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新章Ⅰ「忌み子と騎士のゆくところ」
12.舟歌
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ルカはもうアガタと話せなかった。持ち運びのためにばらけていたジェイルの槍は、石突に仕掛けがあった。一振りでぎゅんと組みあがった穂先を、彼はアガタに突きつけた。
「こいつに妙な真似をしてみろ。ただじゃおかない」
アガタは笑って両手を顔の横に挙げた。
「短気なひとですね」
「ジェイル様、誤解です」
ルカは首根っこを彼の左手に掴まれていた。胴に縋り「槍を収めてください」と頼み込む。人目があった。アガタに槍を突きつける彼を見て、黄色い騎士たちが動揺している。
アガタは穂先を、手の甲でそっとわきへ避けた。
「いつもそうなのですか。忌み子の清さを盾に猛り狂っている?」
「おまえはベルマインの手先だ。何を企んでいるかわかったものじゃない」
「……うふ。私はただ、彼と名残を惜しんでいただけですのに」
吐息交じりの言葉は妙に艶めかしい。ジェイルの眉間に青筋が立った。
「貴様、よくも……!」
「ジェイル様、落ち着いてください! アガタ様も大概になさってください。私たちをからかってあなたになんの得があるのです」
「何も」
アガタは騎士たちを安心させるように軽く手を振った。また悪ふざけか、という声が聞こえてきたのはアガタがよくこうして異性をからかっているからなのだろう。
「先ほど言った通りです。私はあなたが女神の恣にされるのが気に食わない。だからご忠告申し上げたまで」
アガタはジェイルが落とした水差しを拾った。
「返してきます」
場を荒らすだけ荒らして行ってしまう。ジェイルは怒って「あの変態女に何をされた」とルカを揺さぶった。
「な、なにもされていません。私にも何がなんだかわからないのです」
「急に抱きつかれたのか。それだけか」
ルカは言葉に迷った。『穢れた騎士に心を許すな』――アガタがそんなことを言ったと知ったら、ジェイルは問い詰めに行くだろう。本気で槍を振るうかもしれない。
「……彼女は私たちをからかって楽しんでいるのです。それだけです」
「…………」
「ジェイル様?」
ジェイルはルカの頬に片手を当てた。そのまま頭巾の中に手を入れて首筋を撫でる。
「悪かった。たとえ一瞬でも、おまえから離れるべきじゃなかった」
「そんなことは……」
「おまえに何かあったら、俺は困る」
「私はここにいます」
ルカはジェイルに抱きついた。ジェイルは怒っているのではなく、ただただルカの身を案じているのだった。妹の死に目にはあえなかったという。冬麗の戦では、一瞬のうちに多くの仲間を屠られた。力がなければ奪われる。気を緩めれば殺される。ジェイルの過保護さは病的だが、彼の経験に即していえば決して行き過ぎではなかった。
「ルカはずっとジェイル様のおそばにいます」
愛しているからそうしたい。それだけではない。女神もルカがそのように働くことを望んでいると思った。ジェイルは無言で抱擁を受けていたが、やがて拗ねた声で「わかってるならいい」と言った。
(……本当に、こんなに優しい方が私を害するはずがないのに)
しかしルカは、アガタの不吉な言葉を忘れることができなかった。昨夜見たジェイルの光る痣が心に残っていた。あれが悪夢だったかどうかを確かめるすべもないのだ。
川下りの舟は小さかった。船頭が一人、ジェイルとルカ、途中の渡し場で降りるというアガタが乗り込めば、それで定員だ。黄みがかった岸壁が連続し、そこかしこに奇岩が見られる。
「流れが速いでしょ? このへんは土が固いのに水量が多いから勢いが凄くって」
客慣れした船頭はそんなふうに説明した。ここ数日の雨で水嵩はさらに増していた。岸壁の隙から小さな滝がいくつも出現している。ルカは見たことのない自然に釘付けだった。
「落ちるぞ」
ジェイルが背後から押さえていなければ、本当に落ちていたかもしれない。獅子の鼻に似た奇岩に見とれていた。前にも後ろにも、同じように川を下る舟影があった。谷川に舟歌がこだまする。棹で速度を制御する拍子も歌に合わせているのだった。節まわしが上がるにつれ、気温が上がった。水しぶきの混ざった風が山肌を冷やし、谷にもやがかかりはじめる。
「……あれぇっ、なんだぁ?」
船頭がちらりと背後を振り向く。後続の舟から聞こえてくるはずの舟歌が、途絶えた。
「伏せろ!」
叫んだのはアガタだった。ジェイルがガバッと覆いかぶさったので、ルカは船頭が水に落ちるところを見なかった。続けざまに矢を射かけられる。ジェイルが皮肉っぽく笑った。
「お次は緑の民のおでましか……!」
ルカは見た。岸壁に立つ緑の民の軍勢を。その矢が自分を狙っていると、わかった。
「こいつに妙な真似をしてみろ。ただじゃおかない」
アガタは笑って両手を顔の横に挙げた。
「短気なひとですね」
「ジェイル様、誤解です」
ルカは首根っこを彼の左手に掴まれていた。胴に縋り「槍を収めてください」と頼み込む。人目があった。アガタに槍を突きつける彼を見て、黄色い騎士たちが動揺している。
アガタは穂先を、手の甲でそっとわきへ避けた。
「いつもそうなのですか。忌み子の清さを盾に猛り狂っている?」
「おまえはベルマインの手先だ。何を企んでいるかわかったものじゃない」
「……うふ。私はただ、彼と名残を惜しんでいただけですのに」
吐息交じりの言葉は妙に艶めかしい。ジェイルの眉間に青筋が立った。
「貴様、よくも……!」
「ジェイル様、落ち着いてください! アガタ様も大概になさってください。私たちをからかってあなたになんの得があるのです」
「何も」
アガタは騎士たちを安心させるように軽く手を振った。また悪ふざけか、という声が聞こえてきたのはアガタがよくこうして異性をからかっているからなのだろう。
「先ほど言った通りです。私はあなたが女神の恣にされるのが気に食わない。だからご忠告申し上げたまで」
アガタはジェイルが落とした水差しを拾った。
「返してきます」
場を荒らすだけ荒らして行ってしまう。ジェイルは怒って「あの変態女に何をされた」とルカを揺さぶった。
「な、なにもされていません。私にも何がなんだかわからないのです」
「急に抱きつかれたのか。それだけか」
ルカは言葉に迷った。『穢れた騎士に心を許すな』――アガタがそんなことを言ったと知ったら、ジェイルは問い詰めに行くだろう。本気で槍を振るうかもしれない。
「……彼女は私たちをからかって楽しんでいるのです。それだけです」
「…………」
「ジェイル様?」
ジェイルはルカの頬に片手を当てた。そのまま頭巾の中に手を入れて首筋を撫でる。
「悪かった。たとえ一瞬でも、おまえから離れるべきじゃなかった」
「そんなことは……」
「おまえに何かあったら、俺は困る」
「私はここにいます」
ルカはジェイルに抱きついた。ジェイルは怒っているのではなく、ただただルカの身を案じているのだった。妹の死に目にはあえなかったという。冬麗の戦では、一瞬のうちに多くの仲間を屠られた。力がなければ奪われる。気を緩めれば殺される。ジェイルの過保護さは病的だが、彼の経験に即していえば決して行き過ぎではなかった。
「ルカはずっとジェイル様のおそばにいます」
愛しているからそうしたい。それだけではない。女神もルカがそのように働くことを望んでいると思った。ジェイルは無言で抱擁を受けていたが、やがて拗ねた声で「わかってるならいい」と言った。
(……本当に、こんなに優しい方が私を害するはずがないのに)
しかしルカは、アガタの不吉な言葉を忘れることができなかった。昨夜見たジェイルの光る痣が心に残っていた。あれが悪夢だったかどうかを確かめるすべもないのだ。
川下りの舟は小さかった。船頭が一人、ジェイルとルカ、途中の渡し場で降りるというアガタが乗り込めば、それで定員だ。黄みがかった岸壁が連続し、そこかしこに奇岩が見られる。
「流れが速いでしょ? このへんは土が固いのに水量が多いから勢いが凄くって」
客慣れした船頭はそんなふうに説明した。ここ数日の雨で水嵩はさらに増していた。岸壁の隙から小さな滝がいくつも出現している。ルカは見たことのない自然に釘付けだった。
「落ちるぞ」
ジェイルが背後から押さえていなければ、本当に落ちていたかもしれない。獅子の鼻に似た奇岩に見とれていた。前にも後ろにも、同じように川を下る舟影があった。谷川に舟歌がこだまする。棹で速度を制御する拍子も歌に合わせているのだった。節まわしが上がるにつれ、気温が上がった。水しぶきの混ざった風が山肌を冷やし、谷にもやがかかりはじめる。
「……あれぇっ、なんだぁ?」
船頭がちらりと背後を振り向く。後続の舟から聞こえてくるはずの舟歌が、途絶えた。
「伏せろ!」
叫んだのはアガタだった。ジェイルがガバッと覆いかぶさったので、ルカは船頭が水に落ちるところを見なかった。続けざまに矢を射かけられる。ジェイルが皮肉っぽく笑った。
「お次は緑の民のおでましか……!」
ルカは見た。岸壁に立つ緑の民の軍勢を。その矢が自分を狙っていると、わかった。
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