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「霊、その他の幻惑について」後編
しおりを挟むジョウはおずおずと木道《もくどう》を進んだ。静かだった。あたりには生命の気配が感じられず、ジョウの足音、大気のうなり、葉《は》ずれ……他には何の音もない。
静寂のなかで、じんわりと染みるように夜が濃くなっていった。
ふと、霧のむこうにあざやかな灯りが広がっていることに気づく。
ジョウはたまらずに走った。木道が激しくきしむ。霧に拡散された灯りは幻想的で、近づくにつれどんどん色鮮やかに、大きくなっていく。ジョウは足がもつれるのもかまわず走り、そしてついに、そこへ辿り着いた。
つるのように絡み合う、色とりどりのおびただしい電飾。ぽっかりと口を開けた幕。
それは──巨大な黒テント。
「おっと」
背後で低い声が響き、ジョウはとっさに振り返った。
声の主は真っ黒のフードを深くかぶった大男で、その体躯《たいく》はジョウの三倍以上あった。
「少年、君はお客かな?」
男はしわがれ声でジョウに尋ねた。
「たぶん」
ジョウは震えながらうなずいた。
「そりゃいかんな。もうすぐショーが終わってしまう。早く半券を見せなさい」
「これ……ですよね?」
チラシの切れ端を見せる。
「ああそうだ、大丈夫だよ。さあ入って。最後のステージが始まるころだ」
背中をとんと押され、ジョウは吸い込まれるようにテントのなかへ入った。
あたりは真っ暗だった。ほとんど何も見えやしない。ジョウは腰が引けて立ち止まってしまった。が、足を動かしていないのに、床が、壁が、あたり全体の闇が勝手に動き、ジョウはぐんぐん前方に進んでいった。少なくとも、ジョウにはそう感じられた。
と、急に目の前が明るくなった。
「うわっ」
いつの間にか、ずいぶん広い客席に到着していた。
正面には円形の舞台が大仰《おおぎょう》に構えており、舞台上では色とりどりの衣装を着たダンサーたちが、愉快な音楽に合わせて踊っている。
ジョウは不安ながらもふらふらと近くの席に座り、そっと客席を見渡した。客はまばらだった。
「それでは!」
キンキンした高音の大音声《だいおんじょう》が会場に響き渡った。
「みなさんも、彼らと一緒に踊りましょう!」
音楽と照明がガラリと変わる。
すると、舞台上から客席へ、とんがり帽子をかぶったダンサーたちが下りてきた。
彼らはチカチカする照明の中、客のすぐ目の前で踊り始めた。ジョウの目の前にもダンサーはやってきた。彼らは満面の笑みで、くるくる、くるくると回転して踊った。
やがて、ダンサーが一斉に帽子を脱いだ。
「ひっ」
ジョウは悲鳴をあげてのけぞった。
ダンサーの頭部の上半分は欠如していた。ちょうど眉毛から上、顔だけを残して。
ジョウは恐怖しながらも、くるくる回る頭の無いダンサーを食い入るように見つめる。
そうだ、これはフリークス……
その後、ダンスはさらなる盛り上がりを見せ、クライマックスをむかえると、やがて落ち着いた音楽に切り替わり、ダンサーたちは舞台上へ戻っていった。
「いかがでしたか!」
ふたたび大音声が響く。
「彼ら──〝ノウナシ男〟たちのダンスに、盛大な拍手を!」
ジョウは呆《ほう》けたまま、無意識に拍手をした。
「さあ! それでは、いよいよラストショーでございます!」
と、そのアナウンスの直後、すべての照明が落ち、一瞬にしてあたりは暗闇に包まれた──暗転だ。ジョウの心臓はドクドクと暴れ回る。
やがて、穏やかなクラシック音楽が会場に流れた。
「みなさん」
舞台上から、しわがれた男性の声が低く響く。
「魔女と会ったことがありますか?」
その言葉をきっかけに、ぼんやりとしたピンスポット・ライトが舞台中央をゆっくり照らす。重たげなスモークが這いつくばるように舞台上に広がる。そこに現れたのは……さきほどテントの入り口で見かけた、あの大男。
「おそらく……お目にかかれるのは今夜きりでしょうな」
もうひとつのピンスポット・ライトが舞台奥の幕を照らす。幕がスッと開く。そこには布に覆われた巨大な何かが屹立《きつりつ》している。と、黒子《くろこ》がそれを舞台上へ運んだ。
巨大な何かが舞台中央へ辿り着くと、照明が舞台全体ふわりと広がった。
「こちらが正真正銘の……」
大男が運ばれたものの布に手をかけた。
「本物の、魔女です!」
と、素早く布が取り払われ──
ジョウは目を見開き、唖然とした。
そこには、あの少女がいた。十字架に磔《はりつけ》にされて、手のひらに杭を打たれて、ぼろきれに身を包む、あの幽霊少女が。ジョウをここへ導いた白髪のあの子が。
「もちろん、まだ信じられないでしょう。こうしてみると普通の少女だ。いや、普通というには少々美しすぎますがね。この神秘的な白い肌、髪。このような人間はそういないでしょう。しかし、真に注目すべきはそこではない。やはりそう……彼女が持つ強大な魔力! それを今からみなさまにお見せします!」
少女はうつろな瞳をジョウのほうへ向けていた。
「それでは、試してみましょう。彼女の魔力を」
大男は指を強く打ち鳴らした。すると、ひかえていた黒子が、激しく燃える松明《たいまつ》を大男に渡した。
「彼女の持つ魔力は確かに素晴らしい。が、不便でもある」
大男は松明を高々とかかげる。
「彼女の魔力が発現するには、強い負荷が必要だ。ゆえに……」
大男は松明を放った。
「こうする」
十字架へ。
ジョウは立ち上がった。今すぐ飛び出したかった。しかし、そこから一歩も動けなかった。
松明の火は十字架へうつると、あっというまに勢力を増し、少女のつま先を焼き始めた。
「ああ……ううああ……」
低くうめく少女。クラシック音楽のすきまから伝わってくる、その恐怖と憎しみ。
やがて音楽は盛大に高まり、少女はみるみるうちに火炎に包まれた。
「あああああああ──!」
苦痛の咆哮が会場の大気を震わせる。
「みなさん、目を離さないで! これからです!」
大男がそう言った次の瞬間、少女を包む炎が不自然な動きを見せた。
少女の身から、十字架から、炎が引き剥がれていったのだ。
「ご覧あれ! これが彼女の魔力!」
引き剥がれた炎は舞うようにしながらもとどまり、宙を浮遊した。
「まだです! さあみなさん、彼女に注目して!」
焼かれた少女の皮膚はただれ、焦げ、煙をあげていた。が、徐々にそれは回復していった。
元通りの、月のように白い肌へ……。
*
ショーが終わったあと、ジョウはしばらく客席で放心していた。
そのうち観客がほとんどいなくなっていることに気づき、慌てて立ち上がった。
ジョウは他の客についていき、客席後方に開かれていた幕をくぐった。すると、入ってきたときと同様の暗闇に包まれた。
そのとき、どこからか声がした。
助けて……
少女の、細く掠れた声。
あたしのところへ来て。ね……?
必死に、ジョウは声のゆくえを探った。
あたしはここにいる……あんたのすぐそばに……
と、光が見えた。ジョウはその光を目指して歩んだ。そして──
「どこだ、ここ……?」
ひらけた景色が広がった。湿原だ。外に出たらしい。しかし、ここへ来たときとちがい、無数の家馬車《いえばしゃ》があちらこちらに見受けられた。それから、そこらをうろつくフリークスたちも。
ジョウは茂みに身をひそめ、慎重にあたりをうかがった。
異形の肉体をもつ者たちが、使った道具を片付けたり、ストレッチをしたり、雑談を交わしたりしていた。頭が地面につくほどに首が長く垂れ下がっている者、全身蛇のような鱗に覆われた者、手足に大きな水かきのある者。
あたしがいるのは、こっち……
少女の声だ──それは、とある家馬車から聞こえてくるように感じられた。
ジョウは物陰を利用しながら、注意深くそちらへ近づく。
早く来て……
やっとのことでその家馬車に辿り着いた。色々な思考がジョウの頭をかけめぐったが、それを無視して、ジョウは思い切って扉を叩いた。
が、反応はない。
おそるおそる、扉を開ける。
──いた。部屋の奥に、鎖で繋がれた少女が座っている。
「やっと来てくれた」
少女は嬉しそうにため息をついた。
「勇敢だね、あんた」
「なんで……僕を……」
震える言葉をもらす。それから半歩ずつ、ゆっくりと彼女に歩み寄っていく。
「あたしを外へ連れ出してくれる?」
少女は首をかしげて言った。
「いいけど……」ジョウは唾を飲み込んで言う。「でも鍵は? その鎖の鍵」
「ここにはないのよ」
「……じゃあ、どうすればいい?」
ジョウが聞くと、少女は申し訳ないという顔をした。
「あのね、悪いけど、あたしの飼い主と話してくれる?」
「飼い主?」
「あたしをここに縛りつけている変態。そいつと話して、あたしを解放するよう説得するのよ、ジョウ」
「なんで、そんな……無理だよ」
「無理じゃない。あんたは勇敢だからきっとできる。あたしのことを連れ出したいって、そう言うだけでいいんだから。意志を強く持って、彼を説得して」
「でも……」
少女はジョウの頬に触れた。ひんやりと冷たく、やわらかで、小さい手。
「汗ばんでる。怖いの?」
「怖くない……たぶん」
「やっぱり、あんたには無理かもしれないね。それで、あたしはずっとここに縛りつけられる。ショーに出演し続け、いまいましい炎に焼かれ続ける運命にある」
「そんなことない」
「……できるの?」
ジョウは黙った。無言で少女を見つめた。やがて、おもむろに口を開く。
「でき──」
とそのとき、部屋に誰かが入ってきた。
「おや、お客さんか」
低く、しわがれた声。ジョウは勢いよく振り向いた。
「なんだ少年、見覚えがあるな」
それは、あの大男。少女を焼いた男。
「少年、戻れるうちに早く戻りなさい」
ジョウは体の震えを必死におさえ込み、口を開いた。
「あの、すみません、勝手に入ってしまって」
「勝手に入ったのかい? 勝手には入れないはずだがね」
大男は苦笑し、少女へ目を向けた。
少女は大男を睨みつける。
「えっと、それで……」ジョウはしどろもどろに言う。「あの……頼みがあるんです……」
「話は読めたよ。君がこれからなんと言うのかもね」
「え……」
「ほら、言ってごらん」
「あのう……無理だとは思いますが、その……」
「べつに無理じゃないさ」
「え?」
「この子を外へ連れ出したいんだろう? かまわないよ」
「……本当ですか?」
「ああ。もちろん、条件付きだがね」
大男はクククと笑った。そしてジョウの肩に手を置き、ジョウの目線に合わせてかがむ。
フードの奥は真っ暗で、男の顔は見えなかった。いや、ちがう──何もないのだ。そこには、顔などないのだ。あるのは渦まく闇だけ。
「かわりに」と大男が言う。「君がここへ残るんだ。彼女のかわりに、君がフリークスの一員となる。どうだね?」
ジョウの心臓が跳ね上がった。急に呼吸が苦しくなり、助けを求めて少女のほうを見る。
少女は鋭いまなこでジョウをとらえていた。負けないで、というように。
大男はジョウから離れた。そして言った。
「一人抜けるなら、一人かわりの者を。それがここのルールだ」
ジョウはしばらく立ちすくんでいたが、やがて少女に声をかけた。
「はじめから……」
と、それからしばらく喉を詰まらせて、やっとのことでジョウは続けた。
「君は……はじめから……そのつもりだったの?」
「ちがう」少女は鋭く言う。「ちゃんと彼を説得して」
「君は……君は最初から僕を……」ジョウは当惑していた。「僕を……自分の身代わりに……するつもりだったんだろ?」
「ちがう」ふたたび、少女はきっぱりと言う。「あたしを信じて、ジョウ。ちゃんと彼と話をして、説得するのよ。あんたならできる」
「説得って……」
ジョウはおもわず苦笑し、そして、大男を見上げた。
大男は肩をすくめて言った。
「ルールはルールだ」
「……だってさ」
ジョウはため息をついた。
「ねえ、お願い、ジョウ!」
「さて」大男は椅子に座って言う。「そろそろ決めてもらおうか。少年が元の世界へ帰れるうちにね。で、どうする? 少年がここに残るか、このまま彼女が残るか。君が選びなさい。それもここのルールだ」
「僕は……」
「ジョウ、お願いよ」
「僕は、ただの好奇心でここへ来たんです。日常から逸脱《いつだつ》してみたかったんです。でも、それは日常があってこその話です」
「ジョウ!」
「僕は、元の世界に帰ります」
そう言い切ると、ジョウは震える足を扉へと向けた。少女の顔に目も向けずに。
とそのとき、大男が腹を抱えて笑い出した。
「愚か者!」
大男が叫ぶと、途端にジョウは全く動けなくなった。
「契約成立だ、少年よ」
「なにが……なんの話?」
ジョウはぶるぶる震えながら尋ねる。
だが、大男は笑いをこらえるばかりで、何も答えない。
かわりに、少女が口を開いた。
「ジョウ、あんたならできると思ったのに……なんで説得してくれなかったの?」
少女は涙を流していた。
「どういうことだよ……?」
ジョウはうめいた。
少女は涙をぬぐって、質問に答えた。
「そういう〝ルール〟なのよ。あんたは、こいつのこしらえた馬鹿げたルールにあらがうべきだった。でもあんたは恐怖に負けて、ルールに従った。つまり、こいつのルールに従ってしまった者は……」
「我がルールに従う者は、我がフリークスの一員というわけだ、少年!」
大男は愉快そうに叫んだ。
ジョウは全身に力を込めたが、どうしても動けなかった。震えるばかりで、何もできやしない。
鎖に繋がれた少女は、いっそう悲しそうに、冷たく呟いた。
「フリークスへようこそ、ジョウ」
*
それから幾日《いくにち》が過ぎたろうか。とある町の、とある夜。
異形のものたちが湿原に集い、愉快なフリークスが開かれた。
「さあ、みなさま! 続いては当フリークスの名物がひとつ、〝ノウナシ男〟たちによるダンスショーです!」
続々と舞台上に集う、頭のない男たち。
くるくる回り、くるくる回り、観客を笑わせる。そのなかには、若い少年もいる。
幕の奥で出番を待つは、フードをかぶった大男。
そして、涙の乾ききった白き魔女。
くるくる。くるくる。くるくるくるくるくる……
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