バケツ

高下

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五、

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「あ、世川くんだ」
 講義の始まる十分ほど前、既に席に着いていた世川は名前を呼ばれて顔を上げた。そこにいたのは新島で、にこにこと笑顔を浮かべながらこちらを見下ろしている。赤いピアスをしているのが目に入って、なんとなく耳元を凝視する。
 おはようと挨拶をされたので挨拶をし返すと、「隣、いい?」と世川の返事も聞かずに隣の席にとすんと腰を下ろした。ふわりと甘い香りがした。世川は額に変な汗が滲み出すのを感じながら、「あ、うん」と随分と遅れて返事をする。新島がふふ、と控えめに笑った。世川は緊張と混乱のため、身体を固くして目を泳がせる。
「いつも来るの早いよね」
「そうかな。そうかも」
「そうだよ」
 新島は真っ直ぐに世川を見ているが、世川は見返すことが出来ずに机の上を眺めたり教卓に目を向けたり、時に新島のピアスを見つめたりと忙しなく視線を泳がせる。目が合うことがひどく恐ろしかったのだ。心臓がばくばくと鼓動している。一ノ瀬と話す時とはまた違った感覚で、もちろん宮田とも山形とも違う。
「なんだか、顔赤いよ」
 新島に指摘されて、さらに耳が熱くなるのを感じた。新島はそんな世川を相変わらずにこにこと楽しそうに眺めていて、世川は今すぐここから逃げ出したいような、それはそれで惜しいような気持ちになって、パタパタと手で顔を煽いで気持ちを紛らわせた。
「暑いの?」
 わかっているのかとぼけているのか、新島はのんびりと言う。世川が「少しだけ」と返して必死にぬるい風を起こしている間に、やっと講義が始まって、世川はひりひりする緊張感から少しだけ解放された。

「お前らが一緒にいるの、珍しいね」
 講義が終わって、一緒に席を立った世川と新島にそう声をかけたのは宮田だった。てっきり遅刻したと思っていたのだが、どうやら間に合っていたらしい。いや、遅刻はしたがそ知らぬ顔をして途中から参加したのかもしれないが。
「いつも一緒にいる子がさ、二日酔いでダウンしてるっていうし、世川くんも一人だったみたいだから」
 声かけちゃった、と新島が説明する。そういうことだったのか、と思いながら世川はなんとなく頷いた。宮田が二人の顔を見比べて「面白い組み合わせかもなぁ」と独り言のように言う。
「そう? まぁ、でも確かに、面白いよね、世川くんって」
「え、どこが……」
「反応とか、なんだろう。大人っぽいように見えるけど、結構可愛いところとか」
 褒められているのかは微妙なところだったが、少なくとも悪意はなさそうだったので「ありがとう」と礼を言う。そうしたら、新島と宮田は揃ってクスクスと笑い出した。場の空気を察する能力が乏しい世川はこれまでの人生において笑われることは少なくはなかったが、今回は馬鹿にされているわけではなく、むしろ楽しげな雰囲気であることがわかったので、一緒になって笑ってみた。女の子から面白いだなんて言われたことはこれまでにほとんどなかったため、世川は嬉しいような恥ずかしいような気持ちになって、また耳が熱くなる。

 講義が全て終わり、世川はなんとなく浮き足立った気持ちでアルバイトへと向かった。新島と至近距離で会話を交わしたことを思い出すと、まだ新鮮にあの緊張感や高揚感が蘇って顔に熱が集まる気がした。耳たぶに光っていたピアスや果実を思わせる甘い匂い、それから、こちらを見上げてくる大きな瞳。それらを脳裏に呼び起こすだけで勝手に頬が緩む。
 がらんと人気のない売り場を通って控え室に入った世川は、浮ついた気持ちが全て溶けてなくなっていくのを感じた。そこには倉持がいて、ちらりと世川を一瞥して「おつかれ」と低く、物音に紛れて消えていきそうな音量で言った。
「おつかれさまです」
 少し声が震えた気がして、羞恥が襲ってきた。そして徐々に、以前彼に言われた言葉がじわじわと世川の脳内に滲み出てきて、自分がいかに惨めであったかをありありと思い出した。
「まだ辞めないんだ」
 そんな世川の心境を見透かしたかのように、倉持が追い討ちをかけてきた。視線は控え室に設置された旧式のデスクトップパソコンに注がれている。世川は「はい」とだけ答えてそそくさと着替えを済ませて売り場に出た。
 新島のことはすっかり脳内から抜け落ちて、ただ、どんよりと濁った気持ちで仕事をこなしていく。いつもよりも、不手際のないように注意を払って、作り置き用の弁当を作ってストックのなくならないように米を炊いて、惣菜のカップを補充して、常に緊張感に身を置いて動いた。
「世川さん、どうかしたんですか」
 男子高校生が厨房から顔を出して、不思議そうな顔を浮かべて言う。
「どうして」
「なんだか、落ち着かないというか。焦ってるというか。もしかして、倉持さんがいるからですか?」
 全てにおいて図星だったので咄嗟に反応することができなかった。すると、男子高校生は「やっぱり」と納得のいったような顔をして「そんな緊張しなくても大丈夫ですよ。頑張ったところであの人、文句しか言わないんすから」と嘲笑ともとれる表情を浮かべる。
「っていうことは、言われたことあるの? 文句」
「あるに決まってるじゃないですか! 辞めたほうがいいとまで言われましたよ、俺」
 彼が即答すると、もう一人のバイトメンバーである大学生の青年も会話を聞きつけてかしゃもじ片手に「俺も」と声を潜める。三人で控え室に目をやるが、事務作業中なのか厨房に出てくる気配はない。
「俺も、もう何回も辞めろって言われてるよ。やる気が見られないとかなんとかで。笑って流してるけどね」
「……そうなんだ」
「もしかして世川さん、同じようなこと言われました?」
「うん、辞めろって。向いてないって。他の子の足手まといみたいなことを……」
「大丈夫だよ、それ、あの人にとったらコミュニケーションの一部みたいなもんだから。聞き流しとけばいいんだって」
 大学生が声を抑えて笑った。世川は、笑おうとしたけど空気が漏れただけだった。なんだ。なんだったんだ。コミュニケーションの一部だなんて、冗談じゃない。あの日の帰り道での屈辱的な気持ちを思い出して、激しい怒りが湧いてきた、と同時に、安心感が世川の全身を包み込んだ。
「世川さん、本気にしました? そんな必要ないですよ。今日も定時までゆるくやりましょう、時給変わるわけでもないんですから」
 高校生が軽口を叩きながら、世川の肩にぽんぽんと手を置いて「平常運転でいきましょう」とかったるそうに言った。その一言で世川はようやく冷静さを取り戻して、いつも通りのペース配分で、心持ちで、業務に臨んだ。
 夜勤組と交代し、駅へ向かう大学生と高校生の二人と別れて裏口を通って外に出る。控え室に倉持の姿がなかったところを見るに、また以前と同じ場所で煙草を吸っているのだろうと思ったが、その予想は的中していた。
「おつかれさまです」
「おつかれ」
 今度は、声は震えなかったと思う。
「今日はよく動いてたんじゃないの、君。弁当も不足してなかったし、余りもなさそうだった。まぁ、でも、向いてないとは思うけどね。他のバイト、探さないの?」
「倉持さんはそういうことを、他のアルバイトの方達にも言っているんですか?」
 純粋な興味があった。そんなことを続けていたらいずれバイトは皆嫌気がさして辞めていってしまうかもしれない。バイトがいなくなると弁当屋が回らなくなって、困ることになるのは社員だろう。つまり、倉持自身に負債が回ってくるのだ。それなのに何故、こんなことをするのかが気になった。
「言ってるね。全部事実だしね。高校生の子は要領がいいからもっと良い給料のところに行けるだろうし、もう一人の大学生の子は機転も効くし元気だし、居酒屋とかの方があってるんじゃないか。時給も良いしね。で、君は、要領も悪いし接客も下手くそだけど周りをよく見てるし細かいところに目がいくから、事務系なんて向いてるんじゃない」
 倉持のその回答は、世川が想像していなかったものだったから、どう処理すべきかわからなくなって大変に混乱した。つまり、もっと待遇の良い仕事を探せという話だったらしいのだ。
「だからってそんな、追い出すみたいな……」
「だって嫌じゃない? こんな無駄に忙しいし汚い弁当屋で低賃金で働くのって」
同意して良いものかわからなかったが、勢いにまかせて頷く。
「でも、もっと伝わりやすい言い方をした方がいいんじゃ」
「やだよ、めんどくせえ」
 倉持は本当にめんどくさそうに、乱暴にそう言い捨てた。突然口調が崩れたことに少しの驚きと恐怖心を抱きつつ、世川はこの際だからと口を開く。
「本当にバイトが皆いなくなっちゃったら、大変なのは倉持さんなんじゃないですか?」
「そうなったら店閉めちゃえば良いんじゃねえの。本社に反対されて阻止されるだろうけど、無理やり閉めてやる。俺、この仕事死ぬほど嫌いなんだよ」
 倉持は少し楽しそうに悪態をついた。世川はだいぶ混乱して、なんと返して良いのかわからずに倉持の持ち上がった口角を凝視していた。煙がもくもくと闇夜に登っていき、やがて暗闇の中に溶けて消える。倉持の手が短くなった煙草を灰皿の中へと落とした。
「じゃあ、気をつけて帰りなよ」
 今までの会話などなかったかのように業務用の表情に戻った倉持が、控え室に向かって歩き出した。世川の返事を背中に受けて、裏口の扉を開けて仕事に戻っていく。世川は、室内の光の滲み出る擦りガラスをしばらくの間ぼうっと見つめていたが、やがて緊張の糸が切れたことを自覚して深く息を吐き出し、歩き始めた。帰り道の途中で公園のゴミ箱を覗いてみたが、白いスニーカーはもう残っていなかった。


 一ノ瀬が世川の元を訪ねて来たのは、翌日の夜のことだった。
 バイトが終わる時間に弁当屋の前に突っ立っていて、声をかけると「泊めてくれ」と断る余地のなさそうな調子で言った。もちろん二つ返事で了承し、二人は並んで夜の道を歩き始める。
「夕飯は?」
「食べてきたから大丈夫だよ。それ、廃棄か?」
 一ノ瀬は、世川は手に下げているビニール袋の中の弁当を指した。
「うん。本当はダメなんだけど、社員さんが持って帰って良いって」
 倉持が「それ、持って帰って良いよ」と言い出した時、世川は心底びっくりした。規約違反を社員自身が、それもよりによって厳しいと有名な倉持が提案してくるだなんて思いもしなかったからだ。世川は断ろうとするも、「お前だけだろ、こういうことしてないの。だから今日は特別に許可してやる」と皮肉っぽく笑って言った。
 倉持は昨日の一件以来、やけに砕けた態度を見せてくるようになった。本音に近いところを見られたからと開き直っているのか、今までの恐怖心や緊張感を煽るような雰囲気は鳴りを潜め、その代わりにいくらか子供っぽい一面を見せてくる。世川の中で、社員イコールちゃんとした大人という固定概念があったのだが、それが揺らぐほどには倉持は雑でテキトーで面倒くさがりで、口も悪いものの、意外と世話好きのようだった。
「今日は忙しかったし、持ってけ」と差し出してきた焼肉弁当を、世川はおずおずと受け取った。多少の罪悪感があったが、「上には言うなよ」と倉持が言ったので、つまり自分と倉持とは共犯であるのだと思うといくらか気が楽になった。受け取るときに、倉持は「昨日のことも、誰にも言うなよ」とぼそりと言ったので、世川は「言いませんよ」と笑った。
「良かったな。話のわかる奴がいて」
 一ノ瀬が吸いかけの煙草を地面に落としながら言った。
「この間まで一番苦手だったんだけどね」
「どんな奴?」
 珍しく興味を持っているらしい。世川はまださほど離れていない弁当屋を指差して「今レジやってる人」と教えてやる。レジの奥でかったるそうにモニターをいじっている倉持がかろうじて見えた。
「倉持さんっていうんだけど、少し変わってる人」
「ふーん」
 一ノ瀬はしばし目を凝らして倉持の姿を見ていたが、やがて興味を失ったようで視線を外した。歩き出した一ノ瀬の後を追ってのろのろと歩き出す。
「どう変わってんの、その人」
「どうって……うーん。ちょっと厳しい人だと思ってたんだけど、話してみるとそうでもないというか、むしろ砕けた人というか」
「へぇ。でも、良かったな。バイト先にいい奴がいて」
 この前、なんだか元気がなかっただろう、と一ノ瀬が不意に振り返った。黒い空に星が散らばっているのがよく見える。近くに街灯もない道なのに、一ノ瀬が笑っているのがちゃんと見えた。
「うん。良かった。最近、バイトでも学校でも、結構いい人たちに囲まれてるんだ」
「そっか。じゃあ、もうあんまり寂しくならないな」
 一ノ瀬の言葉は、虫の声の響く夜の隙間にするりと落ちていった。寂しくないのだろうか。僕は今、寂しくはないのだろうか。一ノ瀬はどうなんだろうか。僕が寂しくないと、一ノ瀬は寂しいのだろうか。それとも、一ノ瀬は寂しいなんて感情は端から持ち合わせていないのだろうか。
「一ノ瀬」
名前を呼ぶと、彼はふいと顔を上げた。長い黒色の髪が目の大部分を隠している。その奥から覗く瞳は、いつも通り黒く濁っていて、何を考えているのかなんてわからない。聞いたところで教えてくれないだろう。
「一ノ瀬は、寂しい?」
 聞くと、瞳の中がどろりと濁りを増した気がした。しかし彼はすぐにからからと笑って「お前、変なことばっかり言うね」とすたすたと歩みを進める。世川は結局その答えにたどり着けないまま、うだるような暑さの道を、一ノ瀬の背中を見ながら歩いた。

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