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第二章
14 ロキとダイアナ
しおりを挟む執務室に戻るためにフィルバートと共に渡り廊下を歩いていると、ふと中庭から子供のはしゃいだ声が聞こえてきた。声の方へ視線を向けると、こちらへと猛烈な勢いで駆け寄ってくる小さな影が見える。
「ニア!」
そう叫んで、ニアの腰にしがみ付いてきたのはロキだった。息が上がっているせいか、柔らかそうな頬が赤く染まっている。
「ロキ様?」
「ニア! かたぐるましろ、かたぐるま!」
はやく、はやく! と言いながら、ロキが短い両腕を伸ばして、ぴょんぴょんと飛び跳ねる。その仕草を見て、ニアは困ったようにフィルバートを見やった。一人のときだったらいいのだが、今はフィルバートと一緒にいるから勝手な真似はできない。
フィルバートが緩く肩をすくめて言う。
「してやれ」
了承の言葉を聞くと、ニアはロキの小さな身体を持ち上げて肩の上に乗せた。途端ロキが、ふわあぁ、と嬉しそうな声をあげる。その様子に、ニアは思わず和やかな声を漏らした。
「ロキ様は元気ですねぇ」
「元気すぎる」
呆れたようなフィルバートの口調に、ニアは苦笑いを浮かべた。
バンケットの日まで、ニアは第二王子であるロキは病弱だと思い込んでいた。だが、蓋を開けてみれば、ロキは病弱どころか健康優良児そのものだった。むしろ有り余る体力のせいで、城内を走りまくり、暴れまくっている。
ニアが登城するようになってから、何度「ロキ様ぁ!」と叫んで走り回る従者やメイドを見たことか。そして、その叫び声の直後には、大体何かが倒れたり、壊れたりする音が聞こえてくるのだ。
「第二王子は、病弱という噂を聞いていたのですが……」
以前、ニアがそう訊ねると、フィルバートは苦い表情を浮かべて答えた。
「外に出すと暴れ回って手がつけられないから、王妃が命じて、表の場には出さないようにしたんだ。だから、病弱という噂が流れたんだろう」
だから、謁見の場にロキの姿がなかったんだなと納得する。
そんなロキは、あの夜からニアのことをいたく気に入って、会う度にこうやって遊び相手にしようとしてくる。ロキは確かに暴れん坊だが、子供らしい無邪気な性格をしていて純粋に可愛らしかった。何だか弟ができたみたいで、ほのぼのした気持ちになる。
肩の上に乗ったロキが、遠くを指さしながら言う。
「ニア、はしれっ! はやくにげろっ!」
「逃げろ?」
ニアが首を傾げたとき、ロキが走ってきた方から大きな声が聞こえてきた。
「待てえええぇ!!」
声の方を見やって、ニアはギョッと目を見開いた。パステルイエローのドレスを着たダイアナが、スカートを両手にひっつかんだまま全速力で駆けてきている。そのなりふり構わない全力疾走に、ニアは『はしたない!』と叱ることも忘れて唖然とした。
あの夜に、ロキに気に入られたのはニアだけではなかった。どうやらロキはダイアナに追いかけ回されるのが大層楽しかったらしく、こうやって時折ダイアナを遊び相手として城に呼び出すようになったのだ。
ロキに呼び出された日の夜のダイアナは大体機嫌が悪く、夕食の席でもむっすりと黙り込んでいる。だが、城にあがる度にダイアナのアクセサリー類が増えているところを見ると、一応対価として貰うものはちゃんと貰っているらしい。その辺り、我が妹ながらちゃっかりしている。
駆け寄ってきたダイアナは、ニアに肩車されているロキをキッと睨み付けた。そのドレスのスカートには、なぜだか盛大に泥がこびり付いている。
「降りてきなさいっ!」
「やーだよ、鬼ババッ!」
「鬼ババって言うなっ!」
ニアを挟んで、ロキとダイアナが言い合いを繰り広げる。年下といえども王族に対しての言葉遣いとは思えず、ニアはたしなめるような声を上げた。
「ダイアナ、その言葉遣いはよくない」
ニアに叱られた途端、ダイアナはくしゃりと顔を歪めた。
「だって、そいつが泥ぶつけてきたぁ!」
ロキを指さしながら、子供に戻ったみたいにダイアナが叫ぶ。
「これお気に入りのドレスだったのにぃ!」
最近大人びてきていたとはいえ、まだ十一歳の少女だ。ドレスを汚されたのがよっぽどショックだったのか、ダイアナがわんわんと声をあげて泣き出す。
その姿にニアがおろおろしていると、フィルバートの声が聞こえた。
「ロキ、降りて謝れ」
「え、やだよ! だって、おれは王子だぞ!」
「王子だから何だ」
フィルバートの冷え切った返答に、肩に乗せているロキの身体がわずかに強張るのを感じた。
「そんなものに意味はない。今すぐ、降りて、謝罪しろ」
聞き分けのない子供に言い聞かせるような口調で、フィルバートがゆっくりと言い放つ。
フィルバートに目線で促されて、ニアはゆっくりとロキの身体を地面に降ろした。ロキは不貞腐れた表情のまま押し黙っていたが、フィルバートに見据えられると仕方なく唇を開いた。
「……ごめん」
ロキの謝罪を聞いても、ダイアナは悲しげにしゃくり上げたままだ。すると、ロキは癇癪を起こしたように叫んだ。
「わかったよ! おまえがすきなドレス、ぜんぶ買ってやる!」
「本当?」
ロキの叫びを聞いた瞬間、ダイアナの表情がコロリと変わった。先ほどまで泣いていたのに、その瞳は今は期待にキラキラと輝いている。
「本当に好きなドレス全部?」
言質を取るようにダイアナが繰り返す。途端、ロキが『騙された』と言わんばかりに顔を歪めた。だが、前言撤回するわけにもいかないのか喚くように返す。
「ぜんぶだっ!」
「ネックレスも?」
さりげなくネックレスまで追加するとは、なかなか強欲だ。ここまで来たら引けないのか、ロキが自棄くそになったように叫ぶ。
「いいよっ!」
「やったぁ!」
ダイアナがはしゃいだ様子で、くるりとその場でターンをする。すると、フィルバートは呆れた口調でロキに言った。
「すべてお前の小遣いから買うように」
ロキが、うぐぐ、と小さなうめき声をあげる。
そのやり取りを見て、ニアはとっさに笑ってしまった。胸の奥が妙にくすぐったいような気がして、笑い声が勝手に込み上げてくる。
するとロキが、再びニアの腰にギュウッと抱き付いてきた。
「みんな、おれをいじめる! ニアは、おれの味方だよなっ」
「はい、もちろん味方ですよ」
ロキの頭を撫でながら答えると、ダイアナがずずいっと身を乗り出してきた。
「ニアお兄さまは、私の味方でしょう?」
「そうだな。ダイアナの一番の味方だ」
ニアが深くうなずくと、ダイアナは満足げに笑みを浮かべた。
だが、次の瞬間聞こえてきた声に、ニアはピキッと身体を硬直させた。
「いいや、ニアは俺の番犬だ」
平然とした口調で言うフィルバートを、ニアはげんなりと眺めた。
「ですから、そういう冗談はやめてください……」
「どうしてだ? 前置きに『可愛い』を付けなかったのが不服か?」
完全にニアをからかっている口調だ。ニアを見つめたまま笑みを浮かべるフィルバートを、ロキとダイアナが呆気に取られた表情で見つめている。
流石に子供の情操教育に良くない発言をたしなめようとしたとき、不意にたおやかな声が聞こえてきた。
「あら、ロキ?」
王妃の姿がそこにあった。若草色のドレスには百合の刺繍があしらわれており、シンプルだが清楚で優雅な印象を受けた。かすかに百合の香りのコロンも漂ってくる。王妃の後ろには、複数のメイドが並んでいた。
柔らかな笑みをたたえたまま、王妃がロキを見つめて首を傾げる。
「母さまっ!」
王妃を見ると、ロキはパッと表情を明るくさせた。屈託のない様子で王妃へと駆け寄って、その手をぎゅっと握り締める。
「あらあら、今日は甘えん坊さんね。ちょうど午後のお茶にしようと思っていたの。ロキも一緒に行きますか?」
「行くっ!」
ロキが即答すると、王妃はその頭を優しく撫でた。その目が、流れるようにニアとダイアナへと向けられる。反射的に、ニアは手を胸に当てて敬礼を返した。
「ご挨拶が遅れました。ニア・ブラウンと申します」
「ダイアナ・ブラウンと申します」
口早に挨拶を述べると、王妃はにっこりと笑みを浮かべた。垂れた目尻からも、ふんわりと優しげな空気が漂ってくる。
「知っていますよ。ブラウン御兄妹ね。ロキは元気な子ですから、どうか良い遊び相手になってあげてくださいね」
そう言い残すと、王妃はロキの手を握って緩やかに歩き出した。
王妃の姿が見えなくなると、ダイアナがうっとりとした息を漏らした。
「王妃様って、とても優雅な方ね」
その言葉に、そうだな、と一言だけ返す。
振り返ると、フィルバートが遠くを眺めているのが見えた。その空虚な眼差しは、現実から目を背けているようにも思える。
そのとき、気が付いた。王妃は一度もフィルバートに視線を向けなかった。まるで、その場にいないものかのように完全に存在を無視していた。
気付いた瞬間、自分の唇が勝手に動いていた。
「フィル様」
ニアの呼びかけに、フィルバートが顔を向ける。感情をうかがわせない表情を見つめたまま、ニアは続けた。
「俺は犬ではありませんが……今は、貴方の味方です」
フィルバートが不思議そうに目を瞬かせる。それから、わずかに苦笑いを浮かべた。何だか困ったものを見るような眼差しだ。
「わざわざ『今は』とつけるとは、お前は馬鹿正直だな」
少し寂しげな声でそう呟くと、フィルバートはニアの肩を一度だけ叩いた。
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