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第三章
第五話
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南山家本邸の洋間の一室。
部屋の各所には舶来品と思われる彫刻や絵画が飾られ、横の壁一面には多様な言語で書かれた分厚い洋書や医学の専門書が並ぶ。
本棚の間には飾りではない暖炉もあり、春の冷える夜に薪を爆ぜさせながら煌々と、燃え盛る。
何もかもが千鶴を威圧しているかのような空間。それでも千鶴は深く頭を下げ、この部屋の主人たる男性に願い出る。
「どうか、桐秋様の研究を続けることを許可していただけませんでしょうか」
書斎の主、南山は革張りの書斎椅子に深く座り、パイプ型の煙草に口を付けている。
火をつけては煙を吸って吐き、少し置いては再びマッチで火をつけ、煙をくゆらせる。
近所の洒落たこの型の煙草を嗜む老人は、パイプ煙草は火種を消さないように、吸っていない時も定期的に空気を送り込むのだと言っていた。
ところが南山は一度吸っては、何かを考える面持ちで長く煙草から口を離す。
その間にも火種は消えてしまうため、火は何度も付け直されている。
その動作が何度か続いた後、南山は最後にことさら煙を長く吐くと、千鶴に険しい目を向け、問いかける。
「なぜ君は、桐秋の研究を続けさせたい。
桐秋の研究内容は、本人の病気である桜病そのものだ。
その危険性はわかっているね。
ここに来てもらう時にも話したが、桐秋は桜病の研究過程で病気になってしまったかもしれないんだ。
そんな研究を続けさせられるわけないだろう」
南山からの重い言葉を受け止めながらも、負けず千鶴は南山に自身の想いを伝える。
「はい、桜病が重篤な病であるということは重々承知しております。
私がこちらに来る際も、その危うさゆえに最初は父に反対されました。
ですが、私はそれにとらわれるあまり、大事なことを忘れておりました」
「大事なこと」
訝しげに南山は千鶴を見る。
「確かに、桜病は有効な治療法も確立されていない、恐ろしい病です。
だんだんと桐秋様の体を蝕んでいくでしょう。
ですが、今の桐秋様はまだ多くのことを望める体なのです。
病人は、病気にかかっている人間ですが、病気以外、普通の人間と変わりません。
普通の心で、普通の望みをもっているのです。
しかし、病を得ているばかりに、行動は制限され、自由はありません。
誰かにうつる感染症ならなおさらです。
健康な人たちは、病人が自由を奪われることを、仕方がないと言うでしょう。
病気だからと。治すためだと。
所詮は他人事です。
でもそれが万が一、自分に降りかかるとなるとどうでしょうか。
自分はまだ動けるのに、普通のものを食べることできるのに、何もかもが制限される。
少しの望みさえ叶えられない。
それはとてもはがゆく、恐ろしいことなのではないでしょうか。
また、その制限は、患者により一層、死を感じさせることにもつながるのではないでしょうか。
私を含め、今までの看護婦達はその胸中を察して、だれよりも桐秋様のお気持ちに寄り添わなければならなかったのに、そのお心を無視して行動し、桐秋様をひどく傷つけてきました」
千鶴の言葉に南山は何も言わず、次の言葉を待つ。
「だからこそ、わが身に降りかかったつもりで、あらためて自分が桐秋様に何ができるか考えました。
桐秋様に対する看護の改善はもちろん、制限はありますが、願うことをできるだけ叶えて差し上げたい。
中でも一番に望まれていることが、桜病の研究ではないかと思ったのです。
桐秋様が、桜病の研究を続けていらっしゃるのに気づいたのは、今日のことです。
しかし、あの部屋の様子から察するに、桐秋様は、桜病と診断され、自由を奪われてなお、研究を続けていらっしゃったのではないでしょうか。
この一月、桐秋様のご様子を伺って参りましたが、あのように真剣に何かに打ち込まれている姿を見たことはありません」
部屋の各所には舶来品と思われる彫刻や絵画が飾られ、横の壁一面には多様な言語で書かれた分厚い洋書や医学の専門書が並ぶ。
本棚の間には飾りではない暖炉もあり、春の冷える夜に薪を爆ぜさせながら煌々と、燃え盛る。
何もかもが千鶴を威圧しているかのような空間。それでも千鶴は深く頭を下げ、この部屋の主人たる男性に願い出る。
「どうか、桐秋様の研究を続けることを許可していただけませんでしょうか」
書斎の主、南山は革張りの書斎椅子に深く座り、パイプ型の煙草に口を付けている。
火をつけては煙を吸って吐き、少し置いては再びマッチで火をつけ、煙をくゆらせる。
近所の洒落たこの型の煙草を嗜む老人は、パイプ煙草は火種を消さないように、吸っていない時も定期的に空気を送り込むのだと言っていた。
ところが南山は一度吸っては、何かを考える面持ちで長く煙草から口を離す。
その間にも火種は消えてしまうため、火は何度も付け直されている。
その動作が何度か続いた後、南山は最後にことさら煙を長く吐くと、千鶴に険しい目を向け、問いかける。
「なぜ君は、桐秋の研究を続けさせたい。
桐秋の研究内容は、本人の病気である桜病そのものだ。
その危険性はわかっているね。
ここに来てもらう時にも話したが、桐秋は桜病の研究過程で病気になってしまったかもしれないんだ。
そんな研究を続けさせられるわけないだろう」
南山からの重い言葉を受け止めながらも、負けず千鶴は南山に自身の想いを伝える。
「はい、桜病が重篤な病であるということは重々承知しております。
私がこちらに来る際も、その危うさゆえに最初は父に反対されました。
ですが、私はそれにとらわれるあまり、大事なことを忘れておりました」
「大事なこと」
訝しげに南山は千鶴を見る。
「確かに、桜病は有効な治療法も確立されていない、恐ろしい病です。
だんだんと桐秋様の体を蝕んでいくでしょう。
ですが、今の桐秋様はまだ多くのことを望める体なのです。
病人は、病気にかかっている人間ですが、病気以外、普通の人間と変わりません。
普通の心で、普通の望みをもっているのです。
しかし、病を得ているばかりに、行動は制限され、自由はありません。
誰かにうつる感染症ならなおさらです。
健康な人たちは、病人が自由を奪われることを、仕方がないと言うでしょう。
病気だからと。治すためだと。
所詮は他人事です。
でもそれが万が一、自分に降りかかるとなるとどうでしょうか。
自分はまだ動けるのに、普通のものを食べることできるのに、何もかもが制限される。
少しの望みさえ叶えられない。
それはとてもはがゆく、恐ろしいことなのではないでしょうか。
また、その制限は、患者により一層、死を感じさせることにもつながるのではないでしょうか。
私を含め、今までの看護婦達はその胸中を察して、だれよりも桐秋様のお気持ちに寄り添わなければならなかったのに、そのお心を無視して行動し、桐秋様をひどく傷つけてきました」
千鶴の言葉に南山は何も言わず、次の言葉を待つ。
「だからこそ、わが身に降りかかったつもりで、あらためて自分が桐秋様に何ができるか考えました。
桐秋様に対する看護の改善はもちろん、制限はありますが、願うことをできるだけ叶えて差し上げたい。
中でも一番に望まれていることが、桜病の研究ではないかと思ったのです。
桐秋様が、桜病の研究を続けていらっしゃるのに気づいたのは、今日のことです。
しかし、あの部屋の様子から察するに、桐秋様は、桜病と診断され、自由を奪われてなお、研究を続けていらっしゃったのではないでしょうか。
この一月、桐秋様のご様子を伺って参りましたが、あのように真剣に何かに打ち込まれている姿を見たことはありません」
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