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第八章 公爵夫人の計画
2 公爵夫人の見当
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(とりあえず、朗読の練習でもしてみましょうか)
ダンビエール公爵邸に戻ったベルティーユは、部屋着に着替えると、まずは図書室へと向かった。
王の朗読係になるかどうかはわからないが、なんらかの方法で王に仕え、王とロザージュ王国王女の仲を取り持つ必要がある。
ロザージュ王国王女との政略結婚が失敗すれば、この結婚に諸手を挙げて賛成していなかったとはいえ、宰相である伯父の政治生命にもかかわるのだ。
図書室は暖炉がないため、いつ入っても冷たい空気と古い紙と埃の匂いがする。
(朗読というのはどんな本が良いのかしら。お兄様が好むような恋愛小説よりも、陛下には歴史書の方が良いかもしれないけれど。でも、詩を好まれるかもしれないわ)
王が好む本については、伯父の秘書官からの報告にはあまり詳しくは書かれていなかった。
多忙な王は好むと好まざるとにかかわらず、読まなければならない文献がたくさんある。
そのため、シルヴェストルのように恋愛小説ばかり読んでいる暇はないのだ。
(恋の詩などを読んでさしあげるのも良いかもしれないわ。それで、王女様に恋に似た気持ちを抱かれるかもしれないし。――恋というものがどのようなものかは、わたしもよくわからないけれど)
古今東西の稀書が並ぶ本棚の前でベルティーユは腕組みをして唸った。
恋とはなにかなど、いままで彼女は考えたことがなかった。
アントワーヌ五世の妃として勉学に励んでいた頃、彼に恋をしていたわけではない。いまでも王を敬愛しているが、これが恋かと訊ねられると素直には頷けないものがある。
王に顔を覚えてもらい、声をかけていただき、名前を呼ばれれば誰だって嬉しいものだ。この国の至高の君に近づける者など貴族でも一握りであり、そのひとりに自分が加われたとなれば喜ばない方がおかしい。
オリヴィエールはベルティーユが王に恋をしていると指摘したが、よくよく考えてみるとこれが恋であるならばこの国の国民すべてが王に恋をしていることになる。
(わたしはいま陛下に恋をしているのかしら? そりゃ、陛下が他国の王女様と結婚すると決まったときはとても悲しかったけれど――わたしの長年の努力が無駄になったから)
思い返してみれば、アントワーヌ五世のために長い歳月をかけて身に付けた教養を王妃として世間に披露できなかったことが一番悔しかった。誰もが自分を王妃にふさわしい者として認めてもらう機会を永遠に失ったからだ。
(わたし――実は伯父様みたいに政治をしたかったのよねぇ)
ベルティーユにとって伯父は憧れの存在だ。
実家から勘当された身で宮廷に乗り込み、宰相にまで上り詰めたのだ。もちろん、宰相になれたのは廃嫡されたとはいえ侯爵家の出身だったからであるが、王立大学を首席で卒業し、人脈があり、人望もあり、敵も多いが味方も多いという人柄によるところも大いにある。
(王妃になれば、女でも伯父様みたいに政治に加われると思ったのに……)
王妃になれないならば愛妾に、と考えたのは、様々な歴史書には王を有能な愛妾が政治的に支えたという記述がいくつもあるからだ。もちろん傾国の美女もいるが、ベルティーユは自分が有能な愛妾になれる自信があった。
(ちょっと、動機が不純だったかしら。お妃教育を受けてきたからといって、いきなり伯父様みたいな手腕を発揮できるわけがないし、嫁いできた王女様を差し置いてわたしが出しゃばるのもおかしな話よね)
静謐な空気が漂う図書室で書架に向き合って考えていると、段々頭が冷えてきた。
(そりゃ、お兄様が反対するわけよね)
アントワーヌ五世とファンティーヌ王女の婚約が決まって以来、ひたすら愛妾になることだけを目標にしていたベルティーユだが、ここにきてようやくほんのすこしだけ自分の立場が俯瞰できるようになっていた。
(オリヴィエールはきっと、いくら反対してもわたしの耳には届かないと思ったから反対はしなかったんでしょうね)
アントワーヌ五世に恋をしていたら、もっと違う行動に出ていたかもしれない。
オリヴィエールの求婚を受けず、一生結婚しないと宣言して修道院に入って神に祈る毎日を送っていた可能性もある。
シルヴェストルが読んでいた恋愛小説の中には、失恋して出家したり、哀しみに耐えかねて病に臥してしまう少女たちがたくさん登場する。
ところが自分はといえば、愛妾になると宣言してオリヴィエールと結婚し、愛妾になるために研鑽を積んでいる日々だ。
(そういえば、王太后様も恋愛小説を好まれて読んでいたわね。お兄様の恋愛小説を斜め読みして王太后様と恋愛小説談義をしたこともあったわ)
ベルティーユは恋愛小説の字面だけを読んでいたので、内容に感動したり胸を痛めたりしたことはまったくないが、シルヴェストルの感想を自分の言葉に変換して王太后に伝えると、かなり好感触だった。
兄のまったく役に立たないと思われた趣味も、ベルティーユの王宮での交際にはなかなか役に立ったとはいえる。
(王太后様が陛下が王女様と仲良くなることをお望みなのは、政略結婚とはいえ恋愛小説のような恋に発展することをお望みなのかしら! となると、わたしは王女様に嫉妬される恋敵ってことかしら? ……恋敵……じゃないわよねぇ。わたし、陛下に恋をしているわけではないもの)
うーん、と唸っているうちに、首が横に向き、さらに肩に近づくくらいに傾いた。
(わたし、恋をしたことがない――わよねぇ……)
自分の人生を振り返ってきて、実は恋に恋したこともないことに気付いてしまった。
(アレクサンドリーネなら恋愛相談なんて得意中の得意なんでしょうけれど、わたしは苦手だわ。恋がどんなものかわからないのだもの)
これまでのベルティーユの人生に、恋愛は不要なものだった。
恋をしている暇など一切なく、ひたすら王妃候補として勉学に勤しんでいた。
オリヴィエールと婚約してからも愛妾になった後のことを考えてさらに勉強を続け、結婚後は公爵夫人として様々な雑事に追われていた。
(そういえばオリヴィエールは誰かに恋をしたことはあるのかしら。前にわたしに求婚してくれたときに、少し前までは一生独身で過ごすつもりだったって言ってたわよね。公爵家を継いだばかりなのに結婚するつもりがなかったってことは、単純に結婚に興味がなかったってわけではなく、公爵家の家長の義務としての結婚もしたくないほどの理由があったってことかしら)
ベルティーユが初めてダンビエール公爵邸を訪問した際、使用人たちはオリヴィエールが婚約したことをとても喜んでいた。また、ベルティーユが公爵夫人となることを諸手を挙げて歓迎してくれた。
いまでも使用人たちはベルティーユを大切にしてくれる。
ベルティーユが小さなくしゃみをしただけで「奥様! お風邪を召されませぬようにこれを!」と肩掛けやら外套やらを急いで持ってきてくれる。それはもう、ミネットも驚くほどの素早さだ。
ベルティーユが寝不足で長椅子に座ってうつらうつらしているだけで「奥様! お疲れでしたらお部屋でお休みになってください! 加密列のお茶をお入れしますよ!」と休息を促される。
はっきり言って、ミネットよりも過保護だ。
(もしかしたらオリヴィエールは酷い失恋をして、その心の傷が癒えるまでは結婚しないと決めていたのかもしれないわ。だから、周囲も彼に結婚を強く勧めたりはしなかったんでしょうね。彼にはこれまで仲の良い御令嬢もいなかったという話だから、もしかしたら親しくなる前に失恋をしたのかもしれないわ! 若い頃の失恋の痛手はなかなか癒えないと聞くものね)
はたしてオリヴィエールが恋をしていた相手は誰だったのだろう、と頭の片隅に浮かんだ途端、かすかに胸が疼いた。
(いまは、その傷は癒えたのかしら――)
自分と結婚したのだから、多少は癒えたかもしれないが、完治したかどうかはわからない。
かといって、自分から訊くのは憚れる。
(オリヴィエールは、人助けとしてわたしと結婚しただけだし、わたしがいま陛下の愛妾になりたいと思っていることが周囲にばれるといけないから激甘新婚夫婦を演じているだけで……本当は結婚したくなかったんじゃないかしら)
だとしたら、自分はオリヴィエールにとって厄介な存在ということになる。
(わたしは、早く王宮に出仕して、国王陛下のためになんらかの仕事に就くべきかもしれないわ)
そのためにも、まずは朗読の練習をしなければ、とベルティーユは決意を固めた。
ダンビエール公爵邸に戻ったベルティーユは、部屋着に着替えると、まずは図書室へと向かった。
王の朗読係になるかどうかはわからないが、なんらかの方法で王に仕え、王とロザージュ王国王女の仲を取り持つ必要がある。
ロザージュ王国王女との政略結婚が失敗すれば、この結婚に諸手を挙げて賛成していなかったとはいえ、宰相である伯父の政治生命にもかかわるのだ。
図書室は暖炉がないため、いつ入っても冷たい空気と古い紙と埃の匂いがする。
(朗読というのはどんな本が良いのかしら。お兄様が好むような恋愛小説よりも、陛下には歴史書の方が良いかもしれないけれど。でも、詩を好まれるかもしれないわ)
王が好む本については、伯父の秘書官からの報告にはあまり詳しくは書かれていなかった。
多忙な王は好むと好まざるとにかかわらず、読まなければならない文献がたくさんある。
そのため、シルヴェストルのように恋愛小説ばかり読んでいる暇はないのだ。
(恋の詩などを読んでさしあげるのも良いかもしれないわ。それで、王女様に恋に似た気持ちを抱かれるかもしれないし。――恋というものがどのようなものかは、わたしもよくわからないけれど)
古今東西の稀書が並ぶ本棚の前でベルティーユは腕組みをして唸った。
恋とはなにかなど、いままで彼女は考えたことがなかった。
アントワーヌ五世の妃として勉学に励んでいた頃、彼に恋をしていたわけではない。いまでも王を敬愛しているが、これが恋かと訊ねられると素直には頷けないものがある。
王に顔を覚えてもらい、声をかけていただき、名前を呼ばれれば誰だって嬉しいものだ。この国の至高の君に近づける者など貴族でも一握りであり、そのひとりに自分が加われたとなれば喜ばない方がおかしい。
オリヴィエールはベルティーユが王に恋をしていると指摘したが、よくよく考えてみるとこれが恋であるならばこの国の国民すべてが王に恋をしていることになる。
(わたしはいま陛下に恋をしているのかしら? そりゃ、陛下が他国の王女様と結婚すると決まったときはとても悲しかったけれど――わたしの長年の努力が無駄になったから)
思い返してみれば、アントワーヌ五世のために長い歳月をかけて身に付けた教養を王妃として世間に披露できなかったことが一番悔しかった。誰もが自分を王妃にふさわしい者として認めてもらう機会を永遠に失ったからだ。
(わたし――実は伯父様みたいに政治をしたかったのよねぇ)
ベルティーユにとって伯父は憧れの存在だ。
実家から勘当された身で宮廷に乗り込み、宰相にまで上り詰めたのだ。もちろん、宰相になれたのは廃嫡されたとはいえ侯爵家の出身だったからであるが、王立大学を首席で卒業し、人脈があり、人望もあり、敵も多いが味方も多いという人柄によるところも大いにある。
(王妃になれば、女でも伯父様みたいに政治に加われると思ったのに……)
王妃になれないならば愛妾に、と考えたのは、様々な歴史書には王を有能な愛妾が政治的に支えたという記述がいくつもあるからだ。もちろん傾国の美女もいるが、ベルティーユは自分が有能な愛妾になれる自信があった。
(ちょっと、動機が不純だったかしら。お妃教育を受けてきたからといって、いきなり伯父様みたいな手腕を発揮できるわけがないし、嫁いできた王女様を差し置いてわたしが出しゃばるのもおかしな話よね)
静謐な空気が漂う図書室で書架に向き合って考えていると、段々頭が冷えてきた。
(そりゃ、お兄様が反対するわけよね)
アントワーヌ五世とファンティーヌ王女の婚約が決まって以来、ひたすら愛妾になることだけを目標にしていたベルティーユだが、ここにきてようやくほんのすこしだけ自分の立場が俯瞰できるようになっていた。
(オリヴィエールはきっと、いくら反対してもわたしの耳には届かないと思ったから反対はしなかったんでしょうね)
アントワーヌ五世に恋をしていたら、もっと違う行動に出ていたかもしれない。
オリヴィエールの求婚を受けず、一生結婚しないと宣言して修道院に入って神に祈る毎日を送っていた可能性もある。
シルヴェストルが読んでいた恋愛小説の中には、失恋して出家したり、哀しみに耐えかねて病に臥してしまう少女たちがたくさん登場する。
ところが自分はといえば、愛妾になると宣言してオリヴィエールと結婚し、愛妾になるために研鑽を積んでいる日々だ。
(そういえば、王太后様も恋愛小説を好まれて読んでいたわね。お兄様の恋愛小説を斜め読みして王太后様と恋愛小説談義をしたこともあったわ)
ベルティーユは恋愛小説の字面だけを読んでいたので、内容に感動したり胸を痛めたりしたことはまったくないが、シルヴェストルの感想を自分の言葉に変換して王太后に伝えると、かなり好感触だった。
兄のまったく役に立たないと思われた趣味も、ベルティーユの王宮での交際にはなかなか役に立ったとはいえる。
(王太后様が陛下が王女様と仲良くなることをお望みなのは、政略結婚とはいえ恋愛小説のような恋に発展することをお望みなのかしら! となると、わたしは王女様に嫉妬される恋敵ってことかしら? ……恋敵……じゃないわよねぇ。わたし、陛下に恋をしているわけではないもの)
うーん、と唸っているうちに、首が横に向き、さらに肩に近づくくらいに傾いた。
(わたし、恋をしたことがない――わよねぇ……)
自分の人生を振り返ってきて、実は恋に恋したこともないことに気付いてしまった。
(アレクサンドリーネなら恋愛相談なんて得意中の得意なんでしょうけれど、わたしは苦手だわ。恋がどんなものかわからないのだもの)
これまでのベルティーユの人生に、恋愛は不要なものだった。
恋をしている暇など一切なく、ひたすら王妃候補として勉学に勤しんでいた。
オリヴィエールと婚約してからも愛妾になった後のことを考えてさらに勉強を続け、結婚後は公爵夫人として様々な雑事に追われていた。
(そういえばオリヴィエールは誰かに恋をしたことはあるのかしら。前にわたしに求婚してくれたときに、少し前までは一生独身で過ごすつもりだったって言ってたわよね。公爵家を継いだばかりなのに結婚するつもりがなかったってことは、単純に結婚に興味がなかったってわけではなく、公爵家の家長の義務としての結婚もしたくないほどの理由があったってことかしら)
ベルティーユが初めてダンビエール公爵邸を訪問した際、使用人たちはオリヴィエールが婚約したことをとても喜んでいた。また、ベルティーユが公爵夫人となることを諸手を挙げて歓迎してくれた。
いまでも使用人たちはベルティーユを大切にしてくれる。
ベルティーユが小さなくしゃみをしただけで「奥様! お風邪を召されませぬようにこれを!」と肩掛けやら外套やらを急いで持ってきてくれる。それはもう、ミネットも驚くほどの素早さだ。
ベルティーユが寝不足で長椅子に座ってうつらうつらしているだけで「奥様! お疲れでしたらお部屋でお休みになってください! 加密列のお茶をお入れしますよ!」と休息を促される。
はっきり言って、ミネットよりも過保護だ。
(もしかしたらオリヴィエールは酷い失恋をして、その心の傷が癒えるまでは結婚しないと決めていたのかもしれないわ。だから、周囲も彼に結婚を強く勧めたりはしなかったんでしょうね。彼にはこれまで仲の良い御令嬢もいなかったという話だから、もしかしたら親しくなる前に失恋をしたのかもしれないわ! 若い頃の失恋の痛手はなかなか癒えないと聞くものね)
はたしてオリヴィエールが恋をしていた相手は誰だったのだろう、と頭の片隅に浮かんだ途端、かすかに胸が疼いた。
(いまは、その傷は癒えたのかしら――)
自分と結婚したのだから、多少は癒えたかもしれないが、完治したかどうかはわからない。
かといって、自分から訊くのは憚れる。
(オリヴィエールは、人助けとしてわたしと結婚しただけだし、わたしがいま陛下の愛妾になりたいと思っていることが周囲にばれるといけないから激甘新婚夫婦を演じているだけで……本当は結婚したくなかったんじゃないかしら)
だとしたら、自分はオリヴィエールにとって厄介な存在ということになる。
(わたしは、早く王宮に出仕して、国王陛下のためになんらかの仕事に就くべきかもしれないわ)
そのためにも、まずは朗読の練習をしなければ、とベルティーユは決意を固めた。
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