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八、
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周りが立ち上がり始めてから、やっと、講義が終わったことに気がついた。
世川は何も書いていない真っ白なノートを閉じてリュックにしまい、席を立つ。今日は一限から授業を取っていたはずだが、朝っぱらからずっとぼんやりしていたため、ほとんど何も覚えてはいない。残っている記憶といえば、昨晩の一ノ瀬の、憎たらしいほどに呑気な寝顔くらいなものだ。同じ布団に入ったが彼は早々に眠ってしまい、寝付けなかった世川は天井と一ノ瀬の横顔を交互に見つめ続け、やっと浅い眠りに落ちた頃に目覚まし時計に叩き起こされたのだ。
しかも、今日はこの後アルバイトまである。少し憂鬱な気持ちで校舎を出ようとすると、「あ、世川くん」と声が飛んできた。振り返ると、新島が笑顔を向けていて、世川は今日やっと目が覚めたような気持ちになった。
「今、帰り? 一緒に帰らない?」
頷いて、駅まで向かう。新島が居る方の左の肩だけあたたかい気がして落ち着かなかった。自分が緊張しているのか冷静なのかわからなくなってきて、こっそりと脈を取ってみたが、普段の脈拍を知らず比較ができなくて、余計にわからなくなった。
「昨日も探したんだけど、見つけられなくて」
「バイトだったから、急いで帰ったんだ」
世川は、自分の口から流暢な嘘がついて出たことに驚いた。本当は一ノ瀬に早く会いたくて帰ったことも、その間新島に告白されたことをすっかり忘れていたことも、考えるよりも先に隠した自分の性質が不気味に感じられた。
「そうだったんだ、ごめんね」
そうとも知らない新島が謝ったため、世川も反射的に謝る。「何で世川くんが謝るの」と新島が笑った。
「そういえば、世川くんって何のバイトしてるの?」
「弁当屋だよ」
新島は「なんか意外。だけど、納得と言えば納得」と真面目な顔で頷く。仕草も表情も一々可愛らしくて、世川は気づけば彼女の一挙一動を目で追っている。
「何でお弁当屋さんなの?」
「家から近いから」
「理由は本当に意外」
新島がまた笑った。大きな目が細められて、オレンジ色とピンク色が淡いグラデーションになっている瞼と、長いまつ毛がよく見える。彼女の顔はどこを切り取っても作り物みたいに美しくて、華やかだった。それなのに、今まで出会ってきたそういう類の綺麗な女たちとは違って、纏う空気が柔らかい気がした。新島と会話をしていると、緊張はするが圧迫感を感じないのだ。自分の思慮の足りない言動によって相手が突然攻撃的になるのではないか、不意の失言を取り沙汰されるのではないか、自分の人間性を否定されるのではないかといった妄想に近い恐怖心が不思議と起こらない。思えば、宮田と話している時もそうだ。彼らと居ると、怯える必要がなく、隣でも息がしやすい。
この感覚は、大多数が共通して持っているのではないか。世川は思った。だからこそ、彼らは人に好かれるのではないか。
「あの、僕なんかでいいの」
思わず口に出していた。新島はぽかんとした顔をしたが、すぐに
「そうだよね、その話をしに来たんだった」と世川の言葉の意味を理解する。
「ほんとに、急でごめんね。あんまり喋ったこともないのに」
「いや、僕としてはそりゃあすごい嬉しいし、夢みたいな感じではあるんだけど。僕、別に何にもできないし、女の子と付き合ったこともないし、いいのかなって」
言うと、新島は「付き合ったことないんだ」と呟いて世川の顔をじっと見つめた。
「私は、世川くんが良いの」
新島の艶やかなピンク色の唇が動く。口角が少し持ち上がっている気がした。何故? と世川は思う。
「あ、信じてない?」
「あの、いや……」
とんでもない幸運だ、ぐらいにしか思っていなかった世川だが、彼女を目の前にすると、「幸運」だけで片付けられる話ではないという実感が湧いてきた。うまい話にも程があるのだ。世川のその懐疑心を解くように、新島は色素の薄い瞳で世川を見上げながら、経緯を話していく。
「宮田と話しているところを見て、最初から気になってはいたんだ。何だろう、見た目もそうだけど、話し方とかかなぁ。すごく落ち着いてる人だなぁと思って」
落ち着いているのではなく、暗いだけだ。世川はそう口を挟もうとしたが、都合の良いように解釈されているのだから訂正する必要もないかと思い直し、口をつぐんだ。
「それで、何回か話したでしょ? その時に、やっぱり優しい人だなぁってわかったの。あの、何だっけ、あの子。……山梨くん?」
「山形?」
「そう。あの子が突っかかってた時も、世川くん全然言い返さないというか、穏やかな感じだったしさ。宮田の方がイライラしてたぐらいだもん」
「そうだったっけ……」
「うん。同年代の男子よりも、大人っぽい感じ。そういうところが、いいなぁって……」
そこまで言って、新島は恥ずかしそうに俯いた。その恥じらいが世川にまで伝染し、頬が熱くなった。指先で自身の頬に無意味に触れる。
「ありがとう。でもやっぱり、新島さんは可愛くて優しくて人気があるから……僕と付き合ったら、その、変じゃないかな」
「そんなことないよ」
新島が瞬時に顔を上げた。それから、世川の汗で湿った手を両手で包んだ。彼女の手は小さくて温かくて、赤ん坊のようにすべすべしていて、同じ人間とは思えなかった。
「私は、世川くんみたいな人を探してたんだよ」
まるで恋愛ドラマのセリフのようだ。と、耳まで赤くした世川は思った。女神というものがこの世界に存在するのならば、きっと新島の姿をしているのだろう。浮かれた頭でそう考える世川だが、同時に、小さな違和感のようなものを覚えてもいた。甘美的な言葉を放った新島本人の表情が、この状況に浮かれたり自身に酔いしれている様子が微塵もなく、真剣そのものだったからだろうか。
世川の視線に気がついた新島は、また照れたように視線を外す。
「とか言っちゃったけど、まだお互いのことよく知らなからさ。これからいっぱい知っていけたらいいなって思ってます」
改まった口調で言うので、世川も思わず「僕もそう思います」と真似た口調で返した。新島が「何で世川くんまで」と子供のように笑った。
「連絡先も知らないもんね、私たち」
「あ、そうだったね」
普段他人と連絡を取ることなど滅多にないためすっかり忘れていたが、世川の家には電話機という便利な通信機器があったのだった。世川と新島は、お互いの家の電話番号をメモに書いて交換し、世川のバイトを理由に駅のホームで解散した。別れたあとに一度世川が振り返ると、新島はまだ手を振りながら世川を見送っていて、やたらと嬉しくなった。
バイトが終わって家のポストを確認すると、祖父から手紙が届いていた。そういえば、以前貰った手紙には返事を出しただろうか。世川は数日前の記憶を手繰り寄せようと努力したが、全く思い出せないということは、出していないのだろう。
祖父にはもう、しばらく会っていない。母が帰って来なくなった頃はまだ小学生だったから、当初は祖父が定期的に食事を作りに来てくれたが、中学に上がって半年も経つとその頻度も落ち、高校にあがる頃にはほとんど顔を見せなくなった。今ではもう、祖父の顔も声も思い出せない。たまに送られてくる手紙で、かろうじて生きていることがわかる。
便箋には、以前と同じようなことが書いてあった。勉学に励め、友人を沢山作れ、誠実であれ、といったようなことだ。世川はテーブルに肘杖をついてその達筆を目で追っているうちに、強烈な睡魔に襲われ始める。バイト先でくすねた廃棄の弁当に手をつけずにテーブルに突っ伏し、仮眠を取ろうとした時、聞き慣れない電子音が鳴った。電話だ。ぼんやりした頭でそれを理解し、世川は重たい身体を起こす。
この電話が鳴っているところを見るのは随分と久しい。日中セールスなどでかかってきているのかもしれないが、世川が家に居る時に鳴ることはほとんどない。
受話器を取ると、「もしもし」と柔らかい声が聞こえてきた。今までに聞いた「もしもし」の中で、一番可愛らしい響きの「もしもし」だった。何と言うべきがわからずに「もしもし」と返すと、新島の笑い声が聞こえてきて、笑ったまま「こんばんは」と言った。電話越しに聞く彼女の声は、生で聞くよりも落ち着いて聞こえて、また緊張した。
新島は、家族がうるさいからあまり長く通話はできないと言った。
「そういえば、新島さんって兄弟いるの?」
「妹がいるよ」
「ああ、なんか、そんな感じ」
「よく言われる。世川くんは?」
「僕は一人っ子」
「うん、そんな感じ」
兄弟どころかまともに家族もいないが、それは新島には言わない方がいいような気がした。
十五分ぐらいだろうか、二人は他愛のない話をした。今何しているかとか、夕飯はなんだったかとか、今度二人で出かけようとか、恐らく平均的な大学生らしい会話をし、新島が「そろそろ切ろうか」と言い出したのをきっかけに、また明日と言って、電話を切る。
受話器を当てていた耳が痺れていた。強く押しつけ過ぎていたことに、受話器を離してから気がついた。感覚の鈍い耳輪を指で擦る。
眠気はすっかり覚めていて、テーブルの上に広げてあった祖父の手紙にもう一度目を通す。若いうちにしかできない経験を進んでしろ、といったことが書いてある。具体的にどういった事柄かは記されていなかったが、世川は祖父の文字の羅列に「はーい」と返事をしてみた。祖父は、世川が人望も美貌も内面も兼ね備えた少女と付き合っていることを知ったら、喜ぶだろうか。母の二の舞にはなるなと言うだろうか。それとも、どうでもいいと思うのだろうか。
「昨日、お前と新島が一緒に帰るとこ見たよ」
翌日の昼時、宮田と顔を合わせると、彼は挨拶もそこそこにそう切り出した。
「いつの間にそんなに仲良くなったんだよ」
茶化すような笑みを世川に向けている。てっきり新島が伝えたものとばかり思っていたが、この様子だと何も聞いていないのかもしれない。「新島さんから聞いてない?」と念の為聞くと、宮田は「何が?」と見当もつかないといった顔をする。
「えっと、実は……」
世川は一昨日と昨日の出来事をおおまかに説明する。宮田はまず、世川が新島に告白されたことを伝えた時点で「え?」とだけ発し、そこからは呆然とした表情で黙って世川の言葉を聞いていた。
世川は、宮田が喜んで祝福をしてくれると思って疑わなかった。一ノ瀬がそうしてくれたように、笑顔で良かったなと言ってくれるだろうと予想していた。しかし、世川の説明を聞き終えた宮田は、喜んでいるとは言い難い、浮かない顔をしていた。
宮田が、世川と新島の交際を良く思っていないのは、明らかだった。何故か、と世川は咄嗟に考える。まさか宮田は山形の言う通り、新島のことが好きなのではないか。その考えに至った世川は、全身からさっと血の気が引くのがわかった。やはり、最初に彼に意見を伺うべきだったのだ。新島と付き合えるのは嬉しいが、それによって宮田に嫌われるのであれば、元も子もない。
やはり断ろうと世川が考えたところで、その思案を察したのか宮田は「あ、違うからな」と口を開いた。
「いや、ごめんごめん。かなりびっくりしてさ。あいつもさぁ、まず俺に相談してくれればいいのにって思っただけで」
宮田はいつものように明るい笑みを浮かべて、おめでとう。と言った。
「意外と相性いいかもな。世川も新島も、良い奴だし、優しいし」
その言葉に反射的に謙遜で返すと、宮田は「ほら、そういうとこも」と揶揄う。
世川は拍子抜けした。しかし、もちろん彼の言葉を完全に信じたわけではなかった。きっと、手放しで喜べない理由があるのだ。しかしそれを問いただしたところで教えてくれるとも思えなかったし、そこまで踏み込んでいいものかもわからない。そういえば、山形が以前、新島を気にしていた。そういうところに気を回してくれていたのかもしれない。
正解に辿り着けるわけのない思案を巡らせながら宮田と当たり障りのない会話をして、午後の講義があるからと別れた。
以前山形が宮田に「新島のことを好きか」と問うた時、宮田は可笑しそうに笑っていたはずだ。あれが演技とは到底思えなかった。宮田は新島のことをどう思っていて、それから新島も宮田のことをどう思っているのだろうか。二人はどういう関係で、いつからの付き合いなのだろうか。新島に会ったら少しだけ聞いてみようかと思ったが、その日は新島に会うことのないままバイトに行かなければならない時間が来て、世川はひっかかりを抱えたまま大学を出た。
夜勤組と交代をしてタイムカードを切り、従業員用の裏口から店を出る。倉持がいるのではないかと灰皿が設置されている辺りを見ても、人影はなかった。
今日のシフトメンバーは、ベテラン高校生と、世川と同時期に入った大学生の青年といういつもの顔ぶれだけだった。二人は倉持という男が意外と気さくで面白い人間だとはまだ知らないようで、倉持が次にこの店舗に来るのはいつだろうかと話を振る世川に対し、「一生来なくて良い」と声を揃えて言った。勿体ないなと世川は思ったが、この二人がいずれ倉持の本性を知った時に自分と同じくらい驚いてほしいと思い、倉持の堅物で嫌味なイメージを削ぐ話はしないでおこうと思った。
家に帰って、高校生が渡してくれた廃棄の惣菜と、社割で安く購入したおにぎりを食べる。近くで鳴いている虫の声と自分の咀嚼音だけが、しんと静まり返る平屋の中で存在感を持っていた。虫が鳴き止み、食事が終わったら、耳が痛くなるような静寂が訪れる。いつものことであるはずなのに、堪え難いことのように思えた。
電話が鳴ればいいのに、と世川は思った。その相手が一ノ瀬だったらいいのに、とも思う。しかしそれはどれだけ願ったところで、起こり得ないことだ。一ノ瀬は、世川の家の電話番号を知らない。教えたところで、きっとかけてはこない。
おにぎりの最後の一口を咀嚼しつつ、一ノ瀬に会いたいなとふと思った。だが、世川は一ノ瀬の所在を知らない。彼には住所も連絡先も存在しないのだから、こちらからは連絡の取りようがない。
一ノ瀬の方に会う気がなければ、もう二度と彼に会えないまま生涯を終える可能性だってある。それを唐突に自覚して、世川は途端に恐ろしくなった。
一昨日、この部屋に布団を敷き、一ノ瀬と窮屈な思いをしながら眠った夜のことを思い出す。彼は月光を受けてぼんやりと明るくなった天井を見つめながら、「学校もバイトも、変わりないか」と言った。ファミリー映画の父親役のようなセリフに、世川は可笑しくなって小さく笑った。
「ないよ」
「辛いこともないか」
「うん、最近はあまり、ない」
世川が答えると、一ノ瀬はそりゃあいいや。とあくびをかみ殺した様子で言い、「お前、少し前まで、あんまり楽しくなさそうだったから」と続けて、今度は大きくあくびをした。
一ノ瀬の声が、言葉が、腹の奥深くまであたたかく溶けていったように感じた。世川は衝撃にも近い、しかし衝撃というには優しすぎる、苦しみや哀しみのような形容し難い感情を伴った鈍痛のようなものを受けた。つまりは、目の前の男を今すぐに抱きしめたいと思ったのだが、彼は眠たそうにしていたし、やはり我慢のならない犬だと思われたくなく、じっと堪えた。
衝動が収まってから、世川は声に動揺が現れないように細心の注意を払いつつ、
「一ノ瀬は、辛いことはない?」と聞き返した。
「一ノ瀬が毎日、楽しいばかりだと良いなと思う。そうであって欲しいと思うよ」
本心だった。少なくともその瞬間は、彼がこの世界に存在する全てから愛されて、一つの悲しみや苦しみも覚えぬままに生きていってほしいと思った。
「そんなこと、初めて言われた」
一ノ瀬が酔いのせいか眠気のせいか、呂律の回らない声で言う。暗くて表情がよく見えなかったから、その声音に含まれる感情が驚きなのか呆れなのか、それ以外なのか、判断がつかなかった。
一ノ瀬はそのまま世川の問いに答えることなく寝息を立て始めた。そして翌朝、世川は一ノ瀬とこの部屋で別れた。家の鍵はいつもの通り、ポストに入れられていた。
世川は虫の声を耳に椅子から立ち上がり、惣菜のパックとおにぎりのビニールを無造作にゴミ袋に押し込む。
彼の毎日が、楽しいことばかりだと良いと、心の底から思っている。彼の生きる世界が楽しいことで満たされていて欲しいと願っている。だが、その世界に世川が存在しないのだとしたら、一ノ瀬の幸せに世川が不必要なのだとしたら、世川の願いは全てが反転するのだと、彼は気づいているだろうか。
広げっぱなしの祖父からの便箋が、風もないのにテーブルから床に落下する。世川は便箋を拾い上げて、ふと電話機に目を向ける。台と機械の設置面に、新島の家の電話番号が書かれたメモ紙が挟まっている。整った綺麗な字だ。母親の丸っこい文字とは違う。まるで違う。
世川は閉ざされた物置の扉に視線を移した。炎天下の中、一ノ瀬を家に残して公園の花壇に自分の血液を撒いて以来、存在を隠すように押し込まれたバケツが眠っているタンス。二度と開けることがないと良い、と思っている。その方がきっと、正しいのだから。
傷跡だらけの腕が痒い気がして、短い爪でがりがりと皮膚を掻いた。その間も世川は物置の扉から目を離すことができなかった。
眩暈がしてくる。虫の声が止んでいて、ガリガリと皮膚を掻く音が部屋に反響した。世川は、明日にでも祖父に手紙を返そうと思った。そして、この便箋を早く捨てようと思った。
続
世川は何も書いていない真っ白なノートを閉じてリュックにしまい、席を立つ。今日は一限から授業を取っていたはずだが、朝っぱらからずっとぼんやりしていたため、ほとんど何も覚えてはいない。残っている記憶といえば、昨晩の一ノ瀬の、憎たらしいほどに呑気な寝顔くらいなものだ。同じ布団に入ったが彼は早々に眠ってしまい、寝付けなかった世川は天井と一ノ瀬の横顔を交互に見つめ続け、やっと浅い眠りに落ちた頃に目覚まし時計に叩き起こされたのだ。
しかも、今日はこの後アルバイトまである。少し憂鬱な気持ちで校舎を出ようとすると、「あ、世川くん」と声が飛んできた。振り返ると、新島が笑顔を向けていて、世川は今日やっと目が覚めたような気持ちになった。
「今、帰り? 一緒に帰らない?」
頷いて、駅まで向かう。新島が居る方の左の肩だけあたたかい気がして落ち着かなかった。自分が緊張しているのか冷静なのかわからなくなってきて、こっそりと脈を取ってみたが、普段の脈拍を知らず比較ができなくて、余計にわからなくなった。
「昨日も探したんだけど、見つけられなくて」
「バイトだったから、急いで帰ったんだ」
世川は、自分の口から流暢な嘘がついて出たことに驚いた。本当は一ノ瀬に早く会いたくて帰ったことも、その間新島に告白されたことをすっかり忘れていたことも、考えるよりも先に隠した自分の性質が不気味に感じられた。
「そうだったんだ、ごめんね」
そうとも知らない新島が謝ったため、世川も反射的に謝る。「何で世川くんが謝るの」と新島が笑った。
「そういえば、世川くんって何のバイトしてるの?」
「弁当屋だよ」
新島は「なんか意外。だけど、納得と言えば納得」と真面目な顔で頷く。仕草も表情も一々可愛らしくて、世川は気づけば彼女の一挙一動を目で追っている。
「何でお弁当屋さんなの?」
「家から近いから」
「理由は本当に意外」
新島がまた笑った。大きな目が細められて、オレンジ色とピンク色が淡いグラデーションになっている瞼と、長いまつ毛がよく見える。彼女の顔はどこを切り取っても作り物みたいに美しくて、華やかだった。それなのに、今まで出会ってきたそういう類の綺麗な女たちとは違って、纏う空気が柔らかい気がした。新島と会話をしていると、緊張はするが圧迫感を感じないのだ。自分の思慮の足りない言動によって相手が突然攻撃的になるのではないか、不意の失言を取り沙汰されるのではないか、自分の人間性を否定されるのではないかといった妄想に近い恐怖心が不思議と起こらない。思えば、宮田と話している時もそうだ。彼らと居ると、怯える必要がなく、隣でも息がしやすい。
この感覚は、大多数が共通して持っているのではないか。世川は思った。だからこそ、彼らは人に好かれるのではないか。
「あの、僕なんかでいいの」
思わず口に出していた。新島はぽかんとした顔をしたが、すぐに
「そうだよね、その話をしに来たんだった」と世川の言葉の意味を理解する。
「ほんとに、急でごめんね。あんまり喋ったこともないのに」
「いや、僕としてはそりゃあすごい嬉しいし、夢みたいな感じではあるんだけど。僕、別に何にもできないし、女の子と付き合ったこともないし、いいのかなって」
言うと、新島は「付き合ったことないんだ」と呟いて世川の顔をじっと見つめた。
「私は、世川くんが良いの」
新島の艶やかなピンク色の唇が動く。口角が少し持ち上がっている気がした。何故? と世川は思う。
「あ、信じてない?」
「あの、いや……」
とんでもない幸運だ、ぐらいにしか思っていなかった世川だが、彼女を目の前にすると、「幸運」だけで片付けられる話ではないという実感が湧いてきた。うまい話にも程があるのだ。世川のその懐疑心を解くように、新島は色素の薄い瞳で世川を見上げながら、経緯を話していく。
「宮田と話しているところを見て、最初から気になってはいたんだ。何だろう、見た目もそうだけど、話し方とかかなぁ。すごく落ち着いてる人だなぁと思って」
落ち着いているのではなく、暗いだけだ。世川はそう口を挟もうとしたが、都合の良いように解釈されているのだから訂正する必要もないかと思い直し、口をつぐんだ。
「それで、何回か話したでしょ? その時に、やっぱり優しい人だなぁってわかったの。あの、何だっけ、あの子。……山梨くん?」
「山形?」
「そう。あの子が突っかかってた時も、世川くん全然言い返さないというか、穏やかな感じだったしさ。宮田の方がイライラしてたぐらいだもん」
「そうだったっけ……」
「うん。同年代の男子よりも、大人っぽい感じ。そういうところが、いいなぁって……」
そこまで言って、新島は恥ずかしそうに俯いた。その恥じらいが世川にまで伝染し、頬が熱くなった。指先で自身の頬に無意味に触れる。
「ありがとう。でもやっぱり、新島さんは可愛くて優しくて人気があるから……僕と付き合ったら、その、変じゃないかな」
「そんなことないよ」
新島が瞬時に顔を上げた。それから、世川の汗で湿った手を両手で包んだ。彼女の手は小さくて温かくて、赤ん坊のようにすべすべしていて、同じ人間とは思えなかった。
「私は、世川くんみたいな人を探してたんだよ」
まるで恋愛ドラマのセリフのようだ。と、耳まで赤くした世川は思った。女神というものがこの世界に存在するのならば、きっと新島の姿をしているのだろう。浮かれた頭でそう考える世川だが、同時に、小さな違和感のようなものを覚えてもいた。甘美的な言葉を放った新島本人の表情が、この状況に浮かれたり自身に酔いしれている様子が微塵もなく、真剣そのものだったからだろうか。
世川の視線に気がついた新島は、また照れたように視線を外す。
「とか言っちゃったけど、まだお互いのことよく知らなからさ。これからいっぱい知っていけたらいいなって思ってます」
改まった口調で言うので、世川も思わず「僕もそう思います」と真似た口調で返した。新島が「何で世川くんまで」と子供のように笑った。
「連絡先も知らないもんね、私たち」
「あ、そうだったね」
普段他人と連絡を取ることなど滅多にないためすっかり忘れていたが、世川の家には電話機という便利な通信機器があったのだった。世川と新島は、お互いの家の電話番号をメモに書いて交換し、世川のバイトを理由に駅のホームで解散した。別れたあとに一度世川が振り返ると、新島はまだ手を振りながら世川を見送っていて、やたらと嬉しくなった。
バイトが終わって家のポストを確認すると、祖父から手紙が届いていた。そういえば、以前貰った手紙には返事を出しただろうか。世川は数日前の記憶を手繰り寄せようと努力したが、全く思い出せないということは、出していないのだろう。
祖父にはもう、しばらく会っていない。母が帰って来なくなった頃はまだ小学生だったから、当初は祖父が定期的に食事を作りに来てくれたが、中学に上がって半年も経つとその頻度も落ち、高校にあがる頃にはほとんど顔を見せなくなった。今ではもう、祖父の顔も声も思い出せない。たまに送られてくる手紙で、かろうじて生きていることがわかる。
便箋には、以前と同じようなことが書いてあった。勉学に励め、友人を沢山作れ、誠実であれ、といったようなことだ。世川はテーブルに肘杖をついてその達筆を目で追っているうちに、強烈な睡魔に襲われ始める。バイト先でくすねた廃棄の弁当に手をつけずにテーブルに突っ伏し、仮眠を取ろうとした時、聞き慣れない電子音が鳴った。電話だ。ぼんやりした頭でそれを理解し、世川は重たい身体を起こす。
この電話が鳴っているところを見るのは随分と久しい。日中セールスなどでかかってきているのかもしれないが、世川が家に居る時に鳴ることはほとんどない。
受話器を取ると、「もしもし」と柔らかい声が聞こえてきた。今までに聞いた「もしもし」の中で、一番可愛らしい響きの「もしもし」だった。何と言うべきがわからずに「もしもし」と返すと、新島の笑い声が聞こえてきて、笑ったまま「こんばんは」と言った。電話越しに聞く彼女の声は、生で聞くよりも落ち着いて聞こえて、また緊張した。
新島は、家族がうるさいからあまり長く通話はできないと言った。
「そういえば、新島さんって兄弟いるの?」
「妹がいるよ」
「ああ、なんか、そんな感じ」
「よく言われる。世川くんは?」
「僕は一人っ子」
「うん、そんな感じ」
兄弟どころかまともに家族もいないが、それは新島には言わない方がいいような気がした。
十五分ぐらいだろうか、二人は他愛のない話をした。今何しているかとか、夕飯はなんだったかとか、今度二人で出かけようとか、恐らく平均的な大学生らしい会話をし、新島が「そろそろ切ろうか」と言い出したのをきっかけに、また明日と言って、電話を切る。
受話器を当てていた耳が痺れていた。強く押しつけ過ぎていたことに、受話器を離してから気がついた。感覚の鈍い耳輪を指で擦る。
眠気はすっかり覚めていて、テーブルの上に広げてあった祖父の手紙にもう一度目を通す。若いうちにしかできない経験を進んでしろ、といったことが書いてある。具体的にどういった事柄かは記されていなかったが、世川は祖父の文字の羅列に「はーい」と返事をしてみた。祖父は、世川が人望も美貌も内面も兼ね備えた少女と付き合っていることを知ったら、喜ぶだろうか。母の二の舞にはなるなと言うだろうか。それとも、どうでもいいと思うのだろうか。
「昨日、お前と新島が一緒に帰るとこ見たよ」
翌日の昼時、宮田と顔を合わせると、彼は挨拶もそこそこにそう切り出した。
「いつの間にそんなに仲良くなったんだよ」
茶化すような笑みを世川に向けている。てっきり新島が伝えたものとばかり思っていたが、この様子だと何も聞いていないのかもしれない。「新島さんから聞いてない?」と念の為聞くと、宮田は「何が?」と見当もつかないといった顔をする。
「えっと、実は……」
世川は一昨日と昨日の出来事をおおまかに説明する。宮田はまず、世川が新島に告白されたことを伝えた時点で「え?」とだけ発し、そこからは呆然とした表情で黙って世川の言葉を聞いていた。
世川は、宮田が喜んで祝福をしてくれると思って疑わなかった。一ノ瀬がそうしてくれたように、笑顔で良かったなと言ってくれるだろうと予想していた。しかし、世川の説明を聞き終えた宮田は、喜んでいるとは言い難い、浮かない顔をしていた。
宮田が、世川と新島の交際を良く思っていないのは、明らかだった。何故か、と世川は咄嗟に考える。まさか宮田は山形の言う通り、新島のことが好きなのではないか。その考えに至った世川は、全身からさっと血の気が引くのがわかった。やはり、最初に彼に意見を伺うべきだったのだ。新島と付き合えるのは嬉しいが、それによって宮田に嫌われるのであれば、元も子もない。
やはり断ろうと世川が考えたところで、その思案を察したのか宮田は「あ、違うからな」と口を開いた。
「いや、ごめんごめん。かなりびっくりしてさ。あいつもさぁ、まず俺に相談してくれればいいのにって思っただけで」
宮田はいつものように明るい笑みを浮かべて、おめでとう。と言った。
「意外と相性いいかもな。世川も新島も、良い奴だし、優しいし」
その言葉に反射的に謙遜で返すと、宮田は「ほら、そういうとこも」と揶揄う。
世川は拍子抜けした。しかし、もちろん彼の言葉を完全に信じたわけではなかった。きっと、手放しで喜べない理由があるのだ。しかしそれを問いただしたところで教えてくれるとも思えなかったし、そこまで踏み込んでいいものかもわからない。そういえば、山形が以前、新島を気にしていた。そういうところに気を回してくれていたのかもしれない。
正解に辿り着けるわけのない思案を巡らせながら宮田と当たり障りのない会話をして、午後の講義があるからと別れた。
以前山形が宮田に「新島のことを好きか」と問うた時、宮田は可笑しそうに笑っていたはずだ。あれが演技とは到底思えなかった。宮田は新島のことをどう思っていて、それから新島も宮田のことをどう思っているのだろうか。二人はどういう関係で、いつからの付き合いなのだろうか。新島に会ったら少しだけ聞いてみようかと思ったが、その日は新島に会うことのないままバイトに行かなければならない時間が来て、世川はひっかかりを抱えたまま大学を出た。
夜勤組と交代をしてタイムカードを切り、従業員用の裏口から店を出る。倉持がいるのではないかと灰皿が設置されている辺りを見ても、人影はなかった。
今日のシフトメンバーは、ベテラン高校生と、世川と同時期に入った大学生の青年といういつもの顔ぶれだけだった。二人は倉持という男が意外と気さくで面白い人間だとはまだ知らないようで、倉持が次にこの店舗に来るのはいつだろうかと話を振る世川に対し、「一生来なくて良い」と声を揃えて言った。勿体ないなと世川は思ったが、この二人がいずれ倉持の本性を知った時に自分と同じくらい驚いてほしいと思い、倉持の堅物で嫌味なイメージを削ぐ話はしないでおこうと思った。
家に帰って、高校生が渡してくれた廃棄の惣菜と、社割で安く購入したおにぎりを食べる。近くで鳴いている虫の声と自分の咀嚼音だけが、しんと静まり返る平屋の中で存在感を持っていた。虫が鳴き止み、食事が終わったら、耳が痛くなるような静寂が訪れる。いつものことであるはずなのに、堪え難いことのように思えた。
電話が鳴ればいいのに、と世川は思った。その相手が一ノ瀬だったらいいのに、とも思う。しかしそれはどれだけ願ったところで、起こり得ないことだ。一ノ瀬は、世川の家の電話番号を知らない。教えたところで、きっとかけてはこない。
おにぎりの最後の一口を咀嚼しつつ、一ノ瀬に会いたいなとふと思った。だが、世川は一ノ瀬の所在を知らない。彼には住所も連絡先も存在しないのだから、こちらからは連絡の取りようがない。
一ノ瀬の方に会う気がなければ、もう二度と彼に会えないまま生涯を終える可能性だってある。それを唐突に自覚して、世川は途端に恐ろしくなった。
一昨日、この部屋に布団を敷き、一ノ瀬と窮屈な思いをしながら眠った夜のことを思い出す。彼は月光を受けてぼんやりと明るくなった天井を見つめながら、「学校もバイトも、変わりないか」と言った。ファミリー映画の父親役のようなセリフに、世川は可笑しくなって小さく笑った。
「ないよ」
「辛いこともないか」
「うん、最近はあまり、ない」
世川が答えると、一ノ瀬はそりゃあいいや。とあくびをかみ殺した様子で言い、「お前、少し前まで、あんまり楽しくなさそうだったから」と続けて、今度は大きくあくびをした。
一ノ瀬の声が、言葉が、腹の奥深くまであたたかく溶けていったように感じた。世川は衝撃にも近い、しかし衝撃というには優しすぎる、苦しみや哀しみのような形容し難い感情を伴った鈍痛のようなものを受けた。つまりは、目の前の男を今すぐに抱きしめたいと思ったのだが、彼は眠たそうにしていたし、やはり我慢のならない犬だと思われたくなく、じっと堪えた。
衝動が収まってから、世川は声に動揺が現れないように細心の注意を払いつつ、
「一ノ瀬は、辛いことはない?」と聞き返した。
「一ノ瀬が毎日、楽しいばかりだと良いなと思う。そうであって欲しいと思うよ」
本心だった。少なくともその瞬間は、彼がこの世界に存在する全てから愛されて、一つの悲しみや苦しみも覚えぬままに生きていってほしいと思った。
「そんなこと、初めて言われた」
一ノ瀬が酔いのせいか眠気のせいか、呂律の回らない声で言う。暗くて表情がよく見えなかったから、その声音に含まれる感情が驚きなのか呆れなのか、それ以外なのか、判断がつかなかった。
一ノ瀬はそのまま世川の問いに答えることなく寝息を立て始めた。そして翌朝、世川は一ノ瀬とこの部屋で別れた。家の鍵はいつもの通り、ポストに入れられていた。
世川は虫の声を耳に椅子から立ち上がり、惣菜のパックとおにぎりのビニールを無造作にゴミ袋に押し込む。
彼の毎日が、楽しいことばかりだと良いと、心の底から思っている。彼の生きる世界が楽しいことで満たされていて欲しいと願っている。だが、その世界に世川が存在しないのだとしたら、一ノ瀬の幸せに世川が不必要なのだとしたら、世川の願いは全てが反転するのだと、彼は気づいているだろうか。
広げっぱなしの祖父からの便箋が、風もないのにテーブルから床に落下する。世川は便箋を拾い上げて、ふと電話機に目を向ける。台と機械の設置面に、新島の家の電話番号が書かれたメモ紙が挟まっている。整った綺麗な字だ。母親の丸っこい文字とは違う。まるで違う。
世川は閉ざされた物置の扉に視線を移した。炎天下の中、一ノ瀬を家に残して公園の花壇に自分の血液を撒いて以来、存在を隠すように押し込まれたバケツが眠っているタンス。二度と開けることがないと良い、と思っている。その方がきっと、正しいのだから。
傷跡だらけの腕が痒い気がして、短い爪でがりがりと皮膚を掻いた。その間も世川は物置の扉から目を離すことができなかった。
眩暈がしてくる。虫の声が止んでいて、ガリガリと皮膚を掻く音が部屋に反響した。世川は、明日にでも祖父に手紙を返そうと思った。そして、この便箋を早く捨てようと思った。
続
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