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第三話
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「んじゃ俺はハデス様に謁見してくるねー」
「わたしはヘカテー様にお会いできるよう、護衛のものたちを説得してみます」
先ほどよりも真面目な表情で頷き合い、二柱は静かに部屋を出た。
計略の神との密談では、決定的な作戦を捻り出すことができなかった。なんせ真実を知った上で味方に付いてくれそうな神々が圧倒的に少ないのだ。
冥界の神々はハデスの部下であるから、こちらに引き込むことは難しいだろう。戦神がいてくれたら心強いが、彼らの助力を得ればゼウスに筒抜けになる可能性がある。オリュンポス十二神で話が分かりそうなのは炉の女神ヘスティアくらいだろうが、彼の女神は優しく穏やかで、策略などには向いていない。
そこで二柱は、魔術の女神ヘカテーに目を付けた。
ヘカテーはハデスの部下であるが、地母神でもあるためデメテルと知己だ。コレーは地上で何度も会ったことがある。ヘルメスが冥府で取次を頼むのも彼の女神だ。うまく頼めば、秘密を守ったまま話を聞いてくれるだろう。
乾いた喉をこくりと鳴らし、コレーは扉から一定の距離を取っている護衛のものたちへゆっくりと近づいていった。
ハデスの右腕とも称されるヘカテーの部屋は、地下神殿の一角に設けられていた。
高い天井。広々とした空間に規則的に配されているエンタシスの柱。その奥、短い階段の上に美しい女神が座していた。
静かに微笑む顔は整っているが、冷たく近寄りがたい雰囲気を醸し出している。長い睫毛が乗った伏し目がちの瞳。結った黒髪は緩く巻かれ、傍で焚かれている松明の光が輝きをくわえている。
コレーは階段の下へ跪き、恭しく礼を捧げた。
「お久しぶりでございます、ヘカテー様」
「コレーか、よう参った。変わらず愛らしい姿よの」
「お目通りが叶い光栄にございます。月と魔術の女神におかれましても、ますますの美しさ、そしてご健勝なによりです」
「堅苦しい挨拶などよい。時間がないのであろう? 吾の私室へ行こうか。ついて参れ」
そう言ってヘカテーがすっと立ち上がった。背筋を伸ばした威厳のある姿は、さすがハデスの元で任をこなす女神だ。
お付きのものたちに下がるよう言いつけ、ヘカテーは私室へと入っていった。コレーはその後ろをしずしずとついていく。
松明の穏やかな光で照らされた室内は、冥界の中というよりも、安寧の夜のようだとコレーは思った。ヘカテーの象徴でもある松明の光がそう感じさせるのかもしれない。
コレーに椅子をすすめ、ヘカテーもまた己の椅子へゆったりと腰を下ろした。背凭れに肘を乗せ、穏やかな表情で年下の神を見つめる。
「冥界神でもある吾に助力を請うとは面白き子よ。ヘルメスに入れ知恵でもされたかえ?」
「確かにヘルメス様に知恵をお貸しいただきましたが、ヘカテー様にお会いしたいと願ったのはわたしです」
唇に弧を描きながらヘカテーがゆるりと首を傾げる。コレーは目の前の女神をしっかりと見据え、声が震えないよう手を握り締めた。
しばし二柱が見つめ合う。コレーにとって長い長い時間に感じた。
「その真っ直ぐで清き眼差し、デメテルによく似ておる」
懐かしげに目許を和らげたヘカテーが、初めて柔らかな笑みを見せた。コレーが地上で見たことがある表情だ。知らず小さな息を吐く。
「事情は把握しておる。吾も冥界の一柱なれば、冥府王への伝令はこの耳に入るのでな」
「であるのならば、率直に申し上げます。わたしが地上へ戻ることができるよう、ヘカテー様の力をお借りしたいのです」
コレーはそう言い切り、己の素性を隠すことなく話した。
友の娘と思っていた子が息子であった事実に、さすがのヘカテーも目を瞠ったが、様々な事情をすぐに汲み取ってくれた。全能神の『ああいった』話は大抵のものたちには筒抜けなのだ。
聞き終えたヘカテーは、椅子から立ち上がり、コレーへと近寄ってきた。細く美しい指先が、コレーの顎を静かに上げる。
「コレー、ひとつ確認だ。そなたは心より、地上へ戻りたいと思っておるのだな?」
「はい。このまま母が役目を放棄し続ければ、地上の、ひいてはすべての界の危機となるでしょう」
「捧げられる祈りと供物こそが神々の糧。吾らもただではすまないであろう」
「ええ。それに、男神では后にはなれません。ハデス様には真実相応しい女神がいらっしゃるはずです」
真面目に答えたコレーに、ヘカテーは口許に弧を描きながら喉の奥で笑った。
「冥界の王はそのような些末事、気になさらぬと思うが」
「ヘカテー様までなんてことをおっしゃるのですか!」
「彼の伝令神にも同じことを言われたのか? 愉快よの」
コレーが目を瞠ると、耐えきれぬとばかりにヘカテーが笑い声を上げた。しなやかな指先がコレーの頬を撫で、ゆっくりと離れていく。
「よかろう。吾がデメテルの元へ赴き、そなたが冥界に居ることを知らせてこよう」
「ありがとうございます、ヘカテー様!」
ぱっと表情を明るくしたコレーは、ヘカテーに心からの礼を捧げた。しかしはたと思い至り、手で口を覆う。
「ですが、ヘカテー様はハデス様直属の部下。お立場が危うくなることはございませんでしょうか……?」
「なに、馴染みの友へ会いに行くだけよ。そこで『うっかり』、冥府で友の子を見たと言ってしまっても仕方なかろう」
そう言って振り返ったヘカテーは、妖しげな微笑みを一瞬だけ浮かべた。だがすぐに親しげな顔に戻り、コレーの肩に手をかける。
「それよりも、不自由はないか? 少し痩せたのではないかえ?」
「不自由など……。ハデス様はよくしてくださっております。それにわたしたちは不老不死、飲まず食わずでも生きていけます」
女神の気遣いに心打たれ、コレーは穏やかに首を横に振った。
冥界の食物を口にすれば、その瞬間から冥界の住人になる。それはいかなる神でも覆すことのできない掟だ。
部屋には様々な果物や酒が差し入れられたが、コレーはそのことを知っていたため、今までなにも口にしてこなかった。
ただでさえややこしい事態になっているのだ。これ以上他の神々の手を煩わせることはしたくない。
「相変わらず優しい子よな」
「いえ、そんなことは……」
「だからこそ案じてしまうのだ。優しすぎるが故に、己を殺してはいないかと」
松明の女神の言葉に、コレーは一瞬息を飲んだ。その灯火は、閉じ込めたはずの己の心を照らし出しているのではないか。
「清き君、友の愛し子よ。吾はそなたたちの幸せを願っておるのだ」
コレーの動揺を知ってか知らずか、ヘカテーは目を伏せ、祈るような声音で囁いた。
「わたしはヘカテー様にお会いできるよう、護衛のものたちを説得してみます」
先ほどよりも真面目な表情で頷き合い、二柱は静かに部屋を出た。
計略の神との密談では、決定的な作戦を捻り出すことができなかった。なんせ真実を知った上で味方に付いてくれそうな神々が圧倒的に少ないのだ。
冥界の神々はハデスの部下であるから、こちらに引き込むことは難しいだろう。戦神がいてくれたら心強いが、彼らの助力を得ればゼウスに筒抜けになる可能性がある。オリュンポス十二神で話が分かりそうなのは炉の女神ヘスティアくらいだろうが、彼の女神は優しく穏やかで、策略などには向いていない。
そこで二柱は、魔術の女神ヘカテーに目を付けた。
ヘカテーはハデスの部下であるが、地母神でもあるためデメテルと知己だ。コレーは地上で何度も会ったことがある。ヘルメスが冥府で取次を頼むのも彼の女神だ。うまく頼めば、秘密を守ったまま話を聞いてくれるだろう。
乾いた喉をこくりと鳴らし、コレーは扉から一定の距離を取っている護衛のものたちへゆっくりと近づいていった。
ハデスの右腕とも称されるヘカテーの部屋は、地下神殿の一角に設けられていた。
高い天井。広々とした空間に規則的に配されているエンタシスの柱。その奥、短い階段の上に美しい女神が座していた。
静かに微笑む顔は整っているが、冷たく近寄りがたい雰囲気を醸し出している。長い睫毛が乗った伏し目がちの瞳。結った黒髪は緩く巻かれ、傍で焚かれている松明の光が輝きをくわえている。
コレーは階段の下へ跪き、恭しく礼を捧げた。
「お久しぶりでございます、ヘカテー様」
「コレーか、よう参った。変わらず愛らしい姿よの」
「お目通りが叶い光栄にございます。月と魔術の女神におかれましても、ますますの美しさ、そしてご健勝なによりです」
「堅苦しい挨拶などよい。時間がないのであろう? 吾の私室へ行こうか。ついて参れ」
そう言ってヘカテーがすっと立ち上がった。背筋を伸ばした威厳のある姿は、さすがハデスの元で任をこなす女神だ。
お付きのものたちに下がるよう言いつけ、ヘカテーは私室へと入っていった。コレーはその後ろをしずしずとついていく。
松明の穏やかな光で照らされた室内は、冥界の中というよりも、安寧の夜のようだとコレーは思った。ヘカテーの象徴でもある松明の光がそう感じさせるのかもしれない。
コレーに椅子をすすめ、ヘカテーもまた己の椅子へゆったりと腰を下ろした。背凭れに肘を乗せ、穏やかな表情で年下の神を見つめる。
「冥界神でもある吾に助力を請うとは面白き子よ。ヘルメスに入れ知恵でもされたかえ?」
「確かにヘルメス様に知恵をお貸しいただきましたが、ヘカテー様にお会いしたいと願ったのはわたしです」
唇に弧を描きながらヘカテーがゆるりと首を傾げる。コレーは目の前の女神をしっかりと見据え、声が震えないよう手を握り締めた。
しばし二柱が見つめ合う。コレーにとって長い長い時間に感じた。
「その真っ直ぐで清き眼差し、デメテルによく似ておる」
懐かしげに目許を和らげたヘカテーが、初めて柔らかな笑みを見せた。コレーが地上で見たことがある表情だ。知らず小さな息を吐く。
「事情は把握しておる。吾も冥界の一柱なれば、冥府王への伝令はこの耳に入るのでな」
「であるのならば、率直に申し上げます。わたしが地上へ戻ることができるよう、ヘカテー様の力をお借りしたいのです」
コレーはそう言い切り、己の素性を隠すことなく話した。
友の娘と思っていた子が息子であった事実に、さすがのヘカテーも目を瞠ったが、様々な事情をすぐに汲み取ってくれた。全能神の『ああいった』話は大抵のものたちには筒抜けなのだ。
聞き終えたヘカテーは、椅子から立ち上がり、コレーへと近寄ってきた。細く美しい指先が、コレーの顎を静かに上げる。
「コレー、ひとつ確認だ。そなたは心より、地上へ戻りたいと思っておるのだな?」
「はい。このまま母が役目を放棄し続ければ、地上の、ひいてはすべての界の危機となるでしょう」
「捧げられる祈りと供物こそが神々の糧。吾らもただではすまないであろう」
「ええ。それに、男神では后にはなれません。ハデス様には真実相応しい女神がいらっしゃるはずです」
真面目に答えたコレーに、ヘカテーは口許に弧を描きながら喉の奥で笑った。
「冥界の王はそのような些末事、気になさらぬと思うが」
「ヘカテー様までなんてことをおっしゃるのですか!」
「彼の伝令神にも同じことを言われたのか? 愉快よの」
コレーが目を瞠ると、耐えきれぬとばかりにヘカテーが笑い声を上げた。しなやかな指先がコレーの頬を撫で、ゆっくりと離れていく。
「よかろう。吾がデメテルの元へ赴き、そなたが冥界に居ることを知らせてこよう」
「ありがとうございます、ヘカテー様!」
ぱっと表情を明るくしたコレーは、ヘカテーに心からの礼を捧げた。しかしはたと思い至り、手で口を覆う。
「ですが、ヘカテー様はハデス様直属の部下。お立場が危うくなることはございませんでしょうか……?」
「なに、馴染みの友へ会いに行くだけよ。そこで『うっかり』、冥府で友の子を見たと言ってしまっても仕方なかろう」
そう言って振り返ったヘカテーは、妖しげな微笑みを一瞬だけ浮かべた。だがすぐに親しげな顔に戻り、コレーの肩に手をかける。
「それよりも、不自由はないか? 少し痩せたのではないかえ?」
「不自由など……。ハデス様はよくしてくださっております。それにわたしたちは不老不死、飲まず食わずでも生きていけます」
女神の気遣いに心打たれ、コレーは穏やかに首を横に振った。
冥界の食物を口にすれば、その瞬間から冥界の住人になる。それはいかなる神でも覆すことのできない掟だ。
部屋には様々な果物や酒が差し入れられたが、コレーはそのことを知っていたため、今までなにも口にしてこなかった。
ただでさえややこしい事態になっているのだ。これ以上他の神々の手を煩わせることはしたくない。
「相変わらず優しい子よな」
「いえ、そんなことは……」
「だからこそ案じてしまうのだ。優しすぎるが故に、己を殺してはいないかと」
松明の女神の言葉に、コレーは一瞬息を飲んだ。その灯火は、閉じ込めたはずの己の心を照らし出しているのではないか。
「清き君、友の愛し子よ。吾はそなたたちの幸せを願っておるのだ」
コレーの動揺を知ってか知らずか、ヘカテーは目を伏せ、祈るような声音で囁いた。
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