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第7章 カトレアの花
コプモフ
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「……ドラム、ラドラム、ママよ」
柵のあるベビーベッドの上から、キャラメルブラウンの短髪にフォレストグリーンの瞳の女性が、覗き込んでいた。肌は、太陽に愛された琥珀色をしている。
カラカラと鳴るおもちゃを振ると、赤ん坊特有の高い音階の笑い声が響いた。
蠢く小さな手も見える。
ラドラムの脳波を、記録したものなのだろう。
「ご機嫌ね、ラドラム。貴方が笑ってると、ママも嬉しいわ」
「カトレア」
呼ばれた女性が、顔を上げる。
「何? ミハイル」
「レトルトミルクの温度が分からん」
「あら、こうすればいいのよ。そこの調理テーブルに置いて。pt、ミルクを人肌くらいまで温めてちょうだい」
「はい、カトレア」
答えたのは、プラチナの男声だった。
そうか、プラチナ。お前は、俺が生まれた時から、俺を愛していたんだな。
ラドラムはそう思うと、プラチナの苦悩が分かるような気がして、今までの辛い仕打ちを思い、心がチクリと痛かった。
カトレアは、再びベビーベッドを覗き込む。
「ラドラム、愛してるわ。早く貴方と、沢山お喋りがしたい。元気に育ってね」
頭上から人差し指がおりてきて、頬をつつかれるような感触があった。
嬉しくて、それをカトレアに伝えたくて、つつかれた人差し指を握った。
「あら、上手ね」
だが反射的に口に含んでしまい、カトレアが笑った。
「そこからミルクは出ないわよ、ラドラム」
「カトレア。レトルトミルクの温め、完了しました」
「ありがとう、pt。ミハイル、ミルク取ってくれる?」
「ああ」
そうミハイルの声がすると、カトレアの横に、歳若い癖毛のブロンドにへーゼルの瞳の青年も覗き込んできた。
ふわりと浮遊感があって、ラドラムはカトレアの腕の中にすっぽりと収まっていた。
「ダ……ダァ」
「さあ、お待ちかねのミルクよ。いっぱい飲んで」
焦点は笑顔のミハイルから、目の前に出されたレトルトミルクの吸い口に移った。
口に含むと物凄い勢いで吸引し、透明なパウチの中身は、どんどん減っていった。
「はい、おーしまい! 偉いわ、ラドラム」
船医でもあるカトレアがトントンとラドラムの背中を叩いていると、ミハイルが意を決したように口にした。
「俺にも、抱かせてくれんか」
「まだ首が座ってないから、支えるように抱くのよ。そっと。優しく、ね。ミハイル」
「お……おう」
ミハイルが壊れものを扱うように、おっかなびっくりカトレアからラドラムを受け取る。
「ラドラム。お前はラドラムだぞ。公海上で生まれたんだ。お前は、宇宙一自由な人間になるだろう」
真剣な顔で言い聞かせるミハイルに、カトレアが可笑しそうにたしなめた。
「ミハイル。赤ちゃんの頃から、あんまり変な教育しないでちょうだい。貴方みたいに放浪癖のある子に育っちゃうわ」
「俺とお前の子なんだ、カトレア。こいつも便利屋家業を継ぐさ。爺様の代からそうなんだから」
「困ったものね」
カトレアは、表情をくるくる変えて、よく笑う。
カトレアの花言葉は、『優雅な女性』、『成熟した魅力』だったが、そんな言葉とは正反対の、少女のような心を持った母親だった。
他愛もない会話と、幸せな笑顔の日々が続く。
「ミハイル、今日ね、ラドラムが『ママ』って言ったの!」
「ミハイル、今日ね、ラドラムがハイハイしたの!」
「ミハイル、今日ね、ラドラムが掴まり立ちしたの!」
――ミハイル、今日ね。ミハイル、今日ね……。
その言葉が何度もリフレインしては、二人の幸福は一つずつ積み重なっていく。
だがある日、お腹が空いて泣いても、カトレアは来なかった。
「カトレア。カトレア。ラドラムが泣いています。レトルトミルクを温めましょうか? ……カトレア?」
プラチナの戸惑ったような人工音声が、空しく木霊する。
「カトレア!」
非常時と判断したプラチナが、カトレアのウェアラブル端末から、身体情報を集め出す。
「体温35.2℃、心拍数低下、血圧異常。カトレア、貴方を暖めます」
局所ヒーターが作動し、テーブルに突っ伏しているカトレアに温風が当たる。
「ミハイル! ミハイル!」
『どうした、pt』
船外で仕事中のミハイルに、必死にプラチナが呼びかけた。
「カトレアが意識不明です。すぐに帰ってきてください」
『何! 分かった。宇宙港から一番近くのドクターを呼んでおいてくれ!』
「了解しました」
ミハイルが駆け付けた時には、もうカトレアは艦橋のベッドに寝かされ、スヤスヤと寝息を立てていた。
泣いていたラドラムにもミルクが与えられたが、カトレアがいるのに入ってきた見た事のない顔の給仕に、しばらくぐずってドクターを困らせた。
全速力で走ってきたミハイルは、肩で息をして、しばらく口もきけなかった。
「ミハイル・シャー。カトレア・シャーの夫で、この船の船長です」
代わりに、プラチナが紹介した。
「ああ、旦那さんですか。落ち着いて座ってください。今は、病状は落ち着いています」
プラチナが、ベッドサイドに椅子をもう一つせり出した。
「カト……カトレアは、大丈夫、なんですか……っ」
それに座りながら、息も絶え絶えにミハイルは言った。
「ええ。……今は。覚悟をして聞いてください、旦那さん」
その言葉が、ミハイルの心臓をわし掴んだ。
「奥さんは、Copmof……先天性進行性多臓器不全です。十億人に一人の難病で、現在治療法は見付かっていません。発症したら恐ろしいスピードで進行し……平均二ヶ月で死に至ります」
ミハイルは、言葉もなかった。そんな馬鹿な。昨日まで元気だったのに。治療法がない!
胸中に短文が渦巻いたあと、カトレアを起こさぬように、静かに呟いた。
「何か……何かしてやれる事は……」
「未来の治療法発見に希望を託して、今すぐコールドスリープする事くらいしか……。お力になれず、申し訳ありません。設備のいいコールドスリープセンターに、紹介状を書く事は出来ます。告知するかどうかも含めて、よくお考えください」
そう残して、ドクターは対処療法の薬を置いて去って行った。
一歳まであと二ヶ月のこの冬、ラドラムの真ん丸のフォレストグリーンの瞳は、初めて自分以外が泣く所を見た。
ミハイルは声を殺して涙を流しながら、ラドラムのベビーベッドにやってきて、彼を強く抱きしめて言った。
「ラドラム……カトレアが、病気なんだ。俺に……俺に勇気をくれ。もうけして、泣かないから、今だけ……」
柵のあるベビーベッドの上から、キャラメルブラウンの短髪にフォレストグリーンの瞳の女性が、覗き込んでいた。肌は、太陽に愛された琥珀色をしている。
カラカラと鳴るおもちゃを振ると、赤ん坊特有の高い音階の笑い声が響いた。
蠢く小さな手も見える。
ラドラムの脳波を、記録したものなのだろう。
「ご機嫌ね、ラドラム。貴方が笑ってると、ママも嬉しいわ」
「カトレア」
呼ばれた女性が、顔を上げる。
「何? ミハイル」
「レトルトミルクの温度が分からん」
「あら、こうすればいいのよ。そこの調理テーブルに置いて。pt、ミルクを人肌くらいまで温めてちょうだい」
「はい、カトレア」
答えたのは、プラチナの男声だった。
そうか、プラチナ。お前は、俺が生まれた時から、俺を愛していたんだな。
ラドラムはそう思うと、プラチナの苦悩が分かるような気がして、今までの辛い仕打ちを思い、心がチクリと痛かった。
カトレアは、再びベビーベッドを覗き込む。
「ラドラム、愛してるわ。早く貴方と、沢山お喋りがしたい。元気に育ってね」
頭上から人差し指がおりてきて、頬をつつかれるような感触があった。
嬉しくて、それをカトレアに伝えたくて、つつかれた人差し指を握った。
「あら、上手ね」
だが反射的に口に含んでしまい、カトレアが笑った。
「そこからミルクは出ないわよ、ラドラム」
「カトレア。レトルトミルクの温め、完了しました」
「ありがとう、pt。ミハイル、ミルク取ってくれる?」
「ああ」
そうミハイルの声がすると、カトレアの横に、歳若い癖毛のブロンドにへーゼルの瞳の青年も覗き込んできた。
ふわりと浮遊感があって、ラドラムはカトレアの腕の中にすっぽりと収まっていた。
「ダ……ダァ」
「さあ、お待ちかねのミルクよ。いっぱい飲んで」
焦点は笑顔のミハイルから、目の前に出されたレトルトミルクの吸い口に移った。
口に含むと物凄い勢いで吸引し、透明なパウチの中身は、どんどん減っていった。
「はい、おーしまい! 偉いわ、ラドラム」
船医でもあるカトレアがトントンとラドラムの背中を叩いていると、ミハイルが意を決したように口にした。
「俺にも、抱かせてくれんか」
「まだ首が座ってないから、支えるように抱くのよ。そっと。優しく、ね。ミハイル」
「お……おう」
ミハイルが壊れものを扱うように、おっかなびっくりカトレアからラドラムを受け取る。
「ラドラム。お前はラドラムだぞ。公海上で生まれたんだ。お前は、宇宙一自由な人間になるだろう」
真剣な顔で言い聞かせるミハイルに、カトレアが可笑しそうにたしなめた。
「ミハイル。赤ちゃんの頃から、あんまり変な教育しないでちょうだい。貴方みたいに放浪癖のある子に育っちゃうわ」
「俺とお前の子なんだ、カトレア。こいつも便利屋家業を継ぐさ。爺様の代からそうなんだから」
「困ったものね」
カトレアは、表情をくるくる変えて、よく笑う。
カトレアの花言葉は、『優雅な女性』、『成熟した魅力』だったが、そんな言葉とは正反対の、少女のような心を持った母親だった。
他愛もない会話と、幸せな笑顔の日々が続く。
「ミハイル、今日ね、ラドラムが『ママ』って言ったの!」
「ミハイル、今日ね、ラドラムがハイハイしたの!」
「ミハイル、今日ね、ラドラムが掴まり立ちしたの!」
――ミハイル、今日ね。ミハイル、今日ね……。
その言葉が何度もリフレインしては、二人の幸福は一つずつ積み重なっていく。
だがある日、お腹が空いて泣いても、カトレアは来なかった。
「カトレア。カトレア。ラドラムが泣いています。レトルトミルクを温めましょうか? ……カトレア?」
プラチナの戸惑ったような人工音声が、空しく木霊する。
「カトレア!」
非常時と判断したプラチナが、カトレアのウェアラブル端末から、身体情報を集め出す。
「体温35.2℃、心拍数低下、血圧異常。カトレア、貴方を暖めます」
局所ヒーターが作動し、テーブルに突っ伏しているカトレアに温風が当たる。
「ミハイル! ミハイル!」
『どうした、pt』
船外で仕事中のミハイルに、必死にプラチナが呼びかけた。
「カトレアが意識不明です。すぐに帰ってきてください」
『何! 分かった。宇宙港から一番近くのドクターを呼んでおいてくれ!』
「了解しました」
ミハイルが駆け付けた時には、もうカトレアは艦橋のベッドに寝かされ、スヤスヤと寝息を立てていた。
泣いていたラドラムにもミルクが与えられたが、カトレアがいるのに入ってきた見た事のない顔の給仕に、しばらくぐずってドクターを困らせた。
全速力で走ってきたミハイルは、肩で息をして、しばらく口もきけなかった。
「ミハイル・シャー。カトレア・シャーの夫で、この船の船長です」
代わりに、プラチナが紹介した。
「ああ、旦那さんですか。落ち着いて座ってください。今は、病状は落ち着いています」
プラチナが、ベッドサイドに椅子をもう一つせり出した。
「カト……カトレアは、大丈夫、なんですか……っ」
それに座りながら、息も絶え絶えにミハイルは言った。
「ええ。……今は。覚悟をして聞いてください、旦那さん」
その言葉が、ミハイルの心臓をわし掴んだ。
「奥さんは、Copmof……先天性進行性多臓器不全です。十億人に一人の難病で、現在治療法は見付かっていません。発症したら恐ろしいスピードで進行し……平均二ヶ月で死に至ります」
ミハイルは、言葉もなかった。そんな馬鹿な。昨日まで元気だったのに。治療法がない!
胸中に短文が渦巻いたあと、カトレアを起こさぬように、静かに呟いた。
「何か……何かしてやれる事は……」
「未来の治療法発見に希望を託して、今すぐコールドスリープする事くらいしか……。お力になれず、申し訳ありません。設備のいいコールドスリープセンターに、紹介状を書く事は出来ます。告知するかどうかも含めて、よくお考えください」
そう残して、ドクターは対処療法の薬を置いて去って行った。
一歳まであと二ヶ月のこの冬、ラドラムの真ん丸のフォレストグリーンの瞳は、初めて自分以外が泣く所を見た。
ミハイルは声を殺して涙を流しながら、ラドラムのベビーベッドにやってきて、彼を強く抱きしめて言った。
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