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第24話 おやすみのキス

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 風邪は、お医者さんの薬のお陰で、もう殆ど良くなっていた。
 触れるだけの行ってらっしゃいのキスをして、慶二を送り出す。

 その後は平良さんの、フランス料理のマナー講座だった。
 姉ちゃんの結婚式で一回食べたことがあったから、一応少しは知ってる。
 沢山並んだナイフやフォークは、外側から使うこと。手を休める時はナイフやフォークをハの字に、食べ終わった時は揃えて置くこと。
 
 その他にも、『女性』としてのマナーも教わった。
 フレンチではレディーファーストが基本だから、遠慮したりせずに倚子を引かれたら迷わず座ること、バッグは倚子の背と背中の間に置くこと。

 ナフキンを使うのはオーダー後、最初からパンが置かれている場合はスープが出てから食べ始める、魚料理は裏返さない、肉料理は一口毎に切り分ける、等々。
 ナイフやフォークも、ただ揃えれば良いんじゃなくて、ナイフは刃を内側に、フォークは背を下に向けて置くこと。

 同じテーブルマナーでも、イギリス式とフランス式では全く違って、今回のお店はフランス式だったから、そっちをみっちり仕込まれた。
 思った以上に細かくて、改めてフランス料理が嫌いになる。
 
 でも嫌いだとか言ってられない。
 慶二のお父さんに、小鳥遊の嫁として認めて貰う席だ。
 何度もシミュレーションして、細かい所までレディとしてのテーブルマナーを叩き込んで貰った。

 夕方には、平良さんに車を出して貰って、僕のアパートに戻って服とメイクを整えた。
 メイクはプロにして貰う予定だったみたいだけど、自分で出来るからと断った。
 慶二にとっては些細な出費かもしれないけど、貧乏生活が長かった僕は、必要以上にお金を使いたくない。

 服は上品な、襟付きのライトブルーのワンピースにした。それに白いパンプスを合わせる。ハイヒールより、パンプスの方が清楚に見えて良いだろう。
 メイクもナチュラルメイクにして、アイメイクは派手すぎず、チークはほんのり、でもリップはこないだ買った、華やかで若々しいピンクをつける。
 支度を調えてロールスロイスに戻ったら、ポーカーフェイスの平良さんが、目を見開いて驚いた。

「歩様……」

「おかしくないですよね? 派手にならないように、気を付けたんですけど」

 平良さんは頬を引き締めて、一礼した。

「お綺麗でございます、歩様。正直に申し上げまして、歩様がこれほどお綺麗なことを、平良めは知らずにおりました」

 僕は照れ笑いした。
 無理もない。
 お風呂上がりとかでもない限り、僕はいつも長い前髪に隠れて暮らしてる。慶二は知ってるけど、平良さんに顔をよく見せたことはなかった。

 ロールスロイスの後部座席が開けられる。

「参りましょう、歩様」

 その口調は、何だか誇らしげな自信に満ちていた。僕の女装がそうさせているんだとしたら、僕にとっても誇らしいことだった。

    *    *    *

「……歩?」

 マンションで待ってた僕が倚子から立ち上がったら、疑問形を向けられて、僕は小さく噴き出した。
 メイクの力は偉大だ。眉を描いてリップを塗っただけで、全然違う印象になる。
 フルメイクの僕を見て、平良さんと同じ顔をする慶二に、僕はくすくすと笑って近付いた。

「おかえり、慶二」

「あ、ああ。ただいま」

 だけど慶二は、近付く僕にただいまのキスはせずに、遠巻きに眺めるようにして言った。

「綺麗だな、歩。それなら、父さんも気に入るだろう」

 その、おっかなびっくりの態度に、僕は創さんの言葉を思い出す。
 慶二、本当に女の人、駄目なんだな。ただいまのキスもしないだなんて。
 そのまま僕らは、孝太郎さんの待つフランス料理のお店に向かった。

    *    *    *

「佐々木歩です。ふつつか者ですが、よろしくお願い致します」

 頼りない僕が二十二で、しかも女装で、この言葉を言う日がくるとは思わなかった。
 孝太郎さんは六十代半ばで、白い口髭を蓄え、和服を着てる。イケメンの創さんと慶二のお父さんらしく、痩身のロマンスグレーと言った感じだ。

 僕らは席に着いてオーダーを済ませ、前菜がくるのを待つ間、自己紹介をしていた。僕を見て、孝太郎さんは満面の笑みで頷いてる。

「綺麗な娘さんじゃないか、慶二。お前が女性と結婚してくれて、ワシは嬉しい。歩さん、慶二とは何処で知り合ったんじゃ?」

 昨日の夜、寝る前に、慶二と打ち合わせた通りに答える。

「慶二さんとは、婚活パーティで知り合いました。お話が合ったので、連絡先を交換させて頂いて、お付き合いして。私は平凡なOLだったので、小鳥遊財閥の方と知った時は、一度お付き合いをお断りしたんですけど」

 後を、慶二が引き取る。

「俺が説得して、結婚までこぎ着けたんです。歩は万事控えめで、本当に小鳥遊に気後れしてるようだったから、結婚出来るかどうか微妙で、事後報告になってしまってすみません」

「いや、三十歳の誕生日が迫って、嫁を宛がわねばならんかと思っておったから、こんなに嬉しい事はない」

 料理が運ばれてきて、食べながら僕らは話した。
 えっと……フランス式は、フォークを持ち替えても良いんだっけ。
 頭の中で目まぐるしく計算しながら、会話と食事をこなす。正直、味なんか分からない。

「歩は、料理が得意なんですよ。この間、中華を作って貰いました。本場の味にも負けませんね」

「まあ、慶二さんったら。大袈裟なんです」

「いやいや、ご自分で生計を立てていた方だから、料理も出来る。立派なもんじゃ」

「そう言えば、歩にご馳走もして貰ったんですよ。お好み焼きというものを、初めて食べました。美味しかったし、初めて人にご馳走して貰って、感動したのを覚えています」

 下手に嘘を吐くとボロが出るから、ほぼ事実を話そうという算段になっていた。
 また一つ、慶二が思い付く。

「それから、誕生日プレゼントも貰いました。歩は、小鳥遊の財産ではなく、俺自身を見て、身の丈に合った付き合いを望む慎ましい人なんです」

 孝太郎さんがナフキンで口髭を拭って、好もしそうに笑い皺を刻む。
 あ……目元が、慶二にそっくり。

「ほう。小鳥遊の人間に、食事をご馳走するとは、見かけによらず豪傑じゃな、歩さん。そういう、小鳥遊に甘えん感覚は気に入った。慶二、大切にしてあげなさい」

「はい、父さん」

「勿体ないお言葉です、お父様」

 お父様、と言うと、笑い皺はますます深くなった。

「歩さんみたいに綺麗な人からそう呼ばれると、照れるのう。長男に嫁はおるが、疎遠じゃから、初めて娘を持った気分じゃ。嬉しいもんじゃのう」

 その言葉に、チクりと良心が痛む。
 ごめんなさい。本当は、娘じゃなくて息子なんだけど。

「そうじゃ、歩さん。明日、三沙(さんさ)が大学の発表会で、シェークスピアを演(や)るんじゃ。ワシと一緒に、観に行かんかね?」

「え? 何方(どなた)ですか?」

「何じゃ慶二、お前は兄弟も紹介しておらんのか」

「あ、いえ……歩を盗られたくなくて」

 創さんと男の子の取り合いをしてたんだから、その言葉は嘘じゃないんだろう。
 兄弟で『三沙』って事は、慶二の弟さんかな。

「ご兄弟ですか?」

「創、慶二、三沙の三兄弟じゃよ」

「あ、創さんには、先日ご挨拶させて頂きました」

「おお、じゃあちょうどよいの。三沙にも会いなさい。慶二、歩さんを借りるぞ」

「えっ……父さん、歩はまだ小鳥遊に慣れてないんです。連れ回さないでください」

 慶二が困ったような声を出す。
 だけど僕は、女装すると何でもプラス思考で考えてしまうのだった。

「良いんです、慶二さん。嬉しいです、お父様。是非ご一緒させてください。弟さんは、どちらの大学なんですか?」

「帝央大学じゃよ」

 えっ。僕は一瞬、隣の慶二と目を合わせた。
 目の奥が、やめておけと言っている。
 僕も去年の春まで、帝央大学に通っていた。ヤバい。身バレするかも。
 でも孝太郎さんは、隅に控えていた執事さんを呼び、早速こう命じていた。

「三沙に連絡を入れておけ。明日、慶二の嫁と観に行くと」

 執事さんが隅へ戻り、素早く携帯で話している。
 こ……断れる雰囲気じゃない。

「歩さん、三沙は、小鳥遊のアミューズメント部門に入る事が決まっておるんじゃ。手前味噌じゃが、演技は折り紙付きじゃよ」

 焦っていた僕だけど、観劇なんて高価な趣味にお金がかけられなかった僕は、新宿バードランドで初めて、演技の楽しさを知った時を思い出す。

「えっ。新宿バードランドとかですか?」

「ほう。小鳥遊のことを、少しは知っておるようじゃの」

「慶二さんが、企業パンフレットを用意してくれました。私、子供の頃、何回も新宿バードランドに行ったんです!」

 思わず胸の前で手を合わせて嬉しさに声を弾ませると、孝太郎さんも何度も深く頷いた。

「じゃあ、新宿バードランドにも一緒に行くかの」

「父さん! 歩は、夫に頼り切りになるのは嫌だと、再就職しようとしてるんです。これでも忙しい身です」

「ほう、そうか。立派な心がけじゃ。新宿バードランドが好きかの?」

「えっ。はい」

「じゃあ、歩さんに合った、就職口を世話しよう」

 慶二が頭を抱えた。
 えっ……ひょっとしなくても、これってマズい状況?

「歩さんくらい若くて綺麗な女性なら、発券所でも案内所でも、適性があればアトラクション係でも、何でも務まるの」

 孝太郎さんが晴れやかに口髭を撫でる。
 僕が、仕事先でも、女装しなくちゃならなくなった瞬間だった。

    *    *    *

 帰って、お風呂に入ったけど、慶二は僕の部屋に来なかった。
 僕の女装を見てから、一回もキスしてない。
 何だか不安で寂しくなって、慶二の部屋をノックした。

「慶二。風邪、治った。……キスしよ」

「開いてる」

 僕はドアノブを回して、部屋に入った。
 慶二はベッドに腰掛け、フレームレスの眼鏡をかけて、沢山の書類に目を通している最中だった。

「あ、ごめんなさい。仕事中?」

「ああ……父さんが急に予定を入れたからな」

「あの……一回で良いから、おやすみなさいのキスして」

「ここへ来い」

 僕はおずおずと、ベッドの隣に座った。慶二と視線が絡み合う。
 眼鏡の慶二は、理知的な感じがして、二割増し格好良く見えた。
 互いに引かれ合い、唇が近付く。僕は目を閉じかけた。

「うっ……」

 だけど、あと五センチって所で、慶二が唇を押さえて顔を逸らす。

「慶二? どうしたの?」

 室温は快適なのに、額にじっとりと汗を滲ませて、慶二は呻いた。

「すまない、歩。俺は、女が駄目なんだ。特に、ファンデーションの香り……」

「ちゃんと顔洗ったよ?」

「駄目なんだ。すまない。キス出来なくて」

 ショックで悲しかったけど、脂汗がどんどん出てくる慶二の身体の方が、心配になった。

「ううん。分かった。おやすみなさい」

「ああ、おやすみ、歩。愛してるからな!」

 言葉は嬉しかったけど、声はいつものセクシーなバリトンじゃなくて、ヒキガエルみたいに歪んでた。
 事の重大さを僕が知るのは、明日以降の事になる。
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