花の嵐

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表通りから少し外れた場所。ほんのりした灯りが、その看板を照らす。
cachetteーフランス語で隠れ屋の意味を持つそこは、名の通り目立つ事なくひっそり佇んでいた。
営業前の店内は、開店準備をするスタッフの足音や話し声が聞こえるのみ。年代物の蓄音機も今は休んでいるし、営業中になると落とす照明も煌煌と照らされている。
その店のカウンターで静は一人、ライチの皮を捲っていた。
パティシエの芝浦が今日のデザートに使うからと静に言いつけたのだが、実だけは傷つけるな!と忠告された。
そんなの楽勝だと取り組んでみれば、これがまた地味に難しく、既に5つほど失敗して静の胃袋に消えている。
簡単に削げるはずなのに、もしかして案外不器用かもしれないと思いながら、地味な作業をひたすら続けていた。
「あ?オマエ、何してんの?」
ふっと顔を上げると酒の入った瓶を何本か手に持った雨宮が、煙草を銜えカウンターの中に居た。
雨宮或人は元裏鬼塚の人間で、今は、静の言わば護衛だ。鼻梁が通っていて、どこかミステリアスでワイルドな雰囲気を醸し出す雨宮は女性客に人気がある。
実は一部の男性客にも人気があったりする。顔の造作はかなり良い方だが、如何せん目つきが悪い。
鋭過ぎるというか、まるで見る者全て敵のような視線に誰しも臆してしまうのだ。
「勿体ない」
「何だよ」
思わず溢れた独り言を、雨宮が綺麗に掬いとる。それに静は空笑いをしてみせた。
「何か、芝浦さんがさ、今日はライチでゼリーとか…タルト?作るんだって」
「タルト?そんなもん、酒に合うのかよ」
「女の子は好きじゃんか、お酒と甘いもの」
「俺はないね」
まぁ、生粋の酒好きからすれば邪道かもしれないけど、店の売り上げを酒代だけで賄うのは至難の業だ。
ところで静はこの店で雨宮と出逢った。その頃は、ちょっと目付きの悪い厳つい兄ちゃんと思っていて、まさか鬼塚組と関わりのある人間だなんて微塵も思わなかった。
そして雨宮もそんな事を一言も言わずに、”松岡”だなんて偽名も使って静に近付いてきたのだ。
結局、鬼塚組の人間だということが分かって、崎山が静を見張るために送り込んだ刺客だということも判明して、そこからあれよあれよという間に静の護衛という立場に収まって、こうしてcachetteで一緒に働いているが…。
別に護衛だろうが何だろうが関係ない。今更、護衛が嫌だとかそんなことを言うつもりは無い。どうでもいい。
問題は名前だ。
ここで知り合ったということは、やはりスタッフ全員に”松岡”で通っているのだ。当たり前だが。
静はそれが頭の痛いとこだった。二人の時は雨宮、店では松岡なんて器用に使い分ける事は静に出来る訳がない。
基本的に、どんな形であれ人を騙すという事が出来ない性分だ。
何事にも正直であれ。容姿はどうあれ、静の中身は男の中の男なのだ。
もしとても複雑な事情があって、名前を知られると組に迷惑がかかってなんて言われれば静も腹を括るが、その理由はそうではない。
内偵する時とか組の仕事する時は、本名でやると仕事してる気分にならないから。が、雨宮が松岡と名乗っていた理由。
いつも松岡かと聞けば、田中だとか坂本だとかその時の気分で考えるらしい。ようはそこまで拘りがないということ。
そんなもの聞かされれば、もう雨宮でよくない?と思った。
そんなあってないような理由ならば、全くもって偽名を使い通すのに協力出来ない。そう静に言われてしまえば、対して偽名に拘りの持たない雨宮も”じゃあいいか”と言い出した。
でも、どうやって店の人間に話をするのだろうと思った。
cachetteは崎山がオーナーではあるが、店長である早瀬に経営を一任している店だ。言うなれば、鬼塚組の息のかかった店。フロント企業とまではいかないが、それに近いもの。
だがそれを知る従業員は皆無で、健全なるバーだと皆信じて疑わない。とどのつまり、従業員も健全なる堅気の皆様というわけだ。
そんな従業員を前にして見た目も危うい雨宮が、ヤバい仕事をするのに偽名を使っていましたなんて言おうものなら、明日のオープンにスタッフが何人揃うか分からない。
相手が雨宮というのも質が悪い。店でもホール長の人間でさえ一線引いて、ご機嫌を伺う様なはた迷惑な男。
愛想もなければ、おべっかも使わない。他人からどう見られ様が知ったことではないという、どこかで見た様なゴーイングマイウェイな男。
そんな男にそんな事を言われれば、どんな尾ひれが付くか分かったものではない。
どうするのかなと思っていた数日後のオープン前のミーティング、早瀬がスタッフ全員を集めた。ミーティングはごく普通にいつも行われることなので何の疑いも持たなかったが、そのミーティングの中心に雨宮が居た。
静は何だか嫌な予感がし、静以外のスタッフは何事かと息を呑んだ。
そこで雨宮が発した言葉は『親が離婚したんで、今日から雨宮でよろしく』と全員が愕然とした話だった。
静は開いた口が塞がらなかった。
その年で、親が離婚して苗字が変わるって変だよ!!と誰もが思ったに違いない。だが、雨宮は静が来る前からすでに胡散臭い噂漂う異端児だった。
もちろん雨宮のその申し出に何かを言う者は居なかったし、雨宮もその一言だけでその後は誰もが耳に入らない早瀬のミーティングが始まって、その日は皆、ぐたぐたの営業になったほどだ。
そして松岡から雨宮に変わってから一ヶ月ほどは本当に大変だった。
松岡と呼んで睨まれたと言い出す者が居れば、名前を間違えただけで殴られたらしいなんて、とんでもない歪曲された噂が駆け回るほど。
無論、雨宮は睨んだ覚えはない。もちろん殴っても居ない。
ただ本当に目付きが悪いのだ。そしていつ人を殴ってもおかしくない雰囲気なのだ。
静はそんな様子を見て、何だか自分のせいで店の全員に迷惑がかかったんじゃないかと危惧した。
本当に大変だったなぁ…。
ライチを捲りながらぼんやり考えていると、カチャカチャと音がして顔を上げた。見ればカウンターの中で雨宮が酒瓶を並べていた。
捲り上がったシャツの袖から覗く、筋肉隆々の腕をぼんやり眺める。骨組みが綺麗で、それに付く筋肉の筋が獰猛な動物のそれに似ていて、じっと見ていても飽きない。
心と身体の作りが似てる様な気がする。思って、静はカウンターに身体を載せてその腕を掴んだ。
「ああ?何、驚くだろうが」
「…いや、心の方が堅いんだ」
「はぁ?そりゃ組…あの人のが堅いに決まってんだろ、作りが違うわ」
骨に筋肉しか付いてなさそうで、鋼の様に堅い心の腕。雨宮もそうだが、フォルムが少し違う。
同じ様に堅そうなのに、少し雨宮の方がしなやかさがあるような感じだ。
「雨宮さんって、毎日鍛えてるの?」
「…あ?」
「格闘技もする?」
「してるけど?何、オマエ、強くなりたいの?」
「いや、だって、俺の周り…。あの崎山さんですら、めっちゃ鍛えてるじゃん」
「崎山さんは別格」
雨宮は酒瓶を全て仕舞うと、静の捲ったライチを一つ摘んで口に入れた。
「あの人はね、サドだから」
「…は?」
「俺でもあの人に殴られるのだけは勘弁したいね」
「どうして?」
「身体なら的確に腎臓を狙って来るし、顔ならここ」
すっと形の良い静の顎に、雨宮がこつんと拳を当てた。
「顎?」
「覚えとけ、ここスレスレを擦る様に殴る」
「ガツンじゃなくて?」
「そう、擦り上げる感じ?口で言うのは難しいな。ま、ここをこう殴ると、脳震盪起こすからな」
軽く擦るように雨宮の拳が静の顎を撫でる。こんなところ殴って脳震盪なんて起こすのだろうか?
「崎山さんは、ここを殴ってくるの?」
「そ、あの人、その天才だから。あと、関節潰し。俺でもあんな無茶苦茶しねぇわ。あんな、人の急所とか知り得ていて尚且つそこを執拗に攻撃してくる人間、俺は知らねぇな」
雨宮はそう言って笑った。
鬼塚組は不思議な組だ。静の知っている極道というのは大多喜組という、如何にも極道という連中だった。
それこそ任侠映画で観る様な趣味の悪いスーツに背中の入れ墨、暴力と脅し。まさに”悪”のそれ。
だが鬼塚組は違う。上品なスーツ、上品な言葉遣い、そして親である心には入れ墨はない。何だか聞いただけで気抜けしてしまいそうだが、大多喜組とのパワーバランスは天と地ほどの差がある。
そして組員。鬼塚組は老舗極道ではないが、新参者でもない。極道の世界では名の知れた組で、その歴史も長いほうだ。なのに、古株と呼べる様な組員は静の知る限りでは居ない。
一番、年を取っていそうなのが彪鷹だ。それでもやはり年は若い方だ。とどのつまり、皆、若輩者と呼ぶに相応しい年齢層だということだ。
心の年齢に至っては口にするのも腹立たしいほどだが、親が若いと子も若くなるのか。
「変な組」
「組?なにが?」
ハッと顔を上げると芝浦がにっこり笑って静の前に立っていた。いつの間に雨宮と入れ替わっていたのか、そこに雨宮は居なかった。
「あ、あ…いや、何でも」
「そう?ああ、結構、頑張ったじゃん。それくらいでいいよ」
芝浦はライチの入ったボールを取って、大体の数を数えた。
「そうだ、吉良くんさ、映画とか観る?」
「え?いや、映画…は、ご無沙汰かも」
「そうなの?俺さ、めっちゃ好きで結構観るんだけどさ、券貰ったんだ。でも俺、前売り買っちゃて。まだ公開じゃないんだけどね」
言って、芝浦はカウンターにチケットを置いた。
それはCIAのスパイ捜査官である主人公が国家の名誉のために命を狙われるという映画で、シリーズ第四作目の映画だった。
ド派手なアクションと格闘が見物の一作で、たまたまインターネットで予告を観た静が観てみたいと思っていた作品だ。
「…これ」
「行ってきなよ…彼と」
身を乗り出して耳元で囁かれる。彼ってなんだと顔を上げると意味ありげに微笑まれ、芝浦が視線を外した。
その視線を追えば、カウンターの先の方で酒瓶を棚に直している雨宮の姿が目に入った。
「え?」
「デートだよデート」
「あ…はははは」
乾いた笑いしか出ない。
芝浦はというよりも、もしかしたら店の連中全員が雨宮と静が付き合っていると勘違いしている。
雨宮はその容貌と気質と、嘘か本当か分からない噂のせいで店では異質な存在として扱われていた。その雨宮と唯一、談笑するのが静だ。
それは静が店に来た時からそうで、雨宮が当初の目的があって静に近付いたからかどうかは知らないが、とりあえず仲が良いという関係。
そして一時は二人揃って店を欠勤。ついでに復帰も一緒。勘ぐられても仕方がない。
更に静の容貌だ。不本意ではあるが、そう見られてしまっても仕方がない要素が盛りだくさんということだ。
そんな噂になっていることを雨宮も知っているが、だからとて弁解はしない。雨宮からすれば静に悪い虫が付かない格好のネタなのだ。
静にもしものことがあれば、自分の上司であるあの綺麗な顔をしたサディスティックな崎山にどんな目に遭わされるか分かったものではない。それを思えば手間が省けてラクということだ。
「ところでさぁ、こんな失礼なこと聞いていいのか分かんないんだけど、どこがいいの?」
「は?」
「いや、確かに男前だよ。店に来るお客にもさ、すごい人気あるしさ。サーブの腕も良いし、仕事も丁寧。でもさ、人間中身だよ」
どうやら説得されているらしい。芝浦の真剣な顔に静は笑うしかなかった。
「あれでいて、二人の時はベタベタとか?いやー、でも難しいでしょ。俺、彼と休憩被ったときとか、なに話したらいいか分かんないもん。会話とかに困らない?」
「いや…そんなことは」
一体、どんな評判だと呆れるが、確かに雨宮は取っ付き難いかもしれない。
人と馴れ合う事が苦手な静からすれば、初めて逢った時から雨宮との距離は居心地が良かったが、静以外の人間からすればそうもいかないだろう。
無愛想で仏頂面。しかも口も悪い。そして本人はそれを改めるつもりなんてさらさらない。
考えれば考えるほど救いようのない男だなと思うが、あれでも心の何倍もマシなのだ。
「ねぇ、二人のときって、あのまんまなの?」
「いやー」
はははと笑うだけで済ましたが、雨宮と静、男同士ということはどうなっているのか不思議な質問だ。
気持ち悪くはないのかと思ったが、きっと、それも雨宮の威厳があって払拭されているのかもしれない。
良いのか悪いのか、よく分からないが…。
そういえば雨宮は恋人とか特定の人間は居るのだろうか?ほぼ一緒に行動しているが、そういう話は一切聞かない。
住居も敷地内にあるが、帰ってからでもどこか出かけているのか。
「さすが内偵専門。謎だらけ」
独り言を呟いて、静は立ち上がった。

落とした照明、ゆっくりとしたジャズを流す蓄音機。それを聴きながら、ゆったりと酒を嗜む。
そんなゆったりとした時間の流れるホールと違い、厨房はそれなりにばたついている。
芝浦の考案したタルトも大盛況で、注文は途絶える事がない。その他にも様々なチーズを混ぜ合わせたチーズとフルーツのサラダなどcachetteは料理も一工夫されていて、そこもまた人気なのだ。
「ほら、吉良、あーん」
フルーツを切り分ける静の元にやってきた芝浦に唐突に言われ、思わず口を開けるとチーズを放りこまれた。
「…バター?ミルクっぽい」
「だろ?ブリー・モベールっていって、白カビのチーズなんだけどね。吉良は試食したことなかったでしょ?」
「これも出すんですか?」
「女の子はね、チーズ好きなんだよ」
ふふっと芝浦が笑ったと同時に、ホールの方でガラスの割れる音がした。お客がグラスでも落としたか?と芝浦と顔を合わせると、厨房にホールスタッフが飛び込んできた。
「よ、横山さんっ!客が!」
厨房のチーフである横山の顔色がすっと変わった。
夜の店で酒を提供する商売なんてしていれば、そういうトラブルはないとは言えない。
だがcachetteはそういうトラブルが少ない、上質な店だった。立地的な部分もあるのだろう。
しかし今回はそうではないようで、かなり逼迫した状態のようだ。
横山は手にしていた鍋を隣のスタッフに渡すと、厨房を飛び出した。
刹那、男の怒声が響き、女の悲鳴が厨房にまで聞こえ緊張が走る。これは緊急事態だと、静も芝浦とともに厨房を飛び出した。
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