幸い(さきはひ)

白木 春織

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第四章

第九話

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 桐秋が誰かにこの話をするのは初めてだった。家族さえ知らない。

 研究を手伝ってくれている親友の下平しもひらでさえ。

 桐秋が医者になったのは、周りには父のあとを追ってと思われているだろう。

 親が親であるゆえに、ねたみややっかみもこれまで多かった。

 だが、本当の話をして幼い頃の約束などと笑われ、誰かに大切な思い出をけがされるくらいなら、断然そちらのほうがましだった。

 しかし、自分が研究を続けるために心をくだいてくれた千鶴には、うそいつわりなく話さなければならない。

 いや、聞いて欲しい、と桐秋は思った。きっと彼女はそんなことで笑ったりしないと分かっていたから。

 予想どおり、千鶴は桐秋の話に親身に聞き入り、自身のことのように涙を流した。

 あまつさえ、夢物語のような幼き日の約束を、桐秋だったら叶うと根拠もないのに言う。

 千鶴以外に、そんな確証もない言葉を言われれば、桐秋は怒りを覚えただろう。

 けれど、彼女の言葉なら信じられる。自分ではない誰かのために、本人でも諦めた望みを叶えてくれた千鶴の言葉なら。

――ああ、話してよかった。

 桜病になってから、進まない研究、自身の病気に焦る気持ちが、常に桐秋にまとわりついていた。

 弱い心の隙間から生じる少女の病を治せるだろうかという不安も。

 が、千鶴が大丈夫だと言うと、しんにできる気がしてくる。力がもらえる。

 いつも何事にも真っ向から向き合う彼女の言葉だからだろうか。

 ほんとうに千鶴には何から何まで救われている。

 今も涙を流す千鶴に、桐秋は近くにあった手ぬぐいを差し出す。

 千鶴はそれを受け取り、布に涙の粒を落とす。

 当分、慈しみの雨は止みそうにない。それに桐秋は優しい苦笑を浮かべ、足下に差し込む光にはたと天を仰ぎ見る。

 今にも雨粒が落ちてきそうだった空からは、いつのまにか陽が覗き、暑い雲の合間からさす光芒こうぼうが薄いヴェールのように折り重なって地上に降り注いでいる。

 人々からそれぞれに呼ばれるその現象はどれをとっても、いい意味をもつ。

 今の桐秋にとっても天からの恩恵おんけいに見えた。縁側にも一筋の光が分け与えられる。

 天からの祝福として夕刻の西日となり、届けられた光の線は、眩しくも柔らかに優しい二人を包んでいた。
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