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新章Ⅰ「忌み子と騎士のゆくところ」
32.小さな波、大きな波
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この先どんな仕打ちを受けるかわからない。ルカは、両手を組んで海に跪いた。海水の塩辛さが目に染みる。
(女神様、どうか守ってください)
髪は片側だけ中途半端に剃られていた。重い潮風が耳をすり抜け、前髪を揺らす。
(私は心弱くて、命が多すぎて……きっと正気を保ってはいられない。守ってください。あなたの御力で、私が私のままでいられるように。汚されても踏みにじられても、悪い心を持たないように。あなたはこれまで何度もそうして私をお救いくださいました)
空に渦巻く灰色の雲の向こうに光があった。さざ波はルカの腰を洗い、枷と鎖はいっそう肌に食い込む。海は涙をのみこんで静かに広がり続けている。
ルカは女神を見たことはなかった。教えの書にはたくさんの女神の奇跡が物語として書き留められている。みずから武器を振るい、緑の民からルテニアを守った。荒れた大地を猫を用いて豊かにした。王に予知夢で危機を知らせ、敵軍を討ち滅ぼし、信奉者を世々永遠に富ませ恥を見させない。しかしルカの身には――後になってから奇跡的な確率で起こったと思う出来事はあるにせよ――そういう超常的な出来事は起こらなかった。
ジェイルは鼻で笑うだろう。助けもしない女神を信仰するなどバカバカしいと、彼はきっとそう言う。
(でも、私は。私は奇跡を見たいわけじゃない……!)
ルカはバミユールに涙目で向き合った。領主のオリノコにまんまと騙され、緑の民の手に落ちた。裸に剥かれ、辱めを受けた。(それがなに)とルカは思う。結局のところ人間のすることだ。もしも女神がその気になれば、彼らはたちどころに雷を受けて滅ぶだろう。今それが起こらないのはなぜか。ルカは信仰に燃え立ち、こう思った。
(女神様は臆病な私が勇気を示すのを、辛抱強く待っているんだっ)
ルカは勇気を振り絞って叫んだ。
「バミユール! 私を解放してください!」
「……?」
「こっ……この枷と鎖を解きなさい! 私はあなたがたの家畜でも食べ物でもありません!」
鎖でがんじがらめになった姿でいきりたつルカを見て、バミユールは興味深そうに首をかしげた。
「アルカディア」
彼女はルカをそう呼んだ。
「家畜に身を落としてなお命の多いあなた。とてもとても不思議なことです」
「いいから放してください! 私を待っているひとがいます!」
「泥にまみれたあなた。目を離せない」
バミユールはルカの頬に手を起き、顔を起こさせた。
「ああぁー欲しいなあ」
「……!」
言葉はわからずとも、彼女の上気した頬と吊り上がった口元を見れば、何を考えているかはうかがえた。ぞっとして身をひくルカを、バミユールは砂浜に転がす。波は容赦なく打ち寄せた。ルカは這いずりながら何度も海水を飲んだ。
「やめなさい! 私に触らないで……やだっ、いやだぁ!」
「静かに静かに」
四つ足になったバミユールに頭を押さえつけられる。ざらついた砂は苦く、喉につかえた。
「少しだけだよ。殖えるのを試そう……」
「ンーッ!ンーッ!」
身もだえしたルカは、バミユールの背後にひときわ大きな波が立つのを見た。次の瞬間、うねる波が二人を襲った。潮水がひくと、バミユールは大笑いした。あっけにとられるルカの前で、長い髪を振り乱して笑う。
「あはははは!私の子羊!ずぶぬれになった子羊!」
「!?」
「愛い! とても愛い!」
抱き着いてくる肉体は、波よりも熱く力強い。ひとというより獣に近い彼女は、まったく無邪気だった。彼女の機嫌ひとつで心身を弄ばれるルカはたまったものではない。
「も……もうっ! なぜ、こんなことばかり……」
「?」
言葉は通じている。バミユールはごろりと寝返りを打ち、濡れた砂に小指で小さな円をいくつも描いた。
「人、人、人」と言い、円の中を塗りつぶし「罪、罪、罪」と言う。
「……?」
ルカは手元を覗き込んだ。
さらに、黒丸の上に菱形をいくつも描く。それらが「昔、私たち」で、菱形を円で囲み周辺を黒く塗りつぶしたのが「今、私たち」らしい。
「……空から来た緑の民が、人の姿を真似て……えっと……黒くて悪い丸の中に入ってしまった?」
「賢い。愛い」
バミユールは嬉しそうに、次は白い丸の中に菱形を描いた。「アルカディア」と言う。
忌み子のことだ、とルカは直感した。それは、人と緑の民の間に生まれた存在を指す。
驚くばかりのルカの背中を彼女は抱き、豊かな胸をすりよせた。
「門を開く。殖える。あなたは私と。濃く交わり、広く正しく繁栄する。あなたは私たちの子羊だから」
(女神様、どうか守ってください)
髪は片側だけ中途半端に剃られていた。重い潮風が耳をすり抜け、前髪を揺らす。
(私は心弱くて、命が多すぎて……きっと正気を保ってはいられない。守ってください。あなたの御力で、私が私のままでいられるように。汚されても踏みにじられても、悪い心を持たないように。あなたはこれまで何度もそうして私をお救いくださいました)
空に渦巻く灰色の雲の向こうに光があった。さざ波はルカの腰を洗い、枷と鎖はいっそう肌に食い込む。海は涙をのみこんで静かに広がり続けている。
ルカは女神を見たことはなかった。教えの書にはたくさんの女神の奇跡が物語として書き留められている。みずから武器を振るい、緑の民からルテニアを守った。荒れた大地を猫を用いて豊かにした。王に予知夢で危機を知らせ、敵軍を討ち滅ぼし、信奉者を世々永遠に富ませ恥を見させない。しかしルカの身には――後になってから奇跡的な確率で起こったと思う出来事はあるにせよ――そういう超常的な出来事は起こらなかった。
ジェイルは鼻で笑うだろう。助けもしない女神を信仰するなどバカバカしいと、彼はきっとそう言う。
(でも、私は。私は奇跡を見たいわけじゃない……!)
ルカはバミユールに涙目で向き合った。領主のオリノコにまんまと騙され、緑の民の手に落ちた。裸に剥かれ、辱めを受けた。(それがなに)とルカは思う。結局のところ人間のすることだ。もしも女神がその気になれば、彼らはたちどころに雷を受けて滅ぶだろう。今それが起こらないのはなぜか。ルカは信仰に燃え立ち、こう思った。
(女神様は臆病な私が勇気を示すのを、辛抱強く待っているんだっ)
ルカは勇気を振り絞って叫んだ。
「バミユール! 私を解放してください!」
「……?」
「こっ……この枷と鎖を解きなさい! 私はあなたがたの家畜でも食べ物でもありません!」
鎖でがんじがらめになった姿でいきりたつルカを見て、バミユールは興味深そうに首をかしげた。
「アルカディア」
彼女はルカをそう呼んだ。
「家畜に身を落としてなお命の多いあなた。とてもとても不思議なことです」
「いいから放してください! 私を待っているひとがいます!」
「泥にまみれたあなた。目を離せない」
バミユールはルカの頬に手を起き、顔を起こさせた。
「ああぁー欲しいなあ」
「……!」
言葉はわからずとも、彼女の上気した頬と吊り上がった口元を見れば、何を考えているかはうかがえた。ぞっとして身をひくルカを、バミユールは砂浜に転がす。波は容赦なく打ち寄せた。ルカは這いずりながら何度も海水を飲んだ。
「やめなさい! 私に触らないで……やだっ、いやだぁ!」
「静かに静かに」
四つ足になったバミユールに頭を押さえつけられる。ざらついた砂は苦く、喉につかえた。
「少しだけだよ。殖えるのを試そう……」
「ンーッ!ンーッ!」
身もだえしたルカは、バミユールの背後にひときわ大きな波が立つのを見た。次の瞬間、うねる波が二人を襲った。潮水がひくと、バミユールは大笑いした。あっけにとられるルカの前で、長い髪を振り乱して笑う。
「あはははは!私の子羊!ずぶぬれになった子羊!」
「!?」
「愛い! とても愛い!」
抱き着いてくる肉体は、波よりも熱く力強い。ひとというより獣に近い彼女は、まったく無邪気だった。彼女の機嫌ひとつで心身を弄ばれるルカはたまったものではない。
「も……もうっ! なぜ、こんなことばかり……」
「?」
言葉は通じている。バミユールはごろりと寝返りを打ち、濡れた砂に小指で小さな円をいくつも描いた。
「人、人、人」と言い、円の中を塗りつぶし「罪、罪、罪」と言う。
「……?」
ルカは手元を覗き込んだ。
さらに、黒丸の上に菱形をいくつも描く。それらが「昔、私たち」で、菱形を円で囲み周辺を黒く塗りつぶしたのが「今、私たち」らしい。
「……空から来た緑の民が、人の姿を真似て……えっと……黒くて悪い丸の中に入ってしまった?」
「賢い。愛い」
バミユールは嬉しそうに、次は白い丸の中に菱形を描いた。「アルカディア」と言う。
忌み子のことだ、とルカは直感した。それは、人と緑の民の間に生まれた存在を指す。
驚くばかりのルカの背中を彼女は抱き、豊かな胸をすりよせた。
「門を開く。殖える。あなたは私と。濃く交わり、広く正しく繁栄する。あなたは私たちの子羊だから」
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