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第一章

第十八話 『逃走行はじめます』

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 薄暗い隠し階段は、踏み込むたびにほこりが舞い上がり、目や口に入るばかりか視界も阻害していた。
 なるべく早く、しかし足音が響かないよう、ほこりが舞い上がらないよう降りるのは至難の業だ。
 それでも、一刻も早くこの西棟から脱出しなければ。
 本館、あるいは庭に出さえすれば、使用人たちが騒ぎに気づいてくれるかもしれない。ただでさえ雨で音が届きにくいのだ。ともかく西棟から出なければ話にならない。
 階段の一番下に着いた。目の前には石壁。ゆっくりと押し開ければ、小さな部屋が現れた。

「エセル様、ここが控え室ですか?」

 袖で口を押さえたまま、エセル様が小さく頷く。
 上の階と同じ大きさの石が、壁の下部に隠されていた。そっと押せば出入口が静かに閉まる。そこにはもう石壁しかなかった。よく観察しなければ、隠し階段があるとわからないだろう。
 一度エセル様を下ろし、髪や服についたほこりを軽く落としてさしあげる。それから部屋の扉へと近づいた。
 艶やかな木の扉に耳を当てる。近くに人の気配はない。遠くから聞こえる音から察するに、男たちはまだ上階にいるようだ。
 音を立てないよう扉を開け、慎重に周囲を伺う。人影はない。頭の中の平面図を確認する。部屋を出て右に向かえば、ホールを囲む廊下へ出るはずだ。
 一度扉を閉め、エセル様の前に膝をついた。

「エセル様、今から本館へ逃げます。この棟はすでにリンドールの手の内です。追い付かれないうちに、少しでも早く脱出しなければなりません」
「…………」

 光が戻り始めた瞳を瞬かせ、エセル様は小さく頷いた。細い両肩に手を置く。どうやら身体は冷えていないようだ。

「もし、わたしになにかあったとしても、エセル様はそのまま本館へ向かってください。ダストンさんかメリアーノさんならば助けてくれるはずです」
「……他の侍女や、使用人たちは?」
「間違いなく助けてくれるのは、あのおふたりです。それ以外の方々は、まだなんとも言えません」
「……わかったわ。ダストンと、メリアーノね」
「ええ」

 エセル様は一瞬だけ戸惑ったが、深く頷いてくれた。わたしの答えに含まれたものを、すぐに理解したのだろう。幼くとも聡明な令嬢だ。
 家令のダストンさんと副侍女長のメリアーノさんは、今まで見てきた様子からしても、後ろ暗い裏があるとは思えない。少なくともリンドールとは繋がっていないだろう。だからエセル様の助けには応じてくれるはずだ。この判断が間違っていたなら、自分は相当人を見る目がないのだと諦めるしかない。
 使用人の誰かがリンドールに買収されているのは間違いないのだ。トラシスさんとロナは違うだろうが、西棟から離れた場所で仕事をしているため、探している間にリンドールたちに見つかる危険性がある。だからといって、最初に出会った者に助けを求めても、味方かどうかわからない。逆に窮地に追いやられるかもしれないのだ。
 伯爵家内に味方が少ないから気をつけて、とリヴィ様がおっしゃっていたとおりになってしまったのが情けない。
 エセル様は、わたしを見上げて僅かに眉を寄せた。

「あなたは、その間、どうするの」
「わたしのことは構わず、エセル様は本館へ行き、おふたりに助けを求めることだけお考えください」
「……なぜ、そこまで、してくれるの」

 青い瞳が頼りなげに揺れる。それだけで、今まで助け出してくれる人がいなかったのだと理解し、胸が痛んだ。小さな肩をできるだけ優しく撫でる。

「あまり深くは考えていません。ただ、幼い女の子が苦しんでいる姿を、見ていられないだけなのです」
「それだけ、なの」
「でも、充分な理由でしょう?」

 思わず笑みが漏れた。エセル様がきょとんとした表情になる。
 我ながら単純な理由だと思う。けれど、この状況で打算など考えている余裕はない。エセル様も自分も助かる術を選択していくしかないのだ。

「どうぞお手を。足音や声も小さくなさってくださいね」

 エセル様が小さく細い手を差し出しながら頷く。
 僅かに冷たいその手を握り締め、わたしは静かに廊下へと歩み出た。



 腕輪から魔力を補給しつつごく僅かな風で探索魔法を周囲に広げる。音を立てず、しかしなるべく足を早めて、わたしたちは本館へ続く東扉へと向かった。
 随分多くの魔力を吸ったと感じたのに、腕輪にはまだ空きがある。しかも、本来ならば己の身体を通さなければならないが、直接腕輪に吸わせることができたので身体には負担がなかった。本当に御師様はなんてものを造られたのだろう。研究費用も無限ではないというのに。
 だが今は、それに助けられている。自分の魔力だけでは到底ここまで来ることができなかった。御師様に助けていただいてばかり、未熟な自分に腹が立つ。
 悔いるのはここから脱出してから、と空いた方の拳を握り締める。
 壁から半円を覗かせる豪奢な柱に身を隠しながら、どうにか東扉まで近づいた。ダストンさんに案内されたときも、ここから入ってきたのだ。
 エセル様の手を引き、飴色の古い扉へ走り寄る。金属の取手を掴み、思い切り開こうとするが、びくともしなかった。

「開かない……!?」

 扉は押しても引いても、解除魔法を使っても開かなかった。焦りで項から汗が滲む。
 男たちが封印しているのだろう。詳しく解析すれば破ることもできるだろうが、今はそんな時間などない。
 西棟一階の出入口は四ヶ所ある。南の大扉はこの棟の表玄関に当たり、客を招くときに使用するため他の出入口よりも大きい。そしてその分、上からも周囲からも見つかりやすい。
 東扉のちょうど反対側、ホールを囲む西側の廊下にも扉がある。こちらは荷物を運び入れたり、お付きの従僕が出入りするときに使用するものだ。
 南北を長辺とした長方形の一階、西扉への最短距離はホールを突き抜けることだが、広いホールの中では表玄関同様目立ってしまうだろう。
 北側の使用人用出入口を目指し控え室に戻ることも考えたが、階段に近いため降りてくる男たちと鉢合わせする可能性が高い。

 どうすれば、どこから逃げればいい?
 エセル様だけでも無事に逃がせられる場所はどこ?

 ふと視線を感じ顔を向ければ、心配気に表情を曇らせるエセル様と目があった。不安にさせてはいけない。なんとしてもお守りしなければ。
 わたしは覚悟を決め、ホールへ続く扉に向かった。

「エセル様、これから周囲に結界を張り、わたしたちの音と気配を散らします。ですが相手も魔法士、声や音を出せば気づかれてしまうかもしれません。なにがあっても、声は出しませんよう」
「……わかったわ」
「お願いいたします。わたしが必ずお守りしますから」

 扉の前でエセル様の小さな身体を引き寄せる。震えているのはエセル様か、それともわたし自身か。
 罠かもしれない。こちらを選ぶのは悪手かもしれない。他に安全な経路があるかもしれない。
 だが、なにがあってもエセル様を、まだ幼く、いたいけな少女をここから脱出させなければ。
 覚悟を決め、ゆっくりと取っ手を引けば、扉は静かに動いた。

 案の定、鍵がかかっていない。周囲に結界を張り、極限まで小さくした探索魔法をホール内へ流す。人の気配はないようだ。
 僅かに開けた隙間から身体を滑り込ませる。できるだけエセル様をお守りするよう結界は球体にし、床下まで防護できるようにした。
 何百人もの招待客が収容できるホール内は、何故か湿気が溜まっていた。しばらく風を通していなかったからだろうか。肌と服の間に、不快な空気がまとわりつくのがわかる。
 気配や音を魔法で散らそうとするが、湿気のせいで風だけでは空気を飛ばせない。
 まるで水中を泳いでいるような状態では、こちらの動きが丸わかりだ。周囲の水分をなるべく動かさないよう、その上で結界も張り、空気を散らし、探索魔法を流していく。
 わたしは他の魔法士のように、得意とする属性がほとんどない。代わりに、様々な魔法をある程度までは扱うことができる。前世で言うところの器用貧乏だ。だがそのおかげで、こうして多種の魔法を同時に発動させることが可能だった。
 しかしそれも魔力があるうちの話だ。長引けば長引くだけ不利になる。できるなら、腕輪の魔力は温存しておきたい。
 息をひそめ、足音を立てないよう進むわたしたちの前には闇ばかりが広がっている。高窓から僅かに差し込むはずの光は、日没と雨によってほとんどなかった。
 エセル様は小さく震えながらも、片手で口を覆い、もう片方でわたしのスカートを握り締めている。いじらしさに胸が痛んだ。

 ここをとおり抜けなければ。早く。一刻も早く。

 逸る気持ちを抑え、必死にホールを突き抜けようとしていたそのとき。


「よぉ、お嬢さん方。残念だなぁ、追いかけっこはここまでだ」


 卑しさを隠そうともしない声が大きく響いた。
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