いろはにほへと

32

しばらくして呼び出された安曇が部屋に来たが、万里と由を見て顔を青くした。
今にも逃げて帰りそうな勢いの安曇の首根っこを捕まえて、部屋に引き摺りこんだのは他の誰でもない蓮だ。
安曇の人へ対する恐怖心を強くさせているのは蓮ではないかと思うほど、ひどい扱いだ。
「そ、そんな、む、むり、無理ですよ…」
安曇は蓮の言葉を聞いて、壊れたおもちゃのように首を振って、今にも消えてなくなりそうなくらいに小さくなった。
確かに10日。いや、もう9日しかない。それで2億を5億にしろっていうのは、そういう反応になるよなと万里は思った。自分で言った提案ながら、これはこれで無理難題かと思った。というか、無謀で馬鹿。
「なぁ、蓮はいくら用意出来るん？」
「あ？俺か？俺は1億だけ。それ以上のギャンブルはせん」
いや、1億は十分ギャンブルですからねと思いつつ、テーブルを指先で弾くと蓮の隣で泣きそうになっていた安曇がヒッと悲鳴をあげた。
なんだ、狂犬か、俺は。なかなか傷つく反応じゃないかと、眉根を寄せた。
「安曇はん、俺ん金と蓮の金、3億、どへんかして5億にしてくれへん？いや、5億になるどころか1億になってしもたんえーってゆーんも、しゃーない。せやかて、あんたも恩義あるんちゃう？雷音に」
「……」
「柴葉な、あいつ、あんさんを利用する言うとったけど、そら稲峰ん信用取るだけの話で、あんさんに危害加えようとか一切思うてへんかってん。ただ、ちびっと金作れるとこだけ稲峰に見せたら逃がすつもりやったんやて」
「……え」
「柴葉本人から聞いたし、死にかけん時やったから嘘やない思うで。あいつかて、守りたいもんあったんや。あんさんかて守りたいもんってあるやろ？俺は…俺の軽率な行動のせいで、雷音が犠牲になってるんが一番解せんのや。やて、世の中なんやて金で動くことが多て、俺だけの力じゃどうもならんわけ。やからといって、あんさんに何や危害加えるわけでも、出来へんかったら殺す言うてるわけでもあらへん。出来へなんだら、そらしゃーないし、そないならはった時は堅気んあんたらが入り込まれへんこっちゃん話になるつうことや。あんたにどへんしてくれんねんとか、責任取れとか言わん。まぁ、極道ん口約束なんて信用出来ひんかもしらんけど、あれやったら録音やてなんやて気ん済むようにしてくれたらええよ。ただ、力を貸してほしいって訳や」
万里を真っ直ぐな目で見つめた安曇は、ふと視線を落とすと手遊びでもしてるかのように指を遊ばせ始めた。
「億…1億…。4…385645…」
やがて、ぶつぶつと数字を呟きだした安曇は、しばらくそうしているとふと顔を上げて蓮を見た。
「やります、その…僕は無関係というわけじゃないと思うので、足らないとなった場合は残りは僕が出します」
「安曇」
蓮が腹の底から出すような声で威嚇したが、安曇の決心は変わらないのか、出しますと同じ言葉を繰り返した。
どう転ぶかは分からないが、一応、ひとつの問題はクリア出来た。万里は周囲に気が付かれないように息を吐いて、笑った。
「なら、ほして決まりちゅうことで」
万里がぱんっと手を合わせると、蓮は舌打ちをして何も言わなかった。
「あ、おい明神。俺のこと、どこで調べたんや」
蓮の鋭い視線を外し、天井を見上げる。
「あー、えーっとね」
「俺ですよー」
由がすいませんねと言うと、蓮は益々、人相を悪くして由を睨み、その視線を万里へも向けた。それにヘラッととりあえず笑っとけと笑うと、蓮の眉間の皺が更に深くなった。
「あ、せや。ここって、あんたん家？」
今更なことを万里が聞くと、蓮は首を振った。
「俺は住んでへん。転がしてるだけや」
「ほなさ、ほなさ、貸してくれへん？ほとぼりが冷めるまで」
「ああ！？」
「やて、行くとこあらへんしー。ホテルとか、すぐに足つくしー、なんぞあったらすぐに連絡取れるやん？遊ばしたはるんやったら、尚更ええやろ」
ね！と強引に押し切ると、蓮は面倒臭くなったのか、勝手にしろと部屋の鍵を投げて寄越した。
これで住居も確保出来たぞ。とりあえず順調だなと、万里は思った。

「ほれ、こっちおいで」
蓮たちが帰ってから広いバスルームで疲労感いっぱいの身体を癒し、バスローブを羽織ってリビングに行くとラフな格好をした由が手招きしていた。
「由、これ、どこで仕入れてきたん？」
テーブルの上には万里の寝巻きや軽食に飲み物、ありとあらゆる物が積み上げられていた。
「ここの裏、大型ショッピングモールやねんで。立地最高やでな。ええ家賃取ってそうやわ。セキュリティも万全やし」
「へー」
由は万里の手を引くと、柔らかいラグの上に座らせた。ソファに座る由の足の間に座っているので、万里はそのしっかりとした脚に頭を凭れさせた。
「冷たいって。ほれ」
由は優しく言うと、万里の濡れた髪を拭き始めた。万里はそれに嫌がることなく、目を閉じた。
「万里はいつまでもダメダメやなぁ」
「ちょっとは成長したし」
「そうかー？」
由は笑って万里の両頬を包み込みと、そのまま上を向かして、その唇に口付けた。
「成長したんかなー？ほれ、目、ちゃんと開けて」
由は万里の左目を覗き込むと、目薬を落とした。
「病院出る時に、拝借してきてん」
じくじく痛む左目をぎゅーっと閉じて、痛いを連呼すると由が額に口付けを落とす。こういうことをされてきたから、自分の中での男だとか女だとかの理念が吹っ飛んでいるのではないだろうかと微笑みを絶やさない由を見ていると、どうした？と首を傾げられた。
「由、あれから何してたん？若中に落とされて」
「楽しいしとったで」
由は薬を片付けると、また大きなガーゼで万里の左目を覆った。そして手際よくそれをテープで付けると、出来たと万里の肩を叩いた。
すると万里は由の方へ向いて、犬のようにその太ももに顎を置いた。
「最近の若い子は、あんまり骨のある子おらんでねぇ。ああいうのがゆとり世代かなーとか、思っちゃったよ」
「ゆとりて」
「弱い人間としか喧嘩してこーへんかったんやろうねぇ。いざ、強い人間を前にすると、ヘコタレてもうて…。ああいうん見てると、もう極道もあかんかなぁ思うわ」
ねーと、大袈裟に肩を竦める由に、万里は小さく笑った。
「珍しい、弱気」
「弱気にもなるわ。あない骨のない連中を集めても、何もならへんしねぇ。それに万里とも離れてもうたしねぇ。で、ちょっとは強なったん？」
「どうやろう？あんま変わらんえ。調子悪い時は左目が言うこと聞きよらへん。やて、海里は小山内ゆーんが護衛に付いたから、そこは安心かもしらんな」
「あら、ほんまぁ。何や、海里は相変わらず弱いんか」
由は困ったように笑って、でも護衛が付いたなら良かったねと万里の髪を撫でた。
「さて、俺、風呂入ろうかな。広かったやろ？万里は寝ときぃな。ベッドも広いから寝心地良さそうやて」
「あー、うん」
万里は由の用意した部屋着を取ると、それに袖を通した。スウェットの上下は、幼く見える万里を更に幼くして見せた。
なかなか情けない姿だなと思いながら、リビングの奥にある寝室に向かう。そこにはキングサイズのベッドが一つとナイトテーブルがあり、天井を見上げるとちょうど真ん中の辺りが四角くくり抜かれていた。
そっと覗いてみると空が見えた。天窓だ。
だが、その真下にベッドがあるので陽が上がると地獄ではないだろうかと思い、壁にあるスイッチを適当に押すと小さなモーター音と共にロールカーテンが降りてきて夜空は真っ白なカーテンによって隠されてしまった。
「まぁ、洒落とること」
視線を落とすと足元辺りにも小窓があり、そこからも夜景が一望出来る。寝室だから大きな窓は避けたのか、だが小窓を付けることによって閉塞感を感じさせない演出は嫌いではないなと思った。
朝の陽射しは目に厳しく、あまり得意ではない万里には良いデザインだ。
万里はふわふわのラグの上を歩き、ベッドに上がるとそのまま大の字になって転がった。
壁に付けられた間接照明の優しい光を眺めながら、その間に飾られた、どっちが上でどっちが下なのか分からない絵を眺めた。
「変な絵…」
芸術に疎い万里は、その絵をどうしてここに飾るかなと思いながら、その真っ赤な絵の具を眺めながら自分の瞳から滴る血を思い出した。
激痛と、熱。まるで火が点いたように熱かった。指の隙間からどんどん流れる血が床を染めたのを、昨日のことのように覚えている。
万里の目がルビー色に染まったあの日、もう後先考えずに行動するのは止めようと反省したのに…。やはり、後先考えずに行動し、あの時と同じように由を巻き込んでいた。
「成長があらへん…」
万里は呟いて、すーっと瞳を閉じた。

翌朝、ベッドの上で大の字になっていたはずの万里は、ブランケットの中で目が覚めた。隣を見ると、少し乱れた後があるので由が一緒に寝ていたようだ。だが、今は居ない。
すんっと鼻を啜ると、腹を刺激する良い匂いがした。万里はベッドからのそのそと起き上がると、リビングに向かった。
「あら、おはよう。目ぇ覚めたん？」
「おはよう…」
カウンターキッチンの向こうで調理に勤しむ由は、万里を満面の笑みで迎える。
万里は、朝から元気やなぁと閉じそうな目を擦りながら冷蔵庫に向かった。冷蔵庫から牛乳を取り出しコップに注いだが、身体も頭も覚醒せずにぼんやりする。朝は苦手だ。
「早起きやねぇ」
「そうでもあらへんよ。もう９時なるやないの。ほれ、顔洗って、シャキッとして」
冬子のようなことを言うなと思いながら、よく冷えた牛乳を一気に飲んで洗面台に向かった。
少しだけ覚醒した頭を振ってリビングに戻ると、カウンターに朝食が並べられ由が座って待っていた。
「相変わらず、料理ん腕のええことで」
今にも割れそうなトロトロのオムレツと彩り鮮やかなサラダ。しめじとブロッコリーにベーコン、トマトの入ったスープとフルーツが刻まれ入れられたヨーグルト。
女子か！と言いたいほどに完璧な朝食を前に座り、スプーンを手に取った。
「いただきます」
「はい、いただきます。万里は相変わらず、米も炊かれへんの？」
「えー、まぁ、そのうち。あ、せやけどかーかがあれ教えてくれた。スクランブルエッグ」
「いや、それ、教わるもんでもあらへんやん」
「卵割るんに、なんぼ苦労したか。かーか、めっちゃキレるし」
少し力を加えただけで、グチャッと壊れる卵に悪戦苦闘。無駄にするなと頭を叩かれたのが、つい最近の話しだ。
そして殻の入った少し焦げたスクランブルエッグを、美味い美味いと食べてくれたのは父である万葉であった。
恵まれていると思う。極道という家業で恵まれているというのもおかしなことだが、この顔の傷のことを誰も何も言わなかったのは、その後ろ盾があったからこそだ。
厳めしい男達は、極道の、しかも組長の息子という肩書の万里から離れた友達の代わりに、日が暮れるまで屋敷で一緒に走り回ってくれた。
熱を出したときは、冬子は一睡もせずに万里を看た。目に傷を負ったときは、自分の角膜で治らないかと医者に申し出たのは父親の万葉だ。
そんな恵まれた環境の中、万里は両親にも組にも何も返せていないと肩を落とした。
「そない難しい顔して、人の料理食わんといてくれる？」
「ああ、堪忍…」
万里はオムレツを頬張りながら、由を見た。
「俺、今回ん件が片付いたら、明神の縁、切ってもらおう思う」
万里の零した言葉に由が首を傾げた。
「何それ、親子の縁、切るん？あんた、れっきとした明神の人間やで」
「分かってるよ。やて、甘んじてる自分が嫌になる」
明神万葉の息子であることで、どれほど楽な道を歩んできたのか。
敷かれたレールの上を、何の疑問も持たずに歩んできた。それが今頃になって分かってしまったのだ。自分は守られてきたのだと。
雷音のように道に背くことも疑問を持つこともせず、ただ、自分がし易いように楽観的に歩んできた。
己の力量に何の疑問も持たずに明神の後ろ盾で生きてきた自分に、今更ながら疑問を抱いてしまったのだ。
このまま明神万葉の息子として、楽な道を進んでいいのか。そもそも、極道というこの狭い世界の中で自分はどれほどの経験を持っているのか。
恐らく、このままいけば明神組組長を継承するのは万里だ。だが、そうなったときに仁流会の番犬として風間組を護れるだけの力量があるのだろうか。
そう考えれば考えるほど、その答えは”ノー”だったのだ。
「俺は、こんまんまやったら明神をデカすることも出来ひん。下手したら、潰してまう」
「せやからて、明神と縁切るんは違うやろ？それするなら、俺のこと、殺ってくれんとねぇ」
由はどこからともなくトカレフを取り出すと、テーブルの上に置いた。完璧な朝食の横に似つかわしくないそれに、万里は息を吐いた。
「万里、俺は…」
「俺のために生きとる」
知ってるよと言って、スープに口を付けた。
万里は小さい頃から、まるで刷り込みのように由に言われ続けてきた。万里のために生きてると。
それを聞くたびに、由は明神宗政に取り憑かれていると思った。
万里の生みの親が亡くなることになった抗争。その抗争は明神組の跡取りであった万葉の嫡男である宗政が襲撃され、殺された事件が引き金となって起こった。
宗政と数人の幹部。襲撃されたのは昼日向の繁華街だった。堅気の人間こそ巻き込まなかったものの、酷い有様だったのは当時の新聞記事で知っている。
そして自分が遭った巻き添えの事故のことも、新聞記事で知った。よく生きていたなと思うような事故の生々しい写真は、どこか他人事だった。
それほどの過去を、環境を悲観することなく万里は恵まれ、愛され、寂しさも何も感じずに生きてきたのだ。
その中で誰よりも一番に万里に忠誠を誓い、護ってきたのが由である。
「安曇は稼いでるんかいな」
話題を何となく逸らすと、由がトカレフを仕舞った。そしてふんわり、笑顔を浮かべるとフォークでオムレツを掬った。
「5億はきついかもなぁ」
由の話を聞きながら、宗政が生きていればなと思った。逢ったことはないが、遺影となっている写真は万葉に似ていて凛々しい男だった。
それに加えて冬子の負けん気の強さを引き継いでいれば、向かうことろ敵なしだ。
あの事故さえなければと思ったことは、実はない。
あの事故さえなければ両親も生きていて、自分も普通の生活をして普通に生きていただろう。生家は極道とは無縁の堅気の会社だったのだ。
なので、万里が極道になることは、間違いなくなかっただろう。
だが、今の万里には極道でない自分が全く想像出来なかった。だから、あの事故さえなければと思わないのかもしれない。
天国の両親に殴られるかもしれないが、宗政が生きていればと思うのは、一緒に組を継げば楽しいだろうなという感情からだった。