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四、
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スーパーで買った三玉百円のうどんを茹でながら、世川は母方の祖父から届いた手紙に目を通していた。綺麗に折りたたまれて茶封筒の中に入っていた便箋には、今月の生活費を振り込んでおいたとか大学での調子はどうだとか、そんなようなことが書いてあったが、ぼんやりしていた世川の目はその表層を滑るだけで、相変わらずの達筆だなあという感想が湧いてくるだけだった。祖父の整った字は、母親の書く丸っこい字とは似ても似つかない。
返事は後で考えようと封に戻してテーブルの上に置き、菜箸で鍋の中の麺をかき混ぜる。目を離している間に湯が沸騰していたらしく、ぼこぼこと気泡が浮かんでうどんも生き物のようにうねうねと動いた。
火を止めたところで見計らったように呼び鈴が鳴る。さっき見たばかりの新品の時計を見ると、七時半を指していた。世川はなんでもない風を装いつつ足早に玄関まで行き、努めて落ち着いた様子で戸を開けて待ち人を招き入れた。一ノ瀬は髪や服、それから靴まで黒一色で統一していて葬式にでも出たきたのかと思わせる出で立ちだったが、Tシャツにスキニーパンツでは喪服にしてはラフすぎるだろう。短い挨拶を交わしてから「今日は、黒いね」と言うと、一ノ瀬は汚れ一つない真新しい黒いスニーカーを脱ぎながら「貰った」と言った。
「お前の方は、いつもの靴がないね」
一ノ瀬は、こういうところによく気がつく。いつもの場所にあるはずのものが無いだとか、髪型がいつもと違うとか服装の系統が変わったとか、普通の人ならば見逃すであろう人の変化に聡いのだ。これは、自分の家を持たない彼なりの生きるための術なのだろうか。
公園のゴミ箱に捨てたとは言えないため「なくした」と答える。言ってからすぐに、「捨てた」とだけ言えば良かったと気づいた。
「なくした? 靴を?」
「違う、間違えた。捨てたんだ」
「なんだそれ」
まだ綺麗だったのに、もったいない。言いながら彼はテーブルの椅子を引いて座った。家の中に持ち込まれた微かな煙草の香りを感じつつ、世川は茹で上がったうどんを丼鉢に移して麺つゆをかける。かつおだしの香りと煙草の匂いが混ざり合った。丼鉢と箸を持って、一ノ瀬の正面に腰を下ろす。
「夕飯は食べた?」
「食ってきた。おかまいなく」
彼は肘杖をついて世川をじっと見ている。いつもならこういう時、すぐに換気扇の下に行って煙草を吸い始めるというのに一体どうしたというのだろうか。
「あんまり見られてると、食べづらいんだけど」
「遠慮するなよ」
相変わらずに世川に視線を注いでいる一ノ瀬は、口元を緩ませる。丼から立ち上る湯気越しにその顔を見ていた世川は、テーブルに積まれた郵便物やスーパーの広告の山の中から小さな皿を引っ張り出して、一ノ瀬に差し出した。
「吸ってていいよ」
「ここで?」
「うん」
「さんきゅう」
黒いスキニーパンツのポケットからくしゃくしゃに潰れたハイライトのソフトパッケージを取り出す。彼の視線が自分から外れたことを確認し、世川はやっとうどんをすすり始めた。麺つゆの量が少なかったようで味が薄いが、わざわざ冷蔵庫まで取りに行くのも面倒だ。ずるずるとうどんを吸い上げて咀嚼し飲み込むを繰り返す。
一ノ瀬は青い色の安っぽいライターで煙草の先端を燃やした。世川の咀嚼音のみが響いていたさみしい部屋の中で、ジジッと紙が燃える音がやけに大きく聞こえた。彼は煙草を吸う時にまぶたをおろす癖がある。肺に取り込んだ煙を味わっているのだろう、その閉じられた目の真っ黒いまつ毛を見つめながらうどんを噛み潰して、嚥下する。血色の悪い唇が薄く開いて煙が吐き出される。その呼吸音を聞きながら、世川はうどんをすする。なんだか、自分がまるで一ノ瀬をおかずに飯を食っているように思えてきた。
「そんなもので足りるのか」
親指と人差し指で摘んでいる煙草の灰を彼専用の小皿に落としつつ、一ノ瀬が言う。目線は丼鉢に向けられている。
「うん、これでじゅうぶんだよ。夏は特にあんまり食べられないから」
「そんなんだから、体力がないんだよ」
聞き流そうとして、やや遅れてその意味を理解した世川は耳を赤くする。頬杖をついた顔にニヤニヤとした意地の悪い笑みを浮かべた一ノ瀬がこちらを見ていた。
「……自分だって、人のこと言えないじゃない」
「俺の肺は、こいつでやられちまっているからな」
煙草に口をつけ、首を左に捻ってふぅっと煙を吐き出す。白い煙が広がって、すぐに消えた。渋みのある香りが世川の元まで届く。
「副流煙の方がひとの身体には悪影響なんだって」
「へぇ。じゃあ、世川の肺は俺の吐いた煙で真っ黒なわけだ」
「そういうことになるね」
「そりゃあ、いいや」
一ノ瀬は悪びれることもなく煙草の火を皿の縁で消して、流れるような動きでもう一本を抜き取りライターのヤスリを回した。小さな火花が散る。
「ねえ、ところで、一ノ瀬は二十歳を過ぎていたっけ」
「さぁ。過ぎてるんじゃないか、多分」
他人事のように言う。彼はふざけているふうでもなく、自分の年齢など心底興味がないという顔で煙を吸って、また目を閉じた。
世川は一ノ瀬が自分と同じか一個上くらいだろうと思い込んでいたが、思えば直接聞いたことは一度もない。
「誕生日はいつ?」
「何だよ、急に」
「聞いたことがなかったなあと、思って」
「十一月十一日。覚えやすくていいだろう」
「いくつになるの」
「今日はやけに俺のことを知りたがるね」
世川はうどんの最後の三本を胃袋に収めた。目の前の器にはテカテカしたきつね色の液体のみが残され、土に張った泥の溜りだとか小さな沼のようにも見える。
一ノ瀬に関して、知りたいことはいつだって山のようにある。彼について知っていることなんて、顔と名前と性別と吸っている煙草の銘柄くらいなものなのだ。今までは彼が詮索されるのを嫌がるのではないかと思い控えていたが、つい先ほど、自分が一ノ瀬の正確な年齢すら知らないという事実が、急に酷く恐ろしいことのように思えてきた。
個人を把握するのに必須である情報は、氏名と年齢と生年月日だと世川は考えた。だから、その最低限の項目だけでも把握しておきたかった。
「一ノ瀬も、僕と卓を囲むなんて珍しいじゃないか」
正直に訳を話すのも憚られ、世川の方も一ノ瀬の違和感をつついた。その言葉を聞いた彼は、まだ半分もある煙草を皿に放って腰を上げ、未だ箸を持ったままだった世川の左腕を掴んだ。手首を握り、汗で湿った薄手の長袖をするりと肘あたりまで下ろす。愚鈍な心臓がようやく跳ねて、拍動を早くした。
念のためにとはめたリストバンドでは到底覆いきれない無数の深い痕が、肘の近くまでびっしりと続いている。まだ真新しい傷であることの証明のようにそれらの線は血で濡れていて、服で擦れて伸び広がった血が不健康な白い腕を染めていた。
またやったな、と一ノ瀬の口が動く。しかしやはり、そこには非難も軽蔑もない。それどころか、彼の目は笑ってすらいる。
ぐい、と腕を引かれ、世川は握りしめていた箸を落とした。散らばっている広告類の上で小さくバウンドし、大人しくなった。一ノ瀬は卓上に身を乗り出し、濡れた世川の腕に舌を這わせる。柔らかな感触がぬるぬると肌を滑る。少し遅れて、唾液が傷口に与えた鈍い痛みを脳が感知する。
世川は腕を引くこともできずに、黙って自身の腕を舐める世川を見つめていた。心臓は尚も忙しなく動いている。
「お前が寂しそうな顔をしていたからだよ」
顔を上げた一ノ瀬が言った。冷たい指が左手の甲を滑る。その言葉は、以前にも聞いたことがあった。
一ノ瀬と初めて会ったのは、くすんだ色の桜の花びらがアスファルトに張り付いていた四月の終わり頃だった。
いくつものグラスやジョッキが長方形のテーブルの上に並び、空になるとすかさず店員が回収しにくる。どんどん酒が運ばれてきて、どんどん回収されていく。世川は大きな笑い声を発する集団から少し離れたところでその循環をぼんやり眺めながら、温度を失いつつある鳥の軟骨唐揚げを箸でつまんでは口に入れてを繰り返していた。数十分前まではあの集団の一員だったはずなのだが、酒が入って各々が好きな席に移動し始めてしまい、結果、世川ひとりだけがどの塊にも吸収されずにあぶれてしまったのだった。
集団の中のほとんどの男女と、世川は面識を持っていなかった。彼らは先日入学したばかりの大学の同期のはずで、どこかに唯一の友人である宮田がいるはずなのだが、何しろ人数が多く卓もいくつもに分かれていて、それぞれが周囲の喧騒に負けじと張り上げる大きな声が耳に痛く、探す気にもなれなかった。
「俺の友達が懇親会を開くらしいんだけど、世川も行かない?」
数日前、宮田は世川にそう声をかけた。世川は主催者らと話したこともなかったし、大人数での集まりにはあまりいい思い出が無かったため一度は断った。だが、ほとんどが初対面であり、部外生も呼ぶようなゆるい飲み会だからと宮田は言った。
「俺もそんなに知ってる奴がいるわけじゃないしさ。もちろん席も自由だから、俺と話してればいいし」
その言葉に、世川は乗ってみることにした。初めてできた友人がせっかく交流の場に招待してくれたのだから、良い機会だと思うことにしたのだ。大学生活では今までとは違い、自分から人の輪の中へ積極的に入っていこうという気持ちもあった。
乾杯のあと、しばらくは世川の隣に座って他愛のない会話を交わしてくれていた宮田だが、別の卓の女子たちに呼ばれ、それを躱すと今度は男子達に迎えに来られ、「悪い、少しだけ行ってくる」と席を離れた。
残された世川の隣と斜め前に座る男らはなにやら音楽の話で盛り上がっているらしく、エフェクターがどうだの歪みがどうだのといった声が聞こえてくる。音楽面の知識なんてギターが六弦でベースが四弦だということくらいしか持ち合わせていない世川は会話に入る勇気などこれっぽっちも出てこないため(知識があったとしても会話に入り込んでいけたかというと、微妙なところだが)、その会話をBGMに「とりあえず」と全員分注文された生ビールをちびちびと啜った。ひどく苦く、何がとりあえずなのか理解ができなかった。
当然、宮田は「少しだけ」で帰ってくることはなかったが、彼に対する怒りなどというものはもちろんなかったし、自分に落胆することも悲しむこともなかった。だけれど、少しだけさみしいと思った。手を伸ばせば彼らの背に触れられるほどの集団との距離が、途方もなく遠くに感じられたのだ。
世川はテーブルの真ん中で存在を忘れ去られていた厚焼き卵の皿を箸で引き寄せて、その黄色い塊を切り分け始めた。参加費は払っているわけだし、あまり酒が飲めない分は食べて元を取りたいと思った。醤油を吸ってしっとりした冷えた卵を口に入れた時、ふらふらとした足取りの男が世川の対面にやってきて、腰を下ろした。何事かと卵を頬張りながら俯けていた顔を上げると、見知らぬ鼻筋の通った綺麗な顔立ちの男がこちらを見ていて、「食い物、足りてる?」と口を開いた。手にはなみなみと酒が注がれたジョッキを持っていて、世川が返事をするために急いで口の中のものを飲み込もうとすると「そんなに急がなくていいぜ」と、猫を連想させる目尻の上がった目を細めて笑った。白目の部分も、頬も首も露出している白いところは全て赤く染まっていて、相当飲んだのだろうと一眼でわかる彼は、世川がもぐもぐとやっている間にジョッキを傾けて中身を一気に飲み干した。
彼が、この先長く付き合うことになる一ノ瀬という男であった。
さらに目を潤ませた一ノ瀬は、「すっげえ飲まされてさ、俺あんまり酒が得意じゃないんだよ」と空になったジョッキを静かに置いた。得意でないのなら何故今自主的に一気飲みなどしたのだろう、と思ったが、世川はその意見をやっと咀嚼し終わった卵と共に飲み込む。
「僕もあまり、好きじゃないです」
「ああ、じゃあ、仲間だな」
一ノ瀬は嬉しそうに言って、煙草を取り出して火をつけた。灰皿が世川の左手に積んであったため一つを差し出すと、「吸う人?」と赤いボックスパッケージを差し出されたが首を横に振った。
「そもそもさ、こういう騒がしい所って嫌なんだよな、俺。うるさくて耳が痛いし、大きい声出さなきゃいけないから喉も痛くなるし」
世川は、ついさっきまで己を押し潰しそうなほどにのしかかっていた疎外感が綺麗さっぱり消え去っていくのがわかった。たった一人でも同意見の者が集団の中にいるだけでこんなにも心強いものかと驚いて、思わず顔が綻ぶ。味方が出来たことにより、場に馴染むことができない異端者という立場が、むしろ大多数とは違った特別なものだと錯覚するほどだった。
喜びと緊張でこくこくと頷くしかできない世川が持っているジョッキの中身が、振動を拾って波を立てる。一ノ瀬は何気なくそちらに目を向けて「それ、ビール?」と言った。世川は先ほどの余韻のように浅く頷く。
「もうぬるくなってるんじゃないか?」
「うん、あまり進まなくて。でももったいないから」
一人に一杯配られた生ビールのジョッキは、まるでそれぞれに課せられた義務のように思えた。世川はそれを片付けるまでは次の飲み物を頼んではいけないような気がしていたため、苦くてぬるいだけの液体を少しずつ胃の中に流し込んでいた。
しかし一ノ瀬は世川の言葉を聞くと、当然のように中身が半分ほど残っているジョッキを世川の手から奪い取り、またも一息に呑み下した。薄く赤い色をした皮膚の下、喉仏が何度か上下する。
「ほら、飲めるやつを頼めよ」
空のジョッキを二つ並べた一ノ瀬は、ドリンクメニューを広げて世川に見せる。アルコール類は今まで飲んだことがないため、どれがどんな味でどのぐらいの度数であるのか、自分が酒に対してどのくらいの耐性があるのかもわかっていない世川は、無難に烏龍茶を頼むことにする。一ノ瀬は忙しなく動き回る店員を呼び止めて、烏龍茶とウーロンハイを一杯ずつと、鳥の唐揚げを注文した。
世川は小料理をつついて烏龍茶を飲み、一ノ瀬は得意では無いと言いながらも酒を飲み続け、お開きの時間が来るまで二人はこの辺に安い飲み屋があるだとか趣味のいい古本屋があるだとか、少し奥に入ると値段は安いがかなり不衛生な風俗街があるだとかの話をした。もちろん話題を提供したのは一ノ瀬で、世川はその話に驚いたり笑ったりしていただけだったのだが。それでも、相槌を打つだけでさして話を盛り上げようともしない世川を不満に思うそぶりも見せずに、一ノ瀬は愉快気に様々な話題を提供しては世川を楽しませた。
「二次会だってよ。行く?」
幹事らが会計を済ませている間、店の外では酔っぱらった同期達が二次会の店の案を出し合っていた。空はすっかり黒に塗りつぶされて、小さい点が細かく散らばって光っている。街頭や点灯した店の看板には虫が群がっていて、店の出入り口にたむろしている自分たちと同じように思えた。充血した目で問うてくる一ノ瀬は当たり前のように世川の隣に立っており、彼の振る舞いに世川自身も少しの違和感も覚えなかった。
「僕はいいや。もう帰るよ」
「そうか。じゃあ俺も帰るとしよう」
荷物一つ持っていない身軽な彼はそう言うと、ふらふらと駅の方向へと歩き始めた。世川は慌てて辺りを見回して、体格の良い男に肩を組まれている宮田を見つけ出し、「帰るね」と声をかけた。宮田は回された腕を引き剥がそうと格闘しながら「戻れなくてごめん、大丈夫だったか?」と眉を八の字に下げて世川の心情を伺うように真っ直ぐに目を見て言う。もはや宮田があの席に戻ってくるなどと思ってもいなかった世川は「大丈夫だったよ、気にしないで」と言い、宮田やその周囲の人々と軽い挨拶を交わして集団からそっと外れ、一ノ瀬の後を追った。
駅へ向かう道中、彼は今晩泊めてくれないかと言い出した。
「今日、帰るところがないんだ」
「別にいいけど、僕の家ほんとうに何もないよ」
「便所と布団も?」
「それはあるけど……、あと風呂も」
「それだけあれば、十分だよ」
世川自身、このままひとりぼっちの静かな家に帰るのは気が進まなかったし、この男ともう少し話していたいような思いだった。この時世川は一ノ瀬の名前すら知らなかったが、家に泊めることを快諾した。人で溢れる騒がしい居酒屋の空気は、閑散とした夜道を歩く世川の気持ちを寂しいものにさせたのだ。
電車を乗り継いで最寄駅で下車し、訳あって平家で一人暮らしをしていることを伝えながら自宅へと足を進めた。一ノ瀬はそれを聞いても特に驚くことも、深く突っ込んで探ってくることもなく、大人しく世川の半歩後ろについて歩いた。途中、通りかかった公園で花びらの大半を散らしてしまっている桜の木を見上げて、「綺麗だよなぁ、夜の桜」と足を止めた。桜の要素はほとんどなくただの枝にしか見えなかったため、酔っ払っているのだろうかと思いながら「そうだね」と心のこもらない返事をした。
玄関の鍵を開けて家の中に彼を通すと、気が抜けたのか居間の床によろよろと寝転んでしまった。
「寝室に布団を敷くから、起きて、こっち」
「ここでいいよ、おれ」
床に転がったまま薄目を開けて言う一ノ瀬の腕を引こうとしたが、細身とはいえ彼の方が背が高く、世川自身も非力である自覚があったため諦めて押し入れの奥で眠っていた客様の布団を引っ張り出し、居間に敷いた。春とはいえ夜は冷えるかもしれないので、薄い毛布も持ってきてやる。
「布団敷いたから、ここで寝てよ。僕は寝室で寝るから」
中腰になって手招きすると、彼はごろごろと床の上を転がって埃臭い布団に寝そべる。白いシーツに、男にしては長い、真っ黒な髪が散らばった。虚な黒目が世川を見上げている。
「風呂場はそこで、タオルは脱衣所に置いてあるから好きに使って。トイレはそこだから」
覚えちゃいないだろうと思いながらも説明していると突然に腕を引っ張られ、全く身構えていなかった世川は簡単に体勢を崩して一ノ瀬の上に倒れ込んだ。寝ぼけているのかと体を起こそうとすると、意外にもしっかりと意思を持っている瞳と視線があって身体が硬直する。
「え、なに」
「あれ? そういうんじゃなかった?」
彼は、悪戯が失敗した子供のように笑って言った。袖の中に男の冷えた手先が滑り込んできて、世川の腕の傷をすりすりと撫でた。肌が粟立って言葉が出てこなくなった。そういうのとはどういう意味なのかも理解できずにただ真下にいる男の整った顔を見つめることしかできない。一ノ瀬のもう一方の手が、世川の太ももをジーンズ越しにさすった。
世川は混乱する頭ともつれる舌でようやく「どうして」とだけ口にした。間抜けな響きだが、状況を把握できていない自分が発することのできる言葉はやはりそれだけだったし、疑問を呈しただけでも上出来だったと思う。
「寂しそうな顔をしていたから」
アルコールと煙草の香りと共に吐き出されたそれは、世川の抵抗しようとする心を優しくへし折った。
羞恥と緊張と恐怖と、それから少しの期待でごちゃ混ぜになった脳は、一ノ瀬の手のひらの温度を敏感に感じ取った。彼の手は世川にこれまで味わったことのなかった生臭い興奮を与え、彼の温度は息が詰まるほどの喜びを与えた。
身体的な刺激による吐き気を覚えたものの、嫌悪感というものは終始、まったくと言って良いほど感じなかった。
翌朝、彼らは目が覚めてからようやく互いの名前を知った。一ノ瀬が同じ大学の生徒でもなんでもなく、たまたま近くの席で飲んでいた団体の一人だと知るのはもう少し後の話だった。
それから半年にも満たない時間が経って何度も寝床を提供したが、今日になってやっと手に入れた彼の情報が誕生日だと思うと、虚しさを覚えた。歳に関しては未だはぐらかされたままである。
夜中、布団から這い出して換気扇の下に立ち静かに煙草をふかしている一ノ瀬に、布団に寝転んだまま声をかける。
「ねえ、一ノ瀬は、好きな人っている?」
少しの間を置いて、声が返ってきた。
「お前」
嘘つけよ。世川は口元だけで笑って目をつむった。
「一ノ瀬って奴、知ってる? 黒髪のロン毛の、細い男」
大学の空き時間、宮田と共に食堂で時間を潰していると、愛美という名の女ががばたばたと厚底の革靴を地面に叩きつけながらやってきて何の前触れもなくそう切り出した。彼女はフットワークと口の軽さが有名で、誰にでもまるで旧知の友のような勢いで話しかけるので世川も面識があった。こちらが何も喋らなくても一人でぺらぺらと物語を展開してくれるので、コミュニケーションを取るのが苦手な世川にとってはありがたい存在である。
「なんだ、どうした? 急に」
「あいつ、酷いよ。下半身ゆるゆる」
世川は飲んでいたお茶が全ておかしな器官に入ってしまいそうになったが、なんとか堪えた。宮田は「名前は知ってる」と呆れた顔で頬杖をつき、先を促す。
「友達がさ、好きになちゃったみたいでさ。評判聞いて回ってたら色んな女と関係持ってんの。確かに顔はいいけどさ、もう最悪。貞操観念イカれちゃってるのよ、あの男」
反応に困った世川はペットボトルのラベルに印字された原材料の文字を目で追った。もちろん内容は全く頭に入ってこない。宮田が「貞操観念に関しては愛美もじゃん」と言うと、彼女は「うるさい」と声を潜めた。否定はしないのが潔いなと思った。
「でさぁ、世川って一ノ瀬と仲良いみたいじゃない」
二人の視線が自分に向けられたのがわかって、世川は手のひらと背中に大量の汗が噴き出すのがわかった。特に口外したつもりもないし一ノ瀬もわざわざ言わないだろうから、誰かに見られていたのだろうか。
「え……、そうなの?」
宮田が珍しく声を低くして言った。世川は、なんだか自分が二人に尋問を受けているような気分になってきた。
「懇親会、あったでしょ? あの時に話しかけられて、同期だと思い込んで仲良くなったんだ。たまに会う程度だけど」
「ああ。居たかもなあ。あれ誰だろうって話してたんだよ。そっか、あれが一ノ瀬って人なんだ」
宮田も一ノ瀬の存在は覚えていたようで、納得がいったという顔になった。
「ちょっと心配だったからさぁ、珍しい組み合わせだし……。大丈夫? 変なことされてない?」
「余計なお世話だろ」
世川の代わりに返事をしたのは宮田だった。世川は冷や汗を流しながら、「普通に遊んでるだけだから、大丈夫だよ」と言う。普通の遊びをあまり知らない世川にとってはあながち嘘ではない、と自己暗示をかけて罪悪感から逃れる。
愛美は持ってきた話題があまり発展しなかったことをつまらなく思ったのか、「そっかー」と呟いた。それから世川の肩をぽんと軽く叩いて、「まぁでも、気をつけなよ。私もちょっと話したことあるけど、あいつやっぱり、ちょっと変だし」と笑った。「ね?」と同意を求められた宮田も「ああ、うん。まぁ」と渋々といった様子ではあったが頷く。
変。変だろうか。誰とでもそういう行為をするから変なのだろうか。でも、そうだとしたら目の前にいる愛美も「変」だし、宮田と仲の良い男女達にも当てはまる人はいるはずだ。そこではないとしたら、いったい一ノ瀬のどの部分が「変」なのだろうかという疑問が湧き、聞いてみようかと思った。が、考えた末に、やめにした。
彼が「変」だというのが彼らの共通認識なのだとしたら、それに自然と同調できない自分も「変」に分類されてしまうのではないかと思い、怖気付いたのだ。
満足したらしい愛美が去って、宮田が用を足しに席を立って暫く経ってからようやく、一ノ瀬は職業不定だから「変」なのだろうと気づいて、世川は安心して再びお茶を飲んだ。
続
返事は後で考えようと封に戻してテーブルの上に置き、菜箸で鍋の中の麺をかき混ぜる。目を離している間に湯が沸騰していたらしく、ぼこぼこと気泡が浮かんでうどんも生き物のようにうねうねと動いた。
火を止めたところで見計らったように呼び鈴が鳴る。さっき見たばかりの新品の時計を見ると、七時半を指していた。世川はなんでもない風を装いつつ足早に玄関まで行き、努めて落ち着いた様子で戸を開けて待ち人を招き入れた。一ノ瀬は髪や服、それから靴まで黒一色で統一していて葬式にでも出たきたのかと思わせる出で立ちだったが、Tシャツにスキニーパンツでは喪服にしてはラフすぎるだろう。短い挨拶を交わしてから「今日は、黒いね」と言うと、一ノ瀬は汚れ一つない真新しい黒いスニーカーを脱ぎながら「貰った」と言った。
「お前の方は、いつもの靴がないね」
一ノ瀬は、こういうところによく気がつく。いつもの場所にあるはずのものが無いだとか、髪型がいつもと違うとか服装の系統が変わったとか、普通の人ならば見逃すであろう人の変化に聡いのだ。これは、自分の家を持たない彼なりの生きるための術なのだろうか。
公園のゴミ箱に捨てたとは言えないため「なくした」と答える。言ってからすぐに、「捨てた」とだけ言えば良かったと気づいた。
「なくした? 靴を?」
「違う、間違えた。捨てたんだ」
「なんだそれ」
まだ綺麗だったのに、もったいない。言いながら彼はテーブルの椅子を引いて座った。家の中に持ち込まれた微かな煙草の香りを感じつつ、世川は茹で上がったうどんを丼鉢に移して麺つゆをかける。かつおだしの香りと煙草の匂いが混ざり合った。丼鉢と箸を持って、一ノ瀬の正面に腰を下ろす。
「夕飯は食べた?」
「食ってきた。おかまいなく」
彼は肘杖をついて世川をじっと見ている。いつもならこういう時、すぐに換気扇の下に行って煙草を吸い始めるというのに一体どうしたというのだろうか。
「あんまり見られてると、食べづらいんだけど」
「遠慮するなよ」
相変わらずに世川に視線を注いでいる一ノ瀬は、口元を緩ませる。丼から立ち上る湯気越しにその顔を見ていた世川は、テーブルに積まれた郵便物やスーパーの広告の山の中から小さな皿を引っ張り出して、一ノ瀬に差し出した。
「吸ってていいよ」
「ここで?」
「うん」
「さんきゅう」
黒いスキニーパンツのポケットからくしゃくしゃに潰れたハイライトのソフトパッケージを取り出す。彼の視線が自分から外れたことを確認し、世川はやっとうどんをすすり始めた。麺つゆの量が少なかったようで味が薄いが、わざわざ冷蔵庫まで取りに行くのも面倒だ。ずるずるとうどんを吸い上げて咀嚼し飲み込むを繰り返す。
一ノ瀬は青い色の安っぽいライターで煙草の先端を燃やした。世川の咀嚼音のみが響いていたさみしい部屋の中で、ジジッと紙が燃える音がやけに大きく聞こえた。彼は煙草を吸う時にまぶたをおろす癖がある。肺に取り込んだ煙を味わっているのだろう、その閉じられた目の真っ黒いまつ毛を見つめながらうどんを噛み潰して、嚥下する。血色の悪い唇が薄く開いて煙が吐き出される。その呼吸音を聞きながら、世川はうどんをすする。なんだか、自分がまるで一ノ瀬をおかずに飯を食っているように思えてきた。
「そんなもので足りるのか」
親指と人差し指で摘んでいる煙草の灰を彼専用の小皿に落としつつ、一ノ瀬が言う。目線は丼鉢に向けられている。
「うん、これでじゅうぶんだよ。夏は特にあんまり食べられないから」
「そんなんだから、体力がないんだよ」
聞き流そうとして、やや遅れてその意味を理解した世川は耳を赤くする。頬杖をついた顔にニヤニヤとした意地の悪い笑みを浮かべた一ノ瀬がこちらを見ていた。
「……自分だって、人のこと言えないじゃない」
「俺の肺は、こいつでやられちまっているからな」
煙草に口をつけ、首を左に捻ってふぅっと煙を吐き出す。白い煙が広がって、すぐに消えた。渋みのある香りが世川の元まで届く。
「副流煙の方がひとの身体には悪影響なんだって」
「へぇ。じゃあ、世川の肺は俺の吐いた煙で真っ黒なわけだ」
「そういうことになるね」
「そりゃあ、いいや」
一ノ瀬は悪びれることもなく煙草の火を皿の縁で消して、流れるような動きでもう一本を抜き取りライターのヤスリを回した。小さな火花が散る。
「ねえ、ところで、一ノ瀬は二十歳を過ぎていたっけ」
「さぁ。過ぎてるんじゃないか、多分」
他人事のように言う。彼はふざけているふうでもなく、自分の年齢など心底興味がないという顔で煙を吸って、また目を閉じた。
世川は一ノ瀬が自分と同じか一個上くらいだろうと思い込んでいたが、思えば直接聞いたことは一度もない。
「誕生日はいつ?」
「何だよ、急に」
「聞いたことがなかったなあと、思って」
「十一月十一日。覚えやすくていいだろう」
「いくつになるの」
「今日はやけに俺のことを知りたがるね」
世川はうどんの最後の三本を胃袋に収めた。目の前の器にはテカテカしたきつね色の液体のみが残され、土に張った泥の溜りだとか小さな沼のようにも見える。
一ノ瀬に関して、知りたいことはいつだって山のようにある。彼について知っていることなんて、顔と名前と性別と吸っている煙草の銘柄くらいなものなのだ。今までは彼が詮索されるのを嫌がるのではないかと思い控えていたが、つい先ほど、自分が一ノ瀬の正確な年齢すら知らないという事実が、急に酷く恐ろしいことのように思えてきた。
個人を把握するのに必須である情報は、氏名と年齢と生年月日だと世川は考えた。だから、その最低限の項目だけでも把握しておきたかった。
「一ノ瀬も、僕と卓を囲むなんて珍しいじゃないか」
正直に訳を話すのも憚られ、世川の方も一ノ瀬の違和感をつついた。その言葉を聞いた彼は、まだ半分もある煙草を皿に放って腰を上げ、未だ箸を持ったままだった世川の左腕を掴んだ。手首を握り、汗で湿った薄手の長袖をするりと肘あたりまで下ろす。愚鈍な心臓がようやく跳ねて、拍動を早くした。
念のためにとはめたリストバンドでは到底覆いきれない無数の深い痕が、肘の近くまでびっしりと続いている。まだ真新しい傷であることの証明のようにそれらの線は血で濡れていて、服で擦れて伸び広がった血が不健康な白い腕を染めていた。
またやったな、と一ノ瀬の口が動く。しかしやはり、そこには非難も軽蔑もない。それどころか、彼の目は笑ってすらいる。
ぐい、と腕を引かれ、世川は握りしめていた箸を落とした。散らばっている広告類の上で小さくバウンドし、大人しくなった。一ノ瀬は卓上に身を乗り出し、濡れた世川の腕に舌を這わせる。柔らかな感触がぬるぬると肌を滑る。少し遅れて、唾液が傷口に与えた鈍い痛みを脳が感知する。
世川は腕を引くこともできずに、黙って自身の腕を舐める世川を見つめていた。心臓は尚も忙しなく動いている。
「お前が寂しそうな顔をしていたからだよ」
顔を上げた一ノ瀬が言った。冷たい指が左手の甲を滑る。その言葉は、以前にも聞いたことがあった。
一ノ瀬と初めて会ったのは、くすんだ色の桜の花びらがアスファルトに張り付いていた四月の終わり頃だった。
いくつものグラスやジョッキが長方形のテーブルの上に並び、空になるとすかさず店員が回収しにくる。どんどん酒が運ばれてきて、どんどん回収されていく。世川は大きな笑い声を発する集団から少し離れたところでその循環をぼんやり眺めながら、温度を失いつつある鳥の軟骨唐揚げを箸でつまんでは口に入れてを繰り返していた。数十分前まではあの集団の一員だったはずなのだが、酒が入って各々が好きな席に移動し始めてしまい、結果、世川ひとりだけがどの塊にも吸収されずにあぶれてしまったのだった。
集団の中のほとんどの男女と、世川は面識を持っていなかった。彼らは先日入学したばかりの大学の同期のはずで、どこかに唯一の友人である宮田がいるはずなのだが、何しろ人数が多く卓もいくつもに分かれていて、それぞれが周囲の喧騒に負けじと張り上げる大きな声が耳に痛く、探す気にもなれなかった。
「俺の友達が懇親会を開くらしいんだけど、世川も行かない?」
数日前、宮田は世川にそう声をかけた。世川は主催者らと話したこともなかったし、大人数での集まりにはあまりいい思い出が無かったため一度は断った。だが、ほとんどが初対面であり、部外生も呼ぶようなゆるい飲み会だからと宮田は言った。
「俺もそんなに知ってる奴がいるわけじゃないしさ。もちろん席も自由だから、俺と話してればいいし」
その言葉に、世川は乗ってみることにした。初めてできた友人がせっかく交流の場に招待してくれたのだから、良い機会だと思うことにしたのだ。大学生活では今までとは違い、自分から人の輪の中へ積極的に入っていこうという気持ちもあった。
乾杯のあと、しばらくは世川の隣に座って他愛のない会話を交わしてくれていた宮田だが、別の卓の女子たちに呼ばれ、それを躱すと今度は男子達に迎えに来られ、「悪い、少しだけ行ってくる」と席を離れた。
残された世川の隣と斜め前に座る男らはなにやら音楽の話で盛り上がっているらしく、エフェクターがどうだの歪みがどうだのといった声が聞こえてくる。音楽面の知識なんてギターが六弦でベースが四弦だということくらいしか持ち合わせていない世川は会話に入る勇気などこれっぽっちも出てこないため(知識があったとしても会話に入り込んでいけたかというと、微妙なところだが)、その会話をBGMに「とりあえず」と全員分注文された生ビールをちびちびと啜った。ひどく苦く、何がとりあえずなのか理解ができなかった。
当然、宮田は「少しだけ」で帰ってくることはなかったが、彼に対する怒りなどというものはもちろんなかったし、自分に落胆することも悲しむこともなかった。だけれど、少しだけさみしいと思った。手を伸ばせば彼らの背に触れられるほどの集団との距離が、途方もなく遠くに感じられたのだ。
世川はテーブルの真ん中で存在を忘れ去られていた厚焼き卵の皿を箸で引き寄せて、その黄色い塊を切り分け始めた。参加費は払っているわけだし、あまり酒が飲めない分は食べて元を取りたいと思った。醤油を吸ってしっとりした冷えた卵を口に入れた時、ふらふらとした足取りの男が世川の対面にやってきて、腰を下ろした。何事かと卵を頬張りながら俯けていた顔を上げると、見知らぬ鼻筋の通った綺麗な顔立ちの男がこちらを見ていて、「食い物、足りてる?」と口を開いた。手にはなみなみと酒が注がれたジョッキを持っていて、世川が返事をするために急いで口の中のものを飲み込もうとすると「そんなに急がなくていいぜ」と、猫を連想させる目尻の上がった目を細めて笑った。白目の部分も、頬も首も露出している白いところは全て赤く染まっていて、相当飲んだのだろうと一眼でわかる彼は、世川がもぐもぐとやっている間にジョッキを傾けて中身を一気に飲み干した。
彼が、この先長く付き合うことになる一ノ瀬という男であった。
さらに目を潤ませた一ノ瀬は、「すっげえ飲まされてさ、俺あんまり酒が得意じゃないんだよ」と空になったジョッキを静かに置いた。得意でないのなら何故今自主的に一気飲みなどしたのだろう、と思ったが、世川はその意見をやっと咀嚼し終わった卵と共に飲み込む。
「僕もあまり、好きじゃないです」
「ああ、じゃあ、仲間だな」
一ノ瀬は嬉しそうに言って、煙草を取り出して火をつけた。灰皿が世川の左手に積んであったため一つを差し出すと、「吸う人?」と赤いボックスパッケージを差し出されたが首を横に振った。
「そもそもさ、こういう騒がしい所って嫌なんだよな、俺。うるさくて耳が痛いし、大きい声出さなきゃいけないから喉も痛くなるし」
世川は、ついさっきまで己を押し潰しそうなほどにのしかかっていた疎外感が綺麗さっぱり消え去っていくのがわかった。たった一人でも同意見の者が集団の中にいるだけでこんなにも心強いものかと驚いて、思わず顔が綻ぶ。味方が出来たことにより、場に馴染むことができない異端者という立場が、むしろ大多数とは違った特別なものだと錯覚するほどだった。
喜びと緊張でこくこくと頷くしかできない世川が持っているジョッキの中身が、振動を拾って波を立てる。一ノ瀬は何気なくそちらに目を向けて「それ、ビール?」と言った。世川は先ほどの余韻のように浅く頷く。
「もうぬるくなってるんじゃないか?」
「うん、あまり進まなくて。でももったいないから」
一人に一杯配られた生ビールのジョッキは、まるでそれぞれに課せられた義務のように思えた。世川はそれを片付けるまでは次の飲み物を頼んではいけないような気がしていたため、苦くてぬるいだけの液体を少しずつ胃の中に流し込んでいた。
しかし一ノ瀬は世川の言葉を聞くと、当然のように中身が半分ほど残っているジョッキを世川の手から奪い取り、またも一息に呑み下した。薄く赤い色をした皮膚の下、喉仏が何度か上下する。
「ほら、飲めるやつを頼めよ」
空のジョッキを二つ並べた一ノ瀬は、ドリンクメニューを広げて世川に見せる。アルコール類は今まで飲んだことがないため、どれがどんな味でどのぐらいの度数であるのか、自分が酒に対してどのくらいの耐性があるのかもわかっていない世川は、無難に烏龍茶を頼むことにする。一ノ瀬は忙しなく動き回る店員を呼び止めて、烏龍茶とウーロンハイを一杯ずつと、鳥の唐揚げを注文した。
世川は小料理をつついて烏龍茶を飲み、一ノ瀬は得意では無いと言いながらも酒を飲み続け、お開きの時間が来るまで二人はこの辺に安い飲み屋があるだとか趣味のいい古本屋があるだとか、少し奥に入ると値段は安いがかなり不衛生な風俗街があるだとかの話をした。もちろん話題を提供したのは一ノ瀬で、世川はその話に驚いたり笑ったりしていただけだったのだが。それでも、相槌を打つだけでさして話を盛り上げようともしない世川を不満に思うそぶりも見せずに、一ノ瀬は愉快気に様々な話題を提供しては世川を楽しませた。
「二次会だってよ。行く?」
幹事らが会計を済ませている間、店の外では酔っぱらった同期達が二次会の店の案を出し合っていた。空はすっかり黒に塗りつぶされて、小さい点が細かく散らばって光っている。街頭や点灯した店の看板には虫が群がっていて、店の出入り口にたむろしている自分たちと同じように思えた。充血した目で問うてくる一ノ瀬は当たり前のように世川の隣に立っており、彼の振る舞いに世川自身も少しの違和感も覚えなかった。
「僕はいいや。もう帰るよ」
「そうか。じゃあ俺も帰るとしよう」
荷物一つ持っていない身軽な彼はそう言うと、ふらふらと駅の方向へと歩き始めた。世川は慌てて辺りを見回して、体格の良い男に肩を組まれている宮田を見つけ出し、「帰るね」と声をかけた。宮田は回された腕を引き剥がそうと格闘しながら「戻れなくてごめん、大丈夫だったか?」と眉を八の字に下げて世川の心情を伺うように真っ直ぐに目を見て言う。もはや宮田があの席に戻ってくるなどと思ってもいなかった世川は「大丈夫だったよ、気にしないで」と言い、宮田やその周囲の人々と軽い挨拶を交わして集団からそっと外れ、一ノ瀬の後を追った。
駅へ向かう道中、彼は今晩泊めてくれないかと言い出した。
「今日、帰るところがないんだ」
「別にいいけど、僕の家ほんとうに何もないよ」
「便所と布団も?」
「それはあるけど……、あと風呂も」
「それだけあれば、十分だよ」
世川自身、このままひとりぼっちの静かな家に帰るのは気が進まなかったし、この男ともう少し話していたいような思いだった。この時世川は一ノ瀬の名前すら知らなかったが、家に泊めることを快諾した。人で溢れる騒がしい居酒屋の空気は、閑散とした夜道を歩く世川の気持ちを寂しいものにさせたのだ。
電車を乗り継いで最寄駅で下車し、訳あって平家で一人暮らしをしていることを伝えながら自宅へと足を進めた。一ノ瀬はそれを聞いても特に驚くことも、深く突っ込んで探ってくることもなく、大人しく世川の半歩後ろについて歩いた。途中、通りかかった公園で花びらの大半を散らしてしまっている桜の木を見上げて、「綺麗だよなぁ、夜の桜」と足を止めた。桜の要素はほとんどなくただの枝にしか見えなかったため、酔っ払っているのだろうかと思いながら「そうだね」と心のこもらない返事をした。
玄関の鍵を開けて家の中に彼を通すと、気が抜けたのか居間の床によろよろと寝転んでしまった。
「寝室に布団を敷くから、起きて、こっち」
「ここでいいよ、おれ」
床に転がったまま薄目を開けて言う一ノ瀬の腕を引こうとしたが、細身とはいえ彼の方が背が高く、世川自身も非力である自覚があったため諦めて押し入れの奥で眠っていた客様の布団を引っ張り出し、居間に敷いた。春とはいえ夜は冷えるかもしれないので、薄い毛布も持ってきてやる。
「布団敷いたから、ここで寝てよ。僕は寝室で寝るから」
中腰になって手招きすると、彼はごろごろと床の上を転がって埃臭い布団に寝そべる。白いシーツに、男にしては長い、真っ黒な髪が散らばった。虚な黒目が世川を見上げている。
「風呂場はそこで、タオルは脱衣所に置いてあるから好きに使って。トイレはそこだから」
覚えちゃいないだろうと思いながらも説明していると突然に腕を引っ張られ、全く身構えていなかった世川は簡単に体勢を崩して一ノ瀬の上に倒れ込んだ。寝ぼけているのかと体を起こそうとすると、意外にもしっかりと意思を持っている瞳と視線があって身体が硬直する。
「え、なに」
「あれ? そういうんじゃなかった?」
彼は、悪戯が失敗した子供のように笑って言った。袖の中に男の冷えた手先が滑り込んできて、世川の腕の傷をすりすりと撫でた。肌が粟立って言葉が出てこなくなった。そういうのとはどういう意味なのかも理解できずにただ真下にいる男の整った顔を見つめることしかできない。一ノ瀬のもう一方の手が、世川の太ももをジーンズ越しにさすった。
世川は混乱する頭ともつれる舌でようやく「どうして」とだけ口にした。間抜けな響きだが、状況を把握できていない自分が発することのできる言葉はやはりそれだけだったし、疑問を呈しただけでも上出来だったと思う。
「寂しそうな顔をしていたから」
アルコールと煙草の香りと共に吐き出されたそれは、世川の抵抗しようとする心を優しくへし折った。
羞恥と緊張と恐怖と、それから少しの期待でごちゃ混ぜになった脳は、一ノ瀬の手のひらの温度を敏感に感じ取った。彼の手は世川にこれまで味わったことのなかった生臭い興奮を与え、彼の温度は息が詰まるほどの喜びを与えた。
身体的な刺激による吐き気を覚えたものの、嫌悪感というものは終始、まったくと言って良いほど感じなかった。
翌朝、彼らは目が覚めてからようやく互いの名前を知った。一ノ瀬が同じ大学の生徒でもなんでもなく、たまたま近くの席で飲んでいた団体の一人だと知るのはもう少し後の話だった。
それから半年にも満たない時間が経って何度も寝床を提供したが、今日になってやっと手に入れた彼の情報が誕生日だと思うと、虚しさを覚えた。歳に関しては未だはぐらかされたままである。
夜中、布団から這い出して換気扇の下に立ち静かに煙草をふかしている一ノ瀬に、布団に寝転んだまま声をかける。
「ねえ、一ノ瀬は、好きな人っている?」
少しの間を置いて、声が返ってきた。
「お前」
嘘つけよ。世川は口元だけで笑って目をつむった。
「一ノ瀬って奴、知ってる? 黒髪のロン毛の、細い男」
大学の空き時間、宮田と共に食堂で時間を潰していると、愛美という名の女ががばたばたと厚底の革靴を地面に叩きつけながらやってきて何の前触れもなくそう切り出した。彼女はフットワークと口の軽さが有名で、誰にでもまるで旧知の友のような勢いで話しかけるので世川も面識があった。こちらが何も喋らなくても一人でぺらぺらと物語を展開してくれるので、コミュニケーションを取るのが苦手な世川にとってはありがたい存在である。
「なんだ、どうした? 急に」
「あいつ、酷いよ。下半身ゆるゆる」
世川は飲んでいたお茶が全ておかしな器官に入ってしまいそうになったが、なんとか堪えた。宮田は「名前は知ってる」と呆れた顔で頬杖をつき、先を促す。
「友達がさ、好きになちゃったみたいでさ。評判聞いて回ってたら色んな女と関係持ってんの。確かに顔はいいけどさ、もう最悪。貞操観念イカれちゃってるのよ、あの男」
反応に困った世川はペットボトルのラベルに印字された原材料の文字を目で追った。もちろん内容は全く頭に入ってこない。宮田が「貞操観念に関しては愛美もじゃん」と言うと、彼女は「うるさい」と声を潜めた。否定はしないのが潔いなと思った。
「でさぁ、世川って一ノ瀬と仲良いみたいじゃない」
二人の視線が自分に向けられたのがわかって、世川は手のひらと背中に大量の汗が噴き出すのがわかった。特に口外したつもりもないし一ノ瀬もわざわざ言わないだろうから、誰かに見られていたのだろうか。
「え……、そうなの?」
宮田が珍しく声を低くして言った。世川は、なんだか自分が二人に尋問を受けているような気分になってきた。
「懇親会、あったでしょ? あの時に話しかけられて、同期だと思い込んで仲良くなったんだ。たまに会う程度だけど」
「ああ。居たかもなあ。あれ誰だろうって話してたんだよ。そっか、あれが一ノ瀬って人なんだ」
宮田も一ノ瀬の存在は覚えていたようで、納得がいったという顔になった。
「ちょっと心配だったからさぁ、珍しい組み合わせだし……。大丈夫? 変なことされてない?」
「余計なお世話だろ」
世川の代わりに返事をしたのは宮田だった。世川は冷や汗を流しながら、「普通に遊んでるだけだから、大丈夫だよ」と言う。普通の遊びをあまり知らない世川にとってはあながち嘘ではない、と自己暗示をかけて罪悪感から逃れる。
愛美は持ってきた話題があまり発展しなかったことをつまらなく思ったのか、「そっかー」と呟いた。それから世川の肩をぽんと軽く叩いて、「まぁでも、気をつけなよ。私もちょっと話したことあるけど、あいつやっぱり、ちょっと変だし」と笑った。「ね?」と同意を求められた宮田も「ああ、うん。まぁ」と渋々といった様子ではあったが頷く。
変。変だろうか。誰とでもそういう行為をするから変なのだろうか。でも、そうだとしたら目の前にいる愛美も「変」だし、宮田と仲の良い男女達にも当てはまる人はいるはずだ。そこではないとしたら、いったい一ノ瀬のどの部分が「変」なのだろうかという疑問が湧き、聞いてみようかと思った。が、考えた末に、やめにした。
彼が「変」だというのが彼らの共通認識なのだとしたら、それに自然と同調できない自分も「変」に分類されてしまうのではないかと思い、怖気付いたのだ。
満足したらしい愛美が去って、宮田が用を足しに席を立って暫く経ってからようやく、一ノ瀬は職業不定だから「変」なのだろうと気づいて、世川は安心して再びお茶を飲んだ。
続
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