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七、
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「幸せオーラ全開って感じでしたねぇ」
頬を赤く染めた滝辰の茶化した声が、人気のない夜道に響いた。隣を歩いている康辰が「緩み切った顔しやがってなぁ」と言うと、弟は「原型留めてなかったよねー」と呆れた顔をする。
「そうやっかむな。俺がいくら幸せそうだからって……」
本日の主役である臣辰が誇らしげな顔で弟たちを見やると、滝辰は「うっわ、うっぜぇ」と心底憎らしげな声を出した。康辰も同意する。
「彼女、すげえ可愛いじゃねえか。お前のどこがそんなに良いんだよ」
康辰が文句をつけても、上機嫌な臣辰は「顔じゃないか?」と浮かれポンチここに極まれりろいった調子で返してくるばかりだ。蹴り飛ばしてやりたいと思ったが、今日ぐらいは許してやるかと思いとどまる。
臣辰の彼女と一家の顔合わせは、何の問題もなく進んだ。
久しく同年代の女性と会話をしていなかった康辰は、緊張と恐怖のあまりまともに会話をすることも出来ず、ただグビグビと酒を飲み、母の手料理を口に詰め込むばかりであった。それは弟も同じようで、淡々と二人で飲み食いをしながら
「そういえばお前、狙ってる女がいたんじゃないの」
「は? 何で康辰がそれ知ってんの」
「お前わかりやすすぎんだよ、携帯見ながらニヤニヤしてたじゃねえか。で、どうなの」
「……告って、振られた」
「うわー、かわいそ」
といった会話を繰り広げていたところ、母に「あんたたちをもてなすための料理じゃないんだからね」ともっともなお叱りを受けて恥をかいた。彼女はそんなやり取りを見て可笑しそうに笑っていて、康辰は、可愛らしい人だなあと思い、目の前で酒をあおる臣辰のことを少し睨んだりした。
彼女は、康辰たちの前では奥光の話題を出さないように気遣っている様子だった。だが、ふと席を離れて台所に立っている母と何やら言葉を交わし、小さく頭を下げているのを康辰は見た。母は笑いながらその肩に手を添えて、彼女を励ましているように見えた。それはきっと、奥光の話をしているに違いなかった。
やがてどんちゃん騒ぎが終わる頃には、すっかり夜も更けていた。臣辰が彼女を送っていくと言い、そのタイミングで康辰も家を出ることにする。この機を逃すと泊まっていけと言われそうだったし、言われたが最後、今の自分は誘惑に負けてしまうのではないかという不安もあった。
ついでに滝辰もついて行くと言い、一組のカップルとおまけ二人は揃って家を出る。両親も玄関外まで見送りに来て、義父は「ちゃんとお嬢さんをご自宅まで送り届けるんだぞ」と大袈裟なことを言った。母は、ぺこぺこと頭を下げて礼を言う彼女に「また、いつでもいらっしゃいね」と優しい声をかけ、それから康辰に向き直り、打って変わって「あんたも、いつでも帰ってきなさい」と低い声で言った。
康辰は、「はいはい」と何でもないように返事をして、奥光が待つ家へと歩き出す。
奥光は、祝いの場に姿を見せなかった。今朝、「皆で楽しそうに食ったり飲んだりすんだろ? ムカつくから行かね」と言って布団から出てこなかったのだ。それが半分は本心で、残りの半分は康辰への気遣いだということは、容易にわかった。康辰は後ろめたさを感じつつもその優しさに甘え、彼を置いて家を出たのだ。
「っていうか、マジで送ってくんなくていいよ。女こどもじゃあるまいし」
彼女を家まで送り届けた後もついてくる兄弟に、ふらつきながら夜道を歩く康辰がそう切り出すと、同じく足元がおぼつかない様子の臣辰と滝辰が口々に言う。
「お前はまだ頼りないからな」
「ていうかコンビニ行きたいだけだし。別に兄貴を送るために来たわけじゃないし。自意識過剰~」
「あー、はいはい。そうですか」
コンビニなんて、もっと家から近い所にいくらでもある。康辰はこそばゆさを誤魔化そうと、白い息を吐き出した。ここのところ冷え込んでいたが、今日は寒さがゆるんでいるように思えた。
黙々と足を進めていると、滝辰が「あ」と何かを思い出したように声をあげる。
「僕、なんとなくだけど進路決めたんだ」
「え? もうそんな時期か……。進学?」
「うん。ちょっと今の成績じゃ厳しいかもしれないから、予備校通わせてもらうことにしたよ。今から気が重いんだよなぁ」
「へぇ……。じゃあ、受かったら家出んの?」
「いや、キャンパスいくつかあるけど、全部家から通える範囲」
滝辰が大学名と希望の学部を述べるが、康辰の聞いたことのない言葉が沢山出てきたため、知ったかぶりをして受け流した。
「あれ、でもお前って、一人暮らししたいとか言ってなかったっけ」
以前、親の脛をかじりにかじっていた奥光と康辰を前に、四男が「僕は絶対に真っ先にこの家を出て、一人でちゃんと生活してみせる」と意気込んでいたことを思い出す。しかし
「そう思ってたんだけど、やっぱ母さんも父さんも元気ないからね~。心配だし、僕は残るよ」
滝辰はマフラーに顔を埋めて、視線を足元に向ける。康辰は、早々に家から逃げた自分の罪を突きつけられたようで、途端に胸が重くなった。何か言葉を紡ごうとすると、「あ、違うよ。別にそれだけじゃないから」と滝辰が続ける。
「シンプルに、バイトと勉強両立するのがマジで無理って思ったの。かと言って母さんたちに仕送りしてもらうのとかダサいし、家から通えば学費は全部出してくれるっていうからさ。ウィンウィンな関係って感じだよね」
折角広くなった家をすぐに出ちゃうの、もったいないし。滝辰はふふんと楽しそうに鼻をならした。康辰が黙っていると、臣辰が口を開く。
「家には滝辰がいてくれるし、俺は独り立ちするし、だから……康辰も今の生活を続けても、家に帰ってきたとしても、どちらでもいい、ってことだ」
次男は、言葉を選びつつそう言った。寒さで鼻の先が赤くなっている。
「お前だけが気負いすぎることはないよ。だから、いつでも帰って来るといいさ。母さんだって、お前を一番に心配してるんだ、多分」
それに、奥光だってきっと、お前が無理をすることは望んでいない。彼は静かに言って、それから口元を緩ませた。康辰は、まだ家を出る前に彼にかけられた言葉を思い出していた。
臣辰は、いつだって優しい。大抵、相手が欲しい言葉をくれるのだ。その気遣いが今の康辰には毒のようにも思えて、息を飲む。
康辰は目を逸らして「うん、大丈夫だよ」と笑ったが、上手く笑えている気はしなかった。
今まではずっと一緒だった兄弟らも、当然だが、これから先は違う道を選び始めるのだろう。就職や進学をして、恋愛をして、果てには結婚をして。いつかは子供を産んで、家族を作るのかもしれない。
もう、子供のままではいられない。ずっとあの頃のままではいられないという事実が、奥光を失うことによってより鮮明になった。きっとそれは兄弟たちも一緒で、二人はそれを受け入れて、変わっていくのだ。康辰と、奥光を置いて。
康辰が目を背け、殺し続けていた考えが、逆流したみたいに頭の中に広がっていく。これからも、自分以外には存在を認識されない兄と触れ合うことすらできないまま、あの部屋で二人きり、ただ老いていくのだろうか。温度も感触も味覚も、娯楽すらも取り上げられ、康辰しか頼りのなくなった彼に、延々とこの生活を強要し続けるのだろうか。それは、本当に彼のためを思っての行動だっただろうか。ただの、自分の我が儘ではないのか。
このところ、康辰はずっと考えていた。自分の選択は、果たして正しかったのか。その答えは、とっくに出ている気がした。
玄関の前で、康辰はかぶりを振る。恐ろしい考えを脳内から追い出して、ゆっくり息を吸って吐いて、ドアを開けた。電気は止まったままなので当然室内は暗く、月の明かりだけを頼りに歩く。いよいよ蝋燭を買った方がいいかもしれないと考えながら上着を脱いでいると、闇に慣れた目が、キッチンの前で丸くなっている奥光を捉えた。
「奥光……?」
彼は、またしても床の上で寝息を立てていた。何度布団で寝ろと言っても、どこで寝ても同じだからとそこかしこで寝てしまうのだ。
今日一日ずっと家にいたのだろうか。しかし、家を出たときは布団で寝ていたのに、何故わざわざこんな所まで転がって来たのだろうか。康辰は静かに近づいて、奥光に声をかける。
「ねぇ、布団で寝なよ」
「んぁ、やすたつ……」
奥光はかったるそうに目を開け、康辰の顔を見上げた。真っ黒い瞳が、月の光を反射させてうっすらと光っている。まぶたを重たそうに持ち上げている奥光は、安心したように笑った。
「帰ってこないかと思った」
「……なんで。帰ってくるでしょ、そりゃ」
「康辰」
彼は寝ぼけているのか、康辰の方に手を伸ばした。康辰はその手に応えようとするが、当然、虚しくも奥光の手のひらを貫通しただけだった。彼は我に返ったように手を下ろして、取り繕うように無邪気な笑顔を浮かべる。
「どうだった、楽しかった? 臣辰たち、どんな感じだった?」
康辰は、今日の宴を一から十まで話して聞かせようと思っていた。臣辰と彼女は、中学生の頃は仲が悪かったこと。臣辰の告白の言葉がとてつもなく恥ずかしいものだったこと。彼らの話を聞いていたはずが、いつのまにか義父と母の馴れ初めを聞かされたこと。義父も母も、彼女をえらく可愛がっていたこと。多分二人はいずれ結婚するであろうこと。
しかしいざ話そうとすると、康辰の喉は言葉をつまらせた。奥光はきょとんとした顔で「康辰?」と名を呼び、上体を起こして康辰の顔を覗き込む。
その間、康辰はずっと、彼の下ろされた手のひらを見つめていた。だが、やがて手のひらの輪郭がぼやけはじめて、康辰の頬を温かいものが伝った。それは康辰の手の甲や床にぽたぽたと落ちて、じわりと滲む。止めようと思えば思うほど、それは目からこぼれ落ちる。
「どうした?」
奥光の声は穏やかで、動揺している様子はない。康辰は漏れ出そうになる嗚咽を必死に飲み込んで、「なんでもない」とつっかえながら答えた。我ながら間抜けな返しだと思った。それを聞いた奥光が、眉を下げて笑う。
「お前って、ほんとに嘘が下手な」
彼は康辰の頬に手を添える。涙が流れるたびに頬に広がる熱が奥光の体温のように感じられ、触れられているのだと錯覚しそうだった。
「康辰が泣いてるとこ、久々に見た」
「……泣いてない」
「いや、無理があるって」
奥光はけらけらと笑って、座ったまま後ずさる。そして、キッチンのシンク下の扉に背を預けて笑顔のまま言った。
「ねぇ、康辰。また料理してよ」
康辰は、兄が何をしようとしているのかが手に取るようにわかった。その扉を開くと、中には包丁が入っている。扉はあの日以来、一度も開けていなかった。康辰はその凶器を目に入れたくなかったし、奥光は一人では扉を開くことができない。だから今、康辰にきっかけを与えているのだ。奥光はきっと、康辰を助けようとしている。
康辰はひゅうひゅうと乱れ始めた呼吸必死に整えながら、胸の中で繰り返す。俺は今、全く冷静じゃない。酔いで悲観的になっている。感情的になってしまっている。だから、とにかく落ち着かなくちゃいけない。
「いやだ」
康辰は震える声で奥光の申し出を拒否した。しかし奥光は、もうそうすることが決まっているかのように落ち着き払って、康辰をなだめる。
「食べてみたいんだよ、康辰の作ったやつが」
「食べられない、じゃん」
康辰はついにしゃくりあげながら、子供のよう揚げ足を取る。
「うん。だからさ」
奥光がシンク下の扉を指差した。康辰は服の袖で涙を拭いながら弱々しく首を振る。嫌だ。絶対にそんなことはさせない。したくない。強くそう思いつつも、一方で自分が兄の誘導に逆らえないことも、その行為だけが兄を開放するただ一つの手段であることも理解していた。
「やすたつ」
優しく叱りつけるみたいな声音で言われ、康辰は半身を折って床に突っ伏した。悪あがきだとはわかっているが、そうするしか術がない。奥光が息を吐く音が聞こえた。目を瞑って腕に押し当てていると、奥光が唐突に「優しいねぇ、お前は」と言った。康辰は思わず彼に目を向ける。
「付き合わせちゃって、ごめんな」
「何、言ってんの。俺、付き合わされたなんて思ったこと、一回もない」
ぐすぐすと鼻を啜りながら言う。奥光は、康辰の頭を撫でるような動作をしてみせる。
「俺、多分、康辰のそういうとこが好きだったんだよね」
「……うん」
「康辰も、俺のこと好き?」
「そんなの、好きに、決まってんじゃん」
「じゃあ、出来るよな」
そんなのは、ずるい。康辰はしゃくり上げ、奥歯を噛みしめながら奥光を見る。彼は目を細めて康辰を見つめていた。康辰はその顔を見て、はっきりと愛おしいと思った。何が何でも、まだこの世に繋ぎ止めていたい。我が儘でもエゴでも、離したくない。しかし、奥光はそれを許してはくれない。
康辰は、のろのろと扉に手を伸ばして、取手に手をかけた。
胸が潰れそうなほど苦しくて、呼吸の仕方がわからなくなりそうだった。康辰は肩で息をしながら、扉の内側にある包丁の柄を握り、収納から引き抜いた。奥光は康辰の正面に座り、泣きじゃくる康辰に笑顔を向けている。しかしその顔すらも涙でぼやけて、もうはっきりとは見えなかった。
康辰の震える手に、奥光が手を重ねた。
「大丈夫、大丈夫だから。お前は、絶対大丈夫だから」
奥光が、まるでなぐさめるように優しい声で言った。いつかの奥光の言葉が蘇る。康辰は頷いて、強く握りしめた柄を自分の腹にあてがった。それから腕に力を込めてきつく目を閉じ、息を止めて、兄の胸に飛び込んだ。
了
頬を赤く染めた滝辰の茶化した声が、人気のない夜道に響いた。隣を歩いている康辰が「緩み切った顔しやがってなぁ」と言うと、弟は「原型留めてなかったよねー」と呆れた顔をする。
「そうやっかむな。俺がいくら幸せそうだからって……」
本日の主役である臣辰が誇らしげな顔で弟たちを見やると、滝辰は「うっわ、うっぜぇ」と心底憎らしげな声を出した。康辰も同意する。
「彼女、すげえ可愛いじゃねえか。お前のどこがそんなに良いんだよ」
康辰が文句をつけても、上機嫌な臣辰は「顔じゃないか?」と浮かれポンチここに極まれりろいった調子で返してくるばかりだ。蹴り飛ばしてやりたいと思ったが、今日ぐらいは許してやるかと思いとどまる。
臣辰の彼女と一家の顔合わせは、何の問題もなく進んだ。
久しく同年代の女性と会話をしていなかった康辰は、緊張と恐怖のあまりまともに会話をすることも出来ず、ただグビグビと酒を飲み、母の手料理を口に詰め込むばかりであった。それは弟も同じようで、淡々と二人で飲み食いをしながら
「そういえばお前、狙ってる女がいたんじゃないの」
「は? 何で康辰がそれ知ってんの」
「お前わかりやすすぎんだよ、携帯見ながらニヤニヤしてたじゃねえか。で、どうなの」
「……告って、振られた」
「うわー、かわいそ」
といった会話を繰り広げていたところ、母に「あんたたちをもてなすための料理じゃないんだからね」ともっともなお叱りを受けて恥をかいた。彼女はそんなやり取りを見て可笑しそうに笑っていて、康辰は、可愛らしい人だなあと思い、目の前で酒をあおる臣辰のことを少し睨んだりした。
彼女は、康辰たちの前では奥光の話題を出さないように気遣っている様子だった。だが、ふと席を離れて台所に立っている母と何やら言葉を交わし、小さく頭を下げているのを康辰は見た。母は笑いながらその肩に手を添えて、彼女を励ましているように見えた。それはきっと、奥光の話をしているに違いなかった。
やがてどんちゃん騒ぎが終わる頃には、すっかり夜も更けていた。臣辰が彼女を送っていくと言い、そのタイミングで康辰も家を出ることにする。この機を逃すと泊まっていけと言われそうだったし、言われたが最後、今の自分は誘惑に負けてしまうのではないかという不安もあった。
ついでに滝辰もついて行くと言い、一組のカップルとおまけ二人は揃って家を出る。両親も玄関外まで見送りに来て、義父は「ちゃんとお嬢さんをご自宅まで送り届けるんだぞ」と大袈裟なことを言った。母は、ぺこぺこと頭を下げて礼を言う彼女に「また、いつでもいらっしゃいね」と優しい声をかけ、それから康辰に向き直り、打って変わって「あんたも、いつでも帰ってきなさい」と低い声で言った。
康辰は、「はいはい」と何でもないように返事をして、奥光が待つ家へと歩き出す。
奥光は、祝いの場に姿を見せなかった。今朝、「皆で楽しそうに食ったり飲んだりすんだろ? ムカつくから行かね」と言って布団から出てこなかったのだ。それが半分は本心で、残りの半分は康辰への気遣いだということは、容易にわかった。康辰は後ろめたさを感じつつもその優しさに甘え、彼を置いて家を出たのだ。
「っていうか、マジで送ってくんなくていいよ。女こどもじゃあるまいし」
彼女を家まで送り届けた後もついてくる兄弟に、ふらつきながら夜道を歩く康辰がそう切り出すと、同じく足元がおぼつかない様子の臣辰と滝辰が口々に言う。
「お前はまだ頼りないからな」
「ていうかコンビニ行きたいだけだし。別に兄貴を送るために来たわけじゃないし。自意識過剰~」
「あー、はいはい。そうですか」
コンビニなんて、もっと家から近い所にいくらでもある。康辰はこそばゆさを誤魔化そうと、白い息を吐き出した。ここのところ冷え込んでいたが、今日は寒さがゆるんでいるように思えた。
黙々と足を進めていると、滝辰が「あ」と何かを思い出したように声をあげる。
「僕、なんとなくだけど進路決めたんだ」
「え? もうそんな時期か……。進学?」
「うん。ちょっと今の成績じゃ厳しいかもしれないから、予備校通わせてもらうことにしたよ。今から気が重いんだよなぁ」
「へぇ……。じゃあ、受かったら家出んの?」
「いや、キャンパスいくつかあるけど、全部家から通える範囲」
滝辰が大学名と希望の学部を述べるが、康辰の聞いたことのない言葉が沢山出てきたため、知ったかぶりをして受け流した。
「あれ、でもお前って、一人暮らししたいとか言ってなかったっけ」
以前、親の脛をかじりにかじっていた奥光と康辰を前に、四男が「僕は絶対に真っ先にこの家を出て、一人でちゃんと生活してみせる」と意気込んでいたことを思い出す。しかし
「そう思ってたんだけど、やっぱ母さんも父さんも元気ないからね~。心配だし、僕は残るよ」
滝辰はマフラーに顔を埋めて、視線を足元に向ける。康辰は、早々に家から逃げた自分の罪を突きつけられたようで、途端に胸が重くなった。何か言葉を紡ごうとすると、「あ、違うよ。別にそれだけじゃないから」と滝辰が続ける。
「シンプルに、バイトと勉強両立するのがマジで無理って思ったの。かと言って母さんたちに仕送りしてもらうのとかダサいし、家から通えば学費は全部出してくれるっていうからさ。ウィンウィンな関係って感じだよね」
折角広くなった家をすぐに出ちゃうの、もったいないし。滝辰はふふんと楽しそうに鼻をならした。康辰が黙っていると、臣辰が口を開く。
「家には滝辰がいてくれるし、俺は独り立ちするし、だから……康辰も今の生活を続けても、家に帰ってきたとしても、どちらでもいい、ってことだ」
次男は、言葉を選びつつそう言った。寒さで鼻の先が赤くなっている。
「お前だけが気負いすぎることはないよ。だから、いつでも帰って来るといいさ。母さんだって、お前を一番に心配してるんだ、多分」
それに、奥光だってきっと、お前が無理をすることは望んでいない。彼は静かに言って、それから口元を緩ませた。康辰は、まだ家を出る前に彼にかけられた言葉を思い出していた。
臣辰は、いつだって優しい。大抵、相手が欲しい言葉をくれるのだ。その気遣いが今の康辰には毒のようにも思えて、息を飲む。
康辰は目を逸らして「うん、大丈夫だよ」と笑ったが、上手く笑えている気はしなかった。
今まではずっと一緒だった兄弟らも、当然だが、これから先は違う道を選び始めるのだろう。就職や進学をして、恋愛をして、果てには結婚をして。いつかは子供を産んで、家族を作るのかもしれない。
もう、子供のままではいられない。ずっとあの頃のままではいられないという事実が、奥光を失うことによってより鮮明になった。きっとそれは兄弟たちも一緒で、二人はそれを受け入れて、変わっていくのだ。康辰と、奥光を置いて。
康辰が目を背け、殺し続けていた考えが、逆流したみたいに頭の中に広がっていく。これからも、自分以外には存在を認識されない兄と触れ合うことすらできないまま、あの部屋で二人きり、ただ老いていくのだろうか。温度も感触も味覚も、娯楽すらも取り上げられ、康辰しか頼りのなくなった彼に、延々とこの生活を強要し続けるのだろうか。それは、本当に彼のためを思っての行動だっただろうか。ただの、自分の我が儘ではないのか。
このところ、康辰はずっと考えていた。自分の選択は、果たして正しかったのか。その答えは、とっくに出ている気がした。
玄関の前で、康辰はかぶりを振る。恐ろしい考えを脳内から追い出して、ゆっくり息を吸って吐いて、ドアを開けた。電気は止まったままなので当然室内は暗く、月の明かりだけを頼りに歩く。いよいよ蝋燭を買った方がいいかもしれないと考えながら上着を脱いでいると、闇に慣れた目が、キッチンの前で丸くなっている奥光を捉えた。
「奥光……?」
彼は、またしても床の上で寝息を立てていた。何度布団で寝ろと言っても、どこで寝ても同じだからとそこかしこで寝てしまうのだ。
今日一日ずっと家にいたのだろうか。しかし、家を出たときは布団で寝ていたのに、何故わざわざこんな所まで転がって来たのだろうか。康辰は静かに近づいて、奥光に声をかける。
「ねぇ、布団で寝なよ」
「んぁ、やすたつ……」
奥光はかったるそうに目を開け、康辰の顔を見上げた。真っ黒い瞳が、月の光を反射させてうっすらと光っている。まぶたを重たそうに持ち上げている奥光は、安心したように笑った。
「帰ってこないかと思った」
「……なんで。帰ってくるでしょ、そりゃ」
「康辰」
彼は寝ぼけているのか、康辰の方に手を伸ばした。康辰はその手に応えようとするが、当然、虚しくも奥光の手のひらを貫通しただけだった。彼は我に返ったように手を下ろして、取り繕うように無邪気な笑顔を浮かべる。
「どうだった、楽しかった? 臣辰たち、どんな感じだった?」
康辰は、今日の宴を一から十まで話して聞かせようと思っていた。臣辰と彼女は、中学生の頃は仲が悪かったこと。臣辰の告白の言葉がとてつもなく恥ずかしいものだったこと。彼らの話を聞いていたはずが、いつのまにか義父と母の馴れ初めを聞かされたこと。義父も母も、彼女をえらく可愛がっていたこと。多分二人はいずれ結婚するであろうこと。
しかしいざ話そうとすると、康辰の喉は言葉をつまらせた。奥光はきょとんとした顔で「康辰?」と名を呼び、上体を起こして康辰の顔を覗き込む。
その間、康辰はずっと、彼の下ろされた手のひらを見つめていた。だが、やがて手のひらの輪郭がぼやけはじめて、康辰の頬を温かいものが伝った。それは康辰の手の甲や床にぽたぽたと落ちて、じわりと滲む。止めようと思えば思うほど、それは目からこぼれ落ちる。
「どうした?」
奥光の声は穏やかで、動揺している様子はない。康辰は漏れ出そうになる嗚咽を必死に飲み込んで、「なんでもない」とつっかえながら答えた。我ながら間抜けな返しだと思った。それを聞いた奥光が、眉を下げて笑う。
「お前って、ほんとに嘘が下手な」
彼は康辰の頬に手を添える。涙が流れるたびに頬に広がる熱が奥光の体温のように感じられ、触れられているのだと錯覚しそうだった。
「康辰が泣いてるとこ、久々に見た」
「……泣いてない」
「いや、無理があるって」
奥光はけらけらと笑って、座ったまま後ずさる。そして、キッチンのシンク下の扉に背を預けて笑顔のまま言った。
「ねぇ、康辰。また料理してよ」
康辰は、兄が何をしようとしているのかが手に取るようにわかった。その扉を開くと、中には包丁が入っている。扉はあの日以来、一度も開けていなかった。康辰はその凶器を目に入れたくなかったし、奥光は一人では扉を開くことができない。だから今、康辰にきっかけを与えているのだ。奥光はきっと、康辰を助けようとしている。
康辰はひゅうひゅうと乱れ始めた呼吸必死に整えながら、胸の中で繰り返す。俺は今、全く冷静じゃない。酔いで悲観的になっている。感情的になってしまっている。だから、とにかく落ち着かなくちゃいけない。
「いやだ」
康辰は震える声で奥光の申し出を拒否した。しかし奥光は、もうそうすることが決まっているかのように落ち着き払って、康辰をなだめる。
「食べてみたいんだよ、康辰の作ったやつが」
「食べられない、じゃん」
康辰はついにしゃくりあげながら、子供のよう揚げ足を取る。
「うん。だからさ」
奥光がシンク下の扉を指差した。康辰は服の袖で涙を拭いながら弱々しく首を振る。嫌だ。絶対にそんなことはさせない。したくない。強くそう思いつつも、一方で自分が兄の誘導に逆らえないことも、その行為だけが兄を開放するただ一つの手段であることも理解していた。
「やすたつ」
優しく叱りつけるみたいな声音で言われ、康辰は半身を折って床に突っ伏した。悪あがきだとはわかっているが、そうするしか術がない。奥光が息を吐く音が聞こえた。目を瞑って腕に押し当てていると、奥光が唐突に「優しいねぇ、お前は」と言った。康辰は思わず彼に目を向ける。
「付き合わせちゃって、ごめんな」
「何、言ってんの。俺、付き合わされたなんて思ったこと、一回もない」
ぐすぐすと鼻を啜りながら言う。奥光は、康辰の頭を撫でるような動作をしてみせる。
「俺、多分、康辰のそういうとこが好きだったんだよね」
「……うん」
「康辰も、俺のこと好き?」
「そんなの、好きに、決まってんじゃん」
「じゃあ、出来るよな」
そんなのは、ずるい。康辰はしゃくり上げ、奥歯を噛みしめながら奥光を見る。彼は目を細めて康辰を見つめていた。康辰はその顔を見て、はっきりと愛おしいと思った。何が何でも、まだこの世に繋ぎ止めていたい。我が儘でもエゴでも、離したくない。しかし、奥光はそれを許してはくれない。
康辰は、のろのろと扉に手を伸ばして、取手に手をかけた。
胸が潰れそうなほど苦しくて、呼吸の仕方がわからなくなりそうだった。康辰は肩で息をしながら、扉の内側にある包丁の柄を握り、収納から引き抜いた。奥光は康辰の正面に座り、泣きじゃくる康辰に笑顔を向けている。しかしその顔すらも涙でぼやけて、もうはっきりとは見えなかった。
康辰の震える手に、奥光が手を重ねた。
「大丈夫、大丈夫だから。お前は、絶対大丈夫だから」
奥光が、まるでなぐさめるように優しい声で言った。いつかの奥光の言葉が蘇る。康辰は頷いて、強く握りしめた柄を自分の腹にあてがった。それから腕に力を込めてきつく目を閉じ、息を止めて、兄の胸に飛び込んだ。
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