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十三、
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一体全体、こいつは何を言っていやがるんだ。ふらついて重力に従いそうになる身体に鞭打って風呂から上がり、半袖シャツに着替えた世川は、タオルを肩にかけた姿で換気扇の下で煙草をふかしている一ノ瀬を観察しながら考えていた。その視線に気づいているはずなのに、一ノ瀬は少しも世川の方を見ない。
好きだと「思っている」のかと、一ノ瀬は言った。それは、つまり、世川の彼への好意は世川の思い込みや勘違いだと彼は思っているらしかった。しかも、その考えにはどうやら確信があるらしい。何故、そう言い切れるのか。世川は机の上に突っ伏して、横目で一ノ瀬を見つめつつ、批判的な気持ちになる。自分の感情は自分が一番よくわかっているのだ。何故その気持ちを、一ノ瀬に否定されなければならないのか。
しかし、その直後に、本当にそうだろうか? という不安が、傷口から溢れ出す血液のように、ゆっくりと湧き上がってくる。本当に、自分は自分自身の気持ちを、明確に理解しているのか?
血液が世川の胸を満たした頃、一ノ瀬が短くなった煙草を揉み消して換気扇のスイッチを切った。
「髪、乾かしてやろうか?」
突っ伏したままの世川がうんと答えると、一ノ瀬は洗面所からドライヤーを持ってきて、世川の濡れた髪に温風を当て始める。
自身の身なりに無頓着な一ノ瀬の髪を乾かしてやったことは幾度もあるが、その逆は初めてだった。具合が悪いからと、気を遣ってくれているのだろうか。世川は突っ伏した姿勢のまま目を閉じる。髪を撫で、時々頭皮に触れる彼の指が優しくて、眠気に襲われる。何に対しても大雑把な男だが、世川に触れる時はいつだって優しい。それは恐らく世川だからではなく、誰に対しても同じなのだろう。それが時々、恐ろしく思える。
温風が止み、「乾いたろ」と言って一ノ瀬が世川の頭を撫でた。世川が眠気を振り払って顔を上げると、濡れた髪を束ねた彼が「布団こっちに持ってくるか?」と世川を見下ろして言う。
寝室に目を向けると、幼い頃の記憶が蘇った。
「いや、あっちで寝よう」
立ち上がると、一ノ瀬が肩を貸してくれた。彼に支えられて狭くて真っ暗な寝室にたどり着き、血の染み付いた万年床に転がされる。今更見られたところで彼は何も思わないだろうが、世川は咄嗟にその血の染み込んだ部分を自分の身体で隠した。
「早く寝てしまえよ。俺ももう眠い」
隣に腰を落ち着けた一ノ瀬が、世川の髪を撫でて言う。
「でも、一ノ瀬の髪が濡れたままだ」
「別にいいよ」
「ダメだ。痛むし、布団も湿ってカビが生える」
血塗れの布団で何を言っているんだろうと自分で言って思った。
「じゃあ、乾かしてくる」
一ノ瀬が立ち上がろうとするので、世川はシャツの袖を掴んで阻止する。「嫌だ。ここにいてほしい」
「お前、どうしろって言うんだ」
一ノ瀬は面倒くさそうに、しかし少し楽しそうに言って、世川の指を解いて立ち上がり、寝室を出ていく。それからすぐにドライヤーを手に戻ってきて、再び世川の隣に座った。世川は安心して目をつむり、一ノ瀬が胡坐をかいている足に手を置いた。
ドライヤーが風を送るごおごおという音が頭の上から聞こえてくる。
自分は今、弱っているらしい。と、世川は他人事のように思った。身体の具合の悪さが、心にまで影響を及ぼしているのだ。そうでなかったらきっと、一ノ瀬にこんなふうに子供のように甘えたりはしないだろう。
一ノ瀬もどこかが悪くなればいいのに。そうしたら、きっと、少しは可愛げというものも見せてくれるかもしれないし、もう少し世川のことを頼ってくるかもしれない。そうして、ずっとこの家に居ればいい。
世川は夢のような妄想を頭の中に展開しようとしたが、すぐに打ち切って目を開いた。一ノ瀬の長い髪が温風に靡いている。
きっと明日になったら彼はどこかへと帰ってしまう。そうしたら、次に会いにくるのはいつになるのだろうか。一ノ瀬の骨張った足の上で指を滑らせると、彼はこちらを見て何かを言った。ドライヤーの音で聞こえなかったが、口の動きからきっと「くすぐってえよ」と言ったのだろうとわかる。
「帰らないでくれよ」
世川は、幾度となく飲み込んだ言葉を口に出した。当然、彼の耳には届かない。
「一ノ瀬は、何を考えているんだよ」「一ノ瀬にとって、僕はなんなんだ」「僕はどうすればいい」「水族館でサメを見たんだけどね、あいつらは、人を食うくせに、ストレスで死ぬんだって」「でも、水族館にいたサメは、おとなしかったな」「最初に僕を食ったのは、一ノ瀬の方だったよな」「吹っかけてきたのはそっちなのに、途中で捨てるのか」「ひどい」「ひどいよ、ひどい」「与えてから取り上げるなんて、ひどい」「最初は、一ノ瀬の言う通り、寂しかったけど、一ノ瀬のせいで、もっとさみしくなった」「飽きたら、捨てるのか」「最低だよ」「最低なのは僕の方か?」「僕がひどいのか」「それはどうして?」
最後の方は、口の中で呟いているだけだった。世川はどんどん自分が何を言っているかわからなくなってきて、それでも何かを吐き出したくてまたらなかった。まるで鳴き声のようだと思った。風の音にかき消される自分の小さな小さな鳴き声を聞きつつ、世川は気を失うように眠った。あるいは、事実として気を失った。
翌朝、目を覚ますと、一ノ瀬の姿は家の中のどこにもなかった。代わりに、テーブルの上にぽつんと鍵だけが置いてあった。
「今度レバーを食べに行こうって言ったじゃないか」
呟いて、世川は一分間ほど悲観的になった。有無を言わせぬ決別の合図に打ちひしがれた。しかし一分経つと舌打ちをし、鍵をポケットにねじ込んで、さて次はどうやって探し出そうかと考え始めた。
「それで、どうやって探すつもりなんだよ」
しゃがんでフェンスに寄りかかり、煙草を片手に項垂れている倉持が、しゃがれた声で言う。彼は十三連勤目らしく、目の下にはくっきりと隈ができており、随分とやつれて見えた。しかし連勤の理由は、他店舗のアルバイトに世川たちにしたように嫌がらせにしか聞こえない指摘をちくちくと行ったせいらしく、世川の同僚たちは「自業自得だ」と笑っていた。
そんな自業自得の連勤中の休憩時間だというのにも関わらず、倉持は嫌そうな顔をしつつも世川の話を聞くには聞いてくれる。どうしてこの優しくて世話焼きな一面を隠して「嫌な社員」でいようとするのか、不思議でならなかった。倉持は項垂れたまま煙草を咥え、そのまま喋る。
「定住先もなくて、学校や仕事に行っている訳でもない。明確な共通の知り合いがいる訳でもないし、行きつけの店なんかも知らない」
「はい。なので、思いつかなくて。大学に行けば関わりのある人を見つけられると思うんですけど、今は大学は休みだし。連絡先を知ってる友達なんて、ほとんどいなくて」
「駅の伝言板にメッセージ残しておくとか」
「それも考えたんですけど、大学の人たちに見つかったら厄介で。それに、メッセージを見つけたところで、素直に応えてくれるかも自信がなくて」
「うわぁ、もう、ほんとに、めんどくせえ」
倉持は、言葉通り心の底から面倒臭いという顔をして世川を見た。世川は暗がりの中で赤く燃える煙草の火口に見惚れていた。
「というか、その感じだともう、その女は君に会いたくないんだろう」
「そうかもしれません」
「だったら、また探して会ったって、意味がなくないか? 言っちゃあなんだが、彼女がいる男が浮気相手にそこまで執着するのもおかしいだろ」
浮気相手。その単語に世川は違和感を覚える。しかし、倉持から見れば一ノ瀬という女(だと彼は思っている)の存在は、確かに浮気相手という区分になるのだろう。
「その子も罪悪感とかを感じて君と縁を切ろうとしているんだろ、多分」
「あいつに罪悪感なんてものがあるんでしょうか」
「いや、知らないけど。あるだろ、普通は。だから身を引こうっていう訳だろ」
倉持の中での一ノ瀬の人物像が、実際の一ノ瀬とは大きく離れているようだった。違う。あいつはただ、本当に、拗れるのが面倒臭いだけなのだ。だが、そんなことを倉持に説明したところで意味がないのは世川にもわかっているので、飲み込む他ない。
「まぁ、それか本当にお前に失望したか、冷めたかだな」
「失望……」
世川は、先日から胸に溜まっている不安の血が、ひやりと冷たくなっていくのを感じた。ただ面倒なだけでなく、一ノ瀬が世川に愛想を尽かしていたら。それは、世川の世界の終わりを意味している気がした。なんとしてでも、一ノ瀬の興味を引かなくてはならない。しかし、どうやって?
「どっちにしろ、その子の気持ちを尊重してやれよ」
冷や汗を滲ませる世川に、倉持はかったるそうに言う。
「君がそれだけ関係を続けたくても、相手が拒否してるなら、そこでお終いだろ。君がどれだけ懇願したところで、相手にその気はないんだから」
「でも、それは、嫌なんです。耐えられない」
「じゃあ彼女と別れて誠意を見せてみりゃいい」
「それも、難しいです」
「自分本意な奴……」
倉持はため息と煙の混じった息を吐き出す。二兎を追う者は一兎をも得ずって諺を知らねえのか? と倉持は冷たい視線を投げかけてくる。もちろん知ってはいるが、片方に絞れないのだから仕方がないのだ。どうにかして、二羽仕留める方法を考えなくてはならない。
「やっぱり理解出来んね。好きな相手が傷つくようなことはしたくないだろ」
倉持は言ってあくびをした。灰皿がすぐ近くにあるのに、手を伸ばすのも億劫なのか吸い殻を地面にぽとりと落とした。
「倉持さんは、見かけによらず誠実ですよね」
「言うようになったな」
「あ、いや、ほんとうに」
「フォローになってないぜ。というか、君が変なだけだと思うがね」
やはり、変なのだ、自分は。世川は地面に横たわる煙草の死骸を見つめた。普通になるための道を歩んでいるつもりが、おかしくなっているのだ。一ノ瀬とさっぱり手を切って新島を大切にすれば、最速で普通になれるはずだ。それが一番いいはずなのに、一ノ瀬と手を切るという選択肢を選ぶことが、絶対的に不可能であるが故、迂回をしなければならない。迂回をして二羽を手に入れるしかない。そんなことが、果たして、愚鈍な自分にできるのだろうか。
「僕も倉持さんみたいに、正しい人でありたかったです」
倉持が落とした吸い殻を拾い上げた世川は、灰皿の中へと落とす。吸い殻は闇を吸い込んで黒く揺らめいている水の中へと消えていく。
「倉持さんと付き合う女の人は、絶対に幸せでしょうね」
世川がそう言っても、項垂れた倉持はその姿勢のまま何の反応も示さなかった。が、やがて顔をあげて「どうだか」と鼻で笑った。
約十日ぶりに新島と出かけることになり、大学の最寄駅で落ち合った。新島は夏季休暇突入と同時に家族で祖母の家に泊まりに行っていたらしく、その間連絡は取っていなかった。久しぶりの対面で浮き足立つ世川だったが、一方で、億劫な気持ちもあった。倉持が使った「罪悪感」という言葉が、ずっと頭の中をぐるぐると巡っていたのだ。
「なんか、元気ない?」
三十分ほど電車に揺られて目的の新宿駅に降り立ってすぐに、新島は言った。世川はまた冷や汗をかくのを感じた。
「そうかな」
「うん。なんか、そんな感じ。調子が悪かったらすぐに言ってね」
「ありがとう。ちょっと寝不足なだけだから、大丈夫」
新島の優しさが胸にちくちくと棘のように刺さった。世川はその不快感を煩わしいと思い、一旦一ノ瀬のことを頭から追い出そうと努力したが、そうすればするほど、克明に彼の顔や声が脳裏に浮かんだ。
「そういえばさ、宮田が、今度三人で一緒に勉強会をやらないかって言ってたよ」
新島はそう言って、「昨日予備校の友達で集まって、その時に会ってね」と補足する。世川は、途端に明るい気持ちになり、「いいね、やろう」と即答した。
「よかった。宮田、絶対に自分一人じゃ課題終わらせられないから、世川くんに助けて欲しいって」
新島は楽しそうに、目を細くして笑った。宮田自ら提案してくると言うことは、やはり彼は世川と新島の関係について、特に思うところはなかったのだろう。世川は安堵した。また、複数の友人で集まるという行い自体が一般的な大学生の象徴らしくて、それに自分が当たり前のように参加できるのが嬉しかったのだ。
多少軽くなった足取りで遅めの昼食を取り、大量に立ち並ぶ店を回る。新島が服が欲しいと言うので色々な店に入っては吟味し、二時間ほどかけて彼女はやっと気に入った一着を購入した。世川から見ればどの服も似合っていたのだが、彼女はそれが一番好みだったらしい。丈の長い白いワンピースだった。「次に会う時、着てくるね」と無邪気に笑う顔が綺麗だった。
その後も本屋や雑貨屋、家電量販店など、買う気もないのにひやかしで入っては眺め、気がつけば日が暮れ始めていた。
「まだ夕食には早いよね。ミニシアターにでも行ってみようか、短めの映画がやってるかも」
歩き通しだというのにまだまだ溌剌としている新島が言い、歓楽街の方へと歩を進める。世川は少し腰を落ち着けたいため、新島に従ってついていく。
「新島さん、この辺詳しいんだ」
「変わったカフェとか飲み屋とか、映画とか、そういうのに詳しい友達がいて。この辺は少しだけわかるよ」
新島は慣れた足取りでミニシアターとやらに向かう。店の看板には次々と明かりが灯り、人通りも増え始め、賑やかな雰囲気だった。
その時、ふと、見慣れた人物が目に入った。
「あ」
世川は思わず声を上げ、立ち止まった。
「どうかした?」と新島も足を止め、世川の視線の先に目を向けた。
世川が見つけたのは、倉持だった。五、六メートルほど離れたところに、倉持とその友人であろう男がいて、笑顔で話をしている。職場に居る時には見たことのない、砕けた笑顔だ。
「知り合い?」新島に聞かれて、咄嗟に、「いや、違かったみたい」と嘘をついた。新島と一ノ瀬の件を唯一相談している彼に、この状況下で気づかれるのはみっともないと思った。それに、きっと彼だって困るだろう。
倉持は男と店の看板を見ながら一言二言交わして、地下の店へ続く階段を降りていく。世川は新島へと視線を移して、「ごめん、行こうか」と声をかけた。が、新島はまだ倉持らの方を見ていた。
「新島さん?」
声をかけると彼女はハッとして世川を見上げて、「あ、ごめん」と笑って言った。
「いや、あの人たち、手を繋いでいたからさ」
びっくりして、見つめちゃった。新島が言うや否や、世川は再び階段へと視線を戻したが、倉持の姿はもう見えなかった。
続
好きだと「思っている」のかと、一ノ瀬は言った。それは、つまり、世川の彼への好意は世川の思い込みや勘違いだと彼は思っているらしかった。しかも、その考えにはどうやら確信があるらしい。何故、そう言い切れるのか。世川は机の上に突っ伏して、横目で一ノ瀬を見つめつつ、批判的な気持ちになる。自分の感情は自分が一番よくわかっているのだ。何故その気持ちを、一ノ瀬に否定されなければならないのか。
しかし、その直後に、本当にそうだろうか? という不安が、傷口から溢れ出す血液のように、ゆっくりと湧き上がってくる。本当に、自分は自分自身の気持ちを、明確に理解しているのか?
血液が世川の胸を満たした頃、一ノ瀬が短くなった煙草を揉み消して換気扇のスイッチを切った。
「髪、乾かしてやろうか?」
突っ伏したままの世川がうんと答えると、一ノ瀬は洗面所からドライヤーを持ってきて、世川の濡れた髪に温風を当て始める。
自身の身なりに無頓着な一ノ瀬の髪を乾かしてやったことは幾度もあるが、その逆は初めてだった。具合が悪いからと、気を遣ってくれているのだろうか。世川は突っ伏した姿勢のまま目を閉じる。髪を撫で、時々頭皮に触れる彼の指が優しくて、眠気に襲われる。何に対しても大雑把な男だが、世川に触れる時はいつだって優しい。それは恐らく世川だからではなく、誰に対しても同じなのだろう。それが時々、恐ろしく思える。
温風が止み、「乾いたろ」と言って一ノ瀬が世川の頭を撫でた。世川が眠気を振り払って顔を上げると、濡れた髪を束ねた彼が「布団こっちに持ってくるか?」と世川を見下ろして言う。
寝室に目を向けると、幼い頃の記憶が蘇った。
「いや、あっちで寝よう」
立ち上がると、一ノ瀬が肩を貸してくれた。彼に支えられて狭くて真っ暗な寝室にたどり着き、血の染み付いた万年床に転がされる。今更見られたところで彼は何も思わないだろうが、世川は咄嗟にその血の染み込んだ部分を自分の身体で隠した。
「早く寝てしまえよ。俺ももう眠い」
隣に腰を落ち着けた一ノ瀬が、世川の髪を撫でて言う。
「でも、一ノ瀬の髪が濡れたままだ」
「別にいいよ」
「ダメだ。痛むし、布団も湿ってカビが生える」
血塗れの布団で何を言っているんだろうと自分で言って思った。
「じゃあ、乾かしてくる」
一ノ瀬が立ち上がろうとするので、世川はシャツの袖を掴んで阻止する。「嫌だ。ここにいてほしい」
「お前、どうしろって言うんだ」
一ノ瀬は面倒くさそうに、しかし少し楽しそうに言って、世川の指を解いて立ち上がり、寝室を出ていく。それからすぐにドライヤーを手に戻ってきて、再び世川の隣に座った。世川は安心して目をつむり、一ノ瀬が胡坐をかいている足に手を置いた。
ドライヤーが風を送るごおごおという音が頭の上から聞こえてくる。
自分は今、弱っているらしい。と、世川は他人事のように思った。身体の具合の悪さが、心にまで影響を及ぼしているのだ。そうでなかったらきっと、一ノ瀬にこんなふうに子供のように甘えたりはしないだろう。
一ノ瀬もどこかが悪くなればいいのに。そうしたら、きっと、少しは可愛げというものも見せてくれるかもしれないし、もう少し世川のことを頼ってくるかもしれない。そうして、ずっとこの家に居ればいい。
世川は夢のような妄想を頭の中に展開しようとしたが、すぐに打ち切って目を開いた。一ノ瀬の長い髪が温風に靡いている。
きっと明日になったら彼はどこかへと帰ってしまう。そうしたら、次に会いにくるのはいつになるのだろうか。一ノ瀬の骨張った足の上で指を滑らせると、彼はこちらを見て何かを言った。ドライヤーの音で聞こえなかったが、口の動きからきっと「くすぐってえよ」と言ったのだろうとわかる。
「帰らないでくれよ」
世川は、幾度となく飲み込んだ言葉を口に出した。当然、彼の耳には届かない。
「一ノ瀬は、何を考えているんだよ」「一ノ瀬にとって、僕はなんなんだ」「僕はどうすればいい」「水族館でサメを見たんだけどね、あいつらは、人を食うくせに、ストレスで死ぬんだって」「でも、水族館にいたサメは、おとなしかったな」「最初に僕を食ったのは、一ノ瀬の方だったよな」「吹っかけてきたのはそっちなのに、途中で捨てるのか」「ひどい」「ひどいよ、ひどい」「与えてから取り上げるなんて、ひどい」「最初は、一ノ瀬の言う通り、寂しかったけど、一ノ瀬のせいで、もっとさみしくなった」「飽きたら、捨てるのか」「最低だよ」「最低なのは僕の方か?」「僕がひどいのか」「それはどうして?」
最後の方は、口の中で呟いているだけだった。世川はどんどん自分が何を言っているかわからなくなってきて、それでも何かを吐き出したくてまたらなかった。まるで鳴き声のようだと思った。風の音にかき消される自分の小さな小さな鳴き声を聞きつつ、世川は気を失うように眠った。あるいは、事実として気を失った。
翌朝、目を覚ますと、一ノ瀬の姿は家の中のどこにもなかった。代わりに、テーブルの上にぽつんと鍵だけが置いてあった。
「今度レバーを食べに行こうって言ったじゃないか」
呟いて、世川は一分間ほど悲観的になった。有無を言わせぬ決別の合図に打ちひしがれた。しかし一分経つと舌打ちをし、鍵をポケットにねじ込んで、さて次はどうやって探し出そうかと考え始めた。
「それで、どうやって探すつもりなんだよ」
しゃがんでフェンスに寄りかかり、煙草を片手に項垂れている倉持が、しゃがれた声で言う。彼は十三連勤目らしく、目の下にはくっきりと隈ができており、随分とやつれて見えた。しかし連勤の理由は、他店舗のアルバイトに世川たちにしたように嫌がらせにしか聞こえない指摘をちくちくと行ったせいらしく、世川の同僚たちは「自業自得だ」と笑っていた。
そんな自業自得の連勤中の休憩時間だというのにも関わらず、倉持は嫌そうな顔をしつつも世川の話を聞くには聞いてくれる。どうしてこの優しくて世話焼きな一面を隠して「嫌な社員」でいようとするのか、不思議でならなかった。倉持は項垂れたまま煙草を咥え、そのまま喋る。
「定住先もなくて、学校や仕事に行っている訳でもない。明確な共通の知り合いがいる訳でもないし、行きつけの店なんかも知らない」
「はい。なので、思いつかなくて。大学に行けば関わりのある人を見つけられると思うんですけど、今は大学は休みだし。連絡先を知ってる友達なんて、ほとんどいなくて」
「駅の伝言板にメッセージ残しておくとか」
「それも考えたんですけど、大学の人たちに見つかったら厄介で。それに、メッセージを見つけたところで、素直に応えてくれるかも自信がなくて」
「うわぁ、もう、ほんとに、めんどくせえ」
倉持は、言葉通り心の底から面倒臭いという顔をして世川を見た。世川は暗がりの中で赤く燃える煙草の火口に見惚れていた。
「というか、その感じだともう、その女は君に会いたくないんだろう」
「そうかもしれません」
「だったら、また探して会ったって、意味がなくないか? 言っちゃあなんだが、彼女がいる男が浮気相手にそこまで執着するのもおかしいだろ」
浮気相手。その単語に世川は違和感を覚える。しかし、倉持から見れば一ノ瀬という女(だと彼は思っている)の存在は、確かに浮気相手という区分になるのだろう。
「その子も罪悪感とかを感じて君と縁を切ろうとしているんだろ、多分」
「あいつに罪悪感なんてものがあるんでしょうか」
「いや、知らないけど。あるだろ、普通は。だから身を引こうっていう訳だろ」
倉持の中での一ノ瀬の人物像が、実際の一ノ瀬とは大きく離れているようだった。違う。あいつはただ、本当に、拗れるのが面倒臭いだけなのだ。だが、そんなことを倉持に説明したところで意味がないのは世川にもわかっているので、飲み込む他ない。
「まぁ、それか本当にお前に失望したか、冷めたかだな」
「失望……」
世川は、先日から胸に溜まっている不安の血が、ひやりと冷たくなっていくのを感じた。ただ面倒なだけでなく、一ノ瀬が世川に愛想を尽かしていたら。それは、世川の世界の終わりを意味している気がした。なんとしてでも、一ノ瀬の興味を引かなくてはならない。しかし、どうやって?
「どっちにしろ、その子の気持ちを尊重してやれよ」
冷や汗を滲ませる世川に、倉持はかったるそうに言う。
「君がそれだけ関係を続けたくても、相手が拒否してるなら、そこでお終いだろ。君がどれだけ懇願したところで、相手にその気はないんだから」
「でも、それは、嫌なんです。耐えられない」
「じゃあ彼女と別れて誠意を見せてみりゃいい」
「それも、難しいです」
「自分本意な奴……」
倉持はため息と煙の混じった息を吐き出す。二兎を追う者は一兎をも得ずって諺を知らねえのか? と倉持は冷たい視線を投げかけてくる。もちろん知ってはいるが、片方に絞れないのだから仕方がないのだ。どうにかして、二羽仕留める方法を考えなくてはならない。
「やっぱり理解出来んね。好きな相手が傷つくようなことはしたくないだろ」
倉持は言ってあくびをした。灰皿がすぐ近くにあるのに、手を伸ばすのも億劫なのか吸い殻を地面にぽとりと落とした。
「倉持さんは、見かけによらず誠実ですよね」
「言うようになったな」
「あ、いや、ほんとうに」
「フォローになってないぜ。というか、君が変なだけだと思うがね」
やはり、変なのだ、自分は。世川は地面に横たわる煙草の死骸を見つめた。普通になるための道を歩んでいるつもりが、おかしくなっているのだ。一ノ瀬とさっぱり手を切って新島を大切にすれば、最速で普通になれるはずだ。それが一番いいはずなのに、一ノ瀬と手を切るという選択肢を選ぶことが、絶対的に不可能であるが故、迂回をしなければならない。迂回をして二羽を手に入れるしかない。そんなことが、果たして、愚鈍な自分にできるのだろうか。
「僕も倉持さんみたいに、正しい人でありたかったです」
倉持が落とした吸い殻を拾い上げた世川は、灰皿の中へと落とす。吸い殻は闇を吸い込んで黒く揺らめいている水の中へと消えていく。
「倉持さんと付き合う女の人は、絶対に幸せでしょうね」
世川がそう言っても、項垂れた倉持はその姿勢のまま何の反応も示さなかった。が、やがて顔をあげて「どうだか」と鼻で笑った。
約十日ぶりに新島と出かけることになり、大学の最寄駅で落ち合った。新島は夏季休暇突入と同時に家族で祖母の家に泊まりに行っていたらしく、その間連絡は取っていなかった。久しぶりの対面で浮き足立つ世川だったが、一方で、億劫な気持ちもあった。倉持が使った「罪悪感」という言葉が、ずっと頭の中をぐるぐると巡っていたのだ。
「なんか、元気ない?」
三十分ほど電車に揺られて目的の新宿駅に降り立ってすぐに、新島は言った。世川はまた冷や汗をかくのを感じた。
「そうかな」
「うん。なんか、そんな感じ。調子が悪かったらすぐに言ってね」
「ありがとう。ちょっと寝不足なだけだから、大丈夫」
新島の優しさが胸にちくちくと棘のように刺さった。世川はその不快感を煩わしいと思い、一旦一ノ瀬のことを頭から追い出そうと努力したが、そうすればするほど、克明に彼の顔や声が脳裏に浮かんだ。
「そういえばさ、宮田が、今度三人で一緒に勉強会をやらないかって言ってたよ」
新島はそう言って、「昨日予備校の友達で集まって、その時に会ってね」と補足する。世川は、途端に明るい気持ちになり、「いいね、やろう」と即答した。
「よかった。宮田、絶対に自分一人じゃ課題終わらせられないから、世川くんに助けて欲しいって」
新島は楽しそうに、目を細くして笑った。宮田自ら提案してくると言うことは、やはり彼は世川と新島の関係について、特に思うところはなかったのだろう。世川は安堵した。また、複数の友人で集まるという行い自体が一般的な大学生の象徴らしくて、それに自分が当たり前のように参加できるのが嬉しかったのだ。
多少軽くなった足取りで遅めの昼食を取り、大量に立ち並ぶ店を回る。新島が服が欲しいと言うので色々な店に入っては吟味し、二時間ほどかけて彼女はやっと気に入った一着を購入した。世川から見ればどの服も似合っていたのだが、彼女はそれが一番好みだったらしい。丈の長い白いワンピースだった。「次に会う時、着てくるね」と無邪気に笑う顔が綺麗だった。
その後も本屋や雑貨屋、家電量販店など、買う気もないのにひやかしで入っては眺め、気がつけば日が暮れ始めていた。
「まだ夕食には早いよね。ミニシアターにでも行ってみようか、短めの映画がやってるかも」
歩き通しだというのにまだまだ溌剌としている新島が言い、歓楽街の方へと歩を進める。世川は少し腰を落ち着けたいため、新島に従ってついていく。
「新島さん、この辺詳しいんだ」
「変わったカフェとか飲み屋とか、映画とか、そういうのに詳しい友達がいて。この辺は少しだけわかるよ」
新島は慣れた足取りでミニシアターとやらに向かう。店の看板には次々と明かりが灯り、人通りも増え始め、賑やかな雰囲気だった。
その時、ふと、見慣れた人物が目に入った。
「あ」
世川は思わず声を上げ、立ち止まった。
「どうかした?」と新島も足を止め、世川の視線の先に目を向けた。
世川が見つけたのは、倉持だった。五、六メートルほど離れたところに、倉持とその友人であろう男がいて、笑顔で話をしている。職場に居る時には見たことのない、砕けた笑顔だ。
「知り合い?」新島に聞かれて、咄嗟に、「いや、違かったみたい」と嘘をついた。新島と一ノ瀬の件を唯一相談している彼に、この状況下で気づかれるのはみっともないと思った。それに、きっと彼だって困るだろう。
倉持は男と店の看板を見ながら一言二言交わして、地下の店へ続く階段を降りていく。世川は新島へと視線を移して、「ごめん、行こうか」と声をかけた。が、新島はまだ倉持らの方を見ていた。
「新島さん?」
声をかけると彼女はハッとして世川を見上げて、「あ、ごめん」と笑って言った。
「いや、あの人たち、手を繋いでいたからさ」
びっくりして、見つめちゃった。新島が言うや否や、世川は再び階段へと視線を戻したが、倉持の姿はもう見えなかった。
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