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間章「ニャンヤンのお祭り」
32.壁
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壁に背中をつけたままズルズルと崩れ落ちるアガタに、ジェイルは吐き捨てた。
「おまえに負わされた火傷の礼が、ようやくできたというわけだ」
「ジェイル様……」
「さあ、ルカ。もう気が済んだだろう」
ジェイルはルカの手を引いて立たせた。
「おまえは俺と町を出るんだ。今日は約束の四日目だ」
「待ってください、私はアガタ様と話し終わっていません」
「その狂った女は、ハナからおまえとの対話など望んでいない」
ルカの血と泥にまみれた顔、かろうじて腰にひっかかっている修道服を見て、ジェイルはため息をついた。彼は、自分の上着をルカの肩にかけて「あれは、過ぎ去ったできごとをいつまでも嘆いているだけだ」と言った。
「居もしない女神の善性などを下手に信じるから、勝手に裏切られたつもりになって、結果、他者に害を為す。……わかるか? ルカ」
ジェイルはルカの顎を持ち上げ、顔の血を手の甲で拭った。
「女神はいないし、俺のほうがよほどおまえの役に立つ」
そのセリフを笑ったのは、アガタだった。
彼女は土に足を投げ出したまま、血の混じった唾を吐いた。
「あの爆発から、よく逃げおおせたものです」
「……あの部屋には窓があった」
「飛び降りる決心は、常人にはなかなかつきません。足手まといを何人も連れていればなおのことです」
「そうだな。潔く死ねと脅して、一人ずつ投げ落としてやった」
「つまり、最後まで居残って火傷を負ったと? 愚かな男だ」
「あんな生ぬるいやり口で死ぬ騎士は北部にはいない」
「まぁ、手厳しい」
ジェイルが「どうやら殴られ足りないらしい」と行こうとするので、ルカは引き留めた。
「ジェイル様、おやめください。アガタ様に戦意はありません。そうでなければ、なぜ恐ろしい計画を私に漏らしたりするでしょう。彼女はずっと、とめて欲しがっていたのです」
そしてアガタに歩み寄った。
「そうでしょう、アガタ様。あなたも本当はこんなことをしたくないはずです。女神様が善い方であることを信じたいのでしょう?」
ルカはアガタのわきに膝をつき、彼女の腫れあがった頬を見た。骨も何本か折れているに違いない。ルカは胸が痛んだ。傷をもっと診せてほしかったが、彼女はルカと目を合わせようとしなかった。
「……女神様が善なる方であることは、古代から多くの者が目撃してきたことで、もはや疑いようはありません。しかし、大いなる方の深い意志を、被造物である私たちが理解することはどうしても不可能なのです。だからこそ私のような弱い者を、あの方は手足として使ってくださいます。世が悪に満ち、不法であふれるのは、修道士の働きが鈍いからです。アガタ様、私はあなたにお詫びしなくてはならない」
ルカは祈り手を組んでアガタに頭を下げた。
「その上で、どうかお願いです。鈴の玉を手放してください。悪い霊に惑わされたあなたが、地上の誰にも咎められることのないように」
「……そう」
ルカは背筋を震わせた。目の前に、アガタの手が蛇の頭のように迫っている。
「動くな」
殺気立つジェイルをアガタは一言で制した。
彼女はルカの背に腕を絡めていた。右手に鈴の玉を、左手に点火具を持っている。
「忌み子、あなたも動かないでください。この鈴の玉は火が触れると爆発します。私の手にひとつ、私の懐にひとつ。合わされば、それなりの威力でしょう」
「やめてください。こんなことをしても何にもなりません」
ルカは必死にアガタを止めた。
「知っているはずです。何をしたところで私は傷つかないのです」
「どれほどの辱めを受けても清らかなあなたを、私の血肉で汚したい」
アガタの唇がルカの耳元に触れていた。その声の冷たさにルカはぞっとする。ルカの目には、揉み屋の白茶けた壁が映っていた。アガタはこの固く分厚い壁を壊したいのだろうか。今もなお数多の揉み師を囲っている壁を。この壁がどれほどの光を遮っているか、サンドラやレイラを通してルカはもう知っていた。
外はこんなに明るいのに、この壁の中はあまりにも暗い。
「いけない」とルカは言った。「女神さまはこれを喜びません。いまここで息をしているということは、あなたにはもっと他に成すべき仕事があるのです。ええ、女神さまはあなたに素晴らしい計画を用意しています。あなたがそれを感じることができなくても、あの御方はアガタ様のことを、地上の誰よりも愛し、気にかけているのだから」
ルカは過去の、虐げられた自分に言い聞かせているような気がした。修道院に押し込められていた頃のルカは、その希望を支えになんとか一日をやりすごせた。
しかしアガタにとってはそうではなかった。
彼女は片手で天火具の底を叩いて芯を出し、振り下ろすように火を点けた。その先に鈴の玉がある。
かちん、と玉に火が触れる音を聞き、ルカはアガタを力強く抱きしめた。
「……は?」
それをしても、何かが起きることはないと知っていたからだ。
アガタが、気が狂ったかのように打ち鳴らす点火具と鈴の玉を、ジェイルは蹴飛ばして手放させた。美しい玉はきらきらと輝きながら、無音の中を転がる。やがて、木漏れ日で昼寝する太った猫の胴に当たった。
それはいつかの朝にルカを窒息させようとしたブチ猫だ。額に化粧し、首に花輪をかけている。猫はへちゃむくれた顔で玉と人間を見比べたが、やがて大儀そうに玉を転がして行った。
「正直なところ、俺にはこんな茶番を演じる意味が理解できないが」
ジェイルは不服そうに、ルカをアガタからひきはがした。脱力しているアガタから、ついでのように剣を取り上げ、木立へ投げ込んでしまう。
「こいつは、どうしてもおまえに、自分から鈴の玉を手放させたかったらしい」
「……おかしい。いつ、仕掛けを外したのですか」
「昨日の、儀式の時に」と、ルカは答えた。無力感で胸がいっぱいだった。
「おまえに負わされた火傷の礼が、ようやくできたというわけだ」
「ジェイル様……」
「さあ、ルカ。もう気が済んだだろう」
ジェイルはルカの手を引いて立たせた。
「おまえは俺と町を出るんだ。今日は約束の四日目だ」
「待ってください、私はアガタ様と話し終わっていません」
「その狂った女は、ハナからおまえとの対話など望んでいない」
ルカの血と泥にまみれた顔、かろうじて腰にひっかかっている修道服を見て、ジェイルはため息をついた。彼は、自分の上着をルカの肩にかけて「あれは、過ぎ去ったできごとをいつまでも嘆いているだけだ」と言った。
「居もしない女神の善性などを下手に信じるから、勝手に裏切られたつもりになって、結果、他者に害を為す。……わかるか? ルカ」
ジェイルはルカの顎を持ち上げ、顔の血を手の甲で拭った。
「女神はいないし、俺のほうがよほどおまえの役に立つ」
そのセリフを笑ったのは、アガタだった。
彼女は土に足を投げ出したまま、血の混じった唾を吐いた。
「あの爆発から、よく逃げおおせたものです」
「……あの部屋には窓があった」
「飛び降りる決心は、常人にはなかなかつきません。足手まといを何人も連れていればなおのことです」
「そうだな。潔く死ねと脅して、一人ずつ投げ落としてやった」
「つまり、最後まで居残って火傷を負ったと? 愚かな男だ」
「あんな生ぬるいやり口で死ぬ騎士は北部にはいない」
「まぁ、手厳しい」
ジェイルが「どうやら殴られ足りないらしい」と行こうとするので、ルカは引き留めた。
「ジェイル様、おやめください。アガタ様に戦意はありません。そうでなければ、なぜ恐ろしい計画を私に漏らしたりするでしょう。彼女はずっと、とめて欲しがっていたのです」
そしてアガタに歩み寄った。
「そうでしょう、アガタ様。あなたも本当はこんなことをしたくないはずです。女神様が善い方であることを信じたいのでしょう?」
ルカはアガタのわきに膝をつき、彼女の腫れあがった頬を見た。骨も何本か折れているに違いない。ルカは胸が痛んだ。傷をもっと診せてほしかったが、彼女はルカと目を合わせようとしなかった。
「……女神様が善なる方であることは、古代から多くの者が目撃してきたことで、もはや疑いようはありません。しかし、大いなる方の深い意志を、被造物である私たちが理解することはどうしても不可能なのです。だからこそ私のような弱い者を、あの方は手足として使ってくださいます。世が悪に満ち、不法であふれるのは、修道士の働きが鈍いからです。アガタ様、私はあなたにお詫びしなくてはならない」
ルカは祈り手を組んでアガタに頭を下げた。
「その上で、どうかお願いです。鈴の玉を手放してください。悪い霊に惑わされたあなたが、地上の誰にも咎められることのないように」
「……そう」
ルカは背筋を震わせた。目の前に、アガタの手が蛇の頭のように迫っている。
「動くな」
殺気立つジェイルをアガタは一言で制した。
彼女はルカの背に腕を絡めていた。右手に鈴の玉を、左手に点火具を持っている。
「忌み子、あなたも動かないでください。この鈴の玉は火が触れると爆発します。私の手にひとつ、私の懐にひとつ。合わされば、それなりの威力でしょう」
「やめてください。こんなことをしても何にもなりません」
ルカは必死にアガタを止めた。
「知っているはずです。何をしたところで私は傷つかないのです」
「どれほどの辱めを受けても清らかなあなたを、私の血肉で汚したい」
アガタの唇がルカの耳元に触れていた。その声の冷たさにルカはぞっとする。ルカの目には、揉み屋の白茶けた壁が映っていた。アガタはこの固く分厚い壁を壊したいのだろうか。今もなお数多の揉み師を囲っている壁を。この壁がどれほどの光を遮っているか、サンドラやレイラを通してルカはもう知っていた。
外はこんなに明るいのに、この壁の中はあまりにも暗い。
「いけない」とルカは言った。「女神さまはこれを喜びません。いまここで息をしているということは、あなたにはもっと他に成すべき仕事があるのです。ええ、女神さまはあなたに素晴らしい計画を用意しています。あなたがそれを感じることができなくても、あの御方はアガタ様のことを、地上の誰よりも愛し、気にかけているのだから」
ルカは過去の、虐げられた自分に言い聞かせているような気がした。修道院に押し込められていた頃のルカは、その希望を支えになんとか一日をやりすごせた。
しかしアガタにとってはそうではなかった。
彼女は片手で天火具の底を叩いて芯を出し、振り下ろすように火を点けた。その先に鈴の玉がある。
かちん、と玉に火が触れる音を聞き、ルカはアガタを力強く抱きしめた。
「……は?」
それをしても、何かが起きることはないと知っていたからだ。
アガタが、気が狂ったかのように打ち鳴らす点火具と鈴の玉を、ジェイルは蹴飛ばして手放させた。美しい玉はきらきらと輝きながら、無音の中を転がる。やがて、木漏れ日で昼寝する太った猫の胴に当たった。
それはいつかの朝にルカを窒息させようとしたブチ猫だ。額に化粧し、首に花輪をかけている。猫はへちゃむくれた顔で玉と人間を見比べたが、やがて大儀そうに玉を転がして行った。
「正直なところ、俺にはこんな茶番を演じる意味が理解できないが」
ジェイルは不服そうに、ルカをアガタからひきはがした。脱力しているアガタから、ついでのように剣を取り上げ、木立へ投げ込んでしまう。
「こいつは、どうしてもおまえに、自分から鈴の玉を手放させたかったらしい」
「……おかしい。いつ、仕掛けを外したのですか」
「昨日の、儀式の時に」と、ルカは答えた。無力感で胸がいっぱいだった。
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