62 / 114
囀る口無し
2
しおりを挟む
「っ……?」
何の変化も訪れないと思っていた矢先、不意に視界が歪んだ。眩暈に襲われたような感覚に、目がやられたのかと焦る。しかし薬物への恐怖も焦燥感もどこか遠く、意識がぼんやりとして状況がつかめなくなってくる。足が地についていないような浮遊感。酒を飲みすぎた時のような酩酊感。自分はどこにいたのだったか、と記憶を辿る。何をしている最中だったのか、考えるがなかなか答えにたどり着かない。半分眠っているような妙な心地だった。
「潜入している仲間の名前は」
見知らぬ男が何か話している。誰だったか、とぼんやりと見上げるがよく分からない。潜入、仲間、と聞き、ようやく自分が潜入捜査のために侵入したことを思い出した。それなのになぜここにいるのだったか。失敗したのだ、と長い時間をかけて結論づける。だめだ、なぜかうまく頭が働かない。ぐらぐらと揺れる視界が気持ち悪い。いつのまに酒を飲んだのだったか。
「な、かま…………?」
ずっと沈黙を守っていた乾の口から弱々しい言葉が漏れ出した。焦点の合わない瞳が緩慢に男に向けられる。男は繰り返された問答が前進したことに歓喜した。投与した自白剤はしっかりと効いているらしい。先程までの意志の強い瞳はもうそこにはなく、どこか意識の遠い表情は別人のようだった。薄く開いたままの唇が答えを探すようにはくはくと動いている。強制的に働きを鈍らされ朦朧とした意識では嘘偽りを吐くことが難しくなる。何も分からぬまま聞かれたことに答える人形になってくれればそれでいい。
「…………や」
乾の口から漏れた言葉を聞き逃すまいと男は前のめりになる。ようやく口を割ったかとほくそ笑みながら質問を繰り返せば、乾は小さな声を発した。
「いや、や……」
ふるりと頭を振る。回転の鈍った頭はよく分かりもしないのに、絶対に答えたくないと言っていた。何を聞かれているのか、質問の答えは何なのか、その判断すらしてはいけないと本能的に感じる。自分が声を出しているのかいないのかさえも、もう分からなくなっていた。とにかく何も言ってはいけないのだと、頭に浮かぶのはそれだけだった。
「なんも、いわん……」
ぽつりぽつりと言われた言葉に、男は不機嫌そうに顔を歪める。乾はどう見ても自白剤に蝕まれて思考などできない状態であろうに、情報を吐かないつもりのようだった。どこを見ているのか分からない瞳で、嫌だ嫌だと繰り返している。
「おい、もう一本よこせ」
苛立ちながら言う男に、黙って見ていた背後の男は狼狽える。
「さすがに廃人になっちまうぞ」
自白剤を使うこと自体が最終手段と言ってもいいのに、許容量を超えれば無事では済まない。体質によっては薬の使用だけで人格が壊れかねないというのに。ぶつぶつと何事か繰り返しているこの男がまだ狂っていないとは限らない。
「構うかよ。いいから出せって」
渋る姿を見て男は我慢できなくなったらしい。薬のケースを隠す男に向かって大股で歩み寄ってくる。そこまでされれば乾を庇う理由もなく、もう一本の注射器を渡すことになった。知らねえからな、と吐き捨てて様子を見ていた。
キャップを外し、注射針を露出させると軽く液体を押し出して確かめる。うすらと血の滲んだ乾の腕にゆるりと近づけ、その皮膚に穴を開けようとしたところだった。
突如凄まじい音が響いて男の手が止まる。甲高い音の正体を知る前にガラス片が床に飛び散った。弾かれるように顔を上げれば、粉々になった窓ガラスを蹴破るようにして入ってくる人影。はためくギャルソンエプロンとネクタイはいわゆるバーテン服と呼ばれるものだ。月明かりを背負って立つ男は、暗がりで顔が見えねど鬼気迫る殺気を放っていた。
「俺のダチになにしてくれてんだ」
ゆらりと持ち上げられた顔は怒気一色に染まっていた。瞳孔が開ききった瞳は獣を想起させる。そこに店で見せる落ち着いた大人らしさはない。別人のように闘争心を剥き出しにした獣が一匹。窓ガラスを割った金属バットを引きずりながら、神蔵は男達に近づいていった。
何の変化も訪れないと思っていた矢先、不意に視界が歪んだ。眩暈に襲われたような感覚に、目がやられたのかと焦る。しかし薬物への恐怖も焦燥感もどこか遠く、意識がぼんやりとして状況がつかめなくなってくる。足が地についていないような浮遊感。酒を飲みすぎた時のような酩酊感。自分はどこにいたのだったか、と記憶を辿る。何をしている最中だったのか、考えるがなかなか答えにたどり着かない。半分眠っているような妙な心地だった。
「潜入している仲間の名前は」
見知らぬ男が何か話している。誰だったか、とぼんやりと見上げるがよく分からない。潜入、仲間、と聞き、ようやく自分が潜入捜査のために侵入したことを思い出した。それなのになぜここにいるのだったか。失敗したのだ、と長い時間をかけて結論づける。だめだ、なぜかうまく頭が働かない。ぐらぐらと揺れる視界が気持ち悪い。いつのまに酒を飲んだのだったか。
「な、かま…………?」
ずっと沈黙を守っていた乾の口から弱々しい言葉が漏れ出した。焦点の合わない瞳が緩慢に男に向けられる。男は繰り返された問答が前進したことに歓喜した。投与した自白剤はしっかりと効いているらしい。先程までの意志の強い瞳はもうそこにはなく、どこか意識の遠い表情は別人のようだった。薄く開いたままの唇が答えを探すようにはくはくと動いている。強制的に働きを鈍らされ朦朧とした意識では嘘偽りを吐くことが難しくなる。何も分からぬまま聞かれたことに答える人形になってくれればそれでいい。
「…………や」
乾の口から漏れた言葉を聞き逃すまいと男は前のめりになる。ようやく口を割ったかとほくそ笑みながら質問を繰り返せば、乾は小さな声を発した。
「いや、や……」
ふるりと頭を振る。回転の鈍った頭はよく分かりもしないのに、絶対に答えたくないと言っていた。何を聞かれているのか、質問の答えは何なのか、その判断すらしてはいけないと本能的に感じる。自分が声を出しているのかいないのかさえも、もう分からなくなっていた。とにかく何も言ってはいけないのだと、頭に浮かぶのはそれだけだった。
「なんも、いわん……」
ぽつりぽつりと言われた言葉に、男は不機嫌そうに顔を歪める。乾はどう見ても自白剤に蝕まれて思考などできない状態であろうに、情報を吐かないつもりのようだった。どこを見ているのか分からない瞳で、嫌だ嫌だと繰り返している。
「おい、もう一本よこせ」
苛立ちながら言う男に、黙って見ていた背後の男は狼狽える。
「さすがに廃人になっちまうぞ」
自白剤を使うこと自体が最終手段と言ってもいいのに、許容量を超えれば無事では済まない。体質によっては薬の使用だけで人格が壊れかねないというのに。ぶつぶつと何事か繰り返しているこの男がまだ狂っていないとは限らない。
「構うかよ。いいから出せって」
渋る姿を見て男は我慢できなくなったらしい。薬のケースを隠す男に向かって大股で歩み寄ってくる。そこまでされれば乾を庇う理由もなく、もう一本の注射器を渡すことになった。知らねえからな、と吐き捨てて様子を見ていた。
キャップを外し、注射針を露出させると軽く液体を押し出して確かめる。うすらと血の滲んだ乾の腕にゆるりと近づけ、その皮膚に穴を開けようとしたところだった。
突如凄まじい音が響いて男の手が止まる。甲高い音の正体を知る前にガラス片が床に飛び散った。弾かれるように顔を上げれば、粉々になった窓ガラスを蹴破るようにして入ってくる人影。はためくギャルソンエプロンとネクタイはいわゆるバーテン服と呼ばれるものだ。月明かりを背負って立つ男は、暗がりで顔が見えねど鬼気迫る殺気を放っていた。
「俺のダチになにしてくれてんだ」
ゆらりと持ち上げられた顔は怒気一色に染まっていた。瞳孔が開ききった瞳は獣を想起させる。そこに店で見せる落ち着いた大人らしさはない。別人のように闘争心を剥き出しにした獣が一匹。窓ガラスを割った金属バットを引きずりながら、神蔵は男達に近づいていった。
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。
束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。
だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。
そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。
全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。
気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。
そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。
すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
あなたの子ですが、内緒で育てます
椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」
突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。
夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。
私は強くなることを決意する。
「この子は私が育てます!」
お腹にいる子供は王の子。
王の子だけが不思議な力を持つ。
私は育った子供を連れて王宮へ戻る。
――そして、私を追い出したことを後悔してください。
※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ
※他サイト様でも掲載しております。
※hotランキング1位&エールありがとうございます!
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子
ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。
Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる