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新章Ⅰ「忌み子と騎士のゆくところ」
29.はい?
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アドルファスの新しい庭は狭かった。ぐるりを塀に囲まれた家屋の裏手に、三歩半ほどの奥行きがある。塀のそばにはひびの入った鉢や錆びたジョウロがまとめてあった。
聖都を追われた古い王は、まず土を返すことから始めた。やがて土が黒くなると畝を作り、種を植えた。害虫と雑草をことごとく駆逐し、今、畝には小さな苗が育っている。
せせこましい庭を、アガタは見下ろした。
「王よ、お心は未だ定まりませんか」
土をいじるアドルファスの、青い目がぎょろつく。汗にまみれ、土に手を汚す彼は痩せ衰え、元首のおもかげはない。しかし喉の震え方、搾り出す声、血走った目には、凡俗へのただならぬ侮蔑がこもっていた。
「余を王と呼ぶ貴様はなんだ。土くれか。土くれが余に口を聞くのか」
「……いえいえ。土を騙るなどおこがましい。私は不妊の女ですから」
アガタは屈んで、青い衣の前をおっとりとくつろげた。彼女はそこに黄色い短剣を隠していた。
「せいぜい、邪魔な石を避ける道具にしかなりません! それでも使ってくださる方がいるから今もこうしてここに」
アドルファスは畝をまたぎ、壁に寄った。あからさまに距離をとられ、アガタは苦笑する。
「私たちのこと、まだ信じてくれないのですか? 主人が悲しみますわ」
「黙れ」
「新参の私はまだしも、食事を支度し、塀を守る者にも心を開いてくださらないとは。この辺境に主人は苦労してあなたの味方を送りこんだのです」
「黙れと言っているのが、わからぬかッ」
大声を聞いて家付きの侍女と下男が駆けつける。物問いたげな目をする仲間たちに、アガタは無言で首を横に振った。どれほど大きな声を出そうとも問題にはならない。流刑地は、人里から離れた僻地にあった。
庭の緑が育つのと同じ時間、アドルファスへの説得は停滞し続けている。
しかし、時は迫っていた。
「アドルファス様。あなたがご自分で戻らずとも、主人はじきじきにここへ来るでしょう」
「なにを世迷い言を」
「いいえ。主人はこの機に乗じて肥沃な外海に手を伸ばそうとしています」
アガタは微笑した。
「北のイグナスとジェミナの一部を帝国に割譲し、シュテマとラウム、ダイバを併合する。そこがあなたの新しい庭となります。アドルファス様」
アドルファスは壁を背に畝を跨ぎ越した。
「冬麗の戦で終わったことをまた蒸し返すのか」
「私たちの主人は終わったと思ってはおりません」
「いや終わった。余は王位を追われ跡目は姫が継いだ。余の血をひくあれは正当な女王だ」
向かってくるアドルファスを、アガタは後ろ手を組んだまま迎えた。
「残念ながら、今の女王陛下は元老院の傀儡も同然かと。愛する父君を人質にとられて自由に動けずにいるのですから」
「……!」
古い王の顔に、初めてひびが入った。アガタは胸に手を当て、恭しく一礼した。
「私たちはあなたの味方です。古い王であるあなたがラウムに入れば、元老院への強い牽制になる」
「それが、なんだと……」
「退位から即位まであまりに性急だったと、民もそう思っているのですよ。加えて女王陛下は醜聞を暴露してしまわれた。内にも外にも敵ばかりの女王陛下を救えるのは、アドルファス様、この世であなただけではありませんか」
あと一息、本当にもう一息だった。アガタは知る限りの内情を明かし、言葉を尽くして王の説得に成功するところだった。ところがそこに、もう一人の下男が走って来た。
「アガタ様、オリノコが動きました!」
「うるさいっ後にしろ!」
アガタは微動だにせず叫んだが、下男は黙らなかった。
「しかし忌み子のことです。オリノコが忌み子を緑の民に譲り渡しました!」
「……はい?」
アガタは耳を疑い、振り向いてしまった。動きがあれば優先して報告するようにと伝えてあったことだ。下男は姿勢を正して報告を続けた。
昨夜未明、オリノコは自ら馬を駆り、海岸線へ向かったという。緑の瞳に囲まれた彼は、ひるむことなく両腕に抱いたものを振りかざした。
『見よ、これがおまえたちの欲する子羊。おまえたちが貪る最後の王国の民である』
一心不乱に手を伸ばすけだものたちに向かって、オリノコはルカを投げ出した。
『最後の警告だ。以降、我が領地に害をなせば海は緑の血に染まる! おまえたちの女王に急ぎ知らせるがいい!』
絶句するアガタのそばで、アドルファスは「ふん」と鼻を鳴らした。
「誰の敵でも味方でもない、あの男らしいやり口だ」
「……目立ちたがりの領主が何をしでかそうと、私たちには関わりのないことです」
そう言いながら、アガタは自分の手が震えることに驚いていた。なぜだろう。動揺している。気を静めようとすると、かえって目の中には忌み子の姿が浮かぶのだった。アガタのために祈る、清らかで呪われた姿が。
アガタは、震えを理性で押さえつけた。
「緑の民がオリノコの言葉に従うわけがありません。彼は自分で自分を海岸線に釘付けにしたのです。この隙に、アドルファス様はつつがなく領地を抜けることができます」
しかしアドルファスは、アガタの脇を通り過ぎた。土くれに汚れた手を水で洗い「余はここを動かぬ」と言った。
「アドルファス様、なぜ……!」
「余がここにいるだけで間抜け同士が潰し合う」
爪の間の泥を神経質にこそげおとしながら「青に黄色に緑とは騒がしいことよ」とつぶやく。
「いっそ焦土に返せば、女王も心安かろう」
同じ頃、オリノコは騎士団本営を歩いていた。戦支度を整える騎士たちにうなずき「う~ん、いい感じじゃない」と軽口を叩く。
「潮は満ちた。敵が撒き餌に食いついた今が好機だ。天気も問題ないだろう?」
「は。波に大風の兆しあり。お見立て通りでした」
「でしょ~? 僕の勘はよく当たるんだ。……で?」
騎士の肩を掴むオリノコの声が、ぐっと低くなる。
「彼の様子はどう」
「はい」
騎士は、太い顎をひいた。二人の前に、鍵のかかった扉があった。
「……まだ、息はあります」
聖都を追われた古い王は、まず土を返すことから始めた。やがて土が黒くなると畝を作り、種を植えた。害虫と雑草をことごとく駆逐し、今、畝には小さな苗が育っている。
せせこましい庭を、アガタは見下ろした。
「王よ、お心は未だ定まりませんか」
土をいじるアドルファスの、青い目がぎょろつく。汗にまみれ、土に手を汚す彼は痩せ衰え、元首のおもかげはない。しかし喉の震え方、搾り出す声、血走った目には、凡俗へのただならぬ侮蔑がこもっていた。
「余を王と呼ぶ貴様はなんだ。土くれか。土くれが余に口を聞くのか」
「……いえいえ。土を騙るなどおこがましい。私は不妊の女ですから」
アガタは屈んで、青い衣の前をおっとりとくつろげた。彼女はそこに黄色い短剣を隠していた。
「せいぜい、邪魔な石を避ける道具にしかなりません! それでも使ってくださる方がいるから今もこうしてここに」
アドルファスは畝をまたぎ、壁に寄った。あからさまに距離をとられ、アガタは苦笑する。
「私たちのこと、まだ信じてくれないのですか? 主人が悲しみますわ」
「黙れ」
「新参の私はまだしも、食事を支度し、塀を守る者にも心を開いてくださらないとは。この辺境に主人は苦労してあなたの味方を送りこんだのです」
「黙れと言っているのが、わからぬかッ」
大声を聞いて家付きの侍女と下男が駆けつける。物問いたげな目をする仲間たちに、アガタは無言で首を横に振った。どれほど大きな声を出そうとも問題にはならない。流刑地は、人里から離れた僻地にあった。
庭の緑が育つのと同じ時間、アドルファスへの説得は停滞し続けている。
しかし、時は迫っていた。
「アドルファス様。あなたがご自分で戻らずとも、主人はじきじきにここへ来るでしょう」
「なにを世迷い言を」
「いいえ。主人はこの機に乗じて肥沃な外海に手を伸ばそうとしています」
アガタは微笑した。
「北のイグナスとジェミナの一部を帝国に割譲し、シュテマとラウム、ダイバを併合する。そこがあなたの新しい庭となります。アドルファス様」
アドルファスは壁を背に畝を跨ぎ越した。
「冬麗の戦で終わったことをまた蒸し返すのか」
「私たちの主人は終わったと思ってはおりません」
「いや終わった。余は王位を追われ跡目は姫が継いだ。余の血をひくあれは正当な女王だ」
向かってくるアドルファスを、アガタは後ろ手を組んだまま迎えた。
「残念ながら、今の女王陛下は元老院の傀儡も同然かと。愛する父君を人質にとられて自由に動けずにいるのですから」
「……!」
古い王の顔に、初めてひびが入った。アガタは胸に手を当て、恭しく一礼した。
「私たちはあなたの味方です。古い王であるあなたがラウムに入れば、元老院への強い牽制になる」
「それが、なんだと……」
「退位から即位まであまりに性急だったと、民もそう思っているのですよ。加えて女王陛下は醜聞を暴露してしまわれた。内にも外にも敵ばかりの女王陛下を救えるのは、アドルファス様、この世であなただけではありませんか」
あと一息、本当にもう一息だった。アガタは知る限りの内情を明かし、言葉を尽くして王の説得に成功するところだった。ところがそこに、もう一人の下男が走って来た。
「アガタ様、オリノコが動きました!」
「うるさいっ後にしろ!」
アガタは微動だにせず叫んだが、下男は黙らなかった。
「しかし忌み子のことです。オリノコが忌み子を緑の民に譲り渡しました!」
「……はい?」
アガタは耳を疑い、振り向いてしまった。動きがあれば優先して報告するようにと伝えてあったことだ。下男は姿勢を正して報告を続けた。
昨夜未明、オリノコは自ら馬を駆り、海岸線へ向かったという。緑の瞳に囲まれた彼は、ひるむことなく両腕に抱いたものを振りかざした。
『見よ、これがおまえたちの欲する子羊。おまえたちが貪る最後の王国の民である』
一心不乱に手を伸ばすけだものたちに向かって、オリノコはルカを投げ出した。
『最後の警告だ。以降、我が領地に害をなせば海は緑の血に染まる! おまえたちの女王に急ぎ知らせるがいい!』
絶句するアガタのそばで、アドルファスは「ふん」と鼻を鳴らした。
「誰の敵でも味方でもない、あの男らしいやり口だ」
「……目立ちたがりの領主が何をしでかそうと、私たちには関わりのないことです」
そう言いながら、アガタは自分の手が震えることに驚いていた。なぜだろう。動揺している。気を静めようとすると、かえって目の中には忌み子の姿が浮かぶのだった。アガタのために祈る、清らかで呪われた姿が。
アガタは、震えを理性で押さえつけた。
「緑の民がオリノコの言葉に従うわけがありません。彼は自分で自分を海岸線に釘付けにしたのです。この隙に、アドルファス様はつつがなく領地を抜けることができます」
しかしアドルファスは、アガタの脇を通り過ぎた。土くれに汚れた手を水で洗い「余はここを動かぬ」と言った。
「アドルファス様、なぜ……!」
「余がここにいるだけで間抜け同士が潰し合う」
爪の間の泥を神経質にこそげおとしながら「青に黄色に緑とは騒がしいことよ」とつぶやく。
「いっそ焦土に返せば、女王も心安かろう」
同じ頃、オリノコは騎士団本営を歩いていた。戦支度を整える騎士たちにうなずき「う~ん、いい感じじゃない」と軽口を叩く。
「潮は満ちた。敵が撒き餌に食いついた今が好機だ。天気も問題ないだろう?」
「は。波に大風の兆しあり。お見立て通りでした」
「でしょ~? 僕の勘はよく当たるんだ。……で?」
騎士の肩を掴むオリノコの声が、ぐっと低くなる。
「彼の様子はどう」
「はい」
騎士は、太い顎をひいた。二人の前に、鍵のかかった扉があった。
「……まだ、息はあります」
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