49 / 52
4章 星よ降れ
2
しおりを挟む
山道にはぽつぽつと街灯が立っていたけど、それでも小石や木の根にうっかり躓きそうになってしまう。
やがて、私たちの耳にその音が届いた。
ぽた、ぽた。木の葉が水滴に打たれる音。
雨が降り出した。
やっぱり、と私たちは口にしなかった。見上げると、葉の隙間に見える空はいつの間にか雲に覆われていて、星は一つも見えなくなっていた。
次第に雨は勢いを増す。旭が立ち止まって、鞄から折り畳み傘を二本取り出した。それぞれ傘をさして再び山道を登る。茂る葉に遮られていても、大粒の雨が傘を叩く音が響いた。たちまち地面はぬかるんで、油断すれば足を滑らせて転びそうになる。さっきまでの晴天が嘘のような土砂降りだった。
一言も口を利かず、ただ黙々と一本道を行く。視線を上げると灯りが近づいてきた。あまりの雨に天体観測を諦めた人たちが引き返しているのだった。唐突な雨に困惑の表情を浮かべながら、足早に私たちと逆方向に歩いていく。すれ違う時、残念だと口にするのが聞こえた。
当初の予定では到着しているはずの時間になっても、私たちは歩いていた。道は暗く、足元は悪く、ゆっくりと進むしかない。ただ迷うことのない一本道なのが幸いだった。
遠くでごろごろと雷が鳴る。強い風が吹いて、その冷たさに指先の感覚を失う。嵐と呼んでも過言ではない天気だった。木々はざわざわと鳴り、枝はしなり、葉がぽろぽろと地面に落ちる。傘では防ぎきれない激しい雨に、最早身体はずぶ濡れだった。
私は短い悲鳴を上げた。吹き付ける突風に、心許ない折り畳み傘があおられる。嫌な手ごたえがあった。見ると、傘の骨が折れてしまっていた。
「傘はもう意味がない。さしとった方が危ない」
旭が言うのに、私もそう思う。彼が自分と私の傘を手にして、小さくたたみ、鞄にしまった。
直接雨に打たれながら、なおも私たちは歩いた。雨の一粒一粒が冷たくて、一滴ごとに体温を奪われる気がした。身体の芯が冷えて、吹く風が余計に体感温度を下げる。大きな雨粒がうなじに入り込んで、身震いする。全てが、私たちを拒んでいるかのようだった。
黙って歩く旭が、何度も心配そうに私を見る。彼の顔を見ないまま、私は進む。そんな強がりもむなしく、硬い木の根に躓いて、私は膝をついた。水たまりがはぜて、濡れていたズボンがいっそう水を吸った。
「……戻ろう」
雨音の中で、彼が呻くように言った。私は聞こえないふりをしながら立ち上がる。前髪から垂れる水が目に入るから、右手の甲でこすって追い出す。懐中電灯で前を照らしても、明かりは山の暗さに溶けていき、遠雷の音が鼓膜を揺さぶった。
再び歩き出しながら、旭が私の名前を呼んだ。
「梓、戻ろう」
「いやだ」
私は歯を食いしばって歩く。
「雷が落ちるかもしれん。危ない」
「大丈夫、私たちには落ちない」
「そんでも、風邪ひいてしまう」
雨の中で立ち止まり、彼と向かい合った。彼の心配そうな不安げな、いたたまれない表情が見えた。
「なあ、梓……」
「風邪なんて、大した問題じゃないよ」
「俺は嫌や。梓が苦しむ姿なんか見たくない」
「私は、ここまで来て戻る方が嫌」
「勘弁してくれ。もうぼろぼろやないか」
「旭は……」雨にかき消えないよう、声を張る。「旭は、見たくないの。流星群」
彼は口を噤んだ。やがて、でも、と苦しそうに呻く。
「すぐにこの雨が止むとは思えん。星どころやない」
「絶対晴れる。私たちは、流れ星を見ることができる」
「仮にそうやとしても、この雨は俺のせいや。これで梓が身体を壊してしまうんが、俺は一番嫌なんや」
「この雨が旭と関係あるとは限らないじゃん! もし旭が降らせてるんだとしても、私が好きになったのは世界一の雨男だよ。雨に濡れるのなんて、今更問題じゃない」
私は全てを受け入れる。彼と、彼がもたらすもの、それがどんな温度や形をしていても、全てを抱きしめて笑ってやる。
それが、私の覚悟。最愛の覚悟だ。
「約束したでしょ。この島で、流星群を見るって」
私が笑いかけると、旭は顔を歪めた。
「だから必ず雨は止む。そして私たちは、流れ星を見ることができる」
彼は黙って私を見つめて、私も彼を見つめ返した。かなわんな。そんな台詞とともに、彼は笑って、右手を差し出した。
やがて、私たちの耳にその音が届いた。
ぽた、ぽた。木の葉が水滴に打たれる音。
雨が降り出した。
やっぱり、と私たちは口にしなかった。見上げると、葉の隙間に見える空はいつの間にか雲に覆われていて、星は一つも見えなくなっていた。
次第に雨は勢いを増す。旭が立ち止まって、鞄から折り畳み傘を二本取り出した。それぞれ傘をさして再び山道を登る。茂る葉に遮られていても、大粒の雨が傘を叩く音が響いた。たちまち地面はぬかるんで、油断すれば足を滑らせて転びそうになる。さっきまでの晴天が嘘のような土砂降りだった。
一言も口を利かず、ただ黙々と一本道を行く。視線を上げると灯りが近づいてきた。あまりの雨に天体観測を諦めた人たちが引き返しているのだった。唐突な雨に困惑の表情を浮かべながら、足早に私たちと逆方向に歩いていく。すれ違う時、残念だと口にするのが聞こえた。
当初の予定では到着しているはずの時間になっても、私たちは歩いていた。道は暗く、足元は悪く、ゆっくりと進むしかない。ただ迷うことのない一本道なのが幸いだった。
遠くでごろごろと雷が鳴る。強い風が吹いて、その冷たさに指先の感覚を失う。嵐と呼んでも過言ではない天気だった。木々はざわざわと鳴り、枝はしなり、葉がぽろぽろと地面に落ちる。傘では防ぎきれない激しい雨に、最早身体はずぶ濡れだった。
私は短い悲鳴を上げた。吹き付ける突風に、心許ない折り畳み傘があおられる。嫌な手ごたえがあった。見ると、傘の骨が折れてしまっていた。
「傘はもう意味がない。さしとった方が危ない」
旭が言うのに、私もそう思う。彼が自分と私の傘を手にして、小さくたたみ、鞄にしまった。
直接雨に打たれながら、なおも私たちは歩いた。雨の一粒一粒が冷たくて、一滴ごとに体温を奪われる気がした。身体の芯が冷えて、吹く風が余計に体感温度を下げる。大きな雨粒がうなじに入り込んで、身震いする。全てが、私たちを拒んでいるかのようだった。
黙って歩く旭が、何度も心配そうに私を見る。彼の顔を見ないまま、私は進む。そんな強がりもむなしく、硬い木の根に躓いて、私は膝をついた。水たまりがはぜて、濡れていたズボンがいっそう水を吸った。
「……戻ろう」
雨音の中で、彼が呻くように言った。私は聞こえないふりをしながら立ち上がる。前髪から垂れる水が目に入るから、右手の甲でこすって追い出す。懐中電灯で前を照らしても、明かりは山の暗さに溶けていき、遠雷の音が鼓膜を揺さぶった。
再び歩き出しながら、旭が私の名前を呼んだ。
「梓、戻ろう」
「いやだ」
私は歯を食いしばって歩く。
「雷が落ちるかもしれん。危ない」
「大丈夫、私たちには落ちない」
「そんでも、風邪ひいてしまう」
雨の中で立ち止まり、彼と向かい合った。彼の心配そうな不安げな、いたたまれない表情が見えた。
「なあ、梓……」
「風邪なんて、大した問題じゃないよ」
「俺は嫌や。梓が苦しむ姿なんか見たくない」
「私は、ここまで来て戻る方が嫌」
「勘弁してくれ。もうぼろぼろやないか」
「旭は……」雨にかき消えないよう、声を張る。「旭は、見たくないの。流星群」
彼は口を噤んだ。やがて、でも、と苦しそうに呻く。
「すぐにこの雨が止むとは思えん。星どころやない」
「絶対晴れる。私たちは、流れ星を見ることができる」
「仮にそうやとしても、この雨は俺のせいや。これで梓が身体を壊してしまうんが、俺は一番嫌なんや」
「この雨が旭と関係あるとは限らないじゃん! もし旭が降らせてるんだとしても、私が好きになったのは世界一の雨男だよ。雨に濡れるのなんて、今更問題じゃない」
私は全てを受け入れる。彼と、彼がもたらすもの、それがどんな温度や形をしていても、全てを抱きしめて笑ってやる。
それが、私の覚悟。最愛の覚悟だ。
「約束したでしょ。この島で、流星群を見るって」
私が笑いかけると、旭は顔を歪めた。
「だから必ず雨は止む。そして私たちは、流れ星を見ることができる」
彼は黙って私を見つめて、私も彼を見つめ返した。かなわんな。そんな台詞とともに、彼は笑って、右手を差し出した。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
アマツバメ
明野空
青春
「もし叶うなら、私は夜になりたいな」
お天道様とケンカし、日傘で陽をさえぎりながら歩き、
雨粒を降らせながら生きる少女の秘密――。
雨が降る日のみ登校する小山内乙鳥(おさないつばめ)、
謎の多い彼女の秘密に迫る物語。
縦読みオススメです。
※本小説は2014年に制作したものの改訂版となります。
イラスト:雨季朋美様
月夜の理科部
嶌田あき
青春
優柔不断の女子高生・キョウカは、親友・カサネとクラスメイト理系男子・ユキとともに夜の理科室を訪れる。待っていたのは、〈星の王子さま〉と呼ばれる憧れの先輩・スバルと、天文部の望遠鏡を売り払おうとする理科部長・アヤ。理科室を夜に使うために必要となる5人目の部員として、キョウカは入部の誘いを受ける。
そんなある日、知人の研究者・竹戸瀬レネから研究手伝いのバイトの誘いを受ける。月面ローバーを使って地下の量子コンピューターから、あるデータを地球に持ち帰ってきて欲しいという。ユキは二つ返事でOKするも、相変わらず優柔不断のキョウカ。先輩に贈る月面望遠鏡の観測時間を条件に、バイトへの協力を決める。
理科部「夜隊」として入部したキョウカは、夜な夜な理科室に来てはユキとともに課題に取り組んだ。他のメンバー3人はそれぞれに忙しく、ユキと2人きりになることも多くなる。親との喧嘩、スバルの誕生日会、1学期の打ち上げ、夏休みの合宿などなど、絆を深めてゆく夜隊5人。
競うように訓練したAIプログラムが研究所に正式採用され大喜びする頃には、キョウカは数ヶ月のあいだ苦楽をともにしてきたユキを、とても大切に思うようになっていた。打算で始めた関係もこれで終わり、と9月最後の日曜日にデートに出かける。泣きながら別れた2人は、月にあるデータを地球に持ち帰る方法をそれぞれ模索しはじめた。
5年前の事故と月に取り残された脳情報。迫りくるデータ削除のタイムリミット。望遠鏡、月面ローバー、量子コンピューター。必要なものはきっと全部ある――。レネの過去を知ったキョウカは迷いを捨て、走り出す。
皆既月食の夜に集まったメンバーを信じ、理科部5人は月からのデータ回収に挑んだ――。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ARIA(アリア)
残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……
さよなら、真夏のメランコリー
河野美姫
青春
傷だらけだった夏に、さよならしよう。
水泳選手として将来を期待されていた牧野美波は、不慮の事故で選手生命を絶たれてしまう。
夢も生きる希望もなくした美波が退部届を出した日に出会ったのは、同じく陸上選手としての選手生命を絶たれた先輩・夏川輝だった。
同じ傷を抱えるふたりは、互いの心の傷を癒すように一緒に過ごすようになって――?
傷だらけの青春と再生の物語。
*アルファポリス*
2023/4/29~2023/5/25
※こちらの作品は、他サイト様でも公開しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる