忌み子と騎士のいるところ

春Q

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新章Ⅰ「忌み子と騎士のゆくところ」

28.IT'S A SMALL WORLD

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 ひとは他人の頭の中で本来の姿でいることはできない。アシャギは小さな蟹の姿をとってルカの中に入った。

 アシャギの瞳はここでならものを見ることができた。そこは海辺だった。本当の海よりも色が淡く日差しも柔らかい。波打ち際の水は透き通り、浮かぶ泡がレースの刺繍のように美しい。

(きっと、優しいのね)

 アシャギは絵の描き手を評価するようにそう思った。

(それに海の恐ろしさを知らない)

 体より大きなハサミをかちかち鳴らしていると、ほどなくしてこの世界のあるじが来た。長い髪を結んだルカは、波に濡れないよう修道服の裾をまくっていた。貝殻を拾いに来たらしい。足元にアシャギを見つけると、不思議そうに首をかしげた。

「まあ、小さな青い蟹さん。あなたはいったいどこから来たのですか?」

 頭の中の深いところは現実と異なる時間の流れ方をしている。ここにいるルカは、本来の彼がわずらう悩みや苦しみから解放されて、ただ自分の世界観を守っているのだった。

「……こんなことは初めてで、私にはこの方をどうすべきかわからない。お母様に聞いてみましょう」

 アシャギはルカの差し出した手に行儀良く乗った。この世界のあるじを傷つけてしまうと、帰れなくなる恐れがある。

(見て回って、せんせの役に立つことを仕入れて帰らないと)

 手から腕、うなじから頭へ上ると、ルカはくすぐったそうに歩き出した。

(それにしても、明るい)

 目線の高くなったアシャギは、この世界の影のなさに驚いた。浜を上ると、白い道の両側に春夏秋冬の花がいっぺんに咲き乱れている。ルカは道々で見かける動物たちを嬉しそうに紹介した。

「あの鹿は、山を歩いている時に見たのです。とっても綺麗だった。私たちは息をひそめて彼が行くのを見送りました」

「立派な猫でしょう? 黒いぶちが……ふふふ、かわいくて」

 途中で「好きなひとに見せてあげたい」と夏の花をたくさん摘んだ。細腕に余る花を抱き、愛おしそうに頬ずりする。彼にとって初めての恋が、これらの花々を生かしているのだった。

 アシャギは蟹らしく小さな泡を吹きながら(かわいそうに、とっても幸せなのね)と思った。

(これから現実で何が待ち受けているかも知らないで!)

 この世界で、ルカの住処は真っ白なお城だった。ルカが水場で花を生ける間、アシャギはよく動く眼球で城内を観察した。

 人の気配はなく、外で見たような花や動物たちも見当たらない。白い壁には一枚の絵も飾っておらず、どことなくガランとしている。

(まるで作り物のよう。……あら)

 アシャギはルカの髪を滑り降りた。廊下のはしに古ぼけた木のドアがある。どこかの小屋から借りてきたように見え、純白の城には不釣り合いだ。何か秘密があるに違いない。

「そっちはだめです」

 ルカはそう言って、アシャギを濡れた手の上へ引き受けた。恥ずかしそうに頬を赤らめている。

「私が、好きなひとと過ごすお部屋です」

(なーんだ)

 ひとには後ろめたい部屋らしい。珍しいことでもないので、アシャギは大人しくルカの頭上へ戻った。

「お母様」

 白い廊下をまっすぐ行ったところに、円形の部屋がある。

 アシャギは驚いた。

(誰なの、このやたら眩しい人は)

 この明るい世界の光源は彼女だった。輝きのあまり容姿は非常に曖昧だ。現実の母や女神像、女王、その他さまざまな女性のイメージを混合し、一人の絶対者としてまとめているらしい。

 母の声は威厳に満ちていた。

「わたくしに何か用ですか」

 ルカは、アシャギをそっと差し出した。

「私の知らない方です。どうしてさしあげるのがいいか、わからなくて」

 母は首をかしげ、アシャギに指を差し出した。アシャギは挟まないように用心して、彼女の指を触り返した。

「……オリノコの手先か」

 母の声が、がらりと変わる。光の中にあった肌が褐色に染まり、ルカの母・ウルスラが現れる。彼女は怒っていた。

「お引き取りください。あなたが知っていいことは、ここには一つもありません」

「お母様」

「浜辺に捨てなさい。この者は来た道を勝手に戻るでしょう」

「でも、せっかく来てくださったのに……」

「お黙りなさい!」

「あぁ……」

 とりつくしまもない。ルカとアシャギは揃って城から締め出された。本来、この世界のあるじなはずのルカは「ごめんなさい」と眉尻を下げて謝った。

「気を悪くしないでくださいね。お母様はとても厳しい方なのです」

(いいのよ)

 アシャギははさみを大きく振って見せた。本当はもっと城の様子を探りたかったが、予想外の敵が出てきた。ここで無理をすればいよいよ帰れなくなる。

 ルカはアシャギに目を細めた。

「慰めてくれるの。あなたは優しい蟹さんですね」

 浜に戻る道の途中に、珍しいものがある。見せてくれるというので、アシャギはこれ幸いとルカに従った。花畑を掻き分けて進む道だ。振り落とされないよう髪の中に入る必要があった。

「さあ、ここですよ」

 開けたところに古井戸があった。「ここには流れ星が住んでいます」とルカは言った。アシャギは耳を疑ったが、想像力のなせる技というべきか、底には本当に星が泳ぎ回っていた。

「この星は私のお友だちなので、ときどき大事なことを映してくれます」

 肩にくっついたアシャギに、ルカは嬉しそうに頬ずりした。

「あなたも私のお友だちですね」

(よしてよ。甲羅がかゆいわ)

 アシャギが嘆息した時、井戸の底がゆらめいた。

「……!?」

 澄んだ水が赤く、血に染まってゆく。

「ジェイルさま……?」

 ルカは井戸に身を乗り出して、底を覗き込んだ。(ちょっと、なに)落ちそうになるルカを、アシャギはハサミで支える。ルカはなおも血だまりに手を伸ばした。

「ジェイルさま!!」

◇◇◇

「アシャギ!!」

 アシャギは、元通りの暗闇にいた。頬を濡らすものを片手でぬぐい、目を閉じる。同時にもう片方の手で膝のルカを確かめる。とても、温かかった。

「どうしたの、泣いたりして」

「せんせ……」

 そばに来たオリノコは非常に男臭かった。宣言通り揉み師の施術を受けたあとらしい。奥の部屋からは、彼の相手をした揉み師の寝息も聞こえてくる。現実の手触りとにおいに気が緩み、アシャギははらはらと泣いた。

「……この修道士さまが、かわいそうで」

「かわいそうなのかい」

「ひとが怖いの。動植物にしか心を開かない。好きなひとのことも隠している」

「そうか。それで?」

「女のひとに強いあこがれがある」

「ほう……」

「それで。それで……」

 アシャギは見たものを思い出そうとしたが、それは口に入れた砂糖菓子のように甘く溶けていく。心に浮かぶものをどうにか声にしてみると、奇妙なことにそれは死者の言葉のように響いた。

「誰かがこのひとの頭の中に蓋をしている。明るいものしか見ないよう、暗闇をさえぎっている。母のようなひとがオリノコ、あなたの魔手から忌み子を守り、騎士の危険を知らせた。オリノコよ、あなたに我が子を傷つけさせはしません!」

 それを言うアシャギの髪は逆立ち、形相は変わっていた。

「……お。おー、」

 オリノコは、アシャギの頭を掻き撫でた。

「まさか、土産付きで追い返されるとは……トホホ……」

「? ???」

 アシャギは自分の口から出てきた言葉に困惑していた。しかし、オリノコが自分の膝からルカをとろうとすると、反射的に抵抗を示す。

「せんせ、やめてよ! そのひとをどうするつもり!」

「どうって」

 オリノコはアシャギの手から、強い力でルカを取り上げてしまった。

「緑の民のものは緑の民に返す。それだけのことさ」
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