雨、時々こんぺいとう

柴野日向

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2章 白雨は星の形

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 決して大きくないアパートだけど、玄関口の自動ドアはオートロックだった。入るには壁の文字盤で部屋番号を入力して、住人に開けてもらう必要がある。まさか202を押すわけにもいかないし、誰かの出入りを待つのは怪しすぎる。旭も流石に諦めるだろうと思い、ついて行くとは言ったものの、私は少しほっとした。
 彼は透明なガラスの向こうを覗き込んでいる。「これは開けられないね」私は追い打ちをかける。
「ちょっと待ってろ」
 彼は踵を返してすたすたと玄関を離れた。意味が分からず様子を見ていると、旭はマンション脇のゴミ捨て場からチラシを一枚拾ってきた。何をするつもりだろう。再び自動ドアの前に立つと、ガラス戸と壁の隙間にチラシを差し込んで、上下に軽く振っている。
「何して……」
 言い終わる前に自動ドアが開いた。「入るぞ」ぽかんとする私を旭が促す。目をやると、彼がチラシをかざしていた壁には内側に取り付けられたセンサーがあった。中から外に出る人がここに立つと、ドアが開く仕組みだ。
「なんでそんな方法知ってんの」唖然としつつ、仕方なく私は彼に続く。
「常識やで」彼はチラシを丸めて隅のゴミ箱に放り込んだ。
「そんなわけないじゃん」
 呆れながらエントランスを見渡した。正面に一機のエレベーター、その脇に階段がある。右手側には部屋数だけ郵便受けが並んでいるけど、数えるほどしか名前は入っていない。残念ながら202号室も空欄だった。反対側には掲示板があって、何枚かの紙が押しピンで留められている。ガス点検のお知らせ、ゴミの分別表、騒音による苦情について。
 一通り眺めて、旭が階段に向かったから、私もその背を追う。「ほんとに行くの?」まだそんなことを言ってしまう。
「開けてくれると思えないけど」
「開けさせるしかないやろ」
 どうやら彼には考えがあるらしい。少しどきどきしながら踊り場を過ぎ、二階の廊下に辿り着いた。手すりの向こうの景色には、やや曇った空が広がっている。だけど雨は降らなさそう。
「ここまで来させて悪いけど、梓は深入りするなよ。喋るんは俺だけの方がええ」
「私だって、文句ぐらい言いたいのに……」
「とりあえずや。まずは任せといてくれ」
 旭の言うことは正しいと思ったから、不承不承でも頷いた。私が余計な一言を言って相手を怒らせてしまうのも怖いし、大の男が相手という不安は大きい。下手にでしゃばるよりも、最後まで旭に任せるのが一番だ。
 廊下を進んで、202号室の前に立った。自分の喉元をこぶしで軽くとんとんと叩いて、旭はチャイムを押した。
 居るはずなのに返事がない。耳を澄ませていると、二度目のチャイムでようやく微かな足音が近づいてくるのが聞こえた。
「誰?」
 間違いない、あの電話で聞いた声だ。
「すみません、管理会社の暮林くればやしの者ですが」
 普段より低いトーンで、旭はぼそぼそと喋る。
「ご存じかと思いますが、一階の方から騒音の苦情がありまして。どの部屋の音か調査を行っているんです。少し床を調べさせてもらえませんでしょうか」
「調べるって、部屋に上がるってこと? 冗談でしょ」
「一階に会社の者がおりますので、少しだけ床を叩かせていただきたいのです。上階の全室回ることになっておりまして。201号室の宮下みやしたさんにも先ほどご協力いただいたばかりでして」
 確か騒音は掲示板に注意喚起されていたもので、右下には暮林株式会社と、管理会社の名前があった。私は覚えていないけど、201号室の郵便受けにも住民の名前が入っていたのかもしれない。あれを見た時から、旭は相手を信用させるシナリオを頭に描いていたんだろう。管理会社の人間なら、オートロックのドアを開けて、直接部屋を訪問してもおかしくはない。きっと、敷地の外から覗いた時、部屋のドアに覗き穴が設置されていないことも把握していたのだ。
「お休みのところ大変申し訳ございませんが、五分もかかりませんので。……もしかして、ご来客中でしょうか」
「いや、そんなことはないけど……」
 どうやら部屋には一人だけ。オートロック問題と、管理会社と隣人の名前、それで信用したらしい。ドアの鍵を開ける音がした。
 二十センチぐらい開いてチェーンがかかっていないのを確かめた途端、旭は隙間に靴先を突っ込んで蹴り開けるようにしながら、掴んだドアレバーを思い切り引いた。さっきまで尾行していた男の人が、引きずられるように出てきた。
「おいおっさん、えらい面倒かけてくれたな」
 たちまち旭はいつものイントネーションに戻った。少し間をおいて、相手は「わっ」と声をあげて仰け反る。
「あんた、まさか……樹旭か?」
「よう知っとるやんか。こそこそしやがって」
 後ずさりする相手に続いて、旭は狭い玄関に踏み入れる。私も後ろから部屋を覗き込んだ。ドアと狭いキッチンに挟まれた廊下の向こうに、散らかった部屋が見える。積み重なった雑誌や、割り箸の生えたゴミ袋の姿があちこちにある、長居はしたくない部屋だった。
「入ってくるな、不法侵入だ。け、警察呼ぶぞ」
「ああ?」旭が左足で思い切り上がり框を蹴りつけてすごむ。「ほんなら呼んだらええわ。せやけど俺も警察に言うたるわ。先にしょーもないストーカーしよったんはおっさんやってな! わかっとんか!」
 その迫力に、男の人は尻もちをついた。旭は身体が大きいわけじゃないし細身の部類だけど、若い健康体であるのは頼もしかった。向こうは二倍以上生きていても、不健康にひょろりとした貧相な体つきだ。眼鏡をかけているのが余計に貧弱さを感じさせる。単純に力を比べてどちらが勝つかは、見た目だけで予想できる。
「なあ、おっさん。別に俺は何かしようってわけやないんや」
 何よりこの喋り方が相手に威圧感を与えているようだった。
「正直に言うてくれたら、大したことはせえへん。その方がええやろ。……崎本が撮った写真を梓に送ったんは、おっさんで間違いないな?」
 一瞬私の方を見て、慌てて頷いた。その時やっと、七瀬梓もいることに気が付いたみたいだった。
「どこでメルアドを知ったんや」
「……図書館で、席を空けた時に、スマホを見て」
 その言葉に、私は心当たりがあった。図書館の一階にジュースを買いに行く時、もしくは中庭にぷちを撫でに行く時、うっかりスマホを席に置いたままだったことが何度かあった。あの隙に見られていたんだ。
 知らない男の人にスマホをこっそり触られていた。気持ち悪さに私の腕にはぶわりと鳥肌が立つ。
「それがほんまやとしたら、おっさんは図書館にもおったんやな。なんでこんなことをしたんや」
「こんなことって……」
「わかっとるやろが!」土足のまま廊下に上がり、仁王立ちになる。「崎本を雇うて、俺の噂を流した。桜浜の女子を焚きつけて、俺に気があるように梓に見せかけた。全部おっさんが考えたことやろ!」
 返事がないのが何よりの返事だった。というより、怯えて返事ができないみたいだった。
「なあ、なんでそんなことしたん。写真一枚に五千円も出すほど熱心やったやんか。こればっかりは正直に言うてくれんと推測もでけへん」
「……まさか、あの電話の相手も」
「やっと気付いたな。正真正銘、俺がかけとったんやで」
 相手の前にしゃがみ込む。決して逃がさないというオーラがすごい。
 やがて観念したように、相手は喋り始めた。
「……なんでか、腹が立ったんだ。こ、公園で見かけて、仲良さげにしてるのを見てると、ムカついてきて。それで制服から学校が分かって」
 声が小さいので聞き取り辛いけど、そんなことを言っている。
「俺が高校の時なんか、女の子と遊ぶことなんて、一度もなかったのに。それを思い出すと……」
 青春コンプレックスという言葉を思い出す。この人は、今の今まで、理想の学生時代を過ごせなかったコンプレックスを拗らせて生きてきたんだろうか。顔見知りでもない高校生を見て、そこまで嫉妬に狂うものなんだろうか。
「だから、壊してやろうと思って」
 言葉が途中で切れた。旭がその胸ぐらを掴んでいた。
「誰がそんな話聞かせろて言うた」声の静けさがやたら怖い。「騙せるとでも思とんか? そんなん言うたら、あんた、街中の学生を恨まなあかんで。そこらの店でも電車でも、どこに行ってもおっさんのターゲットはおるっちゅうことや。信じられへん」
 私と旭は仲良しだと思う。しょっちゅう一緒に話をしている。
 だけど、少し外に出れば、私たちなんて比じゃない本物の学生カップルの姿はいくらでも目に入る。嫉妬するなら、所かまわずイチャつく彼らに対してではないだろうか。
「俺は思うんやけどな。おっさんも誰かに言われてこんなことしたんやないか?」
 彼の言葉に私は仰天した。まさか更に黒幕がいるなんて、想像さえしなかった。だって、そこまでする意味が本当にわからないから。
「それがちゃうなら、ほんまの動機言うてくれや」
「ほんまって言っても、これが本当……」
「そこまで執着される謂れがわからんて言うとるんや」
「な、ないものはないんだ」
「ええ加減にせえ!」
 勢い込んだ旭がバランスを崩した。意を決して彼を突き飛ばしたその人は、裸足をもつれさせながら部屋から飛び出した。慌てて身体を引いた私には見向きもせず、一目散に走っていく。
「待てえや!」
 途端に旭も駆け出して、私も急いでドアから手を離して追いかける。階段を駆け下りて自動ドアを抜けて、閑静な住宅街を走る。だけどただの帰宅部の私に、旭に追いつく脚力があるはずもない。大捕り物の一役を担いたいところだけど、ぐんぐん引き離されていく。
 先を行く背中が左に曲がったのを目にした時、甲高いブレーキ音が耳をつんざいた。鈍い衝突音が続く。少し遅れて角を曲がると、T字路に停車する一台の車の後部が見えた。
「戻れ」
 立ち止まっていた旭は振り返ると、息を切らせる私の両肩に手をやってくるりと方向転換させた。
「あの人……」
「見んでもええ。救急車呼んでくれ」
 嫌な想像が湧いて、足が小刻みに震え出した。
 ちらりと見えたタイヤの脇には、レンズの割れた眼鏡が転がっていた。
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