幸い(さきはひ)

白木 春織

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第一章

第五話

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 千鶴は自室に戻らず、診察室で父が行っていた診察具の消毒の続きを行う。

 急ぎの仕事ではないが、今は何か手を動かしておきたかった。

 作業に没頭しながらも頭をよぎるのは、先ほど父が見せた顔。

 いつも優しく、笑顔を絶やさない父のつらそうな表情。

 その顔の意味を考えながら、千鶴が作業を続けていると、玄関先で音がした。

 土を強く踏みしめたような音。

 窓から玄関の方を見ると、南山の車が表につけられたところだった。

 今しがたの音は車の停止音だろう。

――そういえば・・・

 父の様子があからさまに変わったのは、南山の名前を聞いてから。

 千鶴は診察室を飛び出し、玄関へと向かった。

 運転手が開けたドアから、今にも車に乗り込もうとする南山を、千鶴は遠くから声を張り上げ、呼び止める。

「南山様」

 南山はその声に振り返る。

 千鶴の姿を見とがめると、車に乗り込むのをやめ、駆けてくる千鶴を待っていてくれた。

 千鶴が南山の元につくと、南山は千鶴の息が整うのを待って、どうしたのか、と尋ねる。

「お忙しいところをお止めして申し訳ございません。

いきなりで大変恐れ入りますが、父と何の話をなさったのでしょうか」
 
 予想だにしなかった千鶴の言葉に、南山は驚いた表情を浮かべる。

 それにもかまわず、千鶴は矢継ぎ早に告げる。

「失礼を承知で申し上げます。

いつも柔和にゅうわな表情を浮かべております父が、南山様がこちらにいらしたときから、とても苦しそうな顔をしております。

一体、南山様はどういったご用件で、本日こちらをお尋ねになられたのでしょうか」

 南山は千鶴の言葉に少し眉間にしわを寄せながら、難しい顔をする。

 怒っているのではない、何かを考えているような表情だ。

 そのまま下を向き、黙る南山に千鶴はなおも続ける。

「父と南山様の個人的な事情で、娘の私には関係のない話かもしれません。

それでも私は、父があのような表情を浮かべていることが心配なのです」

 父を想う娘のまっすぐな言葉。

 南山も思わず声を漏らす。

「いや、君に関係ないことではないが」

「では、なおのこと教えていただけませんか」

 迫る千鶴に、南山が顔を上げると、千鶴の真剣なまなざしと交わる。

 一切にごりのない透明なひとみは、口をつぐむことを許さないとばかりに訴えかけていた。

 大の大人である南山もたじろぎそうなほど強い目だ。

 それに元来の目的で言えば、南山は千鶴に関わる話で西野にお願いに来た。

 本人に話さない理由はない。

 ただ、父親である西野に断られたので、持ち帰ろうと思っていたところだった。

 南山は西野に対する後ろめたい気持ちを抱えながらも、千鶴のちょくと己を見つめるまなこには逆らえず、ここを訪れた用向きを語り始めた。
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