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2章 白雨は星の形
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それでも旭が非協力的なら諦めようと思っていた。流石に私一人で対峙するのに恐怖心は拭えない。
だけど、私が昨日の一部始終を話して、相手の電話番号を手に入れたことを知ると、旭は俄然やる気を見せた。
「ほんまは崎本に仕返ししたいんやけどな」
「やめなよ、同じ学校なんだし」
わかば公園の東屋のテーブルに、メモ帳を開いた自分のスマホを置く。その隣ではぷちが香箱座りをして、眠たそうな顔で私たちを眺めている。午前十時の公園は、園内の林で鳴く蝉の声で満ちている。今日も大合唱だ。
「やっぱり、崎本くんに協力してもらった方がよかったかな」
実際のところ、電話番号一つを手にして、私に明確な考えはなかった。電話帳にも載っていない相手の素性を辿るには、手がかりとしてあまりに心許ない。これなら崎本くんに協力を仰いで、何らかの手を打ってもらうべきだったかもしれない。
「いや、そんな気まずいことせんでもええ」旭は自分のスマホをテーブルに置いた。「俺がかける」
「直接電話するの?」
「それが一番早い」
「でも、怪しまれたら終わりだよ。崎本くんも、いつ繋がらなくなるかわからないって言ってたし」
「まあ、任せとけ」
旭は一つ二つ咳払いをして、「喋るなよ」と私に忠告した。目をしょぼしょぼさせているぷちの狭い額を指先でつつく。「おまえも静かにしとけよ」はいはいと言うように、ぷちは大あくびをして、尻尾の先をゆるく振った。
私は緊張しながら、旭が指先で電話番号を入力するのを見守る。一体彼はどうするつもりなんだろう。
発信ボタンを押してから、スピーカーに切り替える。コール音が聞こえる。一度、二度、三度。なかなか出ない。もしかして、もう繋がらないのかな。
そう思った時、プツとコール音が途切れた。もしもしの言葉もなく、「誰?」と不愛想な男性の声がした。想像よりも高めの声だった。
ちらりと一度私を見て、旭は視線をスマホに戻す。
「あ、もしもし、サトウさんって人ですか」
「……誰、あんた」
「僕、西ノ浦のサトウっていいますけど」
少しスマホから離れて話す旭の声に、私は驚いた。若干トーンを上げているだけでなく、普段の訛りが一切見えない流暢な標準語だったからだ。
「それ本名?」相手は訝しげに問いかける。
「まあ、今はサトウって呼んでください」
「何? からかってんの? 切るよ」
「崎本がやってるっていう、バイトの話聞いたんですけど」
旭が切り出すと、考えているのか少しだけ沈黙した。
「よくわかんないけど、樹と七瀬っていう子の邪魔したらいいんですよね」
「……あんたも西ノ浦って言ったよね。じゃあ、二組の樹旭ってやつ知ってる?」
「崎本より知ってると思いますよ。同じクラスなんで」
知ってるもなにも本人だ。まさかサトウという人は、今話している相手が樹旭そのものだなんて、これっぽちも思ってないだろう。
「あんた、崎本とは知り合いなんだろ」
「あー、崎本は名前と顔ぐらいしか知らないです。バイトの噂と番号だけ流れてきて、ちょっと金欠なんで気になって」
「あいつ、番号バラまくなって言ったのに」
危ない。崎本くんに今すぐ尋ねられるところだった。私は胸をなでおろす。
「それなら、もうちょっと静かなとこで電話かけてくれないかなあ」相手は文句を言う。「外でしょ。蝉の声がうるさいんだけど」
「かける場所がなくって。だって、家でかけて親に聞かれたら面倒だし」
サトウが旭の声を知っている可能性はゼロじゃない。トーンを上げて、話し方を変えて、蝉の声で誤魔化そうという作戦は、今のところ上手くいっている。
「怪しいなあ」
だけと、そんな言葉に私はぎくりとする。
「バイトしたいなら本名ぐらい教えれるでしょ」
「それなら、サトウさんも教えてくださいよ。偽名ですよね」しかし旭はすまし顔だ。「僕だけ個人情報晒すなんて、フェアじゃないし」
「あのね、雇い主と従業員はフェアな立場じゃないの。わかる? あんた、金もらおうとしてるんだよ。番号だって非通知にして。そっちは俺の言うことだけ聞いてればいいの」
「その言い方、従業員に対するパワハラじゃないですか。コンプライアンスって言葉、知ってます?」
なんで挑発するの。見ているだけで心臓がぎゅっと縮む。案の定、「はあ?」と苛立った声が返ってきた。
「生意気だな、ガキのくせに。もう二度とかけてくるな」
「すいませんって。僕、ちょっと珍しいもん見つけたんで、サトウさんになら売れるかなと思ったんです」
「なんだよ、珍しいもんって」
「昔のあいつの写真ですよ」
「あいつって……もしかして樹か?」
反応した! 思わず手を握りこむ。
「小学生の時かな、樹と母親が一緒に写ってるやつ」
「母親って、椎名紗栄子か」
「そうですね」
「事件の前か」
「そりゃそうでしょ。他にも何枚かありますけど」
確かに、事件直前の旭と母親が一緒にいる写真なんかがあれば、周囲の興味は一層沸き立つ。そうすれば私は更に、彼の隣に居辛くなる。
「なんであんたが、そんな写真もってるんだ」
「貰ったんですよ。ネトゲで樹と小学校が同じだったって知り合いがいるんで、そいつから」
「学校が同じで、そんな写真もってるもんか?」
「幼稚園も同じだったらしいですよ。運動会とかの行事で、親が写真撮りまくるじゃないですか。そいつの親も樹の親と知り合いだったんで、撮った写真を譲ってたらしいです。あいつの話を持ち掛けてみたらくれました」
架空の写真の話を旭はぺらぺらと淀みなく話し、相手は黙り込んだ。ネット上の知り合いが、樹旭の昔の知り合いで、そこから写真を手に入れた。そんな偶然あるのかと疑わしくなるけど、旭の喋り方は自信に満ちていて、本当かもと思わせる。
それにサトウという人にとっては得難い写真だろうし、旭や私の立場を悪くするための立派な手札。欲しいに決まってる。
「……わかった」
しばらくして返事があった。
「写真ってのは何枚ある? 一枚五千円で買い取ってやるよ」
一度ちらりと私を見た旭は、笑みを浮かべて左手でピースを作った。私も頷いてピースを返す。完全に食らいついた。
「四枚ですけど。もうちょっとくれません?」調子に乗ってそんなことまで言う。
「馬鹿言うな。それで十分だろ」
「あー……じゃあ、了解です。直接渡したいんですけど」
「は? データだろ。メールで送れって」
「えー、メルアド教えたくないし。だから非通知でかけてるんですよ。このためだけに捨てアド作るのも、正直めんどいし」
「そんぐらいやれよ、金欲しくないの?」
「その金も、直接じゃなかったらどうやって貰うんですか」
「口座教えれば振り込むよ」
「銀行口座持ってないです」
うだうだ言い訳を続ける旭に、相手が苛立っていくのが分かる。だけど写真欲しさに電話を切るつもりはないらしい。
「サトウさん、どこ住みですか」
「言えるわけないでしょそんなの。……ったく、しょうがないな、楠駅来れる?」
「行けます。あ、じゃあ今度の水曜十時でどうですか。遊ぶ約束してるんで、そのついでに。……もしかして、お仕事ですかね」
「調子乗るなよ」舌打ちする。「……んじゃ、水曜十時ね。遅れるなよ」
旭の返事を待たずに電話は切れた。私の夏休みを羨んでいた兄を思い出す。シフト制の仕事の可能性もあるけど、このサトウという人は、多分まともに働いていないのだろうと思う。
スマホをホーム画面に戻し、長い通話を終えた旭が自慢げな顔で私を見る。「どうや」彼の思い通りに事が運んだ。「すごいね」って私は素直に感心の言葉を告げた。「呼び出し成功だ」
「任せとけって言うたやろ」
「うんうん。すごい!」私はぱちぱちと拍手の真似事をする。「別人みたいだった。普通に喋れるんだね」
「普通とか言うなや。やろうと思えば出来る」
にゃーんと甘えた声を出して、賢く静かにしていたぷちが、仰向けに転がった。旭はその頭を、私はお腹をそれぞれ撫でてあげる。
「でも、呼び出してどうするの」
「動機を直接聞くんや」
「向こうは旭の顔を知ってるよね。逃げられるかも」
「考えがある。まあ見とけ」
猫の額を指先でくすぐりながら、彼は不敵に笑ってみせた。
だけど、私が昨日の一部始終を話して、相手の電話番号を手に入れたことを知ると、旭は俄然やる気を見せた。
「ほんまは崎本に仕返ししたいんやけどな」
「やめなよ、同じ学校なんだし」
わかば公園の東屋のテーブルに、メモ帳を開いた自分のスマホを置く。その隣ではぷちが香箱座りをして、眠たそうな顔で私たちを眺めている。午前十時の公園は、園内の林で鳴く蝉の声で満ちている。今日も大合唱だ。
「やっぱり、崎本くんに協力してもらった方がよかったかな」
実際のところ、電話番号一つを手にして、私に明確な考えはなかった。電話帳にも載っていない相手の素性を辿るには、手がかりとしてあまりに心許ない。これなら崎本くんに協力を仰いで、何らかの手を打ってもらうべきだったかもしれない。
「いや、そんな気まずいことせんでもええ」旭は自分のスマホをテーブルに置いた。「俺がかける」
「直接電話するの?」
「それが一番早い」
「でも、怪しまれたら終わりだよ。崎本くんも、いつ繋がらなくなるかわからないって言ってたし」
「まあ、任せとけ」
旭は一つ二つ咳払いをして、「喋るなよ」と私に忠告した。目をしょぼしょぼさせているぷちの狭い額を指先でつつく。「おまえも静かにしとけよ」はいはいと言うように、ぷちは大あくびをして、尻尾の先をゆるく振った。
私は緊張しながら、旭が指先で電話番号を入力するのを見守る。一体彼はどうするつもりなんだろう。
発信ボタンを押してから、スピーカーに切り替える。コール音が聞こえる。一度、二度、三度。なかなか出ない。もしかして、もう繋がらないのかな。
そう思った時、プツとコール音が途切れた。もしもしの言葉もなく、「誰?」と不愛想な男性の声がした。想像よりも高めの声だった。
ちらりと一度私を見て、旭は視線をスマホに戻す。
「あ、もしもし、サトウさんって人ですか」
「……誰、あんた」
「僕、西ノ浦のサトウっていいますけど」
少しスマホから離れて話す旭の声に、私は驚いた。若干トーンを上げているだけでなく、普段の訛りが一切見えない流暢な標準語だったからだ。
「それ本名?」相手は訝しげに問いかける。
「まあ、今はサトウって呼んでください」
「何? からかってんの? 切るよ」
「崎本がやってるっていう、バイトの話聞いたんですけど」
旭が切り出すと、考えているのか少しだけ沈黙した。
「よくわかんないけど、樹と七瀬っていう子の邪魔したらいいんですよね」
「……あんたも西ノ浦って言ったよね。じゃあ、二組の樹旭ってやつ知ってる?」
「崎本より知ってると思いますよ。同じクラスなんで」
知ってるもなにも本人だ。まさかサトウという人は、今話している相手が樹旭そのものだなんて、これっぽちも思ってないだろう。
「あんた、崎本とは知り合いなんだろ」
「あー、崎本は名前と顔ぐらいしか知らないです。バイトの噂と番号だけ流れてきて、ちょっと金欠なんで気になって」
「あいつ、番号バラまくなって言ったのに」
危ない。崎本くんに今すぐ尋ねられるところだった。私は胸をなでおろす。
「それなら、もうちょっと静かなとこで電話かけてくれないかなあ」相手は文句を言う。「外でしょ。蝉の声がうるさいんだけど」
「かける場所がなくって。だって、家でかけて親に聞かれたら面倒だし」
サトウが旭の声を知っている可能性はゼロじゃない。トーンを上げて、話し方を変えて、蝉の声で誤魔化そうという作戦は、今のところ上手くいっている。
「怪しいなあ」
だけと、そんな言葉に私はぎくりとする。
「バイトしたいなら本名ぐらい教えれるでしょ」
「それなら、サトウさんも教えてくださいよ。偽名ですよね」しかし旭はすまし顔だ。「僕だけ個人情報晒すなんて、フェアじゃないし」
「あのね、雇い主と従業員はフェアな立場じゃないの。わかる? あんた、金もらおうとしてるんだよ。番号だって非通知にして。そっちは俺の言うことだけ聞いてればいいの」
「その言い方、従業員に対するパワハラじゃないですか。コンプライアンスって言葉、知ってます?」
なんで挑発するの。見ているだけで心臓がぎゅっと縮む。案の定、「はあ?」と苛立った声が返ってきた。
「生意気だな、ガキのくせに。もう二度とかけてくるな」
「すいませんって。僕、ちょっと珍しいもん見つけたんで、サトウさんになら売れるかなと思ったんです」
「なんだよ、珍しいもんって」
「昔のあいつの写真ですよ」
「あいつって……もしかして樹か?」
反応した! 思わず手を握りこむ。
「小学生の時かな、樹と母親が一緒に写ってるやつ」
「母親って、椎名紗栄子か」
「そうですね」
「事件の前か」
「そりゃそうでしょ。他にも何枚かありますけど」
確かに、事件直前の旭と母親が一緒にいる写真なんかがあれば、周囲の興味は一層沸き立つ。そうすれば私は更に、彼の隣に居辛くなる。
「なんであんたが、そんな写真もってるんだ」
「貰ったんですよ。ネトゲで樹と小学校が同じだったって知り合いがいるんで、そいつから」
「学校が同じで、そんな写真もってるもんか?」
「幼稚園も同じだったらしいですよ。運動会とかの行事で、親が写真撮りまくるじゃないですか。そいつの親も樹の親と知り合いだったんで、撮った写真を譲ってたらしいです。あいつの話を持ち掛けてみたらくれました」
架空の写真の話を旭はぺらぺらと淀みなく話し、相手は黙り込んだ。ネット上の知り合いが、樹旭の昔の知り合いで、そこから写真を手に入れた。そんな偶然あるのかと疑わしくなるけど、旭の喋り方は自信に満ちていて、本当かもと思わせる。
それにサトウという人にとっては得難い写真だろうし、旭や私の立場を悪くするための立派な手札。欲しいに決まってる。
「……わかった」
しばらくして返事があった。
「写真ってのは何枚ある? 一枚五千円で買い取ってやるよ」
一度ちらりと私を見た旭は、笑みを浮かべて左手でピースを作った。私も頷いてピースを返す。完全に食らいついた。
「四枚ですけど。もうちょっとくれません?」調子に乗ってそんなことまで言う。
「馬鹿言うな。それで十分だろ」
「あー……じゃあ、了解です。直接渡したいんですけど」
「は? データだろ。メールで送れって」
「えー、メルアド教えたくないし。だから非通知でかけてるんですよ。このためだけに捨てアド作るのも、正直めんどいし」
「そんぐらいやれよ、金欲しくないの?」
「その金も、直接じゃなかったらどうやって貰うんですか」
「口座教えれば振り込むよ」
「銀行口座持ってないです」
うだうだ言い訳を続ける旭に、相手が苛立っていくのが分かる。だけど写真欲しさに電話を切るつもりはないらしい。
「サトウさん、どこ住みですか」
「言えるわけないでしょそんなの。……ったく、しょうがないな、楠駅来れる?」
「行けます。あ、じゃあ今度の水曜十時でどうですか。遊ぶ約束してるんで、そのついでに。……もしかして、お仕事ですかね」
「調子乗るなよ」舌打ちする。「……んじゃ、水曜十時ね。遅れるなよ」
旭の返事を待たずに電話は切れた。私の夏休みを羨んでいた兄を思い出す。シフト制の仕事の可能性もあるけど、このサトウという人は、多分まともに働いていないのだろうと思う。
スマホをホーム画面に戻し、長い通話を終えた旭が自慢げな顔で私を見る。「どうや」彼の思い通りに事が運んだ。「すごいね」って私は素直に感心の言葉を告げた。「呼び出し成功だ」
「任せとけって言うたやろ」
「うんうん。すごい!」私はぱちぱちと拍手の真似事をする。「別人みたいだった。普通に喋れるんだね」
「普通とか言うなや。やろうと思えば出来る」
にゃーんと甘えた声を出して、賢く静かにしていたぷちが、仰向けに転がった。旭はその頭を、私はお腹をそれぞれ撫でてあげる。
「でも、呼び出してどうするの」
「動機を直接聞くんや」
「向こうは旭の顔を知ってるよね。逃げられるかも」
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