、こずるい知恵を授けようとする両親の教えよりも圧倒的に胸に響き、その思想どおり懸命に日々をおくる姿に子どもながら感動すらおぼえた。
この人の心はぴかぴかの宝物だ! 私もこんな大人になりたい!
そう思ったからこそ、つたないながらも可能なかぎり『正直』『誠実』『感謝と思いやり』を心がけてきた。
……まあ、その結果たどり着いたのが『無職』なわけですが。
現状を再認識。ふうっと深呼吸。九月なかばの晴れわたる午後。山下公園のベンチに座り、カフェモカで一息つく。市営地下鉄の関内駅からスタジアムのある横浜公園経由でここまで歩いてきたのは、引っ越す前に好きな景色を目に焼きつけておくためだ。
大学進学を機に移り住んで五年ちょい。みなとみらいのランドマークタワーや観覧車もいわゆる〈横浜〉らしくて好きだけれど、両親がはまっていたドラマの影響もあり、ベイブリッジに氷川丸というのが地元にいたときから思い描いていた情景だ。
おまけにこの場所は、なんだかとっても浮世ばなれしていて。時代も場所もファッションも違うけれど、昔なにかで見たことのある絵画――たしかスーラのグランド・ジャット島の日曜日の午後――を彷彿とさせ、訪れるたび癒される。
本日も公園内の芝生広場では、みなさん思い思いにくつろいでいらっしゃる。レジャーシートを広げたり、そのまま裸足でごろんと寝転がったり、わんちゃんをお腹の上にのせてお昼寝したり。のどかで素晴らしい。
ゆったり心地に感化され、両手をあげてうーんと伸び。涼しめの海風が、昨日ボブにしたばかりの髪を揺らす。
厳しい残暑は例年ほど続かず、ある日を境に快適な気温をキープするようになった。お天気キャスターさんが「日中の不要な外出は控えてください」と注意を呼びかけた酷暑と、ぽこぽこ発生する台風を交互にくり返した夏が嘘みたいに。しかも、いつもは季節をすっとばして冬に突入していたけれど、今年はしっかり秋がある。ありがたいことだ。なにをするにも過ごしやすくて。
無職になってからというもの、金銭的や社会的な不安はあれど、好きなことを好きなように好きなだけできるのは最高だった。朝は二度寝どころか三度も四度も寝られる。そのうえ、こうして平日の昼間にぼけーっと海を眺めることだって。そう考えれば、悪いことばかりでもない。
例のヒアリングのあと、問題の上司は会社から注意を受けただけで、それ以上のおとがめはなかった。なにかが劇的に変わるとも期待していなかったし、そのせいで矛先が私に変わるのも覚悟のうえだった。けれど当の同僚からも嫌がらせをされるようになったのは、まったくの想定外。
噂によれば彼女は、私が波風をたてたことに立腹したらしかった。それを知ったときの率直な気持ちは「まじすか」という困惑。さんざっぱら泣きついてきたから解決したがっているのだと思い、どうにか手助けできればと捨て身で頑張ってみたのが、ありがた迷惑になっていたとは。
けっきょく、とりつく島のない彼女に本当の理由はきけずじまい。私が間違っていたのかなぁと悩んだりしているあいだにも上司のいじめと彼女の嫌がらせは日に日にエスカレートし、やがて周囲にも波及。私は孤立することになった。
学生時代も浮き気味で似たような目にあってきて慣れているため、それについてのダメージはそんなになかったけれど、仕事の妨害や失敗の責任を押しつけられたり、出勤日数を勝手にへらされたりしたのはいただけなかった。就活に失敗し、時給だけで決めたコールセンターのアルバイト。お給料に響くのはもってのほかだったのだ。
それと仕事自体、精神的に限界を感じたのも一因だった。電話ごしで顔が見えないせいか、考えられないほど横暴なことを要求するお客さんも少なくなかった。全員が悪人じゃないことくらい理解している。まじめに、親切に、ひたむきに。それこそ正直で誠実に、感謝と思いやりを持って生きている人がいることだって。
とはいえ、さすがに辟易したのも事実。それで先月、未練なく退職。預金残高が心もとなくて、いっそのこと実家に戻ってのんびり次の仕事を探そうかと親に相談したら「せっかく大学までいかせたのに」「みんな苦労してるんだ甘えるな」だのと辛辣なお叱りをうけ、果ては冗談か本気か「子育て失敗した」とまで言われてしまった。帰ったところで、どのみち針のむしろだろう。
ほかにあてといったら、おばあちゃん家くらい。九州の山奥。バスは二時間に一本。こじゃれたショップとかはないけれど、自然はたらふくある。人は少なく、動物は多い。空気も澄んでいる。
やっぱりそうしよう。多少不便でも心の健康のほうが大事だ。おばあちゃんなら私をむげにしない。二人で仲良くお野菜を育ててシマ吉(飼い猫・オス・五歳)と遊ぼう。そして近くの川のせせらぎを聞きながらお昼寝をして、お夕飯にはぜんまいを煮つけてもらうんだ。レシピを教わったら、私も作ってみよう――。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜
なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」
静寂をかき消す、衛兵の報告。
瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。
コリウス王国の国王––レオン・コリウス。
彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。
「構わん」……と。
周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。
これは……彼が望んだ結末であるからだ。
しかし彼は知らない。
この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。
王妃セレリナ。
彼女に消えて欲しかったのは……
いったい誰か?
◇◇◇
序盤はシリアスです。
楽しんでいただけるとうれしいです。
最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません
abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。
後宮はいつでも女の戦いが絶えない。
安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。
「どうして、この人を愛していたのかしら?」
ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。
それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!?
「あの人に興味はありません。勝手になさい!」
『元』魔法少女デガラシ
SoftCareer
キャラ文芸
ごく普通のサラリーマン、田中良男の元にある日、昔魔法少女だったと言うかえでが転がり込んで来た。彼女は自分が魔法少女チームのマジノ・リベルテを卒業したマジノ・ダンケルクだと主張し、自分が失ってしまった大切な何かを探すのを手伝ってほしいと田中に頼んだ。最初は彼女を疑っていた田中であったが、子供の時からリベルテの信者だった事もあって、かえでと意気投合し、彼女を魔法少女のデガラシと呼び、その大切なもの探しを手伝う事となった。
そして、まずはリベルテの昔の仲間に会おうとするのですが・・・・・・はたして探し物見つかるのか?
卒業した魔法少女達のアフターストーリーです。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
【完結】転生少女は異世界でお店を始めたい
梅丸
ファンタジー
せっかく40代目前にして夢だった喫茶店オープンに漕ぎ着けたと言うのに事故に遭い呆気なく命を落としてしまった私。女神様が管理する異世界に転生させてもらい夢を実現するために奮闘するのだが、この世界には無いものが多すぎる! 創造魔法と言う女神様から授かった恩寵と前世の料理レシピを駆使して色々作りながら頑張る私だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる