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第5話 風に走る
しおりを挟む第5話 風に走る
曙橋の商店街から脇道に入り、坂を上る手前、洋館の一階に「木蓮」はある。私の名は比呂乃。「木蓮」は私が切り盛りしているバーである。
うちはそれほど大きくないし、気楽に楽しむことが大好きな楽道楽の私は、ノリとお笑いのためならばと、出落ちであろうと汚れであろうと、ピエロであろうと何でもしてしまう性格だから、「木蓮」はおしゃれなバーとはいかない。ええ残念ながら。
今さらきれいぶったところでできることはそれ程ないし、お客様もしらけるだけだろう。気楽で、ちょっと熱いってことがうちの価値である。
でもね、焼酎や日本酒を並べるだけという訳にもいかない。ハートランドだってダニエルだってあるし、冷凍庫にはタンカレー10が冷やしてある。アイラ島のスコッチだって置いてある。そう、好きな人は好きなアイラ島のスコッチウィスキー。
今、目の前でアイラウィスキーのラフロイグを飲みながら、ピスタチオをぽりぽり齧っている太一君も、アイラウィスキーを好む一人だ。
ラフロイグは、ストレートでしっかり味わうのが似合うし、太一君は大体どのお酒でもそんな風に嗜む。
彼はよく笑う気さくな人柄で、人の話を目を丸くしながら、「それで、それで。」と聞いてくれる愛情あふれる人だ。それはそれでとても素敵な彼の一面だけど、その実、彼はストイックなというかシンプルでまっすぐな生き方を愛でるかっこいい男なんではないかと、勝手に私は思っている。なんせ私の想像力はたくましすぎるからね。
ラフロイグのグラスを持つ、太一君の指は太く爪は横長で、潰れたかのように平ぺったい。私はこういう爪を見るとキュンとなる。
話はそれるけど、初恋の人を思い出すんだね。学くんのことだ。
学くんは高校の同級生だった。卒業した年の春、免許をとったからと車に乗せてくれた。楽しかったな。田舎の鉄道にかかった陸橋をわたる時、テープレコーダーから流れていたラブポーションの「胸いっぱいのフォトグラフ」。学くんが好きだった歌だ。2,3日後にバイト中に急に思いだして、胸がズキンと痛んだ。まさに懐かしい痛み…初恋だ。
歌っていたあの子たちの甘酸っぱい歌声の切なさ以上に、思い出すたびに、私の胸に切ないような甘いようなそんな痛みを感じさせた。学君、とても素敵な想い出をありがとね。
話がそれてしまったけれど。太一君のこと。
店に来てくれて、いろいろ話す中で知ったけれど。
太一君は、30歳過ぎまでお役所勤めで、それも霞が関にも居たらしい。転勤で来て、大きな組織で働くようになって、心身共に疲れっていったという。
そんな頃、次年度の人事異動の予想図が回ってきたらしい。
「その頃はね、ごく一部の人間がつまらないことをしててさ。今座っている配席図の上にね、この人は予算係長へとか、この人は出向とか人の人事を勝手に予想してさ。それを書き込んであるんだよ。その中にね、○○沈没↓という文字を見たんだ。ガーンと、なんか壊れちゃった気がした。ひどいよね。よくある話なんかもね。今思うとね、あの時さ、自分もいつかは沈没って書かれるんじゃないかと恐れてたんだね。」
結局、いろいろあって悩んだ末、太一君は職を辞し、しばらくはいろんな本を読んだり、いろんな人の話を聞いたみたいだ。
それで再就職というときに、フリーランスに近い形でやれる今の保険の仕事を見つけたらしい。
ストレスもかかるけれど種類が違うという。
自営みたいなもんだから、人や組織の思惑やしがらみからは結構解放され天国のようだと言う。
「ノルマやトラブル対応なんかあって、何倍もきついのかもしれないけど全然いい。」
「すごいな。」と私は素直に言った。
「すごくなんか全然ないよ。
俺は、別に忍耐強くなんかないし。
でも、転職の時に年配の女性が励ましのメールくれてさ。私は毎朝、今日一日生きるって思ってやってるって。そうやって生きてきたって書いてあったの。なんかすごいなと思ってね。
確かに、今日一日やれることやって、あとは何とかなる、何ともならなくても違う形にはなるって思ってやってると、辛い時期も自然に通り過ぎていくんだ。
あの頃そんな風に生きてたら、やり通すことができた気もするくらい。不思議だね。
もちろん、自分に合った仕事に出逢えたから後悔はしてないけどね。」
太一君は毎朝早起きして、自宅兼事務所の掃除をして、箒とちりとりで道端の掃除もし、ついでにご近所の方までやってるみたい。
その後、ジョギングするという。彼はマラソン大会にも参加しているくらいだ。この人も、全く素敵な生き方をしているな。
彼が店で、他のお客さんと話しているのを聞いたことがある。
「俺も最近、特にそう思うようになったんだけど、自分が感じているこの世界は自分だけの世界だよね。極端な話、自分が生れたから、この世界は始まったし、自分が死んだらこの世界は終わっちゃうと思うんだよね。」
「ふーん。」
お客さんも私も否定する気はないけど、すぐにはピンとこなかった。
その太一君がマラソンに出ると聞いて、前に話した17日生まれの会で応援に出かけていったことがある。
「太一くーん!!」
沿道で応援する私たちに気づいて、太一君は少しおどけた顔をして、軽く手を挙げた。
しかしすぐにしっかり前を向き、キックを強めて走っていった。
もう太一君の心の中には、私たちはもちろん誰もいないんじゃないかと、その時私は思った。太一君だけの世界が、太一君とともに動いているんじゃないか。
自分の足音や心臓の音と、通り過ぎていく風の音がただただ聞こえているだろう。
走り続けて!応援してる。
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