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坂本龍馬と用心棒

坂本龍馬と用心棒

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時代の風来坊「坂本龍馬と用心棒」

1)坂本龍馬、時代を生きる

幕末の志士、坂本龍馬が世に出て、、活躍するのは幕臣、勝海舟との出会いからであった。
坂本龍馬は開国派の勝海舟の家を訪ねて、、、門田為之助、近藤長次郎とともに暗殺が目的であった、、しかし、勝海舟の考え方に感化して、、暗殺をやめて、、逆に勝海舟の弟子となった。
この出会いが坂本龍馬を風来棒から、幕末の志士としていった、、、勝海舟との出会いが無ければ、、坂本龍馬は生まれなかったかも知れない。。。
時代の寵児と言われるようになったのは勝海舟のお陰だったような、、、
暗殺に向かった坂本龍馬に、、、
「坂本君、、そんな小さな了見で、、志士とは片腹痛いよ、、、あはあはあは、、」
と笑い飛ばされてしまった。
その一言で坂本龍馬は「はたと、、、」怯んで、、考えが変わったのである。
変わった坂本龍馬も、、、やはり、、凡人ではなかった。
勝海舟の弟子となってから、、、坂本龍馬は蘭学などの勉強をしていった。
そして、、坂本龍馬は弟子というより、客分対応として、坂本家に出入りをした。
そのあと、、、坂本龍馬は土佐藩の脱藩藩士であったが、、、勝海舟の取りなしで脱藩の汚名を取り消された。。。そして、勝海舟が1862年アメリカへの渡航を認められ、、幕府軍官奉行並になり、、神戸海軍操練所を設立した。
同時に坂本龍馬は海軍塾塾頭になった。
勝海舟の力で、、、坂本龍馬が世に出てきたのである。、


2)坂本龍馬,、動く

坂本龍馬はいくつかの名言を残してる。。。
「人の世に 道はひとつということはない 道は百も千も万もある」
何事にも考え方をいくつも持っていた、、、
坂本龍馬は動きが早かった、、、行動力があったのであった。
今江戸にいると思えば、、明日には京都、大阪というように走っていた、、、
更に倒幕に動き出したら、、、薩摩、、長州と、、、長崎まで足を延ばしていた。
坂本龍馬は京都での倒幕運動にも加わり、、、当時、倒幕だ勤王だといって、天皇を巡って
覇権争いが起きていた。。。
一時は薩摩と松平藩が手を組んで、、、京都から長州を追いだした、、、「蛤ご門の政変」だった、、、
しかし、、長州藩が勢力を盛り返して、その勢いは逆転していた。
そんな中で、、薩摩藩と長州藩が同盟を結ぼうとしていたが、、、もともと、敵同士になっていたものが、手を結ぼうということはむずかしかった。
その中を結ぼうと動いていたのが坂本龍馬であった。
坂本龍馬の開放的な、、、あけっぴろげな性格に、、両藩は振り回されていた。
薩摩藩に行っては、、「西郷さん、、、ここにきて、、何を細かいことにいっているんだよ、、要は幕府を倒さないと、、改革はできないんだから、、」
そして、長州藩では桂小五郎(のちの木戸孝允)に折衝していた、、、
「桂さん、、、勝った薩摩藩が手を組もうと言っているんだ、、、条件も悪くないし、、両藩が協力すれば討幕は出来るよ。。。是非、、話し合いに乗って欲しい」と、、、
この交渉は何度も行われた。
その為に、坂本龍馬は薩摩に、長州に足を運んだ。
また、、、京都屋敷でも江戸屋敷でも、、坂本龍馬は動いた。。。
そして、、、薩摩藩と長州藩との間に同盟が出来た。


3)革靴を履いて時代を走る龍馬
坂本龍馬の名言
「世の人は 我を何とも言えば言え 我が成すことは我のみぞ知る」

坂本龍馬は便利な事、、良いことは実践する人間である。
着物時代に通常なら「草履、下駄」という時代に、、あえて便利であるということから、当時、外国人が履いていた「革靴」を履いて、動き回っていた。
今の時代に考えてみたら、、可笑しな、ちぐはぐな事であるような、、、
しかし、坂本龍馬は自分がいい、便利であるとなれば、利用するという、
「時勢に応じた 自分を変革しろ」、、、という、考え方があるようだ。
だから、、、新しくても良いことはいいという前向きなのだ。
そして、、、人の意見をよく聞く、、、いいことは「取り入れる」のであり、、自分の考えとして
今度は発言する、、、調子がいいと言えば言えるが、機転が利くのである。
そんなことから動くことが得意であった。
「いいじゃないか、、、誰が言っても良いことはいい、、、そして、悪いことは悪いと言える」
という考え方であり、、、人にも誰はばかることなく豪語していた。
坂本龍馬の物事に拘らない、、、誰とも話し合い、、、意見を、考えをお互いに利用して、物事を前進させることがいいような。。。
勝海舟のもとで神戸海軍操練所で塾頭をしていて、、、海舟が役職を解かれた後は、、、塾生を引き取ってもらった薩摩藩の西郷隆盛に取り入り、、、「亀山社中」に投資をしてもらい、、同社を設立したのであった。


4)拳銃を持った龍馬、身を守る
坂本龍馬の名言
「俺は 昨日の俺ならず」
坂本龍馬は長崎に「亀山社中」という貿易会社を設立して、、西洋式銃の輸入販売をした。
イギリスの「グラバー商会」が大量の西洋式銃が多かった。
薩長同盟は武器の無かった長州へ西洋式銃を売り渡し、、その代わり米不足の薩摩に長州から米を売り渡して。。。それらの条件を橋渡した坂本龍馬によって行われて、、、薩長同盟が締結されたのであった。
長州藩から支払われた西洋式銃の代金は「92400両」だった。
この薩長同盟が成立して、、、倒幕が出来たのであった。
坂本龍馬の拳銃は1865年長州藩高杉晋作から送られた、、、「S&WモデルNO2アカデミー」で、、龍馬が入手した拳銃はアメリカの「S&W(スミス&ウイルソン)の回転式6連発。。
そして、もう一つは「S&W第1、2分の1型ファースト・インシュ5連発」であり、、1866年近江屋で襲撃されたときに所持していたが、、取り出す暇もなく惨殺された。
普段から用心をして拳銃を肌身離さず持っていたのだが、、、近江屋で襲撃されたときには隙があって、、、拳銃を取り出せなかったのである。
寺田屋の襲撃の時には拳銃で発砲しながら、、逃げ延びたのであったが、、、
今回は、近江屋の時には拳銃を持ってはいたが間に合わなかった。。。それも運命なのかも知れない、、、薩長同盟を成し遂げ、、、のちに明治政府の根幹となる「船中八策」まで作り上げて、
後1か月後に「大政奉還」がなろうとしていた時の暗殺であった。言っているのだ
「雨が降ってきたからと 走ることはない 走たって 先も雨だ」
という龍馬の名言がある。
時代の寵児は時代が消してしまうような。。。
坂本龍馬が必要な時には、時代は使うだけ使って、、、ボロボロに潰してしまうのか、、、
歴史の人の世の無常を感じる。
人よりも先駆けた剣よりも銃が必要としていた風雲児龍馬が消えてしまったのである。
これからの戦は剣や槍ではなく、、、西洋式銃や大砲だといっていた人間が、、、時代の先を読んでいた人間は時代により消されてしまったのか、、、


5)日本で最初の貿易商社「亀山社中」を設立
坂本龍馬の名言
「人間好きな 道によって 世界を切り 拓いてゆく」
坂本龍馬は藩に捕らわれず、武士の名誉に執着せず、自由に生きた、、、そして、薩摩藩の西郷隆盛に投資をさせて貿易商社
「亀山社中」を設立した。
そして、日本での最初の会社を作り、経営者に、、、すなわち、今でいう「社長」な成ったのであった。
その「亀山社中」で金儲けを始めた、、、舟での運送業である。
その運搬する荷物は「米」であり、、武器であった。
大きな仕事が「薩長同盟」の締結であり、、、その時の運搬するに船荷は「米」であり「武器」であった。
自由な風が流れている「亀山社中」には武士から町人と、、、多種多様な人間が集まってきて、、日本国中からの人も集まり、同時に情報も集まってきた。
「泣いても一生 笑っても一生 ならば今生 泣くまいぞ」
龍馬は仲間にいつも言っているのだった、、、今を、この時を精一杯に自分の能力を出して、生きたほういい、、、
人の人生は命は短い、、、と。
坂本龍馬の人生はその通りになっていた。
「亀山社中」でも、、誰もが言いあい放題で、、意見を言うことに遠慮は無かった。
「龍馬さん、、、剣の達人というけれど、、本当に免許皆伝なんですか、、「龍馬さん、、、いつも短銃を持っているけど、、本当に腰に差している刀は使えるのですか」
と、、冗談交じりでいったものがいた。
そして、土佐藩から脱藩してきた若侍が、、、「一度、、、稽古をつけていただけないでしょうか」と
坂本龍馬の前まで出てきたのであった。
相手にしては大人げないが、、、その日は龍馬も用事がなかったので、、少々酒を飲んでいたので、、、
余興逃げ帯びたがてらに立ち合いの相手をした。
龍馬も酒は飲んではいたが、、「北辰一刀流の千葉仕込み」であった。
やはり、強かった、、、半端な強さではなかった。
立ち合いを申し込んだ若侍は龍馬に打ち込まれていた、、、、
その時の立ち合いで、、、若侍「阿波丈太郎」は坂本龍馬に興味を持ち、、、「亀山社中」で仕事に学問に励んで、、、仲間から認められるようになっていった。


6)寺田屋事件と近江屋事件(龍馬暗殺襲撃事件)
坂本龍馬の名言
「世に 生を得るには 事を成すにあり 厚情必ずしも 人情にあらず 薄情の道 忘るるなかれ」
坂本龍馬は勤王の志士たちと打ち合わせがあり、、度々京都に出かけた、、、宿泊所は京都伏見の「寺田屋」と決めたいた。
しかし、坂本龍馬は新選組や京都見回り組の監視下であり、、、今でいう「指名手配中」であった。
従って、いつも誰かに見はられていた、、、
そんな中で、、、池田屋に宿泊中に京都見回り組に取り囲まれ、、、襲撃されて負傷する、、、1866年であったが、、、短銃を発砲して辛うじて逃げ延びた。
京都での龍という女の機転に救われた、、、一命をとりとめた龍馬は薩摩へ逃げたというか、、、西郷隆盛の招きで薩摩へ傷の療養に出かけた。
その時に京都の女「龍」も一緒で旅をしたのだった、、、
後世、日本での最初の新婚旅行と言われている。
薩摩から戻った龍馬には「亀山社中」から一人の若者がついた、、、どこへ行くにも坂本龍馬に付き添っていた、、、
亀山社中で立ち会った若侍の「阿波丈太郎」だった、、、この時から丈太郎は坂本龍馬の「用心棒」になったのである、、、弟子でもあった。
近江屋で襲撃に会った時には、、寺田屋から近江屋に移ったばかりであった。
丈太郎は襲撃された時には、、龍馬に頼まれて使いに行って、、運悪くというか、、、良いというか留守だったのであった。


7)近江屋事件その1
坂本龍馬の名言
「世の邪成概念を 破るというのが 真の仕事である」

坂本龍馬が襲撃された「近江屋事件」の襲撃犯人には「新選組」「京都見回り組」とか、、、「薩摩藩士」とか紀州藩とか、勝海舟」に暗殺されたとか言われているが、、、
真相はどうなのか、、、、
坂本龍馬は幕末時代にも、、、やることが目立ちすぎて、、、例えば「薩長同盟」「船中八策」から「大政奉還」と、、、時代の流れを変えるような派手な動きをしていた。。。そして、実際に坂本龍馬はみんなから嫌われていた。
従って、ねたまれて、、何かあればということもあった。
新選組の情報網によれば、、、新選組は剣術にも優れて、、、不逞浪士の取りしまりも厳しく、やたらに切り捲っていたが、その情報を集めることに、、も優れていた。
「池田屋事件」でのその探索力や行動することも素早かった、、、そして、坂本龍馬に関しても、その行動を常に察知し、、監視していた。
新選組の情報では4年間に坂本龍馬が京都に8回も上京していることを知っていた、、、そして、
坂本龍馬が寺田屋を宿舎にしていたことも分かっていらので、、、京都見回り組に襲われたのであった、、、
新選組の情報は京都幕府にも伝えられ、、、江戸の幕閣にも伝えられていた。
そこで、、、「坂本龍馬とは何もぞ、、、」という風評が立っていた。
そして、京都では「危険分子、、見つけ次第に殺すようにと」、、指示が出ていた。
そんな中で坂本龍馬は隠れ宿に潜伏しながら、、、活動をしていたんであった。
坂本龍馬の潜伏先については、、、どういうわけか、情報が洩れて、、、憑いているのか逃げ延びている。
寺田屋襲撃の場合も、京都見回り組に囲まれ、、絶体絶命の危機にさらされたが、、、逃げ延びている。
その時には、坂本龍馬は愛用のピストルで、京都見回り組の役人を二人撃ち殺している、、、また、その時は坂本龍馬に付き添っている「用心棒」にも助けられた、、、「亀山社中」の仲間が、、龍馬の行動が大胆であり、、不安であったので、、、
「阿波丈太郎」を用心棒として付けたのであった。
寺田屋襲撃の時に阿波丈太郎が剣に優れていて、、京都見回り組の役人の囲いを突破してくれたので、、坂本龍馬は辛うじて逃げ延びたのであった、、、
龍馬一人では到底、囲いを破って脱失は出来なかであろう、、阿波丈太郎という用心棒がいたからこそであった。
怪我をした坂本龍馬を庇いながらの逃走であった。


8)近江屋襲撃事件その2)
坂本龍馬の名言
「我が成すことは 我のみぞ知る」

坂本龍馬は北辰一刀流の免許皆伝の剣術の達人であった、、、そして、更に用心のためにピストルを懐に持ったいた。。。
坂本龍馬の愛用したピストルは、、、「S&WモデルNO2アカデミー」「アメリカS&W(スミス&ウイルソン6連発)」「S&W第1、2分の1ファーストインシュ5連発」を持っていた。
それでも「亀山社中」の仲間は龍馬に用心棒をつけたのだった。
新選組が情報を集めているのと同じくらい「亀山社中」も幕末の京都の動きや、、新選組や京都見回り組の情報を集めていた。。。にんげんが
そして、、「龍馬、、、気をつけてな、、、お前は新選組にも京都見回り組からも指名手配されて、隙あらばと、命を狙われているぜよ、」
と言われても、、龍馬は平然と動き回っていた。
用心棒の「阿波丈太郎」は亀山社中からは、強く言われていた、、、
「何があっても、、、龍馬から離れるなよ。」と、、、
阿波寿太郎はその言いつけを守っなかった。
「先生、、先生、、、」と言っては、龍馬の居所を確認していた。
亀山社中の誰もが心配していた、、、、
特に「薩長同盟」が結ばれ、、、「大政奉還」の準備が整ったころには、、、自分で動くな、、、
手紙で使いを出せばいいんではと、、、
亀山社中の連中は、、、危険を大いに感じ、、、世評を気にしていたのであった。
余りにも坂本龍馬をよくいう人間と、、、悪く言う人間が増えてきたからであった、、、
何度も、坂本龍馬が京都へ行くことを止めていた、、、しかし、、坂本龍馬は聞かなかったのである、、、
それも運命かも知れない、、、、
龍馬は「大丈夫ぜよ、、、宿舎である寺田屋も近江屋も土佐藩の御用商人であるからと、、、」人を信じて
行動をしていたのであった。
暗殺された時には寺田屋が宿泊先だった、、、しかし、その4日後に同じ土佐藩の御用商人の「近江屋井口新助邸へ移り」土蔵の中から龍馬が風邪をひいたといって、本宅の二階に移ったのである、、、そして、:暗殺が起きた、、、、。


9)近江屋襲撃事件その3)
坂本龍馬の名言
「恥ということを 打ち捨てて 世のことは成すべし」

11月15日午後5時ごろ、中岡慎太郎は書店であった「菊屋」を訪れ、、、現在の宿泊先の主人である息子の
鹿野峰吉に手紙を渡し、、、薩摩屋敷からの返事を近江屋に持ってくるように頼んだ。
そして、薩摩屋敷からの返事が峰吉が近江屋に着くころに届いた。
風邪をひいていた龍馬は、軍鶏鍋が食べたくて、、、峰吉に軍鶏を買いに行かせた、、峰吉は午後9時ごろに戻った。
このいきさつを調べて、、、坂本龍馬の行動を知っていた京都見回り組がこの間に襲撃をしたのであった。
そして、、、夜になると客が近江屋を訪れた。。。
客は十津川藩士で、、、「龍馬に会いたい、、」と。
山田藤吉が応対をした、、、客は藤吉に名刺を渡し、、、藤吉は戻ったところを斬られた。
階段で山田藤吉が倒れ、、、二人の男が八畳間に乱入、そのうちの一人、今井信朗が龍馬の前頭部を横に払い、一人は中岡慎太郎の後頭部を斬った。
そして、龍馬は床の間の刀を取ろうと振り返ったが、右の肩先から左の背中を斬られた。
龍馬は刀を取って立ち上がったが、鞘のままで刀を受け止めた、、、しかし、刺客の鞘ごと、刀を削り、龍馬の前頭部に大きな傷を与えた。そして、、、龍馬は倒れた。
中岡慎太郎は刀を屏風の後ろにおいてあり、、刀を抜くことができず、、、鞘のままで防戦した。
両手両足を斬られ、特に、右手は切断するほど斬られていた。。。
そして中岡慎太郎は死んだふりをしていた刺客は「もうよい、もうよい」と言って慎太郎を見て、引き揚げた。
中岡慎太郎は屋根伝いに逃げて、、、人をよんだが、、誰も来なかった。
坂本龍馬は刀を灯火にかざして「残念無念」と言って、
更に「慎太、、、わしは脳を斬られたぜよ、、もうだめだと」と言って倒れた。


10)京都見回り組の組織は、、、

坂本龍馬の名言
「何の志も 無き所に ぐずぐずして 日を送るは 実に大馬鹿者なり」

1867年(慶応3年11月15日、京都河原町通蛸薬師下ル、「近江屋井口新助邸」で暗殺された。。。。暗殺者は江戸幕府の組織「京都見回り組」で、佐々木只三郎を首とした6人の集団であった、、、その6人の集団は「渡辺古太郎、高橋安次郎、桂早之助、土肥仲蔵、桜井大三郎、今井信朗」の侍達だ、、、そして、、今井信郎以外は6人とも鳥羽伏見の戦いで戦死と言われているが、、、実際は坂本龍馬の用心棒であった「阿波丈太郎」によって、戦場で殺害されていた。
阿波丈太郎は明治政府軍の将校として参戦しており、、坂本龍馬を襲撃した者たちを探し、、追い求めていたのであった。そして、鳥羽伏見の戦場で探し出して、、、今井信郎以外の6人をを見つけ出し、それぞれに戦いを挑んで斬り倒したのであった。
しかし、今井信郎は函館戦争にまで参戦していたので、、、阿波丈太路は取り逃がしてしまっていた。
その今井信郎は函館戦争で明治政府軍に敗れ、降伏していて、、、兵部省と刑部省で取り調べを受けたいた。
その時に今井信郎は、、、坂本龍馬を襲撃した時には「自分は見張り役、、」といって言い逃れ、
「佐々木只三郎が首で犯行を実行した」と、、、自供していた。
また、「京都見回り組役、小笠原長遠に命じられた」と自供をしていた。
その為に、阿波丈太郎も、、、その当時は警視庁警官をしていたので、、今井信郎と分かっていても、、、仇撃ちは出来なかったのである。
1900年(明治33年)今井信郎が事件後30年にして、本人が60歳になって自分は見張り役ではなく、坂本龍馬を暗殺したのは自分だと告白した、、、
しかし、、、遅すぎたのであった時代は明治も半ば過ぎ、、討が出来る時代ではなかった、、
阿波丈太郎は「残念無念」と、悔しがった。
彼が坂本龍馬の襲撃の実行犯をみつけるまでは、、時間を要した.
「新選組」「紀州藩の報復」か、、、「薩摩藩の陰謀」、「土佐藩の恨みはらし」かとか、、、当時の商売での「外国商社の陰謀」かとか、いろいろ言われていたので、、、阿波丈太郎はその調査にも奔走していた。
しかし、、そのうちの一つである「江戸幕府の取りしまりのための暗殺、、、京都見回り組」へとたどり着いての仇討であった。


11)近江屋襲撃事件の謎、、、その1
坂本龍馬の名言
「人よりも 一尺高くから 物音を見れば 道は常に 幾通りもある」

新選組の犯行について
襲撃を受けた中岡慎太郎の自信が、、、「之はどうしても人を散々斬っている新選組ものだろう」と、、推測したいる。
土佐藩の寺村左膳も新選組と推測して、徳川幕府に11月26日に告発したいるのである、、、そして、新選組局近藤勇が取り調べを受けている。
更に近江屋事件から2年後、1869年(明治2年)に容疑者として捕縛された、元新選組の大石鍬次郎が毎時政府の兵部省で自白しているのであった。土佐藩士坂本龍馬を暗殺したのは新選組ではないと、、、
京都見回り組の今井信郎ほか数名で暗殺したと、、、近藤勇より聞いていると自白している。
近江屋襲撃後に土谷千城と毛利恭介が、薩摩藩の中村半次郎の案内で現場に残された「鞘」を薩摩藩邸に持ち込んでいる。そして、その「鞘」を見た御陵衛士の篠原泰之進、内海次郎が、、、
「これは新選組の原田信之助のものである」と、断定した
そして、伊藤甲子太郎が鑑定して、新選組のものであるとわかった「残された鞘」と、、、、、、しかし、その判定も、どれも新選組を嫌ってるものたち の意見であった。



12)近江屋襲撃事件の謎、、、その2
坂本龍馬の名言ぜよ
「義理などは 夢にも思ふ ことなかれ

「いろは丸」事件、、、海援隊が運用していた「いろは丸の」と紀州藩の「明光丸」が衝突を起こした、
そして、海援隊が裁判を起こした、、、日本での最初の海難事故裁判であった。
龍馬は「大量の銃火器,金塊を積んでいたぜよ!」「それを全部弁済しろ!!」といった、、やばいやつである、、
その賠償金7萬両を取った、、、現在の金額にして「140億」である。。。
今で言う、、、暴走族だよ。。。
この恨みは大きい、、、紀州藩にしてみれば「強盗泥棒」にあったようなものであった。
後日、調査して分かったことは、、、龍馬が言ったことは「嘘」だったのであった。
そして、、坂本龍馬が京都へ上京するたびにねらってはいた、、、、
そんな恨み節から、、、紀州藩がやつたのではと。。。。

13)近江屋襲撃事件の謎、、、、その3
坂本龍馬の名言
「世界の 海援隊でも やりすぎかな」

薩摩藩の陰謀。。。
薩摩藩は坂本龍馬のやり方に不満を持っていた、、、
「薩長同盟」を薩摩藩と長州藩に結ばせて、武力をもって倒幕を企てていたのが、、、坂本龍馬は土佐藩の山内容堂に働きかけて、「大政奉還」をさせてしまった。
これは武力での討伐に反していたからである。
この大政奉還は徳川幕府に政権んを返上させて、、天皇にその政権の実権んを移すことであり、、
この大政奉還を実行すると、、、薩長同盟の意味がなくなってしまうからである。
そして、、、大政奉還によって、有力な大名が参加するので、、薩摩藩と長州藩は面白くないのであった、、、
更に坂本龍馬は「船中八策」なるものを作成していて、、、その中心に徳川慶喜が参加してもいいような意見を言い出したのであった。
それでは最初の目的である「倒幕」の意味がなくなり、、さらに「薩長同盟」の軍事同盟が無意味になると言い出したのであった。
すなわち坂本龍馬が邪魔になって、、殺人者を仕立てて暗殺を企てた言う噂も出た。
薩摩藩の大久保利通などはその先方であった。
そんなところから、池田屋から近江屋に坂本龍馬が移動した情報が漏れたという、、、そして、、、京都見回り組に情報が入り、、坂本龍馬が襲われて暗殺されたという。。。
そうでもなければ、、、土佐藩の御用商人である「寺田屋」から「近江屋井口新助邸」へ移ったことは分からず、、、ましてや、当日坂本龍馬が風邪をひき、、隠れていた土蔵部屋から、母屋の2階に移った情報は分からないはずであった。
余りにも正確に、坂本龍馬がその日に居合わせたということには疑問が生じる。
龍馬が風邪をひいて、、、近江屋井口新助邸にいたことがはっきりとしていたことが不思議だった。
情報が間違いなく、薩摩藩邸から漏れていたのであった、、、
近江屋の峰吉から薩摩藩邸に手紙が行き、、、その返事を待っていた峰吉にも疑問が、、、そして、襲撃現場にいなかった峰吉である、、龍馬に頼まれて軍鶏を買いに行っていたのである、、、
更に、近江屋での龍馬たちの襲撃が終わった、9時半ごろに戻っていたのであった。
間違いなく、、、峰吉の手紙が何かを意味していたような、、、
何かの合図のような、、、坂本龍馬、中岡慎太郎、山田藤吉が暗殺されたのであった。
その事実は間違いない事件だった。


14)近江屋襲撃の謎、、、その4
坂本龍馬の名言
「時勢に応じて 自分を変革しろ」

土佐藩の苦情、、、、
坂本龍馬は後藤象二郎を通して、、、土佐藩主の山内容堂を立てて「船中八策」に基づいた、
「大政奉還」を計画して、、、行動を起こした。
土佐藩の山内容堂は、、、松平春嶽や島津斉昭らと図って、、、」「大政奉還」を実行した。
しかし、坂本龍馬は薩摩藩や長州藩と、「薩長同盟」を締結しており、、、その行動に矛盾が多かった、、、
亀山社中で一緒だった後藤象二郎が怒ったことがあった。
「おい、、、龍馬、お前はどっちなんだ、、、倒幕なのか、、和解なのか」と、、、
龍馬はその時に言っていた、、、
「象二郎、、、人は成長するんぜよ、、、時代とともに変わっていくんだ、、、それが人間ぜよ」
と、、、平然と言ってのけた。
龍馬はそのころから世界を見ていたのである、、、、
日本国内の争いとかに拘らずに、、、彼は貿易で世界に乗り出そうとしていたのである、、、
「海援隊」を率いて、世界のくに国と交易をして、自由に海を渡ろうと、、、
すでに龍馬の目には日本という、せまい領土は無かったのである。
だから、、、幕府のとか天皇は、、、倒幕とかの狭い考えはなったのである。。。
そのことを理解しない者たちには、ついていけない大きな野望があったのであった。。。
龍馬には薩摩とか長州とか土佐とかの勢力争いには興味が無くなっていたのであった。
どちらでもいいから政権が落ち着いて、、世の中が安定することを願っていたのであるが、、、
幕末の動乱に巻き込まれ、、、政治的に動いた坂本龍馬を誰も、静かにしておいてはくれなかった。。。そして、勝手に世の中が動いて、、龍馬は暗殺されたのであった。。。
坂本龍馬にしてみれば「いい迷惑な話である」
時代の寵児を時代はそっとしておいてはくれなかったようだ、、、、






15)近江屋襲撃事件の謎、、、、その5

江戸幕府の不安、、、
坂本龍馬師でもある「勝海舟」が心配していたのは、、、龍馬が発案した「船中八策」による「大政奉還」は、勝海舟や松平春嶽たちの意見を聞いて、、坂本龍馬はそれをまとめたのであった龍馬は人の話を聞いて、、、それらをまとめるのが得意だった。
そして,纏めた考えを「船中八策」にまとめ、、土佐藩の山内容堂に建白させたので
あった。
しかし、、、天皇を中心の政権でも、諸藩の代表の合議制としてる上に、徳川慶喜もさんかできるというもであった。それでは幕府を倒した意味が無いと、、、勝海舟などは反対していた。
坂本龍馬にしてみれば革新的な、いい考えとしているが、
勝海舟としても倒幕して、、、天皇制をしいても,政治改革しても何にもならないと、、、
坂本龍馬排斥まで考えていたのであった。坂本龍馬には狭い日本のことより、、心が、彼野は世界へ向かっていのであった。
そんなことで、幕府組織の中では、坂本龍馬は危険分子とされていたため、、今回の近江屋襲撃事件に絡んだ、京都見回り組の暗殺には、薩摩藩と連携の情報が飛び交っていたようだ。
日本の内政には興味のなくなった坂本龍馬を、、、最後の最後まで理解することなく、歴史が巻き込んでいったのであった。
歴史の立役者を最後は邪魔もの扱いのごとくに、、時代と一緒に飲み込んでしまったようだ、、、
人とは不思議であり、、歴史とは勝手なものだ、、、時代の立役者を消してしまうのであった。


16)幕末の維新戦争の武器の供給者の陰謀、、、その6
維新戦争が無くなり、、、坂本龍馬の提案する「大政奉還」がスムーズに進だら、、、武器が必要では無くなり、、、イギリスなどえはの外国商社は商売が出来なくなるのだった、、、
従って、、薩長同盟が中心となって倒幕のための戦が起こらないと困るのであった、、、どうしても倒幕のための戦はしてほしいのであった。
しかし、、、坂本龍馬の考えの中には「大政奉還」での政変を考えていた。戦の無い政変交代であった。
それでは困る連中が多かった、、、、薩摩藩、長州藩、土佐藩、徳川幕府にもいたのであった、、
しかし、坂本龍馬なきあとは、、江戸城無血開城などを勝海舟たちはやってのけた、、、この時代の矛盾だらけの対策であった。
歴史の中で踊らされて、、散々踊った道化役者のようだ、、、
33歳でこの世を去った、坂本龍馬は哀れと言えば哀れなような、、、
ヒーローと言えば英雄だ
坂本龍馬の夢、、、海援隊で世界の海をは消えてしまった。


17)近江屋襲撃事件の後始末、、、その7

近江屋襲撃事件の後、近江屋主人井口新助は表玄関には見張りがいたので、裏口から土佐藩邸に向かった、、、事件の連絡のために、、、
そして、、、土佐藩邸から曽根慎太郎が連絡を受けて一番先に到着。新助の連絡を受けて「横目の嶋田床作」も来た。
陸援隊からは谷千城、毛利恭介が駆けつけたころには「坂本龍馬」は事切れていた。
中岡慎太郎は隣の屋根に倒れていたので、部屋の中に運び込まれた、、、その時のはまだ生きていた。そして、襲撃の状況を話していた。
その後、襲撃された翌日の11月16日の夕刻に慎太郎は死んだ、また、同じ日の襲撃された山田藤吉も16日の夕刻に死んだ。
中岡慎太郎は息があるうちに、駆け付けた陸援隊の、田中光顕、本科安太郎に襲撃の状況を伝えていた、、、そのために、襲撃の状況を大かた把握できた土佐藩であった。
また、中岡慎太郎は鯉沼伊織には岩倉具視に連絡するように伝えた。
襲撃状況は息のあるうちに、中岡慎太郎が駆けつけた陸援隊や土佐藩士に話しているので、分かったが、、、誰が襲撃したかは慎太郎も分からなかった。
そして、、、その後の調査でいろいろ言われていた。
坂本龍馬、中岡慎太郎、山田藤吉の葬儀は海援隊と陸援隊で行われた。
坂本龍馬と中岡慎太郎の墓碑銘は木戸準一郎(木戸孝允)が筆をとり、、、
龍馬と中岡の死は、、、
岩倉具視は「何者の凶器で、私が両腕を奪うさる」と嘆いた。。。
また、大宰府にいた三条実美は寝食を忘れるほどに慟哭したといわれている。
幕末の立役者である、、、坂本龍馬は活躍の場から引きずり降ろされてしまった。
そして、倒幕に強く傾いていた中岡太郎もいなくなった。
幕末の倒幕強硬論者はけされてしまったのである、、、ただし、、坂本龍馬は「大政奉還」論者であり、軍隊による倒幕には反対し始めていた。
二で人の考え方はかわっていた、、
龍馬は「大政奉還」を主張して、、戦による政変をないていた。、、、、
「慎太、、、もう戦ではないぜよ、、、」
中岡慎太郎はあくまでも武力で幕府を倒さないとと、、、
「まずは、、、倒幕ぜよ」と、、、
そんな議論をしていたところを襲撃されたのだった。

18)坂本龍馬の軌跡

坂本龍馬は1862年から1867年の5年間に、、、、
勝海舟と出会い、、、弟子となり、、、神戸海軍操練所の塾頭になり、、、その後「薩長同盟」を締結。そして、、「大政奉還」を成し遂げた。
更に31歳の時に「亀山社中」を長崎に設立した。
この5年間に京都に8回上京していた、、、、幕府京都見回り組や新選組から監視されて、、、
指名手配までされて、暗殺されるまでに「寺田屋」で襲撃されて、、負傷しながらも
倒幕のために動き回っていた。
土佐藩の御用商人寺田屋や近江屋の隠れ部屋というか、、土蔵部屋に隠れて倒幕のための活動をしていた。
しかし、、江戸時代の末期、1867年11月15日に「京都の近江屋」で襲撃されて暗殺された
、、、33歳の若さであった。
時代が呼び寄せ、、、ことが成就すると、、時代が消し去るという、、、
坂本龍馬とはそんな人間だった。
坂本龍馬の最後の言葉、、、叫び声は、、「残念無念」だった。
悔しかったと叫びたかったのでは、、、、、


19)坂本龍馬番外編

その1)海援隊

海援隊は江戸時代後期の幕末、土佐派脱藩の浪士であった坂本龍馬が中心になって結成した貿易結社である。
1865年から1868年までに渡った「施設海軍」であった。
海援隊の資金援助は薩摩派が行い、物資の運搬や貿易の仲介で利益(当時は射利といった)を挙げて、自活分貿易をしていたが、、現実には薩摩藩や土佐藩の資金援助を受けていた。
海援隊の前身は1865年に結成された「亀山社中」であった。
亀山社中は薩摩藩や豪商の資金援助を得て、長崎の亀山に結成されたのである。
亀山社中は当初、薩摩藩の小松帯刀が近藤長次郎や高松太郎らに作らせ、、そのメンバーには薩摩藩から一人当たりの給金が「3両2分」支給された。
自由民権隊は土佐藩から資金援助を受けたが、基本的には独立していた。
「海援隊規約」は、、、「本藩を脱する者および他藩を脱する者、海外の志ある者,この隊に入る」であった。
そして、海援隊は「運搬、射利、投機、開拓、」を業務として、あくまでも「射利」を挙げることを目的としていた。
その射利(利益)を亀山社中の仲間で分配していたのである。
更に、坂本龍馬は倒幕運動では大政奉還後は「内戦回避」を唱え、、薩摩藩、長州藩の武力討幕派とは意見が食い違ってきたのであった。
あくまでも坂本龍馬は平和解決を願っていた。
そして、坂本龍馬は蝦夷地(現在の北海道)の開拓を夢見ていたようであり、、海援隊を持って海外貿易への志を抱いていたのであった。
また、、中岡慎太郎が作った「陸援隊」ともに倒幕運動もしていたが、あくまでも内戦を嫌っていたのである。
「陸援隊」と「海援隊」を合わせて「翔天隊」とも呼んでいる。
坂本龍馬たちが結成した「海援隊」は龍馬の死後、後藤象二郎らが「土佐商会」として。。
のちに「岩崎弥太郎」が、九十九商会、三菱商会、優先汽船三菱会社、三菱商事に発展したのである。
また、海援隊のメンバーから、のちに日本全国の県令(今の知事)や検事などを輩出している。
後の外務大臣の陸奥宗光や日本の衆議院初代議長の中島信行らがいるのであった。
坂本龍馬の海援隊での海外進出の夢は暗殺で消えてしまった。


その2)陸援隊

江戸時代の末期(幕末)慶応3年5月26日(1867年6月27日)土佐藩出身の中岡慎太郎によって、組織された武力倒幕のための
武力集団(浪士隊)、、、
中岡慎太郎の同士、坂本龍馬の組織した亀山社中が海援隊として土佐藩に付属する外郭機関となった。それに続き、中岡慎太郎も長州で
見聞した「奇兵隊」を参考に、薩土倒幕の密約に基づいて、土佐藩に付属する遊軍として陸援隊を結成した。
陸援隊は隊士は「77名」で土佐藩と水戸藩の脱藩隊士が中核となる。そして、支援隊として十津川郷士が「50名」が参加。
陸援隊は海援隊に遅れ「3か月後」に京都に土佐藩の独立部隊として結社された。
そして、陸援隊は鳥羽伏見の戦いの後に解散する、、、その後、隊士は征討軍に参加する

その3 坂本龍馬の暗殺の謎。。。

坂本龍馬の暗殺には謎が多い。いろいろな噂があり、疑問が残る。
坂本龍馬が暗殺された「近江屋」でも不思議なことが起きている、、、暗殺される前日までは「寺田屋」隠れていたのであるが、、、突然に「近江屋の土蔵の部屋に移動した」、、更に当日は龍馬が風邪を引いたというので、「近江屋井口新助邸の本宅」に移ったのである。
そして、坂本龍馬、中岡慎太郎、山田藤吉が襲撃されて暗殺されたのだった。
近江屋も寺田屋も土佐藩の御用商人宅であり、、坂本龍馬たち土佐藩の浪士たちは隠れ屋として利用しており,その日に
坂本龍馬が近江屋にいることは知らない筈であった、、、ましてや、その日に寺田屋から近江屋に移ったことなど誰も知らない筈であったのだ。
それが何故わかったのか、襲撃した「京都見回り組」が知ったのか、、不思議である。
まずはそこが不思議であり「謎」だったのであった。
坂本龍馬たちがいたことの情報がどうして、漏れたのか、、その情報が洩れなければ襲撃はされなかった筈である。
土佐藩御用商人の近江屋、寺田屋からは情報は流れないのであった、、、同じ倒幕思想に燃えていた仲間であり,勤王の志士であったからだ、、、
その夜の流れの中で、、一つだけ気がかりなことがあった、、
近江屋の鹿野峰吉が中岡慎太郎に頼まれた「手紙」の受け渡しである、、鹿野峰吉は外の本屋「菊屋」で頼まれて、「薩摩藩邸」に届けたことであった。
その手紙に何が書いてあったかではなく、、届ける先が「近江屋」だったのである。
その手紙の内容は中岡慎太郎が陸援隊で世話に成っている「薩摩藩」であるから問題は無く、、その返事を届ける所が問題であったと思われるのだった。
当時、「大政奉還」を推奨していた龍馬は国内戦争を快く思っていなかった、反対に「薩摩藩、長州藩」は武力闘争による倒幕を考えていたので、、西郷隆盛、大久保利通や木戸孝允は龍馬が倒幕運動には邪魔になったのである。
勿論、徳川幕府は坂本龍馬を指名手配していたくらいであり、、「新選組」や「京都見回り組」は監視していたのある。
坂本龍馬排除の考えでは「薩摩藩」も「徳川幕府」も利害関係では一致していた。。
そこで薩摩藩のなにがしかが、、「京都見回り組」に情報を流したようであったのである。。
そして、鹿野峰吉が「薩摩藩」に手紙を渡したのが「午後5時」で、、、鹿野峰吉が龍馬にたのまれた「軍鶏」を持って、近江屋に戻ったのが「午後9時」であった。
峰吉が戻る少し前なので、、、近江屋に「京都見回り組」が襲撃した時間が一致したいたのである。
「京都見回り組」の頭が「鈴木只三郎」で6人の刺客に襲われて、、坂本龍馬、中岡慎太郎、山田藤吉は暗殺されたのであった、、、


その4 坂本龍馬とお龍の新婚旅行、、、鹿児島霧島へ


日本で初めての新婚が旅行に行った坂本龍馬とおりょうである。
1886年1月、寺田屋事件で負傷したが、何とか助かった。そして、妻「おりょう」と旅行を始めた。二人は湯治しながら仲睦まじく旅行を楽しんだ。
坂本龍馬、おりょう夫妻の新婚旅行先は「塩浸温泉」や「高千穂の峰」であった。
二人は西郷隆盛や小松帯刀の家に泊まり、、浜之市港、塩浸温泉を目指した。
1.日当山温泉に4泊した、、その間に西郷隆盛も訪れた。
2.塩浸温泉には最も長く滞在した。現在の塩浸温泉は「塩浸温泉龍馬公園」になっており、公園の中には「龍馬とお龍の縁結び足湯」「坂本龍馬、お龍の新婚湯治碑」などがある。
3.坂本龍馬、お龍夫妻は小松帯刀の別邸を訪れている。
4.高千穂の峰に二人で登った。
5.訪れた霧島神宮は国宝で鹿児島での唯一の国宝である。
6.天台宗の華林寺(花林寺)に一泊した。
7.鹿児島には50日間滞在していた。
坂本龍馬とお龍は寺田屋事件の後、鹿児島に滞在して刀傷を治した。


その5 いろは丸外伝

紀州藩の「明光丸」880トンの鉄製蒸気船と亀山社中の海援隊が運航していた「いろは丸」160トンが瀬戸内海備中宇治島沖で衝突して、「いろは丸」が沈没した事件である。
その原因を、追究して紀州藩に責任があるとして「損害賠償」を求めて争った。
海援隊の坂本龍馬たちは「万国公報」まで持ち出して「損害問題」で話し合いをしたが、、なかなか進まなかったのである。土佐藩の後藤象二郎まで出てきて、、土佐藩と紀州藩の問題にまで発展したのであったが、最終的には紀州藩が「損害賠償金」を払うことになった。
坂本龍馬は色々な手段方法を講じた、、、
長崎の繁華街で「船を沈めた紀州藩は償いをせよ」という歌まで流行らせた。
今回の「損害賠償」を結ぶまでには、坂本龍馬や岩崎弥太郎の政治力、交渉力、広い人脈が駆使して必死に努力をしたのである、、相手が紀州藩55万石であるために苦戦をした。
紀州藩の「明光丸」は15万5000ドルでイギリスから購入している。。。「明光丸」は150馬力で鉄製蒸気機関船で880トンの船であり、「いろは丸」の6倍の大きさであった。
もともと、「いろは丸」は伊予の国大洲藩の船舶で、それを「亀山社中」が借りて、海援隊が運航をしていたのである、、、
「いろは丸」を購入した藩に無断で家臣の田島が勝手に購入したので、その責任を取って「切腹」をしていた曰くありの船であった。


その6 天満屋事件外伝


天満屋事件の概要は海援隊、陸援隊の隊士たちが京都油小路の旅籠、天満屋を襲撃して紀州藩士「三浦久太郎」を襲った、その三浦久太郎の護衛に当たった新選組との闘いがあった事件である。
慶応3年(1867年)の暮れに、坂本龍馬や中岡慎太郎が暗殺されたニュースは京都市中を駆け巡った。
新選組のもとに会津藩から「人一人を守って欲しい」という依頼があった。
紀州藩公用人「三浦久太郎」で、坂本龍馬と中岡慎太郎暗殺の黒幕は「いろは丸事件」で多額の賠償金を払わされた中心にいた三浦久太郎、紀州藩とみた、海援隊、陸援隊が三浦久太郎の殺害をしようという計画を立てていたという噂が入り、、
新選組が護衛することになったのである。
早い話が仇撃ちであり、、「やられたら、やり返す」といった浅はかな行動であった。
坂本龍馬たちが「近江屋」で暗殺された後に、海援隊は駆けつけていたので、惨殺状況を見ていたので仕返しを考えても仕方のないことであった。
天満屋で襲われた時には三浦久太郎、三宅精一らが新選組隊士たちと酒宴をしていたところを奇襲されたのであるが、、、三浦久太郎も三宅精一も難を逃れた。
護衛に当たっていたのは新選組切っての剣の使い手である「斎藤一」「大石鍬次郎」を入れて7名であるが、、
奇襲されていたので新選組では「宮川新吉、船津鎌太郎が死亡」「重傷者1名、軽傷物3名」が出た。
紀州藩では「中井庄五郎が死亡」「負傷者3名」が出たのである。
斎藤一は斬られながらも一命を取り留めた、、、また、急を聞いた新選組からは「永倉新八、原田左之助ら十津川藩士たち10数名」が天満屋に向かったが、すでに戦いは終わったいた。
こんなことから「坂本龍馬や中岡慎太郎」を暗殺をしたのは「新選組」と言われていたが、、、
実際に暗殺したのは「京都見回り組」であり、襲撃したのは「7人」」であった、、、明治時代まで生き残った者はそのうちの一人であった、、殺害したのは7人のうちの「今井信郎」であった、、、本人の口から告白したのである、、その時に今井信郎は60歳であった。
また、天満屋事件のもとになった「いろは丸衝突」で紀州藩が坂本龍馬たちに支払われた「賠償金は83000両(現在の貨幣に換算すると140億円)」と言われている、、その賠償金は紀州藩から土佐藩に支払われた。


その7)「大政奉還」のもとになる「「船中八朔」は船旅の途中で、、、

船中八策は土佐藩志士の坂本龍馬が江戸時代の末期(幕末)の慶応3年(1867年)に新国家体制の基本方針を起草されたものとする。創作上の策、文である。
1876年6月坂本龍馬はいろは丸沈没事件で解決されたのち、京都に上洛して土佐藩主の山内豊信「容堂」に対して「大政奉還」をするために、藩船「夕顔丸」で長崎に出航し、上洛中の洋上で参政の後藤象二郎に対して、口頭で提示したものを、海援隊士の長岡謙吉が書とめ成文化したものとされている。
この「船中八策」が「五箇条の御誓文」となっ」たと言われている。
船中八策の新国家体制の話を坂本龍馬が後藤象二郎に話した元というか、、アイデアは「勝海舟」が、当時弟子であった坂本龍馬にはなしたものであった。
坂本龍馬は人の話を聞いて、、まとめ上げることが出来る能力を持っていた、、、そして、坂本龍馬も新国家体制には賛成していたのである。
「大政奉還」が土佐藩主山内豊信(容堂)により建白書として提出された頃より、武力倒幕ではなく、平和路線での倒幕を唱え始めたのである。
しかし、平和路線による改革は徳川慶喜や諸侯雄藩大名の合議制であり、資金力を有する徳川幕府が有利になるというので、薩摩藩と長州藩があくまでも武力による倒幕路線を唱えた。
そして、岩倉具視らと、朝廷からの「勅諭」を受けて、、、徳川慶喜討伐の御旗を挙げたのである。
しかし、大政奉還をぎりぎりで行ったので、徳川慶喜は朝敵とはならなかったのであった。
これを知った坂本龍馬は、、、
「自分は今から徳川慶喜公の為に命を捨てる覚悟だ」と、、、
「新政府綱領八朔」といった坂本龍馬の自筆が残っているのであった。
西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允や岩倉具視たちが武力闘争で倒幕を成し遂げようとした行為は、よくよく考えると自分たちの「権勢欲」にも見えるのであるが、、、、
辛うじて「勝海舟」が「江戸城無血開城」をしたことが救われるような。。。
しかし、その後の「新政府軍」の甲府城攻めや、、江戸における旧幕軍の彰義隊の抵抗などは侍の「悲壮さ」を覚えるのだが、、
そして、「宇都宮戦争」「二本松戦争」「会津戦争」「庄内藩の戦い」「函館戦争」はいずれも武士たちの、、「滅びの美学」があるようだった。
そして、明治維新という改革には「非情」と「矛盾」を感じる。
その後の明治維新政府にも大きな「人の非情と矛盾」があるような、、いつの時代にも犠牲があるのかも知れない。。。


「五箇条の御誓文」
1.天下の政権は朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出ずべし事。

2.上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公儀に決すべき事。

3.有材の公邸諸侯及び天下の人材を顧問に備え、官爵を賜ひ宜しく従来有名無実の官を

  除くべき事。

4.外国の交際広く公儀を採り、新たに至当の規約を立つべき事。

5.古来の律令を折裏し、新たに無窮の大衆を撰定すべき事。

6.海軍宜しく拡張すべき事。

7.御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。

8.金銀物貨宜しく、外国と平均の法を設けべき事。


その8 後藤象二郎、外伝

坂本龍馬も土佐藩の郷士出身の後藤象二郎、乾(板垣)退助ら上士に子供の頃は「ニセ侍」と罵られ、苛められていた。
土佐藩は侍は「上士」「下士」と身分が厳しく分かれていたのであった。
しかし、後藤象二郎は坂本龍馬が書いたとされる「実際は口頭で話した」、、「船中八朔」における近代国家構想に同じ思いを持ち、藩主山内豊信(容堂)に採用させたり、身分の低い龍馬の代わりに幕府や御三家との交渉に当たり、龍馬とは協力関係を結んでいた。
そして後藤象二郎が居なかったら「大政奉還」はなかったかもしれないのであった。
大政奉還が無ければ、、「王政復古」の号令もなかったのではないのか、、、そんな意味では後藤象二郎は明治維新の立役者であった。
また、後藤象二郎と竹馬の友であった「板垣退助」も、、龍馬が暗殺されなかったら、、、
「龍馬は細かいことに拘らない、おおらかな人だから役人には向いた居ない。もし、龍馬が40歳まで生きていたら、薩摩の五代(五代友厚、大阪の経済の基盤をつくった)土佐の岩崎(岩崎弥太郎、三菱財閥の初代総裁)のようになったいただろうと、言葉を残している。

後藤象二郎は最後は心臓病で箱根に療養中に60歳で亡くなった。政治家で実業家であった。
後藤象二郎は馬廻り格、後藤助右衛門の長男として、高知城下片町に生まれる。
少年期には叔父で藩参政である吉田東洋の鶴田塾に学んだ、同門には「岩崎弥太郎」がいる。
1858年、吉田東洋の推挙により、幡多郡奉行に、1867年(文久元年)に御近習目付に、そして、普請奉行として活躍するが、
吉田東洋が暗殺されると失脚するのであった
しかし、前藩主の山内豊信(容堂)が権力を握ると、、藩政に復帰した。
そして、江戸の開成所で「蘭学」「航海術」「英学」を学んだのである。その後「大監察」に就任した。
その時に勤王攘夷論者だった「武市半平太」を処刑しているが、、その後、政治姿勢を攘夷論に転換して、坂本龍馬と話し合いを持ち、、
龍馬と協力するようになったのである。話し合った場所が「京都壺屋」という、土佐藩の醤油商であった。
維新後は新政府の役職についたが、、西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎たちは「征韓論」で敗れて、野にくだったのである。、、、
西郷隆盛は後に「西南戦争」を起こした自刃した。。。
板垣退助は「自由民権運動を起こしている」、、、その自由党に江藤新平や副島種臣らが参加している。
後藤象二郎は自由民権運動の資金調達のために「蓮采社」を設立しているが、、後に、福沢諭吉の仲介で「岩崎弥太郎」に
売り渡しているのであった、その見返りに後藤象二郎は三菱は毎月「1000円」を支払っていた。

後藤象二郎は新政府では「大阪知事」を務めていた。
更に明治新政府の「黒田清隆内閣、山県内閣、伊藤内閣」では有力大臣を務めたいたのであった。


その9 坂本龍馬という男

坂本龍馬は時代が要求した男で、、その時に風の様に表れて、、時代が不要になったら風が止んだように消える、、、風の使者のようなものだ。
幕末に時代の変革の時に必要なことを成し遂げて去っていく風雲児だ。
それは260年間続いた江戸幕府を倒して、新しい国家をつくるというプロジェクトなのだから、
普通では出来ない。
そのきっかけを作ったのが坂本龍馬なのだった。
勝海舟らの意見を取り入れて考船中八策」を起草し、土佐藩の後藤象二郎に新しい国家構想を説いて、理解を得たのちに。。。土佐藩主山内豊信(容堂)を動かし、、朝廷に「建白書」を提出したのであった。
そして、「大政奉還」がなったのである。
その「大政奉還」をもとに「王政復古」の大号令が発せられた。
その「王政復古」を発せるために尽力したのが岩倉具視であった、、、この「王政復古」の勅諭が出されて幕府倒幕が始まったのだった。
そのために徳川慶喜公は身を引いて江戸へ戻って蟄居したのである。
坂本龍馬はあくまでも平和解決を望んでいたが、、薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通、そして、長州藩の木戸孝允らは武力による倒幕を考えていたのであった。
しかし、幕府側の勝海舟は西郷隆盛らと計って、、「江戸城無血開城」をせめて行ったのであるが、、その後は各地で旧幕府軍と新政府軍との間に戦争が起きた。
平和的解決を願っていた坂本龍馬は王政復古が鳴る前に京都「近江屋」で暗殺されたので、、その後の武力闘争に於ける討伐をしらなかったのであった。
坂本龍馬は幕府の京都見回り組からも新選組から監視されていたのであった。
今で言えば「指名手配中」だったのである。
新国家の構想を唱えながら、同じ倒幕思想の仲間からも疎まれ、最後は幕府側の京都見回り組に暗殺されたという「英雄から悲劇の男」にされたのかも知れない。
この世の「非情」と「矛盾」の中で生きた男だったような、、、、。













 














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