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第17話 名刺

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 髪は濡れたままだったから、二月の外気に、僕は凍えて小刻みに震える。
 今自分が出てきたタワーマンションを見上げたら、曇り空に溶けて頂上は見えなかった。
 貧乏孤児の僕が、こんなところに住む人と価値観が合うなんて、そんなことある筈なかったんだ。
 夢なんか見る気力、もう残ってないと思ってたけど、僕、夢見てたんだな。

 僕の泣き顔につられたのか、空もポツリポツリと雨粒を降らせ始めた。
 東京という街は、こういう時に優しい。
 小さく嗚咽を漏らしながら両手をポケットに突っ込み、顎を震わせ泣きながら歩く僕を、誰も気にしないですれ違っていく。

 ――ビシャッ。

 雨が本降りになり始めて、徐行する車が多い中、一台のスポーツカーがマフラーをふかしながら猛スピードで走っていった。
 通行人に水溜まりの泥水がかかり、三十代のサラリーマンがひと声、怒りを吠える。
 僕の白いスラックスにもかかって、茶色の染みを作った。白いスニーカーはとうに中までグッショリで、歩く度にプキュップキュッと音がする。
 
 何処に行こうなんて、当てはなかった。
 電車に乗る気にもならず、ただ雨の街をさまよった。
 お腹が鳴る。そう言えば、朝ご飯もお昼ご飯も食べてないや……。
 こんなに悲しいのに、人間というのはちゃんとお腹が減るんだなと、両親が死んだ時以来に思う。
 何か買って……どっかに座って食べよう。こんなに汚れてビシャビシャだし、お店の中で食べる気にはならない。
 
 コンビニに入ってぼんやりとメロンパンなんかを眺めながら、考える。
 平良さんは、何処まで知ってたんだろう。
 僕は平良さんに、お父さんみたいな包容力を感じてた。困った時は、何でも相談出来る頼もしい存在だと思ってた。
 でも腹の中で、僕のことを哀れんでいたんだろうか。だからあんなに、優しかったのかな。

 メロンパンとあんぱんを買って、心の中で失礼、と断って、バス停にあるベンチに座って食べる。
 目の前は片側二車線の大通り。誰も僕を気にしない。傍目(はため)には涙なのか雨なのか分からなかったけど、口を開くとパンと一緒に塩辛い味がした。
 バスがひっきりなしに来て、こんな汚い僕にもドアを開けてくれるけど、全部お断りして一時間余りが経った。

「君」

 ぼうっとしてたら、後ろから肩に手がかかった。

「わっ」

「おっと」

 僕が跳び上がってしまい、相手も驚いて声を漏らす。
 あ……お巡りさん。
 契約結婚なんかしてる僕は、咄嗟に後ろめたくてどもってしまう。

「な、何ですか」

「さっきから見てるけど、ずぶ濡れだし、バスに乗る様子もないし……大丈夫かい? 一応、身分証を見せてくれるかな」

「え」

 僕は困ってしまう。運転免許は持ってない。
 学生の時は学生証、何とか就職した後は社員証が、僕の写真付き身分証だった。
 保険証は持ってるけど、お尻のポケットから出した財布もびしょ濡れで、お巡りさんはちょっと来て、と僕を手招いた。

 あ……声をかけられる筈だ。バス停のすぐ傍に、交番があった。
 僕はノロノロと腰を上げて交番に入る。

「あの……座ったら、倚子も濡れちゃうんですけど」

「構わないから、座って。お名前は?」

「た……佐々木歩です」

 保険証の名前がまだ佐々木だったから、面倒臭くて旧姓を名乗る。
 どうせ契約は破棄されるんだし、その内に離婚届が郵送でもされてくるだろう。

「確かに、保険証は佐々木歩くんだね。何してたの?」

「えっと……」

 また、投げ付けられた真実を思い出して、目の奥がツンと熱くなる。
 声を殺して泣き出した僕に、四十代のお巡りさんは慌てず騒がず、目の前にボックスティッシュを置いてくれた。

「話してごらん。お巡りさんで良ければ聞くよ」

 不意の優しさに弱い僕は、ティッシュを二枚引き出して、涙を拭って洟をかんだ。

「その……結婚……したんですけど……好きって、言ってくれたんですけど……それは、嘘で……愛人の人に、追い出されてきたんです」

「幾つだい?」

「二十二、です」

「それは、辛かったね。その若さで修羅場だなんて、どうして良いか分からなかっただろう。ほら、タオル。気休め程度だけど、髪の毛を拭いたらいい」

「ありがとう、ございます」

 僕はしゃくり上げながら、真っ白なタオルを受け取ってワシャワシャと髪を拭った。下着までグッショリだったから、言葉通りそれはほんの気休めだったけど、心は温かく潤った。

「実家は近くかい? そういう事情なら、お巡りさん心配だから、一人で帰す訳にはいかないんだ」

 僕の言った内容を書き留めているのか、ファイルにボールペンを走らせる。

「両親は他界してて……えっと」

 姉ちゃんのことを言おうとして、新宿のアパレルショップでろくに休みも取らず頑張ってるのを思い出す。姉ちゃんに迷惑はかけられない。
 咄嗟に思い付いたのは、財布の中に入っていた、雨にも負けない高級紙の、一枚の名刺なのだった。
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