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③シルティ14歳 セドリック12歳
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頬をなでるように照らすカーテン越しの朝日と、ピチチとさえずる小鳥たちの鳴き声で目を覚ました。
寝起きで乾燥した瞳を何度か瞬きを繰り返して潤すと、左肘を軸にしてゆっくりと上体を起こした。
パウダーブルー色の壁紙の上に取り付けられた振り子付の壁掛け時計を見ると、時計針は朝の6時前を指していた。もうすぐメイドたちが起き出す時間だが、ほとんどの人間がまだ就寝中であろう伯爵邸は、真冬の朝のように静まり返っていた。
すっかり目が覚めてしまったセドリックは、寝台からおりてカーテンをめくり、バルコニーへと続く掃き出し窓を開いた。すると室内に清涼な空気が入り込み、ふるりと肩が震えた。初夏だというのに早朝の空気はまだ肌寒い。しかしそれにかまわず寝間着のまま、バルコニーへ足を踏み入れた。そうして石造りの手すりの前まで来たセドリックの瞳に映り込んだのは、幼い頃に良く遊んでいた湖畔と、鮮やかな翠色塗りの屋根が美しい東屋だった。
ウィルベリー伯爵家に養子として迎え入れられて、7年が経過していた。
シルティ14歳、セドリック12歳の青葉の季節である。
*****
食器とカトラリーが触れるほんの微かな音と、小鈴の音に似た可憐な笑い声がダイニングに響く。笑い声が絶えない朝食の席は伯爵家の日常風景で、その中心には、ウィルベリー家にとって太陽のような存在の義姉――シルティの姿があった。
「それでね、お父様。エドガー様ったら、『スィーツを食べる君は、リスみたいにかわいいね』っておっしゃったのよ? これってどういう意味かおわかりになる?」
「うーん、素直に“かわいい”と言えないから、シルの可憐さをリスに例えたのではないかな?」
「あら、違うわよ旦那様。焼き菓子に目がないシルが、エドガー様の話をそっちのけで、マカロンを頬張っていたからですわ」
「ああ、なるほど! そういうことだったのだね。まったく、うちの奥さんは美人で賢いのだから、夫である私はなんて幸せ者なのだろうと毎日神に感謝しているよ」
「まあ、旦那様ったら。わたくしだって――」
「ああ、もう! どっちも違うし、朝からイチャイチャしないで! 年甲斐もなく毎朝毎朝、それも私たちの目の前で。仲が良いのは喜ばしいことですけれど、いまはシルの話を真剣に聞いてくださいなっ」
「真剣だとも」
「真剣よ」
「絶対に違います! お二人とも、シルをからかっていらっしゃるのだわ。シルは本当に悩んで夜も眠れなかったんですからね! ほら、セディ、見てちょうだい。目の下にくまができてるでしょう?」
「うーん、うん。本当だね」
「……いいえ、お坊ちゃま。シルティお嬢様はいつもと変わらずぐっすりとおやすみになられました」
「ノナリアっ」
ダイニングルームにどっと笑い声が満ちた。
専属侍女に裏切られて顔を真っ赤にしたシルティは、両手で拳をつくり「もう、もうっ」と上下に振りながらふてくされている。その姿が小動物――まさに頬が膨らんだリスの姿にそっくりで、一同は再び、どっと笑い出した。
朝食の場がこれほど賑やかなのは、貴族家の中で、ウィルベリー家だけではないだろうか。そう考えて苦笑をこぼしつつ、セドリックは最後の一切れのパンにバターを塗って口腔内に放り込んだ。
そうしてパンを流し込むように冷えたグラスの水を飲み干すと、ナプキンを取り払って席を立った。すると右隣に座っていたシルティが、セドリックのシャツの袖をくいと引っ張ってきた。
「セディ、朝食はもういいの? まだ食後のデザートが残っているわよ」
控えめに掴まれたシャツの袖を一瞥して、きょとんとした顔のシルティを見た。片方は椅子に座り、片方は立っているせいで、ドレスの襟ぐりからのぞく女性らしく膨らみ始めた胸の谷間が目に入り込んでしまった。
セドリックは、血液が顔と下半身に集まるのを感じて、とっさに右腕で口元を隠した。
焦っていたとはいえ、思いのほか勢いよく腕を振り払ったらしく、シルティの白い指先が行き場を無くしたまま置いてきぼりになっていた。
はっ、と我にかえって視線を彷徨わせると、驚いた顔のまま固まっている3人の姿が瞳に映り、サッと頭が冷えていくのを感じる。
セドリックは何でもないことのように平静をよそおって、「授業の前に予習をしておきたいから」などど適当な言い訳をしたあと、急いでダイニングを後にした。
あの状態のまま残してきた3人と、ダイニングの気まずい空気のことは極力考えないようにして、自室とは反対側の庭園へと続く廊下を早足で歩く。
湖の畔に建つ東屋に着く頃には額に汗をかいて、呼吸は上がっていた。
はぁはぁと呼吸を整えてから設置されている椅子にどかりと座ると、両手で顔を覆い隠した。
「……なにをやっているんだ、僕は」
誰もいないことをいいことに、盛大なため息を吐きながら、行儀悪く椅子の背もたれに全体重を預けた。
ひとしきり自己嫌悪に陥ったあと、冷静さを取り戻してきたセドリックは、体勢をなおし湖畔に視線を向けた。ふっと目尻を下げた目線の先に、ラベンダーとヒメジョオンが咲いている。
『セディ? 気に入った?』
湖の水面に水紋を広げながら吹いた風が、在りし日のシルティの声を運んでいた気がして、その声を追いかけるようにまぶたを閉じた。
サァサァとそよ風と草花が戯れ、湖の水面を風が滑る音だけが支配する世界で、閉じたまぶたの裏には10歳のシルティが、不恰好な花の首飾りを持って笑顔を浮かべていた。
「……シルねぇさま」
そう呼ぶと、シルティは花が綻ぶように微笑んだ。
『なぁに? 私のかわいいセドリック』
風に遊ばれるアンバーの髪を右手でおさえる可憐な姿。その右手になりたいと手を伸ばすが、バラバラに解けてしまった首飾りの花と一緒に風にさらわれて消えてしまった。
――あの頃に戻りたい。
目尻から流れた生暖かい涙が、ツゥと頬を滑っていく。
今はもう、あの頃に感じていた胸の違和感の正体を知っている。胸のあたりがむず痒くなったり、きゅうっと苦しくなったり、ドキドキと動悸を起こしたりする。その症状が示す病の名は、“恋”だということを。
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寝起きで乾燥した瞳を何度か瞬きを繰り返して潤すと、左肘を軸にしてゆっくりと上体を起こした。
パウダーブルー色の壁紙の上に取り付けられた振り子付の壁掛け時計を見ると、時計針は朝の6時前を指していた。もうすぐメイドたちが起き出す時間だが、ほとんどの人間がまだ就寝中であろう伯爵邸は、真冬の朝のように静まり返っていた。
すっかり目が覚めてしまったセドリックは、寝台からおりてカーテンをめくり、バルコニーへと続く掃き出し窓を開いた。すると室内に清涼な空気が入り込み、ふるりと肩が震えた。初夏だというのに早朝の空気はまだ肌寒い。しかしそれにかまわず寝間着のまま、バルコニーへ足を踏み入れた。そうして石造りの手すりの前まで来たセドリックの瞳に映り込んだのは、幼い頃に良く遊んでいた湖畔と、鮮やかな翠色塗りの屋根が美しい東屋だった。
ウィルベリー伯爵家に養子として迎え入れられて、7年が経過していた。
シルティ14歳、セドリック12歳の青葉の季節である。
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食器とカトラリーが触れるほんの微かな音と、小鈴の音に似た可憐な笑い声がダイニングに響く。笑い声が絶えない朝食の席は伯爵家の日常風景で、その中心には、ウィルベリー家にとって太陽のような存在の義姉――シルティの姿があった。
「それでね、お父様。エドガー様ったら、『スィーツを食べる君は、リスみたいにかわいいね』っておっしゃったのよ? これってどういう意味かおわかりになる?」
「うーん、素直に“かわいい”と言えないから、シルの可憐さをリスに例えたのではないかな?」
「あら、違うわよ旦那様。焼き菓子に目がないシルが、エドガー様の話をそっちのけで、マカロンを頬張っていたからですわ」
「ああ、なるほど! そういうことだったのだね。まったく、うちの奥さんは美人で賢いのだから、夫である私はなんて幸せ者なのだろうと毎日神に感謝しているよ」
「まあ、旦那様ったら。わたくしだって――」
「ああ、もう! どっちも違うし、朝からイチャイチャしないで! 年甲斐もなく毎朝毎朝、それも私たちの目の前で。仲が良いのは喜ばしいことですけれど、いまはシルの話を真剣に聞いてくださいなっ」
「真剣だとも」
「真剣よ」
「絶対に違います! お二人とも、シルをからかっていらっしゃるのだわ。シルは本当に悩んで夜も眠れなかったんですからね! ほら、セディ、見てちょうだい。目の下にくまができてるでしょう?」
「うーん、うん。本当だね」
「……いいえ、お坊ちゃま。シルティお嬢様はいつもと変わらずぐっすりとおやすみになられました」
「ノナリアっ」
ダイニングルームにどっと笑い声が満ちた。
専属侍女に裏切られて顔を真っ赤にしたシルティは、両手で拳をつくり「もう、もうっ」と上下に振りながらふてくされている。その姿が小動物――まさに頬が膨らんだリスの姿にそっくりで、一同は再び、どっと笑い出した。
朝食の場がこれほど賑やかなのは、貴族家の中で、ウィルベリー家だけではないだろうか。そう考えて苦笑をこぼしつつ、セドリックは最後の一切れのパンにバターを塗って口腔内に放り込んだ。
そうしてパンを流し込むように冷えたグラスの水を飲み干すと、ナプキンを取り払って席を立った。すると右隣に座っていたシルティが、セドリックのシャツの袖をくいと引っ張ってきた。
「セディ、朝食はもういいの? まだ食後のデザートが残っているわよ」
控えめに掴まれたシャツの袖を一瞥して、きょとんとした顔のシルティを見た。片方は椅子に座り、片方は立っているせいで、ドレスの襟ぐりからのぞく女性らしく膨らみ始めた胸の谷間が目に入り込んでしまった。
セドリックは、血液が顔と下半身に集まるのを感じて、とっさに右腕で口元を隠した。
焦っていたとはいえ、思いのほか勢いよく腕を振り払ったらしく、シルティの白い指先が行き場を無くしたまま置いてきぼりになっていた。
はっ、と我にかえって視線を彷徨わせると、驚いた顔のまま固まっている3人の姿が瞳に映り、サッと頭が冷えていくのを感じる。
セドリックは何でもないことのように平静をよそおって、「授業の前に予習をしておきたいから」などど適当な言い訳をしたあと、急いでダイニングを後にした。
あの状態のまま残してきた3人と、ダイニングの気まずい空気のことは極力考えないようにして、自室とは反対側の庭園へと続く廊下を早足で歩く。
湖の畔に建つ東屋に着く頃には額に汗をかいて、呼吸は上がっていた。
はぁはぁと呼吸を整えてから設置されている椅子にどかりと座ると、両手で顔を覆い隠した。
「……なにをやっているんだ、僕は」
誰もいないことをいいことに、盛大なため息を吐きながら、行儀悪く椅子の背もたれに全体重を預けた。
ひとしきり自己嫌悪に陥ったあと、冷静さを取り戻してきたセドリックは、体勢をなおし湖畔に視線を向けた。ふっと目尻を下げた目線の先に、ラベンダーとヒメジョオンが咲いている。
『セディ? 気に入った?』
湖の水面に水紋を広げながら吹いた風が、在りし日のシルティの声を運んでいた気がして、その声を追いかけるようにまぶたを閉じた。
サァサァとそよ風と草花が戯れ、湖の水面を風が滑る音だけが支配する世界で、閉じたまぶたの裏には10歳のシルティが、不恰好な花の首飾りを持って笑顔を浮かべていた。
「……シルねぇさま」
そう呼ぶと、シルティは花が綻ぶように微笑んだ。
『なぁに? 私のかわいいセドリック』
風に遊ばれるアンバーの髪を右手でおさえる可憐な姿。その右手になりたいと手を伸ばすが、バラバラに解けてしまった首飾りの花と一緒に風にさらわれて消えてしまった。
――あの頃に戻りたい。
目尻から流れた生暖かい涙が、ツゥと頬を滑っていく。
今はもう、あの頃に感じていた胸の違和感の正体を知っている。胸のあたりがむず痒くなったり、きゅうっと苦しくなったり、ドキドキと動悸を起こしたりする。その症状が示す病の名は、“恋”だということを。
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