いろはにほへと

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万里は先ほどの事故車両を思い出した。左後ろから思いっきりぶつけられ、ひっくり返った感じだ。
運転席は潰れていたが、後部席は綺麗だった。だが、何故か後部席の両ドアが開いていた。
そして、伸びきったシートベルトも見えた。ようは誰かがそこに居て、そこから逃げたということだ。
もしくは捕まった。捕まったとなれば、探すのは厄介だ。だが逃げていたら?あそこから人目を避けて逃げるとなれば、どこへ逃げる?
万里は頭の中で周辺の地図を思い浮かべ、口角を上げた。
一見、賑やかに見える繁華街だが、それでもまるでその喧噪が嘘のように静かで暗く、人の寄り付かないところがある。まるで、そこだけが町から弾かれたような、そんな場所。
万里は近くの店の横から路地に入ると、迷路のような道を歩いた。進むにつれ、きらびやかなネオンも届かなくなり、賑やかな音楽も人の声も遠くなっていく。
だが路地裏独特の饐えた匂いと共に、くぐもった声が聞こえてきた。ビンゴだ。
万里は煙草を咥えると火を点けた。深く吸い込んでその味を嗜みながら、どんどんと近くなる声に勇躍する。
万里が居る路地は、車が1台通れるようなところで廃墟になったビル街の裏だ。街灯もないビルの裏側なので、薄気味悪いくらいに薄暗い。
なのに声のする方はやたらと明るかった。その一点を照らすのは、恐らく車のヘッドライトだ。
万里は足元に転がっていた酒瓶を取ると、その光めがけて投げつけた。ガンッと何かに当たる音がして、万里は声を出して笑った。
適当に投げただけなのに、見事に当たる自分のコントロールの良さを褒めたいくらいだ。向うでは何だと大騒ぎになって、ヘッドライトの前を人が行き来する。
「5、6…結構おるな」
万里は煙草を指で弾き飛ばすと、光の届かない暗闇から姿を現した。
そこにはスーツ姿の男、品行方正とはかけ離れた顔のラフな格好をした男、様々なというのが正解なのかは分からないが、統一性のない男たちが居た。
「なんじゃ、お前は!」
「うーん」
万里は我鳴る男の向こうに首を伸ばして、パッと表情を明るくした。
「おったー!柴葉、やっぱなー」
車に詰め込まれそうになっているのは、柴葉だった。相当痛めつけられたのか、BAISERに来たときの凛とした姿はなく、不憫なほどにボロボロだ。
顔もところどころ赤黒く変色していて、万里は顔を歪めた。
「痛い痛い。可哀想になぁ」
柴葉はどうしてという顔をして、万里を見ていた。それも無理もないことだろうなとは思う。
「いや、やてあんた、向こうで事故ってるんって、こないだ、俺にボコられた奴らやん。見覚えんある顔やったんよねぇ。いやー、大当たりや」
そう、万里は事故に遭った車から引き摺り出される男に、見覚えがあったのだ。普段は男の顔など覚えないが、さすがに自分が痛めつけた男の顔くらいは覚えている。
あれは何かから逃げて故意にぶつけられて、事故に遭った状況なのだろう。そこから柴葉は逃げた。だが、捕まった。
「俺って、今日、冴えてるわぁ」
「何を言うてんねん!貴様、誰やって聞いてるやろうが!」
一人の男が万里の飄々とする態度が気に入らないのか、腕を伸ばしてきた。万里はその伸びてきた腕に瞬時に足を引っ掛けると、片方の足で地面を蹴り上げ宙に舞った。
腕に絡んだ脚は、男の腕をあらぬ方向に曲げ男は叫喚した。
あっという間のことで、周りにいた男たちは何が起こったのかわからないようだった。
男は地面に転がり、悶え喚いている。それを見て万里は笑うと、サングラスを外しスーツのポケットに入れた。
するとヘッドライトに灯され、万里の赤い左目がまさにルビーのように輝いた。
「あ!!こいつ、明神のルビー!」
それに気が付いた男が叫んだが、万里は首を振って嘆息した。
「せやから、その呼び名好かん言うてるやろ」
ばっと踏み込んで、一番近くにいる男の胸元に入り込むと上段回し蹴りを男の蟀谷に叩き込んだ。男は見事に吹っ飛び、壁に身体を叩き付けずるずると滑るように倒れた。
万里はそのまま車のボンネットに飛び乗ると、柴葉を捕まえていた男の顔面をサッカーボールでも蹴るかのように躊躇いなく蹴り上げた。柴葉がそれを見て、男の顎に止めの掌底打ちを見舞った。
「まだ元気やん」
万里はふっと笑ってボンネットから飛び降りると共に、万里に怯んでいる男の足を掬い上げ落ちてくるところを蹴り上げた。
圧倒的なその力と素早さに、周りがじりじりと万里から距離を開ける。
まったく話にならないなと万里が肩を竦めると、柴葉の声が聞こえた。振り返ると、柴葉の身体が頭上高くから降ってきていて、万里は慌ててそれを受け止めた。
だが万里よりも体格のいい柴葉の身体を受け止めることが出来るわけもなく、そのまま二人して崩れた。
「いったー、なによ」
車のほうを見ると、逆光で見えないがシルエットだけが浮かび上がっている。万里はそれに口角を上げて笑った。
「それそれ、それくらいないと」
万里は柴葉を押し退けて立ち上がると、ネクタイを緩めた。
「やめろ、比留間…。明神、逃げろ…」
柴葉が万里のスラックスの裾を掴んだが、万里はそれを振り払って笑みを浮かべた。
のっそり現れた男は2mはある長身さと、100kgはあるだろう巨体で万里の前に仁王立ちになった。特注のようなスタジャンを脱いだ男はTシャツ姿になり、恐ろしいまでに太い二の腕を見せつけた。
顎から喉にかけて、よく生きてたなというような大きな傷があり、目に見える身体のあちこちは幾度の戦闘を潜り抜けてきたような傷が数多く刻まれていた。
厳めしい顔つきは、お世辞にも男前とは言いがたく、表情のない顔で万里を見下ろした。
「あははは、これこれ。こういうんやん」
万里は指を鳴らして、身体を揺らした。革靴というのが厄介だが、まぁいいだろう。
高揚感を抑えながら指を鳴らす。比留間はゆっくりと動き出すと、車の前に出た。いざ対峙すると、その大きさに圧倒される。
万里は構えて相手の隙を窺った。壁のような男だった。それほどに隙がなく、今までやりあった連中の中でも相当、場慣れしているのを感じた。
じりじりと間合いを狙う。万里はふっと比留間の懐に入り込み、右足を踏み込み飛び上がった。それを読んでいた比留間は咄嗟に腕でガードを作ったが、万里はその足で比留間を蹴らずに勢いを付けて回転し、もう片方の足でガードする腕を蹴り上げた。
素早すぎる動きにガードが弾け飛び、比留間が少し表情を表して万里を見た。
「ったー。さすが、アホみたいに太いだけあるわ」
万里はじーんと痺れる足を振って笑った。すると比留間が万里の首に向け腕を伸ばしてきたので、万里はその腕に捕まりそれを軸に横の壁を蹴り上げ登り、膝蹴りを比留間の首に見舞った。さすがの比留間も顔を歪め、ボンネットに手をついた。
万里はその手の上に着地し、比留間の顎を蹴り上げた。血が弧を描いて舞い、周りの男から比留間の名を呼ぶ声が聞こえた。
万里はボンネットからバク転して降り、地面に降りると、顎を擦り万里を睨む比留間を見て笑った。さすが、そう簡単には倒れてくれないらしい。
比留間は口の中の血を地面に吐き出すと、ニヤリと笑った。来ると思ったときには、まるで猛獣の体当たりでも受けるような衝撃を受けた。
身体が軽々と宙に舞い、そのま胸ぐらを捕まれ地面へと叩き付けられる。その瞬間に万里は比留間の首に足を絡めて身体を捻った。まるで蛇のように首に足を巻き付け、腕でその足を固定する。
「うがぁぁあああああ!!!」
苦しんだ比留間が暴れ、壁に万里の身体をぶつけたが正当法で敵う相手ではない。力の差が歴然だ。少し殴ったところで倒れるわけがない。
このまま絞め上げて落とすのが、一番手っ取り早いと思ったのだ。
「明神!!銃や!!」
柴葉の声が響いた。万里は目の端に映る銀の銃を捕らえ、足を外して比留間から飛び退こうとした。だがその足を比留間が掴み、万里の身体を壁に叩き付けた。
背骨にダイレクトにくる衝撃と、脳が揺れる感覚。ヤバいと思ったが、万里の身体はずるずると崩れ落ちた。
柴葉の万里を呼ぶ声が聞こえたが、朦朧とする意識を立ち直させることは万里には出来なかった。

「今日な、行く道で大きい事故しとって遅刻しかけたわ」
奏大は控え室で雷音の隣でスーツを整えていた。雷音は酒を嗜みながら、へぇ…っと相槌を打った。
「事故って大きいの?」
「車、大破して運転席のおっちゃんが引っ張りだされとった。何や、挟まってもうてエラい事なってたわ」
「ふーん。派手だな」
雷音は徐に腕時計を見た。もうすぐ予約のゲストが来る頃だ。雷音は酒の入ったグラスをテーブルに置いて、立ち上がった。
「奏大は次、誰?」
「え?俺はねー」
奏大が言いかけると、フロアの方で悲鳴が聞こえた。雷音はそれを敏感に察知して、控え室から飛び出しフロアに向かった。
「え…!?」
フロアに居たのは美田園で、その腕には血塗れの男が抱えられていた。息も絶え絶えの男はぐったりとして、だが雷音を見ると手を伸ばした。
「…た、すけ…て」
「きゅ、救急車をっ!」
黒服が声を上げると、ゲストで来ていた白髪まじりの男が立ち上がった。
「医者です。応急処置をしましょう」
雷音は大きく頷くと、ゲストの男と美田園と控え室へ向かった。

「暴行での打撲痕とナイフで傷つけられた擦過傷。あと肋が折れている可能性が大きい。内臓は傷ついてはいないようだが、念のために検査をして見てもらうべきだ」
医者の男の処置により運び込まれてきた男は血も拭われ、少しだけ顔色がよく見えた。雷音と蓮はゲストである医者に頭を下げた。
「おい奏大、先生に」
蓮が言うと、奏大は頷いて男を控え室からフロアへと促した。そこで最高のおもてなしを施すのだ。
「どうなってんねん」
蓮は苛立ちを隠さぬまま美田園を睨みつけた。それにバツの悪そうな顔をした美田園は、頭を下げた。
「申し訳ありません。路地から転がり出るように這い出てきたので救助しましたが、オーナーの名前を呼んだので」
「は?俺?」
「はい、蓮さんに助けてと」
「はぁ?」
蓮は男をもう一度見たが、首を傾げた。
「こんな印象的な顔、忘れへんわ」
男は綺麗な顔をしていた。高い美鼻とくっきりとした二重の瞳。閉じられた瞳にかかる睫毛は長く、端正な顔立ちだ。
だがそれとは対照的に左側は大きな傷があり、多分、その左目は開く事はないように思われた。
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「とりあえず、救急車呼びますか?」
雷音が言うと、男が声を出した。うんうん唸っているようで、苦悩の表情で苦しんでいる。雷音は徐に男の横に屈むと、大丈夫ですよと声を掛けた。
その声に答えるように、男がゆっくりと目を開いた。やはり、左目は開かないようだ。
「…、う…ぅ…」
「大丈夫、救急車、呼びますから」
雷音が言うと、男はハッとしたように飛び起きた。だが身体中痛むのか、そのまま声にならない声を上げソファベッドになっているそこに身体を横たえた。
「蓮、蓮さん…」
「何や、お前、誰や」
蓮は蛾眉を顰めて男を見た。男は蓮を見ると何度も頷き、目を潤わせた。
「助けて…ください…。柴葉さんを…壱祈さんを…」
「はぁ?柴葉壱祈?お前、誰や」
「私は、柴葉さんの部下で五十棲と、いいます…。柴葉さんは、稲峰に、ハメられた…。このままじゃ、殺される」
五十棲はそう言葉を紡ぎだすと、涙を流した。助けてと何度も言う五十棲に、雷音は大丈夫と声を掛け蓮を見上げた。蓮は舌打ちをするとスマホを取り出した。

蓮の電話の相手はすぐにBAISERにやってきた。神原はVIPルームで蓮の話を聞き、何度か唇を親指で拭った。
「その男、五十棲と名乗ったんですね。そして顔の左側に大きな傷がある?」
「せや。救急車で運んでもらったけどな。嘘かホンマか知らんけど、柴葉の部下や言うてた」
「五十棲望海という名前で顔の左側に大きな傷のある男は、そんなに多くないでしょう。間違いなく、柴葉の部下である五十棲です」
「稲峰組の人間か。助けるんちゃうかったわ」
「いえ、彼は稲峰にというよりも柴葉に忠誠を尽くしている男です。柴葉の懐刀のような男ですが…そうですか…柴葉を助けろと」
「何や」
「…うちの明神が姿を消しました」
神原の言葉に雷音の身体が揺れた。足元がぐらついて、思わず壁に手を付いた。
「明神万里が?どっか、女とシケこんでるんやろ」
「行方をくらますまで一緒に居たホステスの話では、急に用事が出来たと言って消えたそうです」
「一人で行動させたんですか!?若頭でしょう!?」
雷音が堪らず声を上げると、それを蓮が睨んだ。
「ほんなら五十棲が言うてたんに関係してくるかもしらんな」
「五十棲がなんと?」
「柴葉が攫われたってな」
「稲峰組にですか?」
「せや、稲峰と香港マフィアが手ぇ組んどるらしいで」
蓮は先ほど五十棲が絞り出すように訴えた内容を、そのまま神原に伝えた。それを聞いて神原は宙を睨み、頷いた。
「なるほど、手を…。稲峰が何故、あなたのところの彼を欲しがるのか分かってきたような気がします」
「あ?」
「金です。香港マフィアと渡り歩くには、大金が必要です。奴らは金さえあればどうでも動くんですけど、なければ相手にもしません。なので大金が必要だった…。まさか、あいつら」
「そうやな、まさかやけど柴葉と一緒に、お前んとこの大将も捕まってたら?例えば、明神万里の首を取ったんが稲峰組やとしたら?」
「蓮さん!!」
雷音が叫ぶと、蓮は何だと言わんばかりの顔で雷音を見て肩を竦めた。
「たらればや。俺は極道の世界に詳しい訳やないけど、明神万里の首がどれだけ価値があるかくらいは知っとる。お前の大将の首を取った組の株は、急上昇するんやないんか?」
「…まだ、柴葉と一緒だとは限りません」
「そんな悠長なこと、言うてられへんやろ」
「そっちにもその世界に事情があるように、うちにも事情がある」
「事情?」
「仁流会に香港マフィアとのパイプはありません。それは、敵対組織でもあるからです。衣笠さんにその方面の人間を紹介してもらいましたけど、うちが追っている香港マフィアは質が悪く組織自体が大きい事が分かりました。今、その詳細を調べてもらっている最中です。なので、今すぐに手を出す訳にはいかないんです」
神原は指を噛んで思案するように、目を左右に動かした。いつもとは違う冷静さを欠いた神原のそれが、事態をまさに焦眉の急だと告げていた。
「香港マフィアとの繋がり全くあらへんのか、お前ら極道は」
「ありまあすよ。でも、それは仁流会ではありません。一新一家という組です。だが、うちは一新一家と付き合いはない。あるのは…鬼塚組の組長が個人的にあるだけ。それも先代の頃の話で、深い付き合いをしているわけではないと聞いています。そして今の組長が、一新一家と付き合いがあるのかは分かりません。それよりも、このことが鬼塚組に漏れるのはマズい」
「マズいって、明神さんが危ないのにメンツとかそういうのって!!」
「仁流会は!!」
神原の怒鳴り声に、雷音は息を詰めた。
「日本最大極道組織仁流会は、風間組を筆頭に莫大な構成員と資金力から成り立っている極道の集まりや。そんななか金も余所ほどない、構成員もNO.3の鬼頭組には遠く及ばんのが明神組や。そんな状態で、明神組は風間組の番犬として名を馳せるところまで登りつめた!!今ここで、こんな醜態さらされへん!稲峰みたいな小さい組相手に対処も出来んようじゃ、ようやく獲得した仁流会役員の席も危うくなる!」
神原はそう言って息を吐くと立ち上がった。
「極道の世界にホストが中途半端に首突っ込むな。殺すぞ」
神原はそう言って雷音を睨みつけると、部屋を出て行った。
「本気で怒らしてもうて」
蓮はくつくつと笑った。雷音はそんな蓮に頭を下げると、部屋を出た。
控え室でコートを着て息を吐く。肺の中にある空気を不安と共に全て吐き出して、瞠目した。
まさか、万里が攫われるなんて思いもしなかった。万里の強さも知っていたし、明神組の若頭という立場から、それはないと思い込んでいた。
だが極道なのだ。万里が攫われ、これから神原はどう動くのか、雷音には予想もつかなかった。
たかがホストが首を突っ込むな。確かにそうだ。ホストである雷音が口を挟むべきではなかった。
「本当に、だせぇ、俺」
「雷音?どっか行くん?予約のゲストは?」
奏大がホールから戻って控え室に顔を出した。雷音はフッと笑うと、奏大を引き寄せ抱きしめた。
「え!?え!?」
何が起こったのか分からない奏大は、パニックになっていた。だが様子のおかしい雷音を見て、おずおずと背中に手を回した。
「どないしたん?また蓮さんに嫌なこと言われた?」
「ごめん、奏大」
「何?どないしたん?」
「ホテルで無理矢理抱こうとした。奏大の気持ち利用して。俺、本当にダメだ」
「ええ?ちょっと雷音?」
困惑する奏大の身体を離して、雷音はまた頭を下げた。
「じゃあな」
「え!?どこ行くん?」
「ゲストにはキャンセルの連絡入れたよ。俺、今日は帰るよ。悪いけど、蓮さんにも言っといて」
雷音はそう言って、控え室を出ていった。
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