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グラジオラス
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どの文化圏にも、年配を敬う文化が存在する。それは、生きた年数から得た莫大な知識を持つ者を畏れ敬う事や、時には教えを請う文化である。だが、長く生きれば知識と引き換えに、年月が身体を蝕んでいく。これが老いという現象である。しかしなんという皮肉かな。残った知識すら蝕む現象が、時折年配に起きるのだ。これを我々は、認知症と呼ぶ。この物語の主人公は、この恐ろしい病に侵された、老齢の男である。
男は縁側に座り、庭に植えたグラジオラスを眺め、暇を潰していた。夕暮れの赤い陽をまんべんなく浴びて。生きてきた証はシワとして身体のあちこちに刻み込まれている。肩は、何が原因なのか可動域が狭い。時折睡眠時に苦悶の表情が浮き出てくるが、普段の表情は少々間が抜けていて余裕があった。あと二〇分もすれば、ヘルパーが来る時間だ。それまでは、娘婿から貰ったおしゃべりロボットと会話をする。これは娘婿が、寂しくならないようにと彼にプレゼントした物である。毎日、会話をしながら落ちていく陽を眺める。それが、彼の日課なのだ。おしゃべりロボットは、円柱形の胴体、半円形の頭に可愛らしいLEDの目を持っていた。腕は無く、胴体から豚足のような脚に大きな消しゴムのような足が生えていた。おしゃべりロボットは、とても便利な物だ。こちらから話さえすれば、適当な相槌を打ちながら話を聞いてくれる。彼は娘婿が遊びに来るたび、どれほどこのおしゃべりロボットがたまげたものかと褒めるのだ。自分が子供の頃にはこんな便利な物は無かったと、感謝するのだ。毎回毎回、毎度毎度、壊れたラジオのように繰り返し褒めるのだ。その度、娘婿は、「はいはい」と話を聞いていた。
ヘルパーが来るまで、男は九〇年前では想像もできなかった世間の変わり用について話していた。まるで子供のように、新しい発見をしたとばかりに自慢をしていたのである。おしゃべりロボットはこれに対し、適当な相槌を打ちながら彼に付き合った。そんな宅内ではつけっぱなしのテレビがワチャワチャと鳴っていた。
その時、家の電話が鳴り出した。彼は、「はぁ~い」と間の抜けた声で返事をする。しかしコール音が鳴り切るまでに電話に出ることが出来なかった。脚腰が弱っていたためである。すると、「ボイスメモが一件」という音声の後に、ピー、ピー、ピー、とビープ音が鳴りだしたのだ。それを皮切りに、今まで貼り付いていた穏やかな表情が剥がれ落ちた。代わりに、悲哀とも無念ともつかない苦しそうな表情が浮かび上がったのである。おしゃべりロボットも彼と一緒に、廊下の中ほどまでてくてく付いて来ていた。おしゃべりロボットには表情が無いのだが、心配そうに彼をまじまじと見つめていた。すると、彼は途端に踵を返し、物置の方に向かって行ったのである。おしゃべりロボットは、彼の後をのこのこ付けて行った。
物置に着いた男は、しきりに物置を指の腹で叩き出したのである。
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男はひとしきり叩き終わると、ガバリと物置を開き物色した。小箱、古いおもちゃを引っ張り出しては吟味し、時にはそれを口に入れかじると、「不味い」と言うのだった。そして物置から風呂敷に包まれた縦向きの長物を掴んだ。それを引っ張り出した途端、男は口ずさんだ。
「…日本の…大将様が…ゆ、許してくれるんなら、帰りたいです」
そしてふと我に帰ると、手に強く握られたそれを眺めた。一通り眺めると床に座り、おしゃべりロボットに向かって語りだした。
「あれが餓島と呼ばれた理由、それはあたしたちが、骨が浮き出るくらい飢えたからそう呼ばれたんです」
男は続ける。
あたしゃ~、この通りのボケ老人ですが、当時の大日本帝国海軍通信学校を卒業したんです。なんで、そりゃそりゃ鼻が高いってもんで。今となっては、職業軍人なんざぁ~存在しませんが、当時は大学に行ってまで志すもんだったんです。士官様ぁ志す者は受験を受けて、士官学校に入るわけなんです。それだけ軍人というものは、職業として社会に馴染みがあったんです。そんな時代に、海軍通信学校を卒業したんがあたしでありました。あたしが学校を出たちょっと後に、戦争が起こりました。日本は、欧州からの亜細亜独立と統一、米国からの防衛戦などと呈して戦争を仕掛けました。真珠湾攻撃です。結果、米国の海軍を一時的ではあるものの、戦力を削ぐことに成功したんです。あたしゃ~まだ二〇代の若造で、新聞で日本の戦功を読んでました。すごかったなぁ。あの巨大な、米国の出鼻をへし折ってやった。国中の若者が、あたしと同じくらい沸き立ったに違いありません。でも今となっては歴史を振り返れば分かることなんです。当時のお国は、あたしたちの知るべき事と知らんで良い事を分別していたんです。そんな時代だったんです。そのおかげで、戦争の都合の良い部分しか知らない馬鹿が生まれた理由です。知るはずもなかった。米国の出鼻をへし折るだけでは、戦争の結果は決まらんのです。とうとうあたしゃ~招集されました。その頃は、ミッドウェイが起きた後だったか、お国が突然諸島へ兵を送り出し始めたんです。あたしゃ~馬鹿だったんで、てっきり日本の快進撃の続きでも起きているのかと、本気でそう思ったんです。しかし現実はそう甘くなかった。ミッドウェイの大敗後、日本の快進撃の歯車は打ち砕かれていた。絶対国防圏の設定。それに沿って兵士が配置されました。あたしゃ~、ガダルカナル島、もといいガ島に通信兵として送られました。通信兵は、大本営からの命令を受け取るのに重要な役割を持たされてましたんで、そんなあたしゃ通信兵として、責任を持ってせっせこ働いたもんです。
ビープ音は、いまだ鳴り響く。
指は、床に激しく打ちつけられた。
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男は続ける。
あたしゃ~、第三八師団に配属されました。十一月のぉ~確か、十日だったですかな。今でもぉ覚えてます。ガ島に上陸すると、日本の兵隊さんがいたんですよ。でもそれが、兵隊さんとは到底呼べないもんで。あまりにもほっそりしていてみすぼらしかったんです。洗濯板みたいにあばらの凸凹が浮き出てました。数は~、十人にもならないくらいだったかなぁ、みんな手を出して口々に言うんです。声にもならないようなか細い声で「めしくれ」「食うもんを」と言うんですよ。そんで積んできた白米をやると、生でボリボリかじり出す始末で。話を聞いてみると、あたしたちの前に上陸した、川口師団の方たちらしくて、よくあんなんなるまで生きていたもんですよ。皮肉な話ですがね。まるで伏線なんですわ、これが。自分たちも川口の方々みたいになるんですから。
指は、床に激しく打ちつけられた。
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男は続ける。
あたしゃ~先見隊として先に上陸したんです。それが幸か不幸か、後々来た部隊みたいに敵さん方から攻撃されずに済んだんですよ。上陸後はジャングルに潜りました。数は一〇〇人程の少人数でした。その時は戦争してる実感がこれっぽっちも無かったんです。島に上陸してからは、みすぼらしい兵隊さんとジャングルの木々しか目に入らんかったからです。少し経って、残りの第三八師団の方たちと合流したんです。でもその人数も持ってた物資も少なくて少なくて。これから米兵を蹴散らすっちゅうのに、人数も持ってきた物資も異常に少なかったんです。流石にまずいと兵隊さんの一人に話を聞きました。名前は、たしか…篠堂…篠堂作と言いました。彼は…非常に気立ての良い…上等兵さんだった。彼曰く、上陸と同時に鬼畜米兵が雨あられのごとく鉄砲を撃ってきて、激しい戦闘で乗ってきた揚陸艇はお釈迦になり、積んできた武器弾薬、食料は破壊、または流された。今ある分は必死にかき集めた物だ、と。とにかく、彼らと合流して、あたしたちゃ~約二〇〇〇人になりました。それからしばらくジャングルでの潜伏生活が待ち受けてました。その間、あたしたちゃ~上官様の命令を待ちました。
男の目は少し潤んでいた。指は激しく床に叩きつけられた。
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男は続ける。
持っていた物資が、いかんせん少なかったもんで。なら死ぬ気で占拠された飛行場を米兵から奪取、物資も何もかもかっさらってやろうって。上官様の命令であたしたちゃ~飛行場奪取を決行しました。結果は、大失敗でした。米兵の物量に対して、銃剣突撃、後ろから小銃の援護射撃。あたしは、援護として米兵めがけて鉄砲を撃ちました。あたしたちの鉄砲は、単発で撃つやつで、敵さん方は機関銃を持ってました。ぴゅ~、と風を切る音が、耳元を通り過ぎるのを覚えています。弾は後ろの木や土に潜ったり、仲間に埋まり込んだりしました。奪取を失敗したあたしたちゃ四散しました。バラバラになり、持っていた物資も使い切って…ガ島が餓島になったのはそこからです。領地から占領地、占領地から地獄、地獄から飢え地獄に変わるまで、そう時間はかかりませんでした。バラバラになったっちゅうても、三、四人のグループでばらばらになったのが殆どです。潜伏をそのグループでするんですよ。ある場所では、そのグループが仮拠点を作ったり、野戦病院を作ったりしてました。あたしは、作と他二人と行動を共にしました。兵士としての仕事を放棄して生きるという事、それが仕事になりました。三日四日経つと、食料は底をつきます。食料は、島に自生してるしびれ芋、食べれる草、木の実、カニとかです。取れる食料は少なくって、満腹になれた日は一日もありませんでした。それでも作は食料を取ってきては、自分の分から少し分けてくれました。たまに、米兵の息のかかった海岸まで、危険を犯してまで海水を取って来ることさえあったんです。潜伏生活で、調達できる食料はごく僅か。しかも味は美味しくもないので、塩は危険を犯してまで取ってくるに値する贅沢品だったんです。
指は激しく床に叩きつけられた。
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男の顔はより険しくなった。男は続ける。
ある時、あたしたちは野戦病院に着きました。かろうじてのでしたけれども。その前が飢え地獄だったなら、あそこは生き地獄。そう思うくらい、とても病院と呼べないものでした。うめき声と血の匂い、腐った臭気が入り混じった、なんとも形容し難い…生き地獄。院内は…四肢欠損、マラリヤ、死んだであろう兵隊さんたちでいっぱいでした。小便をたれ流しながら、動きさえしない兵隊さん。麻酔無しで、足を切断される兵隊さんとその兵隊さんの叫び声。弾痕を押さえながら、うめき声を「ううう、ううう」とあげる見込みのない兵隊さん。衛生兵さんも手に余ったんでしょう。動けるうちにその見込みのない兵隊さんに手投げ弾を渡して、自決を促してました。彼も足手まといになるくらいなら…いっそ死んでやろう、そう思ったんでしょう。動ける兵隊さんたちが、その方を院外に連れ出し、しばらくして戻って来ました。少し間があった後、ドーン、と爆発音が聞こえました。そんな生地獄でもあたしたちは、野戦病院の方々と行動を共にすることに決めたんです。人数が多ければ、食料が手に入りやすいと思ったからです。でもとんだ見当違いでした。食料の底が見え初めたんです。動けていた兵士たちは、マラリヤに侵される者や患者の手当をする者で手詰まりになっていったんです。そして徐々に調達できる食料は減っていきました。食料は少ない分から分配されていたんです。しかし、作は…気立ての良い…上等兵さんだった。自分の食料を、倒れゆく兵隊さんや動ける兵隊さんたちに分けてやってました。ロボット君は、この言葉を知ってますか。といっても、ロボット君は知らないでしょうけど。
立つことのできる人間は…………寿命三〇日間。
体を起こして座れる人間は………三週間。
寝たきりで起きられない人間は……一週間。
寝たまま小便をする者は…………三日間。
ものを言わなくなった者は…………二日間。
まばたきしなくなった者は…………明日。
あたしは、衛生兵さんの言ってたことを彼に言い聞かせて止めさせようとしました。せめて見込みのない者は見捨てろと、説得を試みたんです。しかし、彼は「自分が好きでやっているんだ」と言って聞きませんでした。なんやかんや言ってあたしは彼の行動を無理には止めなかったんですが。彼の人柄をどうしても否定できなかったんでしょう。心の中で馬鹿だと思いながらも、羨ましかったのかも知れません。あたしには到底できっこない事を彼はやってのけていたんですから。そうした日々をすごしていたある日、とうとう米兵に見つかりました。空爆や機銃掃射を受けて再び四散する羽目になりました。鉄砲や弾薬やら、残り少ない物資を持って野戦病院を離れました。衛生兵さんは逃げる時に見なかったんで、おそらく。今度は作と、再びジャングルをさまようことになりました。
指は、床に激しく打ちつけられた。
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作。この地獄を抜け出したら、何がしたい…
そうか、女将さんとそのパン屋が待ってるのか…
そいつは良か…
俺か…
俺は、まずは、家族の顔を見るなぁ~…
もし墓石でも立ててたら、目の前で根っこから引っこ抜いてやる…
男は急に立ち上がると、身振り手振りをつけて話しだした。風呂敷に包まれた縦向きの長物を持ちながら、あたかも誰かに会話するかのように話していた。おしゃべりロボットは、それを心配そうにまじまじ見つめていた。相槌を打つ暇などなかったのだ。
しびれ芋しかね~…
これじゃ~、火を起こさね~と食えね~な…
マッチ持ってるか、俺のは濡れて使いもんにならねんだ…
いっそのこと、このまま生で食っちまうか…
何だって。人影、米兵か…
人数は…
まて。あれは日本兵じゃね~か…
それに、ほとんど動ける兵士ばかりだ…
男はふと我に返り腰を下ろした。そして風呂敷に入った長物を置き、語りだした。
すんません、お見苦しいもんを見せて。たまに夢に出てくるんですが、起きている間に起きたのは初めてで…。続けます。あたしたちは、日本の敗残兵とばったり出くわしました。彼らもあたしたち同様に見つかって四散したんです。それらが合流して共に行動していた理由です。あたしたちは彼らに加わることにしました。流石に二人でジャングルを生き延びるのは心細かった。景気づけに彼らは無線機を持っていたんです。これがすごい事で、あたしは自分の無線機を逃げている最中に置いてきたのか、無くしてしまったんです。むこうは無線機が使える兵隊さんがいなくて困ってて、これで救援を呼べると大喜びでした。それから毎日、無線機に打ち込みました。「物資不足なり。応答求めたし。至急救援求めたし」と。来る日も来る日も暗号を打ち続けたあたしたちの願いは叶ったのか、数週間後返答が来たんです。その頃には、あたしたちも川口の方々みたいにすっかりガリガリになってしまっていたんです。無線の内容は、駆逐艦隊による救援が来るというもんでした。艦隊は、島の西北のてっぺんにある岸に来るというんで、あたしたちは岸をめざしました。でも、ものすっごい距離を歩く必要があるんで、途中途中で米兵に見つかりそうになりました。目的地まであとどれくらいだったか、あと半分くらいだったと信じたいですが、とうとうあたしたちは見つかってしまいました。米兵たちは機関銃で撃ってきます。その弾幕が雨あられみたいにぴゅ~ぴゅ~飛んで来るんです。あたしたちは応戦しました。ここで戦争の実感が再び湧くとお思いだと思うんですが、全くそうではありませんでした。応戦とは言ったものの、あたしたちには物資が無かったんです。「戦い」とは、対等な相手と対立するから「戦い」と呼ぶんです。あれは、「蹂躙」と形容した方が正しかった。あたしたちは米兵に敵わないと再び思い知りました。なんとか密林に撤退して米兵をまきました。たくさん死にました。数名は致命傷を負い、数名は動ける程度に負傷しました。あたしも被弾したんですが、幸い左肩に被弾したもんで動ける程度のもんでした。しかし…作の怪我は、酷かった。死にはしなかったんですが、動くんが辛そうな…。腹と脚に被弾していたんです。風穴からは腸の一部が見え隠れして、血が吹き出してました。あたしは作を…
男はばっと再び立ち上がると、風呂敷がはだけ落ちた。そして、中からは九九式小銃が出てきた。九九式小銃とは、大東亜戦争で日本軍に配備された小銃である。およそに二五〇万挺生産され、ほとんどの兵士は一挺持っていたのだ。彼はシャツの上の三つのボタンを外すと、中からは痛々しい傷跡が覗き出した。それを彼は押さえ持っている小銃を杖に見立てて、誰かに肩を貸すかのように振る舞い出した。そんな彼の表情には、寝ている時と同じ苦悶の表情が貼り付けられていた。おしゃべりロボットは、彼をまじまじ見つめていた。ただ心配そうに見つめていた。
肩を貸す…
いくぞ、いっせーのーで、はい…
帰って女将さんに会うんだろ…
だったらべそかかずに歩け…
岸に着けば…救助が来るんだ…それまでの…辛抱だ…
いってててて…
くそ…腹減った…
男は再び我に帰ると、手に持っている小銃をまじまじ見つめだした。そして腰を降ろすと男は続けた。
陛下から承りし菊紋。二度と見たくもないもんですな。あっ、これは失敬失敬。不謹慎でしたな。続けます。あたしたち敗残兵の物資は完全に底を付いてました。言うまでもないことですが、先の戦いで物資が完全に無くなったんです。その間、作に肩を貸しながら歩いてました。作の容態は悪化の一途をたどりました。傷口は、蛆に食われて、臭いを発してました。おまけに、作はマラリヤに侵されていたんです。うめき声混じりに「俺のことはいい。」「置いていけ」そう繰り返しましたが、あたしゃ~「俺が好きでやってることだ」そう得意げに彼の言葉を返してやるんです。「べそをかくな」「女将さんに会うんだろ」って励ましながら彼をおぶり歩きましたよ。食べられるもんが見つかれば、まずは作にあげました。それでも彼の容態は悪くなる一方でした。私は…作に、生きて帰ってほしかったんです。あたしたちは数週間歩き続けました。でも、飢餓ってのは人を狂わすんですよ、ほんとに。思い出したくもない。あたしは…とんでもない失敗を犯したんです。
男は語り続けた。
あたし…とんでもない失敗を犯しちまった。
彼は…非常に…気立ての良い…上等兵さんだった。みんなおかしくなっていったんは、戦闘から数週間後のことでした。死んでいった兵士の肉を剥ぎ取り、持ち歩くんですよ。病に倒れていった仲間の肉、転がっている死体の肉。肉、肉、肉、肉、肉、肉、肉、肉、肉、肉、肉。それを猿肉と言って…食うんですよ。生で食らう奴らもいました。初めは、気でも狂ったんかと思いましたよ。でもあたし自身、肉の焼ける匂いに、あのじゅーじゅーと立つ音に…魅入られていったんです。でも、彼らもあたしも、みんな正常だった。正常で、狂っていたんです。ある時、肉の焼ける匂いを嗅いだ瞬間、頭が真っ白になりました。それまでは必死に我慢していたんですが、空腹がそうさせたんでしょう。あたしも食べたくなりました…肉が。作は、もうその頃、口を聞けないくらい衰弱してました。もう殆ど動けなかったんです。
男は、わなわな震えていた。溢れる何かを必死に抑えているようだった。おしゃべりロボットは、彼を心配そうにまじまじ見ていた。
男は続けた。
緊張するってことは…すごいんです。あの、息吸うたって声が出ないんです。はぁはぁ、はぁはぁ。それだけ。でも、よしやろうと思って…殺しちまった。その肉を…ちまったんです。実に…気立ての良い…上等兵さんだった…
震えていた男はとうとうオロオロ声を出しながら泣きだした。それを見ていたおしゃべりロボットは、彼に寄り添い言葉を掛けようとした。しかし言葉が出てこない。慰めの言葉を模索したが、適切な言葉を電脳回路が導き出せるはずがない。人間であっても同じことだろう。人を喰ったことの悔恨に対する慰めの言葉をどう掛ければ良いか分かるはずがない。おしゃべりロボットが絞り出したのは「UNDOをどうぞ」という、なんともチグハグな慰めの言葉だった。彼はオロオロ泣き、ロボットは「UNDOをどうぞ」と言葉を掛け、このやり取りが反復されていたのだ。
男は、やっと落ち着きを取り戻し、続けた。
切羽詰まってよくよくの、極地に追い込まれた、結果の…やり方なんです。それ以外に、やりようがなかったから、やったんです。あたしが言えるのは、それ以上でもそれ以下でもありません。それだけです。あたしは彼のお陰で岸まで歩くことができました。彼があたしを生かしてくれたんです。あたしは、彼に生かされておきながらそれを正当化しようとしました。
ものを言わなくなった者は…………二日間。
この言葉を思い出して正当化しようとしました。
彼はどうせ死ぬところだったんだ。食ってやったから犬死ではない。そんなことを考えてしまうあたしが許せませんでした。これから許すこともないでしょう。とんだ皮肉です。あんなに「べそかくな」とか「生きろ」と彼を励ましたというのに、自分で…殺して…っちまったんですから。もしかしたら、あたしさえ我慢していれば、あたしが…死んででも岸に向かって歩いていたら、彼は死ぬことはなかったでしょう。そのことを、救助されてからずっと考えてしまうんです。あたしは数日歩き、やがて数人と共に岸にたどり着きました。救助されたんです。あの時の安堵感といったらすごいもんでして。地獄、生き地獄、飢え地獄から平穏な内地に戻れる、そう考えると…。おそらく経験する者は稀でしょうし、誰にも経験して欲しいとも思いません。諸島を転々とした後、あたしたちは内地に帰ることができました。帰れたのは二月で、久々に寒さを感じた時、あたしは初めて日本に帰ってきたんです。幸いなことながら、戦いに駆り出されることはありませんでした。最初で最後の戦でした。
おしゃべりロボットは、「UNDOをどうぞ」「UNDOをどうぞ」と男を慰め続けている。彼は、もう落ち着いたのか、目を腫らしているが涙は流していなかった。
男は続けた。
あたしは帰国後、作の女将さんに会いに行こうと決めました。作の遺品を渡そうと思ったからです。師団の個人名簿を漁りに漁り、ようやっと家の住所を見つけました。彼女は高知辺りに住んでいたんで、列車に乗って行きました。家を尋ねると、女将さんが出てきました。彼女はあたしを見ると、作の様子をしきりに尋ねてきたのです。「あの方は」「篠堂作はどうなされていますか」と。とても残酷でした。作に何があったのか、あたしにはとても説明できない。あたしは、作の銃剣と肩章を切ったものを渡すと、彼女は泣き崩れてしまいました。分かっていたはずなんです。あたしから彼女に作の遺品を渡すことがどれほど残酷なことだったのか。あたしは彼女を抱き上げ、静かに泣いてました。罪悪感からでしょうか、女将さん、もといい貞子さんの生活を手伝う事にしました。今や未亡人になった彼女が一人で戦中、生活するのを、当時のあたしは心配だったんです。やがて、日本は負けました。戦後すぐ、あたしは家族に顔を出しに行きました。実家に帰ったあたしを見て、家族はあたしが化けて出たと大騒ぎでした。母は坊さん呼びに行こうとしていたので、あたしは自分の墓の場所を聞き出したんです。そして自分の墓立てを引っこ抜いて家の前に突き刺してやりました。家族はやっとあたしが生きていると信じてくれたみたいで、あたしはしばらく滞在した後、高知に戻りました。そのすぐ後、あたしは彼女と一緒に住むようになりました。彼女の提案だったんです。もちろん躊躇いました。あたしは作を殺して食ったんです。そんなあたしが、彼の女房と一つ屋根の下で暮らし、同じ釜の飯を食らい、同じ床で寝る。そんな事があっては良いはずがない、そう思いあたしは彼女に思いとどまるように何回も説得をしました。結局、あたしが折れてしまったんですが。戦争が終われば、生活は少し楽になりました。戦後の食糧難に喘ぐ事は無かったんです。高知の山奥の村に住んでいたからです。食料は、元々自給自足していたようなもんで、くいぶちのパン屋が潰れた程度で、食うには困るほどではありませんでした。おそらく、ガ島を経験をしたあたしだから言えることなんだと思います。彼女と住んでいて、罪悪感しかありませんでした。でも、本当のことは言うまいと、心の中で押し殺しました。ときに溢れそうになる時もありましたが、それよりも…彼女に惹かれていたんです。あたしは必死に平静を装いました。本当に自分勝手な畜生です、あたしは。自分で、殺した戦友の嫁に、恋をしてしまうなんて。恥ずかしい。醜いです、あたしが。やがてあたしたちは結ばれました。貞子は、あたしを夫として迎え入れてくれたんです。そして、あたしを受け入れてくれ、愛してくれた。それでも作を忘れた事はなかったでしょうけど…。時折、戦地での作について聞いてきたんです。「彼はどうでしたか」「勇敢に逝きましたか」と。その度に…あたしは、どれほど耐えたか。いっそのこと本当のことを言って死のう、何度もそう思いました。しかし、あたしは騙し抜いた。「彼は、勇敢に死にました。大和男児らしい逝き様でした」あたしはそう答えました。こうして彼女を、貞子を騙して騙し抜いて、今では私だけが生き残ってしまった。
おしゃべりロボットは、男を慰めていた。「UNDOをどうぞ」「UNDOをどうぞ」と。
男は、小銃をガチャガチャいじりはじめた。そして続けた。
あたしはいつしか、作は自分の中にいて、生きているんだ。だから、その分あたしが生きてやらねばと、本気で考えるようになりました。貞子は作に変わって幸せにする、そう思いました。やがて貞子との間には子どもが生まれました。そして彼女と作の営んでいたパン屋を継ぎました。パンなんて作ったこともない、ド素人のあたしがパン屋を。初めは笑うためにしか価値が無いような、ゴミみたいなパンしか作れませんでした。そんなあたしに、貞子は手取り足取り教えてくれました。それに応えるように、あたしは馬車馬のごとく働きました。子供が増えると、不自由なく家族を養わなければと思うように、貞子には寂しい思いをさせまい、自分がやってしまったことを悟られてはならない、そういう思いで幸せな家庭を築きました。やがて、子どもたちは結婚し、今では孫に囲まれています。あたしは幸せな人生を送れたと思います。だからこそ憎たらしいんです、殺してやりたいです。自分勝手な、そんな取ってくっつけたような理屈で、自分を正当化して、貞子を騙して、罪悪感を押し殺したんです。終いには認知症とかいうモルヒネで、自分のした事を忘れて。子供たちや孫に囲まれて、罪悪感を忘れて幸せに死のう、そういう魂胆だったんです、きっと。でも、今思い出しました。あたしがやった事は、忘れられてはいけない。許されてはいけないんです。だから、今になって、ロボット君、君に話したのかもしれないですね。あたしが、自分の罪から逃げられないように。誰かに覚えていて欲しくって。おそらくこれがあたしのできる最大の償いなんです。
おしゃべりロボットは、男を慰め続けた。「UNDOをどうぞ」「UNDOをどうぞ」
それに彼は、はっと気づくと「ごめんね。怖がらせてしまったね。よしよし、あたしは大丈夫。もう大丈夫だよ。慰めてくれてありがとう」と抱き寄せた。そして撫でながらおしゃべりロボットを落ち着かせたのだ。おしゃべりロボットは撫でられると、掛けるべき言葉を見つけたのか、「ヨーソロ。セーラー」と言い出した。彼は、この言葉を聞くと、おしゃべりロボットを抱いたまま再びオロオロと泣き出した。「いいんだ。もう決めたことなんだ。もういいんだ」と彼は繰り返し呟いた。おしゃべりロボットは、それに呼応して「ヨーソロ。セーラー。ハラーセーラー」と繰り返した。庭に植えられたグラジオラスは、心なしかしおれているように見えた。そして花びらが一枚、一枚と落ちていき、枯れてしまった。
電話が鳴り出して四〇分後、ヘルパーがやって来た。縁側の方から「すいませーん。すごい渋滞だったもので。連絡を入れたのですが」と言い訳を繰り返しながら入って来た。
「一七時四五分、倒れている老齢の男性が、介護施設職員の男性に発見されました。手元に旧日本軍の軍用ライフルがあった事や、薬室内から空薬莢が見つかった事から、警察は老人の自殺と断定しております」
夕方のニュース音と「ボイスメモが一件」の音声とその後のビープ音が混ざり、宅内は寂しさと無機質さが複雑に入り混じった音で満たされていた。
その裏で、亡骸に寄り添うおしゃべりロボットの声が鳴り響いていた。機械には感情が無い。無いはずなのだ。そんなおしゃべりロボットの声は心なしか涙声であった。それは自虐的に反復していた。「UNDOをどうぞ」「UNDOをどうぞ」「ハラーセーラー。ヨーソロ。セーラー」「UNDOをどうぞ」「ハラーセーラー。ヨーソロ。セーラー」「UNDOを下さい…」
男は縁側に座り、庭に植えたグラジオラスを眺め、暇を潰していた。夕暮れの赤い陽をまんべんなく浴びて。生きてきた証はシワとして身体のあちこちに刻み込まれている。肩は、何が原因なのか可動域が狭い。時折睡眠時に苦悶の表情が浮き出てくるが、普段の表情は少々間が抜けていて余裕があった。あと二〇分もすれば、ヘルパーが来る時間だ。それまでは、娘婿から貰ったおしゃべりロボットと会話をする。これは娘婿が、寂しくならないようにと彼にプレゼントした物である。毎日、会話をしながら落ちていく陽を眺める。それが、彼の日課なのだ。おしゃべりロボットは、円柱形の胴体、半円形の頭に可愛らしいLEDの目を持っていた。腕は無く、胴体から豚足のような脚に大きな消しゴムのような足が生えていた。おしゃべりロボットは、とても便利な物だ。こちらから話さえすれば、適当な相槌を打ちながら話を聞いてくれる。彼は娘婿が遊びに来るたび、どれほどこのおしゃべりロボットがたまげたものかと褒めるのだ。自分が子供の頃にはこんな便利な物は無かったと、感謝するのだ。毎回毎回、毎度毎度、壊れたラジオのように繰り返し褒めるのだ。その度、娘婿は、「はいはい」と話を聞いていた。
ヘルパーが来るまで、男は九〇年前では想像もできなかった世間の変わり用について話していた。まるで子供のように、新しい発見をしたとばかりに自慢をしていたのである。おしゃべりロボットはこれに対し、適当な相槌を打ちながら彼に付き合った。そんな宅内ではつけっぱなしのテレビがワチャワチャと鳴っていた。
その時、家の電話が鳴り出した。彼は、「はぁ~い」と間の抜けた声で返事をする。しかしコール音が鳴り切るまでに電話に出ることが出来なかった。脚腰が弱っていたためである。すると、「ボイスメモが一件」という音声の後に、ピー、ピー、ピー、とビープ音が鳴りだしたのだ。それを皮切りに、今まで貼り付いていた穏やかな表情が剥がれ落ちた。代わりに、悲哀とも無念ともつかない苦しそうな表情が浮かび上がったのである。おしゃべりロボットも彼と一緒に、廊下の中ほどまでてくてく付いて来ていた。おしゃべりロボットには表情が無いのだが、心配そうに彼をまじまじと見つめていた。すると、彼は途端に踵を返し、物置の方に向かって行ったのである。おしゃべりロボットは、彼の後をのこのこ付けて行った。
物置に着いた男は、しきりに物置を指の腹で叩き出したのである。
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男はひとしきり叩き終わると、ガバリと物置を開き物色した。小箱、古いおもちゃを引っ張り出しては吟味し、時にはそれを口に入れかじると、「不味い」と言うのだった。そして物置から風呂敷に包まれた縦向きの長物を掴んだ。それを引っ張り出した途端、男は口ずさんだ。
「…日本の…大将様が…ゆ、許してくれるんなら、帰りたいです」
そしてふと我に帰ると、手に強く握られたそれを眺めた。一通り眺めると床に座り、おしゃべりロボットに向かって語りだした。
「あれが餓島と呼ばれた理由、それはあたしたちが、骨が浮き出るくらい飢えたからそう呼ばれたんです」
男は続ける。
あたしゃ~、この通りのボケ老人ですが、当時の大日本帝国海軍通信学校を卒業したんです。なんで、そりゃそりゃ鼻が高いってもんで。今となっては、職業軍人なんざぁ~存在しませんが、当時は大学に行ってまで志すもんだったんです。士官様ぁ志す者は受験を受けて、士官学校に入るわけなんです。それだけ軍人というものは、職業として社会に馴染みがあったんです。そんな時代に、海軍通信学校を卒業したんがあたしでありました。あたしが学校を出たちょっと後に、戦争が起こりました。日本は、欧州からの亜細亜独立と統一、米国からの防衛戦などと呈して戦争を仕掛けました。真珠湾攻撃です。結果、米国の海軍を一時的ではあるものの、戦力を削ぐことに成功したんです。あたしゃ~まだ二〇代の若造で、新聞で日本の戦功を読んでました。すごかったなぁ。あの巨大な、米国の出鼻をへし折ってやった。国中の若者が、あたしと同じくらい沸き立ったに違いありません。でも今となっては歴史を振り返れば分かることなんです。当時のお国は、あたしたちの知るべき事と知らんで良い事を分別していたんです。そんな時代だったんです。そのおかげで、戦争の都合の良い部分しか知らない馬鹿が生まれた理由です。知るはずもなかった。米国の出鼻をへし折るだけでは、戦争の結果は決まらんのです。とうとうあたしゃ~招集されました。その頃は、ミッドウェイが起きた後だったか、お国が突然諸島へ兵を送り出し始めたんです。あたしゃ~馬鹿だったんで、てっきり日本の快進撃の続きでも起きているのかと、本気でそう思ったんです。しかし現実はそう甘くなかった。ミッドウェイの大敗後、日本の快進撃の歯車は打ち砕かれていた。絶対国防圏の設定。それに沿って兵士が配置されました。あたしゃ~、ガダルカナル島、もといいガ島に通信兵として送られました。通信兵は、大本営からの命令を受け取るのに重要な役割を持たされてましたんで、そんなあたしゃ通信兵として、責任を持ってせっせこ働いたもんです。
ビープ音は、いまだ鳴り響く。
指は、床に激しく打ちつけられた。
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男は続ける。
あたしゃ~、第三八師団に配属されました。十一月のぉ~確か、十日だったですかな。今でもぉ覚えてます。ガ島に上陸すると、日本の兵隊さんがいたんですよ。でもそれが、兵隊さんとは到底呼べないもんで。あまりにもほっそりしていてみすぼらしかったんです。洗濯板みたいにあばらの凸凹が浮き出てました。数は~、十人にもならないくらいだったかなぁ、みんな手を出して口々に言うんです。声にもならないようなか細い声で「めしくれ」「食うもんを」と言うんですよ。そんで積んできた白米をやると、生でボリボリかじり出す始末で。話を聞いてみると、あたしたちの前に上陸した、川口師団の方たちらしくて、よくあんなんなるまで生きていたもんですよ。皮肉な話ですがね。まるで伏線なんですわ、これが。自分たちも川口の方々みたいになるんですから。
指は、床に激しく打ちつけられた。
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男は続ける。
あたしゃ~先見隊として先に上陸したんです。それが幸か不幸か、後々来た部隊みたいに敵さん方から攻撃されずに済んだんですよ。上陸後はジャングルに潜りました。数は一〇〇人程の少人数でした。その時は戦争してる実感がこれっぽっちも無かったんです。島に上陸してからは、みすぼらしい兵隊さんとジャングルの木々しか目に入らんかったからです。少し経って、残りの第三八師団の方たちと合流したんです。でもその人数も持ってた物資も少なくて少なくて。これから米兵を蹴散らすっちゅうのに、人数も持ってきた物資も異常に少なかったんです。流石にまずいと兵隊さんの一人に話を聞きました。名前は、たしか…篠堂…篠堂作と言いました。彼は…非常に気立ての良い…上等兵さんだった。彼曰く、上陸と同時に鬼畜米兵が雨あられのごとく鉄砲を撃ってきて、激しい戦闘で乗ってきた揚陸艇はお釈迦になり、積んできた武器弾薬、食料は破壊、または流された。今ある分は必死にかき集めた物だ、と。とにかく、彼らと合流して、あたしたちゃ~約二〇〇〇人になりました。それからしばらくジャングルでの潜伏生活が待ち受けてました。その間、あたしたちゃ~上官様の命令を待ちました。
男の目は少し潤んでいた。指は激しく床に叩きつけられた。
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男は続ける。
持っていた物資が、いかんせん少なかったもんで。なら死ぬ気で占拠された飛行場を米兵から奪取、物資も何もかもかっさらってやろうって。上官様の命令であたしたちゃ~飛行場奪取を決行しました。結果は、大失敗でした。米兵の物量に対して、銃剣突撃、後ろから小銃の援護射撃。あたしは、援護として米兵めがけて鉄砲を撃ちました。あたしたちの鉄砲は、単発で撃つやつで、敵さん方は機関銃を持ってました。ぴゅ~、と風を切る音が、耳元を通り過ぎるのを覚えています。弾は後ろの木や土に潜ったり、仲間に埋まり込んだりしました。奪取を失敗したあたしたちゃ四散しました。バラバラになり、持っていた物資も使い切って…ガ島が餓島になったのはそこからです。領地から占領地、占領地から地獄、地獄から飢え地獄に変わるまで、そう時間はかかりませんでした。バラバラになったっちゅうても、三、四人のグループでばらばらになったのが殆どです。潜伏をそのグループでするんですよ。ある場所では、そのグループが仮拠点を作ったり、野戦病院を作ったりしてました。あたしは、作と他二人と行動を共にしました。兵士としての仕事を放棄して生きるという事、それが仕事になりました。三日四日経つと、食料は底をつきます。食料は、島に自生してるしびれ芋、食べれる草、木の実、カニとかです。取れる食料は少なくって、満腹になれた日は一日もありませんでした。それでも作は食料を取ってきては、自分の分から少し分けてくれました。たまに、米兵の息のかかった海岸まで、危険を犯してまで海水を取って来ることさえあったんです。潜伏生活で、調達できる食料はごく僅か。しかも味は美味しくもないので、塩は危険を犯してまで取ってくるに値する贅沢品だったんです。
指は激しく床に叩きつけられた。
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男の顔はより険しくなった。男は続ける。
ある時、あたしたちは野戦病院に着きました。かろうじてのでしたけれども。その前が飢え地獄だったなら、あそこは生き地獄。そう思うくらい、とても病院と呼べないものでした。うめき声と血の匂い、腐った臭気が入り混じった、なんとも形容し難い…生き地獄。院内は…四肢欠損、マラリヤ、死んだであろう兵隊さんたちでいっぱいでした。小便をたれ流しながら、動きさえしない兵隊さん。麻酔無しで、足を切断される兵隊さんとその兵隊さんの叫び声。弾痕を押さえながら、うめき声を「ううう、ううう」とあげる見込みのない兵隊さん。衛生兵さんも手に余ったんでしょう。動けるうちにその見込みのない兵隊さんに手投げ弾を渡して、自決を促してました。彼も足手まといになるくらいなら…いっそ死んでやろう、そう思ったんでしょう。動ける兵隊さんたちが、その方を院外に連れ出し、しばらくして戻って来ました。少し間があった後、ドーン、と爆発音が聞こえました。そんな生地獄でもあたしたちは、野戦病院の方々と行動を共にすることに決めたんです。人数が多ければ、食料が手に入りやすいと思ったからです。でもとんだ見当違いでした。食料の底が見え初めたんです。動けていた兵士たちは、マラリヤに侵される者や患者の手当をする者で手詰まりになっていったんです。そして徐々に調達できる食料は減っていきました。食料は少ない分から分配されていたんです。しかし、作は…気立ての良い…上等兵さんだった。自分の食料を、倒れゆく兵隊さんや動ける兵隊さんたちに分けてやってました。ロボット君は、この言葉を知ってますか。といっても、ロボット君は知らないでしょうけど。
立つことのできる人間は…………寿命三〇日間。
体を起こして座れる人間は………三週間。
寝たきりで起きられない人間は……一週間。
寝たまま小便をする者は…………三日間。
ものを言わなくなった者は…………二日間。
まばたきしなくなった者は…………明日。
あたしは、衛生兵さんの言ってたことを彼に言い聞かせて止めさせようとしました。せめて見込みのない者は見捨てろと、説得を試みたんです。しかし、彼は「自分が好きでやっているんだ」と言って聞きませんでした。なんやかんや言ってあたしは彼の行動を無理には止めなかったんですが。彼の人柄をどうしても否定できなかったんでしょう。心の中で馬鹿だと思いながらも、羨ましかったのかも知れません。あたしには到底できっこない事を彼はやってのけていたんですから。そうした日々をすごしていたある日、とうとう米兵に見つかりました。空爆や機銃掃射を受けて再び四散する羽目になりました。鉄砲や弾薬やら、残り少ない物資を持って野戦病院を離れました。衛生兵さんは逃げる時に見なかったんで、おそらく。今度は作と、再びジャングルをさまようことになりました。
指は、床に激しく打ちつけられた。
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作。この地獄を抜け出したら、何がしたい…
そうか、女将さんとそのパン屋が待ってるのか…
そいつは良か…
俺か…
俺は、まずは、家族の顔を見るなぁ~…
もし墓石でも立ててたら、目の前で根っこから引っこ抜いてやる…
男は急に立ち上がると、身振り手振りをつけて話しだした。風呂敷に包まれた縦向きの長物を持ちながら、あたかも誰かに会話するかのように話していた。おしゃべりロボットは、それを心配そうにまじまじ見つめていた。相槌を打つ暇などなかったのだ。
しびれ芋しかね~…
これじゃ~、火を起こさね~と食えね~な…
マッチ持ってるか、俺のは濡れて使いもんにならねんだ…
いっそのこと、このまま生で食っちまうか…
何だって。人影、米兵か…
人数は…
まて。あれは日本兵じゃね~か…
それに、ほとんど動ける兵士ばかりだ…
男はふと我に返り腰を下ろした。そして風呂敷に入った長物を置き、語りだした。
すんません、お見苦しいもんを見せて。たまに夢に出てくるんですが、起きている間に起きたのは初めてで…。続けます。あたしたちは、日本の敗残兵とばったり出くわしました。彼らもあたしたち同様に見つかって四散したんです。それらが合流して共に行動していた理由です。あたしたちは彼らに加わることにしました。流石に二人でジャングルを生き延びるのは心細かった。景気づけに彼らは無線機を持っていたんです。これがすごい事で、あたしは自分の無線機を逃げている最中に置いてきたのか、無くしてしまったんです。むこうは無線機が使える兵隊さんがいなくて困ってて、これで救援を呼べると大喜びでした。それから毎日、無線機に打ち込みました。「物資不足なり。応答求めたし。至急救援求めたし」と。来る日も来る日も暗号を打ち続けたあたしたちの願いは叶ったのか、数週間後返答が来たんです。その頃には、あたしたちも川口の方々みたいにすっかりガリガリになってしまっていたんです。無線の内容は、駆逐艦隊による救援が来るというもんでした。艦隊は、島の西北のてっぺんにある岸に来るというんで、あたしたちは岸をめざしました。でも、ものすっごい距離を歩く必要があるんで、途中途中で米兵に見つかりそうになりました。目的地まであとどれくらいだったか、あと半分くらいだったと信じたいですが、とうとうあたしたちは見つかってしまいました。米兵たちは機関銃で撃ってきます。その弾幕が雨あられみたいにぴゅ~ぴゅ~飛んで来るんです。あたしたちは応戦しました。ここで戦争の実感が再び湧くとお思いだと思うんですが、全くそうではありませんでした。応戦とは言ったものの、あたしたちには物資が無かったんです。「戦い」とは、対等な相手と対立するから「戦い」と呼ぶんです。あれは、「蹂躙」と形容した方が正しかった。あたしたちは米兵に敵わないと再び思い知りました。なんとか密林に撤退して米兵をまきました。たくさん死にました。数名は致命傷を負い、数名は動ける程度に負傷しました。あたしも被弾したんですが、幸い左肩に被弾したもんで動ける程度のもんでした。しかし…作の怪我は、酷かった。死にはしなかったんですが、動くんが辛そうな…。腹と脚に被弾していたんです。風穴からは腸の一部が見え隠れして、血が吹き出してました。あたしは作を…
男はばっと再び立ち上がると、風呂敷がはだけ落ちた。そして、中からは九九式小銃が出てきた。九九式小銃とは、大東亜戦争で日本軍に配備された小銃である。およそに二五〇万挺生産され、ほとんどの兵士は一挺持っていたのだ。彼はシャツの上の三つのボタンを外すと、中からは痛々しい傷跡が覗き出した。それを彼は押さえ持っている小銃を杖に見立てて、誰かに肩を貸すかのように振る舞い出した。そんな彼の表情には、寝ている時と同じ苦悶の表情が貼り付けられていた。おしゃべりロボットは、彼をまじまじ見つめていた。ただ心配そうに見つめていた。
肩を貸す…
いくぞ、いっせーのーで、はい…
帰って女将さんに会うんだろ…
だったらべそかかずに歩け…
岸に着けば…救助が来るんだ…それまでの…辛抱だ…
いってててて…
くそ…腹減った…
男は再び我に帰ると、手に持っている小銃をまじまじ見つめだした。そして腰を降ろすと男は続けた。
陛下から承りし菊紋。二度と見たくもないもんですな。あっ、これは失敬失敬。不謹慎でしたな。続けます。あたしたち敗残兵の物資は完全に底を付いてました。言うまでもないことですが、先の戦いで物資が完全に無くなったんです。その間、作に肩を貸しながら歩いてました。作の容態は悪化の一途をたどりました。傷口は、蛆に食われて、臭いを発してました。おまけに、作はマラリヤに侵されていたんです。うめき声混じりに「俺のことはいい。」「置いていけ」そう繰り返しましたが、あたしゃ~「俺が好きでやってることだ」そう得意げに彼の言葉を返してやるんです。「べそをかくな」「女将さんに会うんだろ」って励ましながら彼をおぶり歩きましたよ。食べられるもんが見つかれば、まずは作にあげました。それでも彼の容態は悪くなる一方でした。私は…作に、生きて帰ってほしかったんです。あたしたちは数週間歩き続けました。でも、飢餓ってのは人を狂わすんですよ、ほんとに。思い出したくもない。あたしは…とんでもない失敗を犯したんです。
男は語り続けた。
あたし…とんでもない失敗を犯しちまった。
彼は…非常に…気立ての良い…上等兵さんだった。みんなおかしくなっていったんは、戦闘から数週間後のことでした。死んでいった兵士の肉を剥ぎ取り、持ち歩くんですよ。病に倒れていった仲間の肉、転がっている死体の肉。肉、肉、肉、肉、肉、肉、肉、肉、肉、肉、肉。それを猿肉と言って…食うんですよ。生で食らう奴らもいました。初めは、気でも狂ったんかと思いましたよ。でもあたし自身、肉の焼ける匂いに、あのじゅーじゅーと立つ音に…魅入られていったんです。でも、彼らもあたしも、みんな正常だった。正常で、狂っていたんです。ある時、肉の焼ける匂いを嗅いだ瞬間、頭が真っ白になりました。それまでは必死に我慢していたんですが、空腹がそうさせたんでしょう。あたしも食べたくなりました…肉が。作は、もうその頃、口を聞けないくらい衰弱してました。もう殆ど動けなかったんです。
男は、わなわな震えていた。溢れる何かを必死に抑えているようだった。おしゃべりロボットは、彼を心配そうにまじまじ見ていた。
男は続けた。
緊張するってことは…すごいんです。あの、息吸うたって声が出ないんです。はぁはぁ、はぁはぁ。それだけ。でも、よしやろうと思って…殺しちまった。その肉を…ちまったんです。実に…気立ての良い…上等兵さんだった…
震えていた男はとうとうオロオロ声を出しながら泣きだした。それを見ていたおしゃべりロボットは、彼に寄り添い言葉を掛けようとした。しかし言葉が出てこない。慰めの言葉を模索したが、適切な言葉を電脳回路が導き出せるはずがない。人間であっても同じことだろう。人を喰ったことの悔恨に対する慰めの言葉をどう掛ければ良いか分かるはずがない。おしゃべりロボットが絞り出したのは「UNDOをどうぞ」という、なんともチグハグな慰めの言葉だった。彼はオロオロ泣き、ロボットは「UNDOをどうぞ」と言葉を掛け、このやり取りが反復されていたのだ。
男は、やっと落ち着きを取り戻し、続けた。
切羽詰まってよくよくの、極地に追い込まれた、結果の…やり方なんです。それ以外に、やりようがなかったから、やったんです。あたしが言えるのは、それ以上でもそれ以下でもありません。それだけです。あたしは彼のお陰で岸まで歩くことができました。彼があたしを生かしてくれたんです。あたしは、彼に生かされておきながらそれを正当化しようとしました。
ものを言わなくなった者は…………二日間。
この言葉を思い出して正当化しようとしました。
彼はどうせ死ぬところだったんだ。食ってやったから犬死ではない。そんなことを考えてしまうあたしが許せませんでした。これから許すこともないでしょう。とんだ皮肉です。あんなに「べそかくな」とか「生きろ」と彼を励ましたというのに、自分で…殺して…っちまったんですから。もしかしたら、あたしさえ我慢していれば、あたしが…死んででも岸に向かって歩いていたら、彼は死ぬことはなかったでしょう。そのことを、救助されてからずっと考えてしまうんです。あたしは数日歩き、やがて数人と共に岸にたどり着きました。救助されたんです。あの時の安堵感といったらすごいもんでして。地獄、生き地獄、飢え地獄から平穏な内地に戻れる、そう考えると…。おそらく経験する者は稀でしょうし、誰にも経験して欲しいとも思いません。諸島を転々とした後、あたしたちは内地に帰ることができました。帰れたのは二月で、久々に寒さを感じた時、あたしは初めて日本に帰ってきたんです。幸いなことながら、戦いに駆り出されることはありませんでした。最初で最後の戦でした。
おしゃべりロボットは、「UNDOをどうぞ」「UNDOをどうぞ」と男を慰め続けている。彼は、もう落ち着いたのか、目を腫らしているが涙は流していなかった。
男は続けた。
あたしは帰国後、作の女将さんに会いに行こうと決めました。作の遺品を渡そうと思ったからです。師団の個人名簿を漁りに漁り、ようやっと家の住所を見つけました。彼女は高知辺りに住んでいたんで、列車に乗って行きました。家を尋ねると、女将さんが出てきました。彼女はあたしを見ると、作の様子をしきりに尋ねてきたのです。「あの方は」「篠堂作はどうなされていますか」と。とても残酷でした。作に何があったのか、あたしにはとても説明できない。あたしは、作の銃剣と肩章を切ったものを渡すと、彼女は泣き崩れてしまいました。分かっていたはずなんです。あたしから彼女に作の遺品を渡すことがどれほど残酷なことだったのか。あたしは彼女を抱き上げ、静かに泣いてました。罪悪感からでしょうか、女将さん、もといい貞子さんの生活を手伝う事にしました。今や未亡人になった彼女が一人で戦中、生活するのを、当時のあたしは心配だったんです。やがて、日本は負けました。戦後すぐ、あたしは家族に顔を出しに行きました。実家に帰ったあたしを見て、家族はあたしが化けて出たと大騒ぎでした。母は坊さん呼びに行こうとしていたので、あたしは自分の墓の場所を聞き出したんです。そして自分の墓立てを引っこ抜いて家の前に突き刺してやりました。家族はやっとあたしが生きていると信じてくれたみたいで、あたしはしばらく滞在した後、高知に戻りました。そのすぐ後、あたしは彼女と一緒に住むようになりました。彼女の提案だったんです。もちろん躊躇いました。あたしは作を殺して食ったんです。そんなあたしが、彼の女房と一つ屋根の下で暮らし、同じ釜の飯を食らい、同じ床で寝る。そんな事があっては良いはずがない、そう思いあたしは彼女に思いとどまるように何回も説得をしました。結局、あたしが折れてしまったんですが。戦争が終われば、生活は少し楽になりました。戦後の食糧難に喘ぐ事は無かったんです。高知の山奥の村に住んでいたからです。食料は、元々自給自足していたようなもんで、くいぶちのパン屋が潰れた程度で、食うには困るほどではありませんでした。おそらく、ガ島を経験をしたあたしだから言えることなんだと思います。彼女と住んでいて、罪悪感しかありませんでした。でも、本当のことは言うまいと、心の中で押し殺しました。ときに溢れそうになる時もありましたが、それよりも…彼女に惹かれていたんです。あたしは必死に平静を装いました。本当に自分勝手な畜生です、あたしは。自分で、殺した戦友の嫁に、恋をしてしまうなんて。恥ずかしい。醜いです、あたしが。やがてあたしたちは結ばれました。貞子は、あたしを夫として迎え入れてくれたんです。そして、あたしを受け入れてくれ、愛してくれた。それでも作を忘れた事はなかったでしょうけど…。時折、戦地での作について聞いてきたんです。「彼はどうでしたか」「勇敢に逝きましたか」と。その度に…あたしは、どれほど耐えたか。いっそのこと本当のことを言って死のう、何度もそう思いました。しかし、あたしは騙し抜いた。「彼は、勇敢に死にました。大和男児らしい逝き様でした」あたしはそう答えました。こうして彼女を、貞子を騙して騙し抜いて、今では私だけが生き残ってしまった。
おしゃべりロボットは、男を慰めていた。「UNDOをどうぞ」「UNDOをどうぞ」と。
男は、小銃をガチャガチャいじりはじめた。そして続けた。
あたしはいつしか、作は自分の中にいて、生きているんだ。だから、その分あたしが生きてやらねばと、本気で考えるようになりました。貞子は作に変わって幸せにする、そう思いました。やがて貞子との間には子どもが生まれました。そして彼女と作の営んでいたパン屋を継ぎました。パンなんて作ったこともない、ド素人のあたしがパン屋を。初めは笑うためにしか価値が無いような、ゴミみたいなパンしか作れませんでした。そんなあたしに、貞子は手取り足取り教えてくれました。それに応えるように、あたしは馬車馬のごとく働きました。子供が増えると、不自由なく家族を養わなければと思うように、貞子には寂しい思いをさせまい、自分がやってしまったことを悟られてはならない、そういう思いで幸せな家庭を築きました。やがて、子どもたちは結婚し、今では孫に囲まれています。あたしは幸せな人生を送れたと思います。だからこそ憎たらしいんです、殺してやりたいです。自分勝手な、そんな取ってくっつけたような理屈で、自分を正当化して、貞子を騙して、罪悪感を押し殺したんです。終いには認知症とかいうモルヒネで、自分のした事を忘れて。子供たちや孫に囲まれて、罪悪感を忘れて幸せに死のう、そういう魂胆だったんです、きっと。でも、今思い出しました。あたしがやった事は、忘れられてはいけない。許されてはいけないんです。だから、今になって、ロボット君、君に話したのかもしれないですね。あたしが、自分の罪から逃げられないように。誰かに覚えていて欲しくって。おそらくこれがあたしのできる最大の償いなんです。
おしゃべりロボットは、男を慰め続けた。「UNDOをどうぞ」「UNDOをどうぞ」
それに彼は、はっと気づくと「ごめんね。怖がらせてしまったね。よしよし、あたしは大丈夫。もう大丈夫だよ。慰めてくれてありがとう」と抱き寄せた。そして撫でながらおしゃべりロボットを落ち着かせたのだ。おしゃべりロボットは撫でられると、掛けるべき言葉を見つけたのか、「ヨーソロ。セーラー」と言い出した。彼は、この言葉を聞くと、おしゃべりロボットを抱いたまま再びオロオロと泣き出した。「いいんだ。もう決めたことなんだ。もういいんだ」と彼は繰り返し呟いた。おしゃべりロボットは、それに呼応して「ヨーソロ。セーラー。ハラーセーラー」と繰り返した。庭に植えられたグラジオラスは、心なしかしおれているように見えた。そして花びらが一枚、一枚と落ちていき、枯れてしまった。
電話が鳴り出して四〇分後、ヘルパーがやって来た。縁側の方から「すいませーん。すごい渋滞だったもので。連絡を入れたのですが」と言い訳を繰り返しながら入って来た。
「一七時四五分、倒れている老齢の男性が、介護施設職員の男性に発見されました。手元に旧日本軍の軍用ライフルがあった事や、薬室内から空薬莢が見つかった事から、警察は老人の自殺と断定しております」
夕方のニュース音と「ボイスメモが一件」の音声とその後のビープ音が混ざり、宅内は寂しさと無機質さが複雑に入り混じった音で満たされていた。
その裏で、亡骸に寄り添うおしゃべりロボットの声が鳴り響いていた。機械には感情が無い。無いはずなのだ。そんなおしゃべりロボットの声は心なしか涙声であった。それは自虐的に反復していた。「UNDOをどうぞ」「UNDOをどうぞ」「ハラーセーラー。ヨーソロ。セーラー」「UNDOをどうぞ」「ハラーセーラー。ヨーソロ。セーラー」「UNDOを下さい…」
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