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第2話 お帰り!ケンちゃん
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第2話 お帰り!ケンちゃん
比呂乃は、麻のノースリワンピのポケットからガーゼを取り出し手を拭いた。日傘はたたんで持っていたがこういうときには厄介だ。結局問題なさそうなところに立てかけて、弁天様に手を合わせ、再び持ち直して、鳥居から通りに戻った。昼の三時前で、甘味がほしくなった。誰のためということもないのだが、好物のいちご大福を二つ買い求めてから、曙橋にあるスナック「木蓮」に向かった。「木蓮」は比呂乃が経営する小さな和風スナックで、古い洋館の一階にある。
比呂乃が勤め人だったころは、かっちりしたツーピースやスーツを着ていたこともあるし、プライベートでは着飾った時期もある。従業員として店に立っていた時は見栄えのする格好や、客人を惹きつけるような衣装を身に着けていたことも当然ある。しかし妙齢になった今は、もはや体に負担をかけたくないし、着飾る精神も重くなってしまった。そんなことは捨ててしまって、心軽く私らしい笑顔で人や自然と関わっていきたい、そんな風に感じるようになった。今は歩きやすく踏ん張りやすいスニーカーが一番楽だし、服は軽さが重要だ。通勤途中による弁天様は美しい神様だが、お参りしていると時々風が吹いたり、ハトが飛んできて、「今が一番素敵よ。」と比呂乃に言ってくれているような気がしている。さっきお参りした時には、ひと際、蝉時雨が賑やかになったのを感じながら、弁天様に礼をしたものであった。
店につくと比呂乃は、締めきっていた店のドアと窓を開け空気を入れ替えた。カウンターの中にあるシンクで、ザバザバとむしろ豪快に洗顔し、首にかけたタオルで顔を拭いた。
冷えた麦茶をグラスに入れて、さあ大福で一服しようと鶴亀屋の包装紙を開いたところで、
「比呂ちゃん、居る~?」表から、ぶっきらぼうなような、それでいて少し甘えを含んだような男の声が聞こえてきた。
「ケンちゃん!?」比呂乃の声は弾んだ。
はたして、陽に灼けたケンちゃんが、何か大きなものを手に提げて立っていた。
ケンちゃんは5年くらい前までは、しょっちゅう飲みに来ていた「木蓮」の常連だ。それよりもっと前、お互い会社員だったころから、年が近い二人は飲み仲間だった。人数は変動したが他にも酒場だけの付き合いの飲み仲間が大勢いた。ゴールデン街や三丁目でよく飲んで騒いだ。その内、お互いいろんな経験を重ね、一人二人と離れていき、残ったメンバーも少しずつ距離ができた。そして、比呂乃は「木蓮」を始めた。それを知ったケンちゃんがお祝いと称して店を訪ねてきてくれて、再び交流するようになった。
しかし、ほどなくしてケンちゃんの様子が変わった。うつむき加減になり、出かけるのもおっくうな様子になった。そのくせお酒が進むので体調を崩しているようにも見えた。
ある時、近くの「より道」のみい子ママが電話をかけてきた。
比呂乃は若いころ上京してから、何かあると「より道」でみい子ママに聞いてもらうことが習慣となっていたので、ママは東京の母親のような存在だった。だから電話は、比呂乃や比呂乃の友達のケンちゃんを、健康的にしようとママなりに考えてくれてのことだった。ママは、「明日、借りている区の家庭菜園に行くけれど、二人でお天道様にあたりにおいでなさいな。」と誘ってくれた。比呂乃は素直に従って、ケンちゃんに力仕事があるから付き合ってとお願いした。ケンちゃんは「人の役に立てるなら」と、翌日午前の約束を守ってくれた。
三人で畑仕事をして、みい子ママとは畑で別れ、二人は「木蓮」に帰ってきた。店でそうめんと収穫したものの中から頂いたトマトと西瓜を切り分けて、簡単な食事をすませ、麦茶を飲みながら少し話したのだった。
ケンちゃんは田舎の両親とずっと上手くいっていなかった。子供の頃からそうだったようだ。そのことは長い付き合いで、比呂乃もなんとなく知っていた。ケンちゃんは詳しく話さなかったが、また問題が起きている様だった。その上、仕事先でも上司が異動となり、新しい上司から理不尽に厳しく当たられるようになって参っていると、珍しくケンちゃんが正直に話してくれた。そして「どうせ、俺なんか。」とこぼした。
比呂乃は悲しかった。そして、ケンちゃんがせっかく話してくれたのに、言葉が見当たらない自分が悔しかった。
「俺だって役に立つことしたいんだ。」と言って、畑に行く気になってくれたケンちゃん。ケンちゃんの心に溜まってしまった暗いものが取り払われればいいと、あの日の比呂乃は願った。
それからしばらくして、ケンちゃんはリハビリに通うようになった。そして、いったん仕事をやめて療養に専念し、しばらくは顔を見せなかった。
二年前の春、しばらくぶりに比呂乃を訪ねてきて、今は地方で畑仕事をしているんだと聞かせてくれた。そして、改めて、比呂乃には心配をかけたと詫びたりした。比呂乃は黙って、膝においたケンちゃんのこぶしをそっと包んだ。
その後、ケンちゃんは季節ごとに電話してきたり、近くに来たからと立ち寄って、ますます日焼けして精悍になった顔を見せてくれている。
今日もこうして畑でできた西瓜を、遠路わざわざ持ってきてくれた。ケンちゃんの西瓜はとても甘くておいしいと「木蓮」のお客様にも好評だ。あとで有難くいただくことにした。
ケンちゃんの話はいつも作物の話か仲間の話だ。最近入った若い仲間にはまず作る楽しさや喜びを知ってもらうようにするんだ。だから辛いことは俺らがするんだよ。俺らもそうしてもらったもんな。
酒もたばこもやめてしまったケンちゃんは、いちご大福を美味しそうに食べながら、ずっと話し続ける。ケンちゃんは今ここにいても、心の中ではいつも仲間と一緒にいるのだろう。比呂乃は思った。
「今のケンちゃんが、一番素敵だよ。」
比呂乃は、麻のノースリワンピのポケットからガーゼを取り出し手を拭いた。日傘はたたんで持っていたがこういうときには厄介だ。結局問題なさそうなところに立てかけて、弁天様に手を合わせ、再び持ち直して、鳥居から通りに戻った。昼の三時前で、甘味がほしくなった。誰のためということもないのだが、好物のいちご大福を二つ買い求めてから、曙橋にあるスナック「木蓮」に向かった。「木蓮」は比呂乃が経営する小さな和風スナックで、古い洋館の一階にある。
比呂乃が勤め人だったころは、かっちりしたツーピースやスーツを着ていたこともあるし、プライベートでは着飾った時期もある。従業員として店に立っていた時は見栄えのする格好や、客人を惹きつけるような衣装を身に着けていたことも当然ある。しかし妙齢になった今は、もはや体に負担をかけたくないし、着飾る精神も重くなってしまった。そんなことは捨ててしまって、心軽く私らしい笑顔で人や自然と関わっていきたい、そんな風に感じるようになった。今は歩きやすく踏ん張りやすいスニーカーが一番楽だし、服は軽さが重要だ。通勤途中による弁天様は美しい神様だが、お参りしていると時々風が吹いたり、ハトが飛んできて、「今が一番素敵よ。」と比呂乃に言ってくれているような気がしている。さっきお参りした時には、ひと際、蝉時雨が賑やかになったのを感じながら、弁天様に礼をしたものであった。
店につくと比呂乃は、締めきっていた店のドアと窓を開け空気を入れ替えた。カウンターの中にあるシンクで、ザバザバとむしろ豪快に洗顔し、首にかけたタオルで顔を拭いた。
冷えた麦茶をグラスに入れて、さあ大福で一服しようと鶴亀屋の包装紙を開いたところで、
「比呂ちゃん、居る~?」表から、ぶっきらぼうなような、それでいて少し甘えを含んだような男の声が聞こえてきた。
「ケンちゃん!?」比呂乃の声は弾んだ。
はたして、陽に灼けたケンちゃんが、何か大きなものを手に提げて立っていた。
ケンちゃんは5年くらい前までは、しょっちゅう飲みに来ていた「木蓮」の常連だ。それよりもっと前、お互い会社員だったころから、年が近い二人は飲み仲間だった。人数は変動したが他にも酒場だけの付き合いの飲み仲間が大勢いた。ゴールデン街や三丁目でよく飲んで騒いだ。その内、お互いいろんな経験を重ね、一人二人と離れていき、残ったメンバーも少しずつ距離ができた。そして、比呂乃は「木蓮」を始めた。それを知ったケンちゃんがお祝いと称して店を訪ねてきてくれて、再び交流するようになった。
しかし、ほどなくしてケンちゃんの様子が変わった。うつむき加減になり、出かけるのもおっくうな様子になった。そのくせお酒が進むので体調を崩しているようにも見えた。
ある時、近くの「より道」のみい子ママが電話をかけてきた。
比呂乃は若いころ上京してから、何かあると「より道」でみい子ママに聞いてもらうことが習慣となっていたので、ママは東京の母親のような存在だった。だから電話は、比呂乃や比呂乃の友達のケンちゃんを、健康的にしようとママなりに考えてくれてのことだった。ママは、「明日、借りている区の家庭菜園に行くけれど、二人でお天道様にあたりにおいでなさいな。」と誘ってくれた。比呂乃は素直に従って、ケンちゃんに力仕事があるから付き合ってとお願いした。ケンちゃんは「人の役に立てるなら」と、翌日午前の約束を守ってくれた。
三人で畑仕事をして、みい子ママとは畑で別れ、二人は「木蓮」に帰ってきた。店でそうめんと収穫したものの中から頂いたトマトと西瓜を切り分けて、簡単な食事をすませ、麦茶を飲みながら少し話したのだった。
ケンちゃんは田舎の両親とずっと上手くいっていなかった。子供の頃からそうだったようだ。そのことは長い付き合いで、比呂乃もなんとなく知っていた。ケンちゃんは詳しく話さなかったが、また問題が起きている様だった。その上、仕事先でも上司が異動となり、新しい上司から理不尽に厳しく当たられるようになって参っていると、珍しくケンちゃんが正直に話してくれた。そして「どうせ、俺なんか。」とこぼした。
比呂乃は悲しかった。そして、ケンちゃんがせっかく話してくれたのに、言葉が見当たらない自分が悔しかった。
「俺だって役に立つことしたいんだ。」と言って、畑に行く気になってくれたケンちゃん。ケンちゃんの心に溜まってしまった暗いものが取り払われればいいと、あの日の比呂乃は願った。
それからしばらくして、ケンちゃんはリハビリに通うようになった。そして、いったん仕事をやめて療養に専念し、しばらくは顔を見せなかった。
二年前の春、しばらくぶりに比呂乃を訪ねてきて、今は地方で畑仕事をしているんだと聞かせてくれた。そして、改めて、比呂乃には心配をかけたと詫びたりした。比呂乃は黙って、膝においたケンちゃんのこぶしをそっと包んだ。
その後、ケンちゃんは季節ごとに電話してきたり、近くに来たからと立ち寄って、ますます日焼けして精悍になった顔を見せてくれている。
今日もこうして畑でできた西瓜を、遠路わざわざ持ってきてくれた。ケンちゃんの西瓜はとても甘くておいしいと「木蓮」のお客様にも好評だ。あとで有難くいただくことにした。
ケンちゃんの話はいつも作物の話か仲間の話だ。最近入った若い仲間にはまず作る楽しさや喜びを知ってもらうようにするんだ。だから辛いことは俺らがするんだよ。俺らもそうしてもらったもんな。
酒もたばこもやめてしまったケンちゃんは、いちご大福を美味しそうに食べながら、ずっと話し続ける。ケンちゃんは今ここにいても、心の中ではいつも仲間と一緒にいるのだろう。比呂乃は思った。
「今のケンちゃんが、一番素敵だよ。」
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