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ひとつめの国
1.旅支度
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わたしが訳ありと出会って、一年の月日が経った。同時に、わたしがこの森に逃げ込んでもうすぐ十年が経つ。
「訳あり。今日は人間たちの集落に行くぞ」
「うん」
訳ありはこの一年で、随分と雰囲気が変わったように思う。何となく表情が緩くなったし、何故か言葉遣いは幼くなった。他人に言動を制限されなくなって幼児退行でもしたのだろうか。
彼の見た目とチグハグな感じはするが、個人のイメージを他人が強要するものでは無い。別に見るに堪えないという程でもないので、好きにすればいいと思う。
「まずは朝食にしよう。はい、薬売りの分」
「ああ、ありがとう」
訳ありとの共同生活は、ひとりと一匹だった頃よりも快適だ。まず、掃除はふたりでする分時間が短縮できる。そして食事だが、今ではほとんど訳ありが作ってくれている。彼は味覚や嗅覚が優れているらしく、加えて手先も器用だ。たった一年でメキメキと腕を上げ、わたしでは全く太刀打ちできないほどの料理上手になってしまった。
暗殺者より料理人のほうがよっぽど向いていたのではないだろうか。最初の頃は分担で料理を作っていたが、今では彼ひとりでやった方が断然手際がよく、早く美味しくできるため、任せてしまっている。
その代わり、わたしは街に必要な食材を買い足しに行ったり、森で山菜や香草を集めてきたり、薬を売って金を稼いだりしている。
訳あり自身も料理が楽しいようで、この分担に不満はないようだ。
ちなみに狩りについては狼も入れてみんなでやっている。連携を試してみたり、各個獲物を狩ってみたり。隠密の腕が鈍らないように、みんなでかくれんぼで遊んだりしている。
「うん、美味い」
「ワフッ!」
「そうか」
今日のメニューは、スパイス香る腸詰めと、根野菜のクリームスープ、トースト、ハーブティーである。
そう、トーストがあるのだ。これは訳ありが自ら焼いたパンであり、狼の影に常備されている。わたしは食べたくても、たまに街に行った時に買い込むしか無かったのだが、パン屋の厨房を観た時のパンの焼き方を口頭で伝えただけで、訳ありはいつの間にかパンを作れるようになっていた。恐ろしく有能な男である。
加えて、ハーブやスパイスの調合にも関心はあるらしく、これについてはわたしも助言しつつ、食卓をさらに充実させるため、日夜研究に励んでいる。
一年前、暗殺以外、空っぽだった男は、空いたスペースに美味いものを詰め込むことにしたらしい。その切り替えと順応の早さには大変関心である。
「薬売り、調合書の写しはできた?」
「ああ、なんとか終わった。あとは集落のエルフにでも渡しとけば大丈夫だろう」
訳ありが一緒に暮らすようになって、生活の負担が減ったこともあり、今までコツコツとつけていた薬の調合書の写しを書いて集落の人間に渡すことにした。
今まで、たまに集落に行って病にかかったものや、怪我をしたものに薬を処方していたが、この調合書があれば自分たちで何とかできるようになるだろう。
もちろん、薬は調合しやすく悪用しにくいものにかぎるし、材料も集落の中や周辺だけで集められるものを選んでいる。ついでにサービスで病の診断方法や、怪我の処置の仕方などを書いた紙も用意している。
「なら、俺達がいなくなっても安心」
「そうだな」
というのも、一週間前、わたし達はとある決断をした。
「旅に出ようと思う」
夕食を食べ、片付けを終わらせた後、わたしは切り出した。
「うん。ついて行く」
「ワフン!」
と、言うわけで、あっさりと皆で旅に出ることが決まった。
理由くらい聞かなくていいのかとか、こういう時は行く行かないで一悶着あるのがセオリーではないかとか、色々思うところはあったが、至極迅速に決定した。
今まで溜め込んだ薬草や鉱石、魔物素材に高品質な薬の数々、旅の資金には全く心配なかった。
さらに、食料や生活用品などの荷物類についても、狼の影があるため、取捨選択の必要も無い。
旅支度と言っても、わざわざ今からすることはほとんどなかった。
唯一の気がかりである集落のことも、完成した調合書と道具を渡して、軽くレクチャーしたら憂いは晴れる。そもそも、薬売りが現れる前は彼らだけで何とかしていたのだから、この心配も自己満足に過ぎないのだが、その方がすっきり出発できるのだから、自己満足で結構だ。
「じゃあ、集落の人達に挨拶に行こうか」
「うん」
食器の片付けを終えると、二人と一匹、集落に向けて歩き出す。
集落は、特別な結界に護られていて、魔女に許可を得ていないものは入ることが出来ない。許可というものは、魔女に挨拶に行かなければ貰えないという訳ではなく、この森に入ってからの心根や、行動を観察され、安全だと判断されると、勝手に許可される。その時勝手に脳裏にルールを刻まれるので、説明を受けずとも自ずと理解するのだ。それを破れば、よっぽどの事情があり、魔女に許された時以外は、二度と集落に入ることは許されず、場所も記憶から消されてしまう。
とは言っても、これはルールを破らせないための抑止力であり、追放さるる人間はそもそも最初から集落に入れて貰えないので、本当に追放されるものはほとんどいないらしい。それでも極稀に追放されるのは、痴情のもつれなどで人間性がねじ曲がってしまった時だ。
全く、恋だの愛だのは恐ろしい力を持っている。そういうのには、できるだけ関わり合いになりたくない。
「おう!薬売りとイケメン兄ちゃん!」
「ワフッ!」
「おー!月夜のも元気か!」
集落に入ると、厳つい顔のおっさんが気さくに声をかけてくる。
「よ。バルドさん。腰はもういいのか」
「ああ、お陰様でバッチリだ」
彼の名はバルド。少し前にぎっくり腰になったと呼ばれて治療に行ったが、もうすっかり良くなったようだ。
集落の中の人間は基本的に名前で呼びあっている。わたしはそういうのを覚えるのが非常に苦手だが、長年診察したり、カルテや処方記録を書いているうちに何とか覚えることができた。
「今日はこれから診療所か?」
「ああ。所長に用があってな」
軽く手を振って診療所へと歩く。診療所は元々この集落にあったものであり、医療に造詣の深いエルフの女性が所長をやっている。
また、エルフは、植物から紙やインクを作る術を広めてくれたため、ここの識字率は意外にも高い。エルフは木工技術にも明るく、奇しくもエルフ狩りで故郷を逐われたエルフ達のおかげでこの集落の文化レベルが大幅に上がったといえる。
さらに、この集落には鉱山が隣接し、ドワーフも住んでいるので、鉄製品やガラス製品にも困らない。
たまに、外の世界より、よっぽど生活水準が高いのではないかと思ってしまう。
まあ、外の世界で苦労したものばかりだろうから、安心して暮らせる楽園を得られたのなら良かったと思う。
「あら、薬売りさん。おはよう」
「ん、おはよう。アダルジーザ」
「海の君に月夜の君もおはよう」
「おはよう」
「ワフッ」
診療所に入ると、ちょうど所長のアダルジーザが受付に立っていた。彼女には数人の弟子がいて、医師を育てながら診療所の業務もこなすはたらきものである。若々しい見た目だが、うん百年生きているらしい。
ちなみに彼女が呼んだ海の君は訳ありの呼び名である。訳ありはその容姿から非常に女性人気が高く、女性達はその透き通る青い瞳にちなんで海の君、男性達はやっかみとからかいを込めてイケメン兄ちゃんと呼んでいる。
月夜の君というのはお察しの通り、狼の呼び名である。狼は狼で、そのもふもふと穏やかな性格から、女性と子どもに大人気であり、月夜の君と呼ばれてちやほやされている。
「今日はちょっと報告と、渡したいものがあって来たんだ。少し時間と取れるか」
「ええ。弟子たちもかなり育ってきたし、任せちゃっても大丈夫よ」
アダルジーザは若草色の目を優しげに細めると、豊かなウェーブの金髪を翻して、執務室へと案内してくれた。
執務室は落ち着いた色合いの木工家具が配置され、リラックス効果のあるハーブの鉢植えが飾られている。カーペットやタペストリーなど、センスは悪くないのに、その全てを台無しにするように、所狭しと本や書類が乱雑に積み上げられ、非常に散らかっていて窮屈な印象を受ける。
一応、応接目的で設置されているらしいティーテーブルに腰掛けると、緑茶と焼き菓子が出される。エルフの里でお茶と言うと緑茶ことを指すらしい。
お茶を一口飲んで、カバンから紙束を取り出す。
「まずはこれを」
「まあ……!薬の調合書ね」
アダルジーザは、ペラペラと書類をめくって軽く目を通すと嬉しそうに顔を上げる。
薬売りの調合する薬は、割合や薬草の処理方法など、"見抜く眼"の恩恵でベストな状態に仕上げることができる。
つまり、その詳細な調合方法が分かれば、同じ材料でも効力の高い薬を作ることができるのだ。そのため薬売りの調薬方法は、薬師や医師にとって非常に気になるものである。
「この集落で特によく使う薬の調合法を重点的にまとめている。分からないことがあったら今のうちに聞いてくれ」
「わかったわ。少し待ってて」
アダルジーザが調合書を読み終わるまで、訳ありと狼と一緒に焼き菓子を楽しむ。ハーブや茶葉を練りこんだ香りのいいパウンドケーキはさっぱりしていて、少し甘みのある緑茶によく合っている。料理好きの訳ありはもちろん、狼も菓子が気に入ったようだ。
魔物はなんでも食べられるが、特にスパイスやハーブを好むようで、それらを使った料理が今では狼の好物だ。
一年前までは、喜んで生肉を食べていたのに、今では見向きもしない。狼はもはや、訳ありに胃袋を掌握され、舌が肥えて、完全に野生を捨ててしまったのだ。
「ねえ、ここなんだけど……」
「んー?」
読み終わったアダルジーザの質問に二、三答え、都度、補足を書き付けていく。
「うん、これで大丈夫。助かるわ」
「うん、役立ててくれ」
納得したように頷いたアダルジーザは、トントンと書類を整えて脇に置くと、緑茶を一口飲んだ。
「それで、話って?」
「旅に出る」
単刀直入に告げると、アダルジーザは引きつった笑顔で固まった。数秒の沈黙の後、アダルジーザは盛大に溜息を吐く。
「いやさあ、なんとなくそうじゃないかとは思っていたけど…もう少し、こう、前置きとかないわけ?」
「その調合書が前置きだ」
「はあ、相変わらず情緒がないわね……」
アダルジーザはやれやれと呆れたように首を振る。
「今まで世話になった」
「それは寧ろこっちのセリフよ。薬売りさんのおかげで調薬の歴史が大きく前進したわ」
「おおげさだな」
「ホントのことよ!全くエルフの長い研究の歩が亀の歩に感じたわよ」
少し悔しそうに、また同時に嬉しそうに、くすくすと肩を揺らす。
アダルジーザは、わたしに調薬を教えた人物である。趣味で集めた薬草を診療所に持ち込んだのがきっかけで、調薬を教わるようになった。わたしが薬売りになったのは、彼女のおかげと言っても過言ではない。
「本当、人間の成長は早いわね」
「エルフとは寿命が違うからな」
一瞬、寂しげに瞳が揺れ、誤魔化すようにやや乱暴にわたしの頭を撫でる。アダルジーザは、わたしの目のことを知っている数少ない人物である。そして彼女は、目のことを知っても変わらず可愛がってくれた稀有な存在である。
わたしにとって彼女は、母のような姉のような存在だ。これからしばらく会えないと思うと、少しだけ寂しいと思う。
それでも、外の世界で、ここには無い新しい素材を集めたいという気持ちが勝った。だから、住み慣れ、安心できる森を出て、旅をすると決めた。
「五十年くらい外を見て回ったら、また帰ってくる。せいぜい長生きしてくれ」
「まあ!エルフの寿命を舐めちゃダメよ。まだまだ現役なんだから」
「ははっ。はいはい」
茶杯に残った緑茶をぐいっと一気に飲み干すと、立ち上がる。
「じゃあ、集落のみんなに挨拶回りに行ってくるよ」
「ええ、行ってらっしゃい」
ひらりと手を振るアダルジーザにひとつ頷いて、執務室を出ようとしたその時。
「ちょーっと、薬売りちゃん?ワタクシのことを忘れているのではなくって?」
脳内に、直接語りかけられるような不思議な美声が聞こえたかと思うと、次の瞬間には、真っ白な花が咲き乱れる、美しい泉のほとりに立っていた。
「久しぶりね。薬売りちゃん」
澄んだ泉の静かな水面に、その老婆は佇んでいた。
「訳あり。今日は人間たちの集落に行くぞ」
「うん」
訳ありはこの一年で、随分と雰囲気が変わったように思う。何となく表情が緩くなったし、何故か言葉遣いは幼くなった。他人に言動を制限されなくなって幼児退行でもしたのだろうか。
彼の見た目とチグハグな感じはするが、個人のイメージを他人が強要するものでは無い。別に見るに堪えないという程でもないので、好きにすればいいと思う。
「まずは朝食にしよう。はい、薬売りの分」
「ああ、ありがとう」
訳ありとの共同生活は、ひとりと一匹だった頃よりも快適だ。まず、掃除はふたりでする分時間が短縮できる。そして食事だが、今ではほとんど訳ありが作ってくれている。彼は味覚や嗅覚が優れているらしく、加えて手先も器用だ。たった一年でメキメキと腕を上げ、わたしでは全く太刀打ちできないほどの料理上手になってしまった。
暗殺者より料理人のほうがよっぽど向いていたのではないだろうか。最初の頃は分担で料理を作っていたが、今では彼ひとりでやった方が断然手際がよく、早く美味しくできるため、任せてしまっている。
その代わり、わたしは街に必要な食材を買い足しに行ったり、森で山菜や香草を集めてきたり、薬を売って金を稼いだりしている。
訳あり自身も料理が楽しいようで、この分担に不満はないようだ。
ちなみに狩りについては狼も入れてみんなでやっている。連携を試してみたり、各個獲物を狩ってみたり。隠密の腕が鈍らないように、みんなでかくれんぼで遊んだりしている。
「うん、美味い」
「ワフッ!」
「そうか」
今日のメニューは、スパイス香る腸詰めと、根野菜のクリームスープ、トースト、ハーブティーである。
そう、トーストがあるのだ。これは訳ありが自ら焼いたパンであり、狼の影に常備されている。わたしは食べたくても、たまに街に行った時に買い込むしか無かったのだが、パン屋の厨房を観た時のパンの焼き方を口頭で伝えただけで、訳ありはいつの間にかパンを作れるようになっていた。恐ろしく有能な男である。
加えて、ハーブやスパイスの調合にも関心はあるらしく、これについてはわたしも助言しつつ、食卓をさらに充実させるため、日夜研究に励んでいる。
一年前、暗殺以外、空っぽだった男は、空いたスペースに美味いものを詰め込むことにしたらしい。その切り替えと順応の早さには大変関心である。
「薬売り、調合書の写しはできた?」
「ああ、なんとか終わった。あとは集落のエルフにでも渡しとけば大丈夫だろう」
訳ありが一緒に暮らすようになって、生活の負担が減ったこともあり、今までコツコツとつけていた薬の調合書の写しを書いて集落の人間に渡すことにした。
今まで、たまに集落に行って病にかかったものや、怪我をしたものに薬を処方していたが、この調合書があれば自分たちで何とかできるようになるだろう。
もちろん、薬は調合しやすく悪用しにくいものにかぎるし、材料も集落の中や周辺だけで集められるものを選んでいる。ついでにサービスで病の診断方法や、怪我の処置の仕方などを書いた紙も用意している。
「なら、俺達がいなくなっても安心」
「そうだな」
というのも、一週間前、わたし達はとある決断をした。
「旅に出ようと思う」
夕食を食べ、片付けを終わらせた後、わたしは切り出した。
「うん。ついて行く」
「ワフン!」
と、言うわけで、あっさりと皆で旅に出ることが決まった。
理由くらい聞かなくていいのかとか、こういう時は行く行かないで一悶着あるのがセオリーではないかとか、色々思うところはあったが、至極迅速に決定した。
今まで溜め込んだ薬草や鉱石、魔物素材に高品質な薬の数々、旅の資金には全く心配なかった。
さらに、食料や生活用品などの荷物類についても、狼の影があるため、取捨選択の必要も無い。
旅支度と言っても、わざわざ今からすることはほとんどなかった。
唯一の気がかりである集落のことも、完成した調合書と道具を渡して、軽くレクチャーしたら憂いは晴れる。そもそも、薬売りが現れる前は彼らだけで何とかしていたのだから、この心配も自己満足に過ぎないのだが、その方がすっきり出発できるのだから、自己満足で結構だ。
「じゃあ、集落の人達に挨拶に行こうか」
「うん」
食器の片付けを終えると、二人と一匹、集落に向けて歩き出す。
集落は、特別な結界に護られていて、魔女に許可を得ていないものは入ることが出来ない。許可というものは、魔女に挨拶に行かなければ貰えないという訳ではなく、この森に入ってからの心根や、行動を観察され、安全だと判断されると、勝手に許可される。その時勝手に脳裏にルールを刻まれるので、説明を受けずとも自ずと理解するのだ。それを破れば、よっぽどの事情があり、魔女に許された時以外は、二度と集落に入ることは許されず、場所も記憶から消されてしまう。
とは言っても、これはルールを破らせないための抑止力であり、追放さるる人間はそもそも最初から集落に入れて貰えないので、本当に追放されるものはほとんどいないらしい。それでも極稀に追放されるのは、痴情のもつれなどで人間性がねじ曲がってしまった時だ。
全く、恋だの愛だのは恐ろしい力を持っている。そういうのには、できるだけ関わり合いになりたくない。
「おう!薬売りとイケメン兄ちゃん!」
「ワフッ!」
「おー!月夜のも元気か!」
集落に入ると、厳つい顔のおっさんが気さくに声をかけてくる。
「よ。バルドさん。腰はもういいのか」
「ああ、お陰様でバッチリだ」
彼の名はバルド。少し前にぎっくり腰になったと呼ばれて治療に行ったが、もうすっかり良くなったようだ。
集落の中の人間は基本的に名前で呼びあっている。わたしはそういうのを覚えるのが非常に苦手だが、長年診察したり、カルテや処方記録を書いているうちに何とか覚えることができた。
「今日はこれから診療所か?」
「ああ。所長に用があってな」
軽く手を振って診療所へと歩く。診療所は元々この集落にあったものであり、医療に造詣の深いエルフの女性が所長をやっている。
また、エルフは、植物から紙やインクを作る術を広めてくれたため、ここの識字率は意外にも高い。エルフは木工技術にも明るく、奇しくもエルフ狩りで故郷を逐われたエルフ達のおかげでこの集落の文化レベルが大幅に上がったといえる。
さらに、この集落には鉱山が隣接し、ドワーフも住んでいるので、鉄製品やガラス製品にも困らない。
たまに、外の世界より、よっぽど生活水準が高いのではないかと思ってしまう。
まあ、外の世界で苦労したものばかりだろうから、安心して暮らせる楽園を得られたのなら良かったと思う。
「あら、薬売りさん。おはよう」
「ん、おはよう。アダルジーザ」
「海の君に月夜の君もおはよう」
「おはよう」
「ワフッ」
診療所に入ると、ちょうど所長のアダルジーザが受付に立っていた。彼女には数人の弟子がいて、医師を育てながら診療所の業務もこなすはたらきものである。若々しい見た目だが、うん百年生きているらしい。
ちなみに彼女が呼んだ海の君は訳ありの呼び名である。訳ありはその容姿から非常に女性人気が高く、女性達はその透き通る青い瞳にちなんで海の君、男性達はやっかみとからかいを込めてイケメン兄ちゃんと呼んでいる。
月夜の君というのはお察しの通り、狼の呼び名である。狼は狼で、そのもふもふと穏やかな性格から、女性と子どもに大人気であり、月夜の君と呼ばれてちやほやされている。
「今日はちょっと報告と、渡したいものがあって来たんだ。少し時間と取れるか」
「ええ。弟子たちもかなり育ってきたし、任せちゃっても大丈夫よ」
アダルジーザは若草色の目を優しげに細めると、豊かなウェーブの金髪を翻して、執務室へと案内してくれた。
執務室は落ち着いた色合いの木工家具が配置され、リラックス効果のあるハーブの鉢植えが飾られている。カーペットやタペストリーなど、センスは悪くないのに、その全てを台無しにするように、所狭しと本や書類が乱雑に積み上げられ、非常に散らかっていて窮屈な印象を受ける。
一応、応接目的で設置されているらしいティーテーブルに腰掛けると、緑茶と焼き菓子が出される。エルフの里でお茶と言うと緑茶ことを指すらしい。
お茶を一口飲んで、カバンから紙束を取り出す。
「まずはこれを」
「まあ……!薬の調合書ね」
アダルジーザは、ペラペラと書類をめくって軽く目を通すと嬉しそうに顔を上げる。
薬売りの調合する薬は、割合や薬草の処理方法など、"見抜く眼"の恩恵でベストな状態に仕上げることができる。
つまり、その詳細な調合方法が分かれば、同じ材料でも効力の高い薬を作ることができるのだ。そのため薬売りの調薬方法は、薬師や医師にとって非常に気になるものである。
「この集落で特によく使う薬の調合法を重点的にまとめている。分からないことがあったら今のうちに聞いてくれ」
「わかったわ。少し待ってて」
アダルジーザが調合書を読み終わるまで、訳ありと狼と一緒に焼き菓子を楽しむ。ハーブや茶葉を練りこんだ香りのいいパウンドケーキはさっぱりしていて、少し甘みのある緑茶によく合っている。料理好きの訳ありはもちろん、狼も菓子が気に入ったようだ。
魔物はなんでも食べられるが、特にスパイスやハーブを好むようで、それらを使った料理が今では狼の好物だ。
一年前までは、喜んで生肉を食べていたのに、今では見向きもしない。狼はもはや、訳ありに胃袋を掌握され、舌が肥えて、完全に野生を捨ててしまったのだ。
「ねえ、ここなんだけど……」
「んー?」
読み終わったアダルジーザの質問に二、三答え、都度、補足を書き付けていく。
「うん、これで大丈夫。助かるわ」
「うん、役立ててくれ」
納得したように頷いたアダルジーザは、トントンと書類を整えて脇に置くと、緑茶を一口飲んだ。
「それで、話って?」
「旅に出る」
単刀直入に告げると、アダルジーザは引きつった笑顔で固まった。数秒の沈黙の後、アダルジーザは盛大に溜息を吐く。
「いやさあ、なんとなくそうじゃないかとは思っていたけど…もう少し、こう、前置きとかないわけ?」
「その調合書が前置きだ」
「はあ、相変わらず情緒がないわね……」
アダルジーザはやれやれと呆れたように首を振る。
「今まで世話になった」
「それは寧ろこっちのセリフよ。薬売りさんのおかげで調薬の歴史が大きく前進したわ」
「おおげさだな」
「ホントのことよ!全くエルフの長い研究の歩が亀の歩に感じたわよ」
少し悔しそうに、また同時に嬉しそうに、くすくすと肩を揺らす。
アダルジーザは、わたしに調薬を教えた人物である。趣味で集めた薬草を診療所に持ち込んだのがきっかけで、調薬を教わるようになった。わたしが薬売りになったのは、彼女のおかげと言っても過言ではない。
「本当、人間の成長は早いわね」
「エルフとは寿命が違うからな」
一瞬、寂しげに瞳が揺れ、誤魔化すようにやや乱暴にわたしの頭を撫でる。アダルジーザは、わたしの目のことを知っている数少ない人物である。そして彼女は、目のことを知っても変わらず可愛がってくれた稀有な存在である。
わたしにとって彼女は、母のような姉のような存在だ。これからしばらく会えないと思うと、少しだけ寂しいと思う。
それでも、外の世界で、ここには無い新しい素材を集めたいという気持ちが勝った。だから、住み慣れ、安心できる森を出て、旅をすると決めた。
「五十年くらい外を見て回ったら、また帰ってくる。せいぜい長生きしてくれ」
「まあ!エルフの寿命を舐めちゃダメよ。まだまだ現役なんだから」
「ははっ。はいはい」
茶杯に残った緑茶をぐいっと一気に飲み干すと、立ち上がる。
「じゃあ、集落のみんなに挨拶回りに行ってくるよ」
「ええ、行ってらっしゃい」
ひらりと手を振るアダルジーザにひとつ頷いて、執務室を出ようとしたその時。
「ちょーっと、薬売りちゃん?ワタクシのことを忘れているのではなくって?」
脳内に、直接語りかけられるような不思議な美声が聞こえたかと思うと、次の瞬間には、真っ白な花が咲き乱れる、美しい泉のほとりに立っていた。
「久しぶりね。薬売りちゃん」
澄んだ泉の静かな水面に、その老婆は佇んでいた。
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