上 下
26 / 73
第五章 新婚旅行

4 旅籠

しおりを挟む
 日没後、辺りが暗闇に包まれた頃になって、一日目の宿がある町に馬車は辿り着いた。
 宿場町と呼ぶほど大きな町ではないが、はたが幾つかあり、その中でも一番大きな旅籠でダンビエール公爵一行は泊まることになった。
 新月ではないが、雲で月や星が隠れ、松明たいまつろうそくの灯りがなければ足元も見えないほどの暗さだ。
 旅籠の主人は夜遅くに到着した公爵一行を笑顔で出迎えた。

「ようこそおいでくださいました。日が落ちるとすっかり外は寒くなってしまいますので、さぞお身体が冷えてしまわれたことでしょう。ただいまお部屋を温めておりますので、支度が調うまでこちらの広間のだんの前でお待ちいただけますか」

 壮年のふくよかな体格の主人は、オリヴィエールとベルティーユを広間へ案内した。
 家令とミネットは宿の使用人たちが馬車から荷物を下ろして部屋まで運ぶ作業を細かく指示し、大量の鞄をひとつずつ賓客と同じく大玄関の中央階段を通って運ばれた。
 ペランは先に夫妻が泊まる部屋を確認するため、使用人たちと一緒に階段を上っていった。
 ディスはベルティーユに続いて広間へ入ってきた。
 暖炉の前には夫妻がくつろげるようにと長椅子が用意されていた。

「まずはお茶でもお召し上がりください」

 女将が温かい紅茶と軽食を運んできた。

「ディス、さきほどはごめんなさいね」

 オリヴィエールが宿の主人と話している隙を見計らって、ベルティーユはディスをそばまで手招きすると小声で謝った。

「いえ、俺の方が軽率でした」

 ディスはベルティーユにだけ聞こえるよう、耳元で囁く。

「わたし、市場は見たことがないから、とても見てみたかったの」
「賑やかで面白い場所ではありますが、公爵様がおっしゃるとおり、公爵夫人にふさわしい場所ではありませんでした」
「――残念だわ」

 苦笑いを浮かべ、ベルティーユは紅茶に手を伸ばした。

(公爵夫人は、思っていたよりも窮屈だわ)

 貴族だからといって市場を覗く行為が品位を落とすわけではない。
 市井の暮らしぶりを知るのは良いことだし、お忍びで市場に出掛ける貴族だっているだろう。
 貴族たちが利用する高級雑貨店では売られていないような物が並んでいるだろうし、食べたことがないような食べ物だってあるはずだ。
 せっかく王都の外に出たのだから羽を伸ばしてみたいとベルティーユは思っていたし、ディスも似たようなことを考えていたはずだ。
 これまでベルティーユが見たことがない光景を見せてやろう、と。

(でも、オリヴィエールが言うことだって一理あるわ。わたしはこれから、ダンビエール公爵夫人としての評判を気にしていかなければならんだもの。最初から評判が下がるようなことをしてはいけないわ)

 どんなさいなことでも揚げ足を取ろうとする者がいるのが宮廷だ。
 いずれ国王の愛妾になるためにも、言動には充分注意していかなければならない。
 この宿の主人や女将だって、新しいダンビエール公爵夫人がどのような貴婦人であるかを見定めようとしているのだ。
 彼らはいずれ、今後訪れる客たちに語るだろう。

――先日、ダンビエール公爵夫妻がうちにお泊まりになったんだけどさ。奥様は若くて軽はずみなところがある世間知らずな方だったよ。

 庶民の口から出た評価とはいえ、それが客たちに伝わり、その客が貴族であれば、ベルティーユが若く世間知らずで浅慮な公爵夫人であるという先入観を持たせることになる。

(わたしはもっと周囲の目を気にして行動しなければいけないのだったわ)

 女将が淹れてくれた紅茶を褒めながら、ベルティーユは反省した。

「そういえば、ディス。なにか隠していない?」
「隠す? なにをですか」
「あなたたちが強盗対策の護衛として雇われたってことよ」

 たかだか強盗相手に傭兵団の精鋭が二人も派遣されることに、ベルティーユは納得していなかった。

「ちまたの強盗がどんな凶暴かも知れたものではありませんし、万が一奥様になにかあっては閣下に顔向けができないので、強盗団が束になってかかってきても撃退できるように俺たちが選ばれただけですよ」
「そう?」
「そうです。あぁ、ほら、公爵様がこちらを見ていらっしゃいますよ」

 ディスに言われてベルティーユが視線を前方に向けると、オリヴィエールは宿の主人と会話をしつつもこちらの様子を気にしている素振りが見られた。

(護衛と雑談をしているのも、公爵夫人にあるまじき行為って言いたいのかしら)

 旅行がこんなに窮屈なものだったとは、とベルティーユは長椅子の背もたれに身体を預けながら、溜め息を噛み殺した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

拝啓、婚約者さま

松本雀
恋愛
――静かな藤棚の令嬢ウィステリア。 婚約破棄を告げられた令嬢は、静かに「そう」と答えるだけだった。その冷静な一言が、後に彼の心を深く抉ることになるとも知らずに。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

美しい公爵様の、凄まじい独占欲と溺れるほどの愛

らがまふぃん
恋愛
 こちらは以前投稿いたしました、 美しく残酷な公爵令息様の、一途で不器用な愛 の続編となっております。前作よりマイルドな作品に仕上がっておりますが、内面のダークさが前作よりはあるのではなかろうかと。こちらのみでも楽しめるとは思いますが、わかりづらいかもしれません。よろしかったら前作をお読みいただいた方が、より楽しんでいただけるかと思いますので、お時間の都合のつく方は、是非。時々予告なく残酷な表現が入りますので、苦手な方はお控えください。 *早速のお気に入り登録、しおり、エールをありがとうございます。とても励みになります。前作もお読みくださっている方々にも、多大なる感謝を! ※R5.7/23本編完結いたしました。たくさんの方々に支えられ、ここまで続けることが出来ました。本当にありがとうございます。ばんがいへんを数話投稿いたしますので、引き続きお付き合いくださるとありがたいです。この作品の前作が、お気に入り登録をしてくださった方が、ありがたいことに200を超えておりました。感謝を込めて、前作の方に一話、近日中にお届けいたします。よろしかったらお付き合いください。 ※R5.8/6ばんがいへん終了いたしました。長い間お付き合いくださり、また、たくさんのお気に入り登録、しおり、エールを、本当にありがとうございました。 ※R5.9/3お気に入り登録200になっていました。本当にありがとうございます(泣)。嬉しかったので、一話書いてみました。 ※R5.10/30らがまふぃん活動一周年記念として、一話お届けいたします。 ※R6.1/27美しく残酷な公爵令息様の、一途で不器用な愛(前作) と、こちらの作品の間のお話し 美しく冷酷な公爵令息様の、狂おしい熱情に彩られた愛 始めました。お時間の都合のつく方は、是非ご一読くださると嬉しいです。 *らがまふぃん活動二周年記念として、R6.11/4に一話お届けいたします。少しでも楽しんでいただけますように。

王子殿下の慕う人

夕香里
恋愛
エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。 しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──? 「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」 好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。 ※小説家になろうでも投稿してます

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

公爵家のご令嬢は婚約者に裏切られて~愛と溺愛のrequiem~

一ノ瀬 彩音
恋愛
婚約者に裏切られた貴族令嬢。 貴族令嬢はどうするのか? ※この物語はフィクションです。 本文内の事は決してマネしてはいけません。 「公爵家のご令嬢は婚約者に裏切られて~愛と復讐のrequiem~」のタイトルを変更いたしました。 この作品はHOTランキング9位をお取りしたのですが、 作者(著者)が未熟なのに誠に有難う御座います。

とまどいの花嫁は、夫から逃げられない

椎名さえら
恋愛
エラは、親が決めた婚約者からずっと冷淡に扱われ 初夜、夫は愛人の家へと行った。 戦争が起こり、夫は戦地へと赴いた。 「無事に戻ってきたら、お前とは離婚する」 と言い置いて。 やっと戦争が終わった後、エラのもとへ戻ってきた夫に 彼女は強い違和感を感じる。 夫はすっかり改心し、エラとは離婚しないと言い張り 突然彼女を溺愛し始めたからだ ______________________ ✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定) ✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです ✴︎なろうさんにも投稿しています 私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ

ハズレ嫁は最強の天才公爵様と再婚しました。

光子
恋愛
ーーー両親の愛情は、全て、可愛い妹の物だった。 昔から、私のモノは、妹が欲しがれば、全て妹のモノになった。お菓子も、玩具も、友人も、恋人も、何もかも。 逆らえば、頬を叩かれ、食事を取り上げられ、何日も部屋に閉じ込められる。 でも、私は不幸じゃなかった。 私には、幼馴染である、カインがいたから。同じ伯爵爵位を持つ、私の大好きな幼馴染、《カイン=マルクス》。彼だけは、いつも私の傍にいてくれた。 彼からのプロポーズを受けた時は、本当に嬉しかった。私を、あの家から救い出してくれたと思った。 私は貴方と結婚出来て、本当に幸せだったーーー 例え、私に子供が出来ず、義母からハズレ嫁と罵られようとも、義父から、マルクス伯爵家の事業全般を丸投げされようとも、私は、貴方さえいてくれれば、それで幸せだったのにーーー。 「《ルエル》お姉様、ごめんなさぁい。私、カイン様との子供を授かったんです」 「すまない、ルエル。君の事は愛しているんだ……でも、僕はマルクス伯爵家の跡取りとして、どうしても世継ぎが必要なんだ!だから、君と離婚し、僕の子供を宿してくれた《エレノア》と、再婚する!」 夫と妹から告げられたのは、地獄に叩き落とされるような、残酷な言葉だった。 カインも結局、私を裏切るのね。 エレノアは、結局、私から全てを奪うのね。 それなら、もういいわ。全部、要らない。 絶対に許さないわ。 私が味わった苦しみを、悲しみを、怒りを、全部返さないと気がすまないーー! 覚悟していてね? 私は、絶対に貴方達を許さないから。 「私、貴方と離婚出来て、幸せよ。 私、あんな男の子供を産まなくて、幸せよ。 ざまぁみろ」 不定期更新。 この世界は私の考えた世界の話です。設定ゆるゆるです。よろしくお願いします。

処理中です...