63 / 138
間章「ニャンヤンのお祭り」
10.トーチカ
しおりを挟む
調子づいた男は、なみなみと注いだ酒杯を掲げた。
『俺らにはトーチカがついてる! 雄黄の騎士団がなんぼのもんよ、この町になにかあればトーチカが黙っちゃいない!』
トーチカ――耳慣れない名前にジェイルは眉根を寄せたが、酒場では周知の人物らしい。
男も女も、一斉に酒杯を高く掲げた。
『トーチカ! トーチカ!』
ジェイルも付き合いで唱和したが、記憶を遡ってもそんな人物が酒場に現れたことはない。
不審に感じて、彼はひとびとの話に耳を傾けた。
いわく、ラウム領の裏社会を支配するトーチカなる人物が、このセイボリーには潜んでいる。
彼は義侠心に厚く、武勇に秀で、見目麗しい。ただし女に目がないのが少々玉に瑕、らしい。
ジェイルは、バカかこいつらと思った。
ひとびとの語るトーチカなる人物ときたら、酔っ払いの考えたキャラクターそのものだ。
どの武勇伝も類型的な内容で、あちこちの酒場で情報収集してきたジェイルからすると、なぜこんな聞き古された話がウケるのかと首をかしげたくなるものばかりだった。
おそらく土着の神話や民話、噂話にひとびとの不満が合わさって架空の英雄ができあがったのだろうが、問題は、いい歳をした大人たちがその嘘くさい話に希望を見出しているという点にあった。
つまり、子供だましの騙りに縋ろうとするほどセイボリーの町は危機的な状況に陥っているのだった。
非実在の英雄トーチカに気持ちを焚き付けられたひとびとが騎士団と衝突するのは、もはや時間の問題のようにジェイルには思えた。祭りの日まで持つかどうかも怪しいものだ。
宿屋を目指すジェイルは嘆息した。
本当は安全のために、一刻も早く町を立ち去るべきなのだが。
――ジェイル、おねがい。
たどたどしく口を動かしてねだるルカが脳裏に浮かんだ。
結局のところルカは自分のわがままを叶えているのではなく、女神のために我が身を差し出しているに過ぎない。もっと言えば、わがままにねだれというジェイルのわがままを聞いてくれたのだった。
ルカは清い水の流れのように、何をしてもジェイルのものにならない。
手を伸ばして触れることはできる。からだを重ね、秘所に熱い精を吐き出すことも許してくれる。
それでもルカは女神のものだった。どれほど荒々しくからだを組み敷いても、白い肌には傷も痕も残らない。
ルカは呪われていると言うが、それは守られていることを誤認しているのだとジェイルは思う。
ジェイルは女神など信じていない。だが時たま、自分がその女にひどく領分を侵されているような気がした。
女神が、ジェイルの血に汚れた手やドス黒い独占欲から、ルカを守っているのだ。これは悪事を働いた罰だと言わんばかりに、ジェイルの腕の中からルカを取り上げようとする。かつて妹を連れ去ったのと似たような、いや、考えようによっては、それよりももっと残酷な手口で。
雨のそぼ降る暗い道を、ジェイルはすたすたと歩いた。
冷たい雨は、彼のからだに付いた酒や煙の臭いを落とすのに都合がよかった。
万に一つもルカに害が及ぶことのないよう、彼は自分が町々の酒場で何をしているかを話さなかった。ルカはこの世にある悪いことや汚いことを、なるべく知らなくていいとさえ思っていたのだ。
だから、そうやって恋人の視界を掌で塞いでおくことが裏目に出るとは微塵も予想していなかった。
「……まだ帰っていない?」
「ああ。頭巾の修道士さんはまだ戻ってない。てっきり、あんたと一緒かと思っていたが」
宿についたジェイルは、宿屋の主人の言葉に耳を疑っていた。
驚きの次に彼の胸に萌したのは、怒りと呆れだった。
大仰なため息をつく客に、主人は目を丸くする。
「大丈夫かい?」
「ああ。あのお人よしの大間抜けのことだ、恐らく仕事熱心に職場に居残ってるんだろうよ……」
「おや、この時間までお仕事なら聖堂に泊まるのかな。じゃあお代のほうは、」
ジェイルは、硬貨の詰まった袋をドンッと音を立ててカウンターへ置いた。
二人分の宿代を掴み出して主人へ押しやる。
「今すぐ連れ戻してくる」
見るからに機嫌の悪いジェイルに、若い主人は口の中で「まいどあり……」と返した。
怒り心頭で雨の中に舞い戻ったジェイルは、まだ事の重大さに気が付いていなかった。
猫の祭り。セイボリーの町。雄黄の騎士団。不信仰な歓楽街。
そして英雄トーチカ。
火薬庫と化したこの町に、その晩、小さな火種が投げ込まれようとしていた――。
『俺らにはトーチカがついてる! 雄黄の騎士団がなんぼのもんよ、この町になにかあればトーチカが黙っちゃいない!』
トーチカ――耳慣れない名前にジェイルは眉根を寄せたが、酒場では周知の人物らしい。
男も女も、一斉に酒杯を高く掲げた。
『トーチカ! トーチカ!』
ジェイルも付き合いで唱和したが、記憶を遡ってもそんな人物が酒場に現れたことはない。
不審に感じて、彼はひとびとの話に耳を傾けた。
いわく、ラウム領の裏社会を支配するトーチカなる人物が、このセイボリーには潜んでいる。
彼は義侠心に厚く、武勇に秀で、見目麗しい。ただし女に目がないのが少々玉に瑕、らしい。
ジェイルは、バカかこいつらと思った。
ひとびとの語るトーチカなる人物ときたら、酔っ払いの考えたキャラクターそのものだ。
どの武勇伝も類型的な内容で、あちこちの酒場で情報収集してきたジェイルからすると、なぜこんな聞き古された話がウケるのかと首をかしげたくなるものばかりだった。
おそらく土着の神話や民話、噂話にひとびとの不満が合わさって架空の英雄ができあがったのだろうが、問題は、いい歳をした大人たちがその嘘くさい話に希望を見出しているという点にあった。
つまり、子供だましの騙りに縋ろうとするほどセイボリーの町は危機的な状況に陥っているのだった。
非実在の英雄トーチカに気持ちを焚き付けられたひとびとが騎士団と衝突するのは、もはや時間の問題のようにジェイルには思えた。祭りの日まで持つかどうかも怪しいものだ。
宿屋を目指すジェイルは嘆息した。
本当は安全のために、一刻も早く町を立ち去るべきなのだが。
――ジェイル、おねがい。
たどたどしく口を動かしてねだるルカが脳裏に浮かんだ。
結局のところルカは自分のわがままを叶えているのではなく、女神のために我が身を差し出しているに過ぎない。もっと言えば、わがままにねだれというジェイルのわがままを聞いてくれたのだった。
ルカは清い水の流れのように、何をしてもジェイルのものにならない。
手を伸ばして触れることはできる。からだを重ね、秘所に熱い精を吐き出すことも許してくれる。
それでもルカは女神のものだった。どれほど荒々しくからだを組み敷いても、白い肌には傷も痕も残らない。
ルカは呪われていると言うが、それは守られていることを誤認しているのだとジェイルは思う。
ジェイルは女神など信じていない。だが時たま、自分がその女にひどく領分を侵されているような気がした。
女神が、ジェイルの血に汚れた手やドス黒い独占欲から、ルカを守っているのだ。これは悪事を働いた罰だと言わんばかりに、ジェイルの腕の中からルカを取り上げようとする。かつて妹を連れ去ったのと似たような、いや、考えようによっては、それよりももっと残酷な手口で。
雨のそぼ降る暗い道を、ジェイルはすたすたと歩いた。
冷たい雨は、彼のからだに付いた酒や煙の臭いを落とすのに都合がよかった。
万に一つもルカに害が及ぶことのないよう、彼は自分が町々の酒場で何をしているかを話さなかった。ルカはこの世にある悪いことや汚いことを、なるべく知らなくていいとさえ思っていたのだ。
だから、そうやって恋人の視界を掌で塞いでおくことが裏目に出るとは微塵も予想していなかった。
「……まだ帰っていない?」
「ああ。頭巾の修道士さんはまだ戻ってない。てっきり、あんたと一緒かと思っていたが」
宿についたジェイルは、宿屋の主人の言葉に耳を疑っていた。
驚きの次に彼の胸に萌したのは、怒りと呆れだった。
大仰なため息をつく客に、主人は目を丸くする。
「大丈夫かい?」
「ああ。あのお人よしの大間抜けのことだ、恐らく仕事熱心に職場に居残ってるんだろうよ……」
「おや、この時間までお仕事なら聖堂に泊まるのかな。じゃあお代のほうは、」
ジェイルは、硬貨の詰まった袋をドンッと音を立ててカウンターへ置いた。
二人分の宿代を掴み出して主人へ押しやる。
「今すぐ連れ戻してくる」
見るからに機嫌の悪いジェイルに、若い主人は口の中で「まいどあり……」と返した。
怒り心頭で雨の中に舞い戻ったジェイルは、まだ事の重大さに気が付いていなかった。
猫の祭り。セイボリーの町。雄黄の騎士団。不信仰な歓楽街。
そして英雄トーチカ。
火薬庫と化したこの町に、その晩、小さな火種が投げ込まれようとしていた――。
35
お気に入りに追加
86
あなたにおすすめの小説
一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!
当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。
しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。
彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。
このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。
しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。
好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。
※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*)
※他のサイトにも重複投稿しています。
ちっちゃくなった俺の異世界攻略
鮨海
ファンタジー
あるとき神の采配により異世界へ行くことを決意した高校生の大輝は……ちっちゃくなってしまっていた!
精霊と神様からの贈り物、そして大輝の力が試される異世界の大冒険?が幕を開ける!
ボクが追放されたら飢餓に陥るけど良いですか?
音爽(ネソウ)
ファンタジー
美味しい果実より食えない石ころが欲しいなんて、人間て変わってますね。
役に立たないから出ていけ?
わかりました、緑の加護はゴッソリ持っていきます!
さようなら!
5月4日、ファンタジー1位!HOTランキング1位獲得!!ありがとうございました!
あなたの子ですが、内緒で育てます
椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」
突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。
夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。
私は強くなることを決意する。
「この子は私が育てます!」
お腹にいる子供は王の子。
王の子だけが不思議な力を持つ。
私は育った子供を連れて王宮へ戻る。
――そして、私を追い出したことを後悔してください。
※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ
※他サイト様でも掲載しております。
※hotランキング1位&エールありがとうございます!
願いの守護獣 チートなもふもふに転生したからには全力でペットになりたい
戌葉
ファンタジー
気付くと、もふもふに生まれ変わって、誰もいない森の雪の上に寝ていた。
人恋しさに森を出て、途中で魔物に間違われたりもしたけど、馬に助けられ騎士に保護してもらえた。正体はオレ自身でも分からないし、チートな魔法もまだ上手く使いこなせないけど、全力で可愛く頑張るのでペットとして飼ってください!
チートな魔法のせいで狙われたり、自分でも分かっていなかった正体のおかげでとんでもないことに巻き込まれちゃったりするけど、オレが目指すのはぐーたらペット生活だ!!
※「1-7」で正体が判明します。「精霊の愛し子編」や番外編、「美食の守護獣」ではすでに正体が分かっていますので、お気を付けください。
番外編「美食の守護獣 ~チートなもふもふに転生したからには全力で食い倒れたい」
「冒険者編」と「精霊の愛し子編」の間の食い倒れツアーのお話です。
https://www.alphapolis.co.jp/novel/2227451/394680824
旦那様に愛されなかった滑稽な妻です。
アズやっこ
恋愛
私は旦那様を愛していました。
今日は三年目の結婚記念日。帰らない旦那様をそれでも待ち続けました。
私は旦那様を愛していました。それでも旦那様は私を愛してくれないのですね。
これはお別れではありません。役目が終わったので交代するだけです。役立たずの妻で申し訳ありませんでした。
侯爵令息セドリックの憂鬱な日
めちゅう
BL
第二王子の婚約者候補侯爵令息セドリック・グランツはある日王子の婚約者が決定した事を聞いてしまう。しかし先に王子からお呼びがかかったのはもう一人の候補だった。候補落ちを確信し泣き腫らした次の日は憂鬱な気分で幕を開ける———
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
初投稿で拙い文章ですが楽しんでいただけますと幸いです。
2番目の1番【完】
綾崎オトイ
恋愛
結婚して3年目。
騎士である彼は王女様の護衛騎士で、王女様のことを何よりも誰よりも大事にしていて支えていてお護りしている。
それこそが彼の誇りで彼の幸せで、だから、私は彼の1番にはなれない。
王女様には私は勝てない。
結婚3年目の夫に祝われない誕生日に起こった事件で限界がきてしまった彼女と、彼女の存在と献身が当たり前になってしまっていたバカ真面目で忠誠心の厚い騎士の不器用な想いの話。
※ざまぁ要素は皆無です。旦那様最低、と思われる方いるかもですがそのまま結ばれますので苦手な方はお戻りいただけると嬉しいです
自己満全開の作品で個人の趣味を詰め込んで殴り書きしているため、地雷多めです。苦手な方はそっとお戻りください。
批判・中傷等、作者の執筆意欲削られそうなものは遠慮なく削除させていただきます…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる