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第七章
55 すべて覚えている
しおりを挟む近くで誰かが叫んでいるのが聞こえる。だが、消えかけた意識の中では、何を言っているのか聞き取ることはできなかった。
そして、すぐさま唇に冷たいものが触れる感触がした。薄く開いた唇の隙間から、震える息が吹き込まれる。何度も何度も吹き込まれているうちに、遠ざかっていた意識がふわふわと浮上するように戻ってきた。
目を閉じたまま淡く息を吐き出すと、身体を大きく揺さぶられた。
「ニアッ! ニア、目を開けろッ!」
頼むから目を開けてくれ、と懇願するような声が聞こえる。今にも泣き出しそうな声音を聞いて、ニアは薄く目を開いた。途端、くしゃくしゃに歪んだフィルバートの顔が見えた。らしくないぐらい切迫し、怯え切った表情をしている。
だが、その顔を見た瞬間、不意に先ほどの夢がフラッシュバックした。
『処刑執行』
その台詞が鼓膜の内側に響いて、自分の咽喉からつんざくような悲鳴が溢れた。
「いっ、いやだ、いやだッ! こっ、殺さないで……! 殺さないで、ください……っ!」
先ほどまでは諦念混じりに死を受け入れていたのに、一転して惨めな命乞いが口から溢れ出てくる。ニアは小さな子供みたいに身体を小さく丸めて、冷たい石壁に縋り付いた。両目からぼろぼろと涙を零しながら、震える声を漏らし続ける。
「お願い、お願いです……おれを、殺さないで……」
情けない台詞が止まらない。最期ぐらい毅然とした態度を取りたいのに、どうしても無理だった。愛する人に殺されるなんて、そんなおぞましい現実に耐えられるわけがない。
怖い、怖い、と赤ん坊みたいにしゃくり上げていると、不意に二の腕を掴まれた。そのまま、強引に身体をキツく抱き締められる。息苦しさを感じるほどの抱擁の中、フィルバートの掠れた声が聞こえた。
「お前を、殺すわけないだろう……」
苦しげに囁いて、フィルバートがニアの背中を抱く両腕に更に力を込めてくる。その両腕がぶるぶると小刻みに震えているのを感じながら、ニアは涙声で呟いた。
「うそだ……貴方は、俺を殺した……」
自分が滅茶苦茶なことを言っていると解っている。フィルバートがニアを処刑したのは前の人生のことで、今のフィルバートとは関係ない。フィルバートは、前の人生のことなど知らないはずだ。それでも、どうしても責めずにはいられなかった。
この人は、俺を一切の慈悲もなく殺した。俺でない女性を愛して、彼女の言うままに俺たち家族を断頭台にのぼらせた。
それを思うと、燃え滾るような憎悪が胸に込み上げてきた。これまでずっと忘れようとしてきた。だけど、完全に忘れ去ることはできなかった。己を殺した男に対する憎悪が胸の底からわき上がってきて、これ以上ないほどに目尻が尖る。
「貴方は、俺からすべてを奪った」
うめくような声で恨み言を漏らすと、フィルバートは小さくうなずいた。少しだけ身体を離して、そのまま怒りに歪んだニアの顔を見つめてくる。
「そうだ。俺は、お前を殺した」
思いがけない返答に、ニアは一瞬呆気に取られた。驚愕に目を見開くニアを見つめて、フィルバートが苦しげな声で続ける。
「だから、もう二度とお前を殺さない」
後悔を滲ませた声音を聞いて、まるで細波が広がっていくように全身に鳥肌が浮かんでいくのを感じた。肋骨の内側で、心臓が張り裂けそうなくらい激しく鼓動を打っている。まさか、まさか、という無意味な言葉が何度も脳裏を過って、半開きになった唇がわなわなと震えた。
「まさか……覚えてるんですか……?」
空気が抜けるような、ひどくか細い声が咽喉から溢れた。
――貴方は、前の人生のことを覚えているのか。自分が、俺や俺の家族を処刑したことを覚えていたのか。
ニアがそう問い掛けると、フィルバートは痛みに耐えるように顔を歪めた。だが、フィルバートはニアから目を逸らさなかった。まっすぐ瞳を見つめたまま、フィルバートがうなずく。
「ああ、覚えている」
肯定の言葉を聞いた瞬間、何もかもが耐えられなくなった。ニアは自身の右足を腹側に引き寄せると、フィルバートの腹部へと目掛けて一気に突き出した。直後、足裏に硬い腹がぶつかる感触がして、フィルバートの身体が吹っ飛んだ。
冷たい床の上に転がったフィルバートが、鈍くうめき声を漏らす。その姿を見つめたまま、ニアは咽喉が裂けるような声で叫んだ。
「ふざけるなッ! ふざけるなよッ! 俺が今まで、どんな気持ちで……ッ!」
思考がぐちゃぐちゃに乱れて、言葉にならない。吐き出す息が震えて、泣きたくもないのに涙がボタボタと滝のように溢れてくる。
過去に戻ってから、ずっと怖かった。たった一人で運命に抗い続けるのが苦しくて、眠れない夜を何度過ごしたことか。自分は選択を間違っていないかと何千回も何万回も問い返しながら、蜘蛛の糸のような道を進み続けるのがどれほど恐ろしいことだったか――それなのに、フィルバートは全部覚えていたのだ。覚えていて、ずっとニアに黙っていた。
血管が千切れそうなほどの怒りが噴き出して、頭を掻き毟って喚き散らしたい衝動に駆られる。鎖に繋がれた両手を無理やり引っ張ると、鎖が凄まじい金属音を立てた。手錠がはまった手首が痛むが、構わず滅茶苦茶に引っ張り続ける。
檻に入れられた獣のように暴れ狂うニアを見て、上半身を起こしたフィルバートが床をにじるようにして近付いてくる。
「ニア、頼む。暴れないでくれ。手が……」
「黙れッ! 俺に近寄るなッ!」
一息に怒鳴りつけると、フィルバートはピタリと動きを止めた。咽喉からうなり声を漏らすニアを見つめて、フィルバートが震える声を漏らす。
「すまない、すまなかった」
「五月蠅(うるさ)いッ! お前の言葉なんか聞きたくないッ!」
もう何も聞きたくなかった。耳を塞ぎたいのに、両手が自由にならないのがもどかしい。
血走った目で、フィルバートを睨み付ける。フィルバートは途方に暮れた子供みたいな表情で、ニアを見つめていた。その唇が、かすかに震えながら言葉を紡ぐ。
「頼む、聞いてくれ」
哀願の声に、顔を背ける。だが、フィルバートは構わず言葉を続けた。
「許してもらえるとは、思っていない。俺は、決して許されないことをした」
ぽつぽつと言葉が降るように落ちてくる。それでも、腹の奥底で燃え上がる憤怒は収まらなかった。砕けそうなぐらい奥歯を強く噛み締めて、フィルバートを見据える。
「すべて、覚えている。前の人生で、俺がお前を、お前たち家族を全員処刑したことも。お前の首が斬り落とされる瞬間も、何一つとして忘れていない」
語られる言葉に、うなじが小さく震えた。うなり声混じりに、フィルバートに問い掛ける。
「どうして、黙っていた」
そう訊ねると、フィルバートはくしゃりと顔を歪めた。
「どうしても、言えなかった」
ぽつりと漏らすなり、うつむいたまま黙り込んでしまう。そのまま長い沈黙が流れる。息が詰まるような静寂の中、フィルバートの弱々しい声が聞こえた。
「俺が、お前を殺したなんて、どうしても言いたくなかった。もし、俺が記憶を残していることを伝えれば、お前は俺から離れていくと思って……」
確かにフィルバートの言う通り、もしフィルバートが前の人生の記憶を持っていると知っていたら、ニアは傍にいることはできなかっただろう。これまでフィルバートの傍にいられたのは『今のフィルバートは前の人生とは違う人間だ』と頭のどこかで思い込んでいたからだ。自分を殺した人物と同一人物だと解っていたら、決して近付こうとはしなかっただろう。ましてや思い合う仲になんて絶対にならなかった。
フィルバートは片手で顔を覆うと、そのまま後悔に満ちた声で続けた。
「何もかも、言い訳にしかならないな。俺は、自分のためにお前を騙し続けた。お前がずっと未来を恐れていることに気付きながら、お前を手放したくなくて何を知らないフリをしてきた。俺はお前を一番傷付ける方法で、お前を裏切り続けた」
ぽつぽつと漏らされるフィルバートの言葉に、ニアは顔を苦く歪めた。
「いつからですか。いつ、過去に戻ってきたんですか」
噛み付くような問い掛けに、フィルバートはゆっくりと顔をあげた。まるで泣き疲れた子供みたいな表情をしている。その顔を見ていたくなくて視線を逸らすと、フィルバートの掠れた声が聞こえた。
「すべて話すから、その前にお前の手錠を外させてくれ」
頼み込む声に、ニアはとっさに嘲笑を返した。
「俺を自由にしたら、自分がどうなるか解ってるんですか?」
「ああ、俺を殴っても、殺しても構わない。お前にはその権利がある」
当然のようにそう返されるから、余計に腹立たしかった。ニアが黙っていると、フィルバートはゆっくりと近付いてきた。そのまま丁寧な手付きで、両手首にはめられていた手錠が外されていく。
暴れたせいで、手首には赤い擦り傷ができていた。じわりと血を滲ませる傷口の傍を、フィルバートがいたわるように親指の腹で撫でてくる。だが、ニアはすぐさまフィルバートの手を振り払った。冷たい石壁に肩を寄せて、威嚇するように鼻梁に皺を寄せてフィルバートを見据える。
嫌悪を露わにしたニアの反応に、フィルバートは諦めたように視線を伏せた。そのまま、静かに唇を開く。
「俺は前の人生で死んだ後、気がついたら十三歳の身体に戻っていた」
切り出された言葉に、ニアは目を瞬かせた。フィルバートが十三歳の頃ということは、ニアが十六歳のときだ。ちょうどニアと同じ頃に、フィルバートも過去に戻ってきたということか。
「最初はひどく戸惑った。なぜ自分が過去に戻ってきたのかも解らなかった。二度目の人生が与えられたところで、自分のような者に運命が変えられるとも思えなかった」
そんなのはニアだって同じだ。前の人生ではただの脇役のようだった自分が、なぜわざわざ過去に戻されたのか。その理由は今だって解らない。
フィルバートが顔を上げて、ニアを見やる。
「今後どうするべきなのかを考えているときに、あのバンケットの日が訪れた。謁見のときにお前と出会って、お前が前の人生の記憶を残していることにはすぐに気付いた。お前は前の記憶とは違う発言をしていたし、怯えながらも憎しみの目で俺を見ていたから、きっと俺に殺されたことを覚えているのだろうと思った」
訥々(とつとつ)と語って、フィルバートが短く息を吐き出す。
「だが、なぜお前が過去に戻されたのかは理解できなかった。前の人生では俺とは何の関わりもなく、俺が死ぬ三年も前に処刑されたお前がどうして選ばれたのか」
「三年?」
反射的に驚きの声が漏れた。三年ということは、前の人生でフィルバートは二十三歳の若さで命を落としたことになる。あまりにも早すぎる死だ。
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