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第七章

58 最後の外堀

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 広場に、長い沈黙が流れた。民衆はみな力なく項垂れたまま、やるせない啜り泣きを漏らしている。

 サクラは目の前の光景に怯えたように、フィルバートの腕にキツく抱き付いていた。だが、よく見るとその口元が笑みに歪んでいる。愉悦に満ちた醜悪な笑みに、ぞわりと背筋が震えそうになった。

 ふと静寂を裂くように、フィルバートの声が聞こえた。


「愉しいか?」


 淡々とした問い掛けに、サクラがそっと顔を上げる。演技がかったサクラの怯えた表情を見据えて、フィルバートは続けた。


「人が死ぬのを見るのは、そんなに愉しいか?」


 困惑したように、サクラが唇をひくりと引き攣らせる。


「え?」


 サクラが不思議そうに呟くと、フィルバートは静かに呟いた。


「俺は、二度も間違えない」


 そう吐き捨てるのと同時に、フィルバートは腕にしがみ付くサクラの身体を勢いよく突き飛ばしていた。フィルバートのその手が、サクラの胸元で揺れていたネックレスを掴んでいるのが見える。自分の首からネックレスを引き千切られるのを見て、サクラは目を大きく見開いた。


「返せッ!」


 そう叫んで、サクラが手負いの獣のようにフィルバートに飛び掛かる。だが、その瞬間、城門上の方から凄まじい速度で一本の矢が飛んできた。空気を切り裂いて飛んできた矢が、まっすぐサクラの左胸を貫く。だが、サクラは数歩よろめいただけで倒れることはなかった。自身の左胸に突き刺さった矢を、サクラはまるで虫が止まったかのような無感情な眼差しで眺めている。その異様な光景に、民衆は息を呑んで壇上を凝視していた。

 矢が飛んできた方を振り仰ぐと、城門上の見張り台に弓を構えたダイアナの姿が見えた。ダイアナが二本目の矢を放つ。だが、胸へと目掛けて飛んできた矢をサクラはパシッと片手で掴んだ。その手が、掴んだ矢を真っ二つにへし折る。

 そのわずかな隙に、フィルバートがサクラから奪い取ったネックレスを壇上に落とす。剣を引き抜くと、フィルバートはネックレスの赤い宝石目掛けて一気に剣先を振り下ろした。


「や゛め゛ろ゛ォ!」


 サクラの叫び声は、ザリザリと罅割れていた。少女の声ではなく、夜の森で聞こえる獣の遠吠えのようだ。

 剣先が突き刺さって、宝石がバラバラに砕け散る。瞬間、砕けた宝石から凄まじい光が迸って、サクラが断末魔のような鋭い咆哮を放った。

 サクラはよろよろと数歩後ずさると、両手で顔を覆った。その両手が、見る見るうちに皺々に干からびていくのが見える。手だけでなくサクラの顔も身体もすべて、若々しい少女から皺だらけの醜い老婆の姿へと変わっていった。美しい黒髪は艶のない薄汚れた白髪になり、大きかった瞳はギョロリとした赤黒い瞳になっている。


「あぁ……ああぁ……私の美しい肌が……艶やかな髪がぁ……」


 シミだらけの自身の手を見て、魔女が声を震わせて嘆く。うめきながら髪の毛を掻き毟る老婆を見て、民衆は甲高い悲鳴をあげた。


「まっ、魔女だッ!」


 その叫び声に、魔女は民衆をギロリと見据えた。だが、すぐさまその黄色い乱杭歯だらけの口を大きく開いて喚き出す。


「王妃ッ! 約束が違うぞ!」


 しゃがれた声で叫びながら、魔女がマルグリットを睨み付ける。途端、マルグリットはビクッと身体を震わせた。


「なっ、何を言っているの……私は、何も……」
「お前は簡単だと言ったはずだ! 第一王子の心を奪ってこの国を手中に収めれば、私にこの国の半分の人間の命を渡すと約束したな! よくも、この私を騙しやがってッ!」


 魔女が怒りに任せて喚き散らす。その言葉に、民衆が一斉にざわついた。まさか自分たちの命を、マルグリットが勝手に魔女に差し出しているとは想像もしていなかったのだろう。

 魔女の暴露に、マルグリットの顔が一気に白くなっていく。


「そ、そのような嘘を……みなさま、信じては駄目ですっ! 私は、この国のことを思って……っ!」


 マルグリットが弁解するように叫ぶが、民衆の視線は冷たかった。何千もの民衆の冷め切った瞳を見て、マルグリットが愕然としたようによろよろと後ずさる。その細い肩にトンッと触れる両手があった。

 怯えた表情で振り返ったマルグリットが、背後にいる人を見て一瞬ほっとしたように表情を緩める。


「ロキ……貴方なら、解ってくれるわよね。母さまは無実だと……」


 そう囁いて、マルグリットがロキへと向かって片手を伸ばす。だが、その指先が触れる前に、ロキの悲しげな声が響いた。


「母さま、もう馬鹿げた言い訳はやめてください」


 ピタリとマルグリットの手が止まる。ロキは苦しげに顔を歪めたまま、マルグリットへと言い放った。


「貴女は、反逆者だ」
「何を言っているの、ロキ……? 母さまは、いつだって貴方のために……」
「違う。母さまはいつだって自分のことしか考えてない。俺は、一度だってこの国を望んだことはなかった。ただ、母さまと一緒にいられるだけで良かったのに……」


 ひどく悲哀に満ちた声で呟くと、ロキはそっとマルグリットの身体を押しやった。目を見開くマルグリットを見つめて、ロキが静かに囁く。


「もうお終(しま)いなんだ、母さん。もう、お終(しま)いにしよう」


 最後通告をするように言うと、ロキは泣き笑いのような表情を浮かべた。その顔を見て、マルグリットは唇を半開きにしていた。まさか自分の息子から終わりを告げられるとは思ってもいなかったのだろう。

 色を無くしたマルグリットの唇から、呆然とした声が零れる。


「私の息子なのに……どうして、こんなに出来損ないなの……?」


 その残酷な言葉に、ロキが痛みに耐えるように目を細める。直後、マルグリットは自身の肩を掴むロキの両手を振り払うと、甲高い声を張り上げた。


「魔女、全員殺してッ! この国のすべてを貴女にあげるから……ッ!」


 普段の優雅さなど欠片もなく、まるで地団駄を踏む子供のように喚き散らす。その姿を冷たく見据えたまま、フィルバートは長閑(のどか)に呟いた。


「もう遅い」


 フィルバートが口角に薄笑いを滲ませるのと同時に、ドンッと壇上を踏み締める大きな音が響いた。民衆の目が、一瞬でその音の方向へと吸い寄せられる。視線の先で、大斧を振りかぶった処刑人が高く跳躍していた。

 処刑人が振りかぶった大斧を、魔女の首へと向かって一気に振り切る。直後、眼球が飛び出そうなほど目を見開いた魔女の首が宙を舞い飛んだ。黒い血をまき散らしながら一刀両断された魔女の首が、群衆の中に落ちていく。群衆が悲鳴をあげて、落ちた魔女の首から遠ざかっていくのが見えた。

 ぽっかりと開いた空間の中に落ちた魔女の首、その唇がパクパクと数回動く。だが、すぐさまその首も、残った身体も真っ黒な灰になって崩れていった。

 直後、マルグリットの悲鳴が響いた。


「どうしてっ! いやぁあ、どうしてなの……っ!」


 マルグリットの身体が端から、魔女と同じように黒い灰に変わりつつあった。パラパラと崩れ落ちていく自身の指先を見て、マルグリットが信じられないように目を見開いている。

 その姿を眺めながら、フィルバートは冷め切った声をあげた。


「邪神との契約を果たせなかった代償は、己の命で払わされる」


 当然だろう、と言わんばかりの口調だった。だが、その声ももうマルグリットには届いていないようだった。

 両足をなくしたマルグリットの身体が壇上に崩れ落ちる。マルグリットはまだ残った片腕で這いずりながら、立ち尽くすロキを見上げた。


「ロキ……助けて……」


 懇願しながら、マルグリットがロキへと黒ずんだ片手を伸ばす。迷子みたいな表情を浮かべたまま、ロキがマルグリットの手を掴もうとする。だが、その指先が触れる直前、ロキの手首をパシッと掴む手があった。


「触るな」


 そう短く吐き捨てたのは、見張り台から降りてきていたダイアナだった。ひどく憎々しげな顔で、崩れゆくマルグリットを睨み付けている。


「ロキは、出来損ないなんかじゃない」


 怒りに満ちたダイアナの言葉に、マルグリットが一瞬愕然とした表情を浮かべる。だが、どうしてだか最後にはかすかに安堵したように静かに息を吐き出した。伸ばしていた手すら灰へと変わっていき、風に吹かれてハラハラと散っていく。

 魔女とマルグリットの姿が完全に消え去ると、広場には静寂だけが残った。みな今目の前で何が起こったのか、上手く理解できていないようだった。

 だが、不意にグスッと小さく鼻を啜る音が響いた。


「ニア様が……死んじゃった……」


 しゃくり上げながら、そう囁いたのはミーナだった。ミーナの涙を見て、周りの民たちも悲しげに涙の滲んだ目元を拭い始める。

 葬儀のような湿っぽい空気が広がるのを見て、フィルバートはちらりと処刑人の方へ視線をやった。その眼差しに、黒布を頭にかぶった処刑人がピクッと肩を揺らす。


「それを取れ」


 フィルバートが自身の頭を指さしながら言う。その命令に、処刑人は強張った声で答えた。


「この状況で脱ぐのは、かなり恥ずかしいんですが……」
「このままだとお前の葬儀が開かれるぞ」
「いや、でも……」
「いいから、早く脱げ」


 急かしてくる声に、処刑人は仕方なさそうに頭を覆う黒布に手を伸ばした。そのまま黒布をゆっくりと脱いでいく。布の下から現れた顔を見て、民衆が一斉にどよめいた。


「ニア様……!」


 驚きに満ちた叫び声に、ニアは顔がカーッと熱くなっていくのを感じた。まるで手品の種がバレてしまったマジシャンのような居たたまれない気持ちだ。

 民衆の一人の男が処刑台の上によじ登って、転がった首を両手に掴む。黒布を剥ぐと、男は驚きの声をあげた。


「血糊を入れた蝋人形だッ!」


 そう叫んで、男は作り物の首を高く掲げた。それを見て、更に民衆たちが喝采をあげる。


「魔女を倒してくださった!」
「この国を救ってくださった英雄だッ!」


 民衆に持ち上げられれば持ち上げられるほど、ニアの顔はどんどん紅潮していった。耳たぶまで熟れた果実のように赤くなっているのが自分でも判る。自分は英雄でも何でもないのに、周りから手放しで褒め称えられているのが堪らなく恥ずかしかった。

 ニアが肩を縮こまらせて立っていると、不意にグイッと腰を引き寄せられた。ニアの腰を抱いたフィルバートが、民衆へと向かって叫ぶ。


「ニア・ブラウンは、魔女を倒し、エルデン王国を危機から救った英雄だ!」


 フィルバートの声に、民衆はその通りだと言わんばかりに歓声をあげた。わき立つ民衆を見渡しながら、フィルバートが更に大きな声で続ける。


「その献身と愛国心に最大の感謝を示し、今この瞬間から英雄ニア・ブラウンを王族の一員として――私の唯一の伴侶として迎え入れるものとする!」
「はぁ!?」


 フィルバートの突然の宣言に、ニアは思いっきり素っ頓狂な声を張り上げた。唖然とした表情で、フィルバートの横顔を見つめる。

 先ほどまで歓声をあげていた民衆も、ニアと同じように皆一様にぽかんとした表情で壇上を見上げていた。それぐらい、フィルバートの宣言は予想外を通り越して荒唐無稽だった。確かに魔女を倒した英雄といえども、なぜいきなり男を王の伴侶として迎えるという結論に至るのか、と誰しもが呆気に取られた表情を浮かべている。確かにこの国では同性で結婚することもあるが、王族――しかも次期王が同性を伴侶として迎えるなどというのは明らかに前代未聞だった。

 妙に気まずい静けさが広場に流れる。だが、不意に静寂を破って、パチパチと軽やかな拍手の音が響いた。拍手の方へ視線を向けると、ダイアナとロキが両手を叩いているのが見えた。


「王子殿下と英雄ニア・ブラウンに栄光あれ!」
「エルデン王国に栄光あれ!」


 ダイアナとロキが、手を打ち鳴らしながら大きな声で叫ぶ。最初は戸惑った様子だった民衆も、徐々に後押しされるように手を叩き始めた。次第に高揚してきたのか、民衆の中から騒ぐ声が聞こえてくる。


「お二人なら、この国を更に素晴らしい国へと導いてくださる!」
「歴史に残る最高のご婚姻だっ!」
「王子殿下、万歳ッ!」
「ニア・ブラウン様、万歳ッ!」
「エルデン王国、万歳ッ!!」


 熱狂の渦が広がっていき、広場は万雷の拍手で満ちていった。その中に、フィルバートの宣言に異を唱えたり、疑問を呈する者など一人も見えなかった。

 両腕を振り上げる民衆を眺めてから、ニアはギギッとぎこちない動作でフィルバートを見やった。フィルバートは満足そうな笑みを浮かべて、ニアを見つめている。


「なんてことを宣言してるですか……」


 ニアの呆然とした声に、フィルバートは、ふ、ふ、と息を吐くようにして笑った。


「言っただろう? この国にいる人間全員に認めさせてみせると」


 その楽しげな声に、思わず咽喉がグゥッと鳴った。

 この人は、とうとう実行したのだ。誰も非難できないよう、一番最適な状況で、一番最適な方法で、民衆の心を己が望む方向へと誘導したのだ。ここまで大々的に宣言され、そして諸手を挙げて祝福されれば、誰一人として後から文句を付けることはできないだろう。フィルバートとニアの婚姻を、誰もが認めざるを得ないところまで持ってきた手腕を思うと、よっぽどフィルバートの方が悪魔的だと思った。


「さっ……最後の外堀を、埋められた……」


 ニアが呆然と呟くと、フィルバートは目をギュッと細めて笑った。


「これで何があっても、俺から離れられないな」


 囁いて、フィルバートがニアの腰を更に引き寄せてくる。そのままフィルバートは、ニアの左頬に唇を押し当ててきた。瞬間、民衆が爆発的な歓声を上げる。

 四方八方から響き渡る祝福の声を聞いていると、何だか胸の奥から諦めにも似た喜びが込み上げてくるのを感じた。もう仕方ないな、観念しよう、という安堵混じりの気持ちに苦笑いが滲む。


「一生、離れるつもりなんかないですよ」


 ため息混じりにニアがそう答えると、フィルバートはひどく嬉しそうに微笑んだ。らしくないぐらい幼くて、幸せに満ちた表情だ。深い青色の瞳が歓喜に輝くのを見た瞬間、胸の奥が温かいものでパンパンに膨らむのを感じた。

 今にも弾けそうな感情に突き動かされるようにして、ニアはフィルバートの肩に腕を回した。そのコメカミに唇を押し付けた直後、「万歳!!」と叫ぶ民衆の声が空高く響き渡った。
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