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3章 ノンフィクション
幸せと引換えに1
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ある日突然、少女は姿を消した。
何の前触れも感じさせないまま、少女は少年の前に姿を現さなくなった。元来不眠症の彼女は、毎日欠かさず早朝に起きてくるわけではなかったが、この数か月間、三日を超えて顔を合わせないことは一度もなかったのだ。
どうしたんだろう。変わらずに毎朝新聞を配達する少年がいくら首を傾げても、その答えは得られなかった。新聞を解約したり、停止するという話もない。からかっては笑ってくれる彼女は、姿を消して一週間が経っても出てくる気配はなかった。
そうして彼の心に転がる不安の種が、毎朝彼女の家を訪れるたびに水と肥料を得ては不本意にも成長していった。朝の冷えた空気の中、格安の自動販売機の前を通り過ぎ、「桜庭」の表札の前まで辿り着いては家を見上げてみた。しかし、そもそも彼は、彼女が寝起きする部屋の位置さえ知らない。見当をつけようにも全ての電気が消えた早朝の様子だけでは、なんの予想も立てられなかった。
だが、昨日届けた新聞が姿を消しているのは、この家の誰かが毎回新聞を取り込み生活を営んでいる証拠だ。母子家庭で兄弟もいないという話だから、それは彼女か、彼女の母親だろう。彼女の嫌っている叔父が例え入り浸っていたとしても、律儀に新聞を取り込む人間だとは考え辛い。
何か大きな不幸があったのか。外に出られないほどの病気なのか。何かしらの事故やけがで、そもそもこの家に彼女はいないのか。ただ不安を募らせる少年は幾度も考えるが、彼は仕事中の自分の立場をよくわきまえていた。玄関どころか、門より内側に足一本踏み入れたことさえ一度もない。それはいけないことだと自分を諫め、その足でペダルを踏み込んだ。そうして大事な家の手伝いをおざなりに、放課後は遠回りの先の公園で、六時のメロディーが時計台から流れるまでベンチに座っていたが、その姿はいつも独りぼっちだった。
少女が少年の前から姿を消して二週間が経ち、不安の芽がいよいよ茎をのばし成長し始めたある朝のこと。緑ヶ丘第二中学校の始業時間十分前、最後の曲がり角で、少年はいきなり後ろから腕を掴まれた。
咄嗟に声も出せなかった彼の前に立つのは、制服姿の少女だった。他の生徒の姿もぱらぱらと見られる場所で二人が出会うことなど、これまでに一度もないことだった。
喜びよりも戸惑いに、前髪の奥で目を見開く彼の腕を、彼女は至って落ち着いた表情でぎゅっと握っている。これから駅まで走ったとしても高校の始業時刻にはとうに間に合わない頃合いだったが、彼女にそれを気にする様子はまるでなかった。
「ねえ、今晩空いてる?」
唐突にそう問いかける彼女に、「今日?」と彼は短く返した。彼にとっても、周囲に気づかれないか、囃されないかと思い悩む余裕などまるでなかった。それだけ、腕を掴む彼女の手には力が入っている。
「空いてなくても来てよ」
いつも通り強引だが、それ以上に彼女の台詞には焦りがあった。
「でも」彼は言い淀む。「明日も学校だし、新聞配達あるし……」
「いいの、お願い。これだけだから」
少女は少年に、夜になったらみどり公園に来てくれとだけ言い放ち、手を離した。二人一緒にいる姿を、既に通学路の五、六人に目にされたが、そんな避けたいはずの状況にも彼女は全く動じる様子がない。
ただ事でない緊張感に逡巡する彼がようやく頷くと、彼女は踵を返し足早に去っていってしまった。
みどり公園は、比較的広々としていて人気のある公園だが、時計台の文字盤が午後九時を示す平日となれば、人の姿はすっかりなくなった。
夜闇が蹲る中、なんとか街灯の光を得るベンチに向けて明るい声がかけられた。
「待った?」
秋の虫が鈴の音に似た声を雑木林で響かせる中、いつもの通学鞄を手に下げた少女が、ベンチに座って眠っているように俯いている少年に歩み寄る。
果たして眠っているはずのない彼は、ぱっと顔を上げた。不安げな情けない目にも、どこか安堵を抱いて首を横に振る。
「嘘つき。あんた、家にも帰らなかったんでしょ。もう九時だよ」
そんな言葉に、彼は言い訳がましく呟く。「もし、行き違いになったら、困るから……」そう、時間の指定は一切なく、彼の言い分は至極正しいものだった。
「いいの、帰んなくって。家は」
「電話、しておきました」公園の電話ボックスに視線をやる。
「なんて」
「急用で、泊まってくかもしれないって。……友だちと」
「大嘘つき」
ひどい台詞を口にしながら、彼女は誰もが認める愛らしい笑顔を咲かせる。咲き誇るコスモスのように可憐で、細やかな金木犀のように儚ささえ感じさせる。
「来てよ」
言い放ち、背を向けながら促すのに、少年は黙ったままベンチから腰を上げた。肩に下げる鞄はいつもより重く感じられるが、嫌な予感などはとっくの昔に過ぎ去った。彼女が再び目の前に現れた。この現実を覆す落胆や悲観を携える未来が、彼には想像できなかった。どこに連れていかれるのか。例え驚きはしても、決して後悔はしない。それよりも彼女が伝えようとすることを絶対に逃してはならないと、信念を固めた。
不機嫌にさえ見えるほど、口角が下がるまで口を引き結んだ彼は、今回は鍵の落ちる音に動揺する気配はなかった。挑発的な笑みを浮かべ、彼女が鍵を手にして見据えても、その視線を真っ直ぐに受け止める。やれやれとわざとらしく肩をすくめて歩き出すのに、彼は無言でついて行く。
「生意気な目しちゃってさ。がきんちょのくせに」
階段を上がり、二階の廊下を誰ともすれ違わないまま、少女はドアを開けた。
「鍵、締めときな。逃げたかったら今のうちだよ」
言い放ち、さっさと奥へ進む彼女が聞いたのは、かちゃんと鍵のかかる音。
今更怖気づいて逃げ帰るつもりなど、毛頭ない。いつまでも説明をしない彼女の様子に、彼は憮然とした表情のまま、部屋の入り口に立ち尽くした。
「疲れたでしょ。寝ちゃってもいいよ」
鞄をぽいと床に放り、彼女は硬いソファーに勢いよく腰を下ろした。反発性の強いソファーは、彼女の体重程度では大きなへこみを見せない。
「なに? もしかして、緊張して寝れない?」
にやにやしながらいたずらっぽく問いかけるが、彼は自分の鞄を足元に下ろすと、何も言わないまますぐに視線を彼女に戻す。
以前とはまるで別人のような姿だが、その真摯な思いは変わらない。前髪に隠れる瞳は相変わらず 深く真っ直ぐに彼女を見据え、今度こそはと離さない。この二週間の出来事を、彼女の今の考えを、この状況を、一つ余さず話してくれと彼は言葉もなく問い詰めていた。
変わんないやつだなと軽い笑みを浮かべ、ようやく彼に向き合った彼女は笑って言った。
「私、あんたが嫌いになっちゃった。別れてよ」
何の前触れも感じさせないまま、少女は少年の前に姿を現さなくなった。元来不眠症の彼女は、毎日欠かさず早朝に起きてくるわけではなかったが、この数か月間、三日を超えて顔を合わせないことは一度もなかったのだ。
どうしたんだろう。変わらずに毎朝新聞を配達する少年がいくら首を傾げても、その答えは得られなかった。新聞を解約したり、停止するという話もない。からかっては笑ってくれる彼女は、姿を消して一週間が経っても出てくる気配はなかった。
そうして彼の心に転がる不安の種が、毎朝彼女の家を訪れるたびに水と肥料を得ては不本意にも成長していった。朝の冷えた空気の中、格安の自動販売機の前を通り過ぎ、「桜庭」の表札の前まで辿り着いては家を見上げてみた。しかし、そもそも彼は、彼女が寝起きする部屋の位置さえ知らない。見当をつけようにも全ての電気が消えた早朝の様子だけでは、なんの予想も立てられなかった。
だが、昨日届けた新聞が姿を消しているのは、この家の誰かが毎回新聞を取り込み生活を営んでいる証拠だ。母子家庭で兄弟もいないという話だから、それは彼女か、彼女の母親だろう。彼女の嫌っている叔父が例え入り浸っていたとしても、律儀に新聞を取り込む人間だとは考え辛い。
何か大きな不幸があったのか。外に出られないほどの病気なのか。何かしらの事故やけがで、そもそもこの家に彼女はいないのか。ただ不安を募らせる少年は幾度も考えるが、彼は仕事中の自分の立場をよくわきまえていた。玄関どころか、門より内側に足一本踏み入れたことさえ一度もない。それはいけないことだと自分を諫め、その足でペダルを踏み込んだ。そうして大事な家の手伝いをおざなりに、放課後は遠回りの先の公園で、六時のメロディーが時計台から流れるまでベンチに座っていたが、その姿はいつも独りぼっちだった。
少女が少年の前から姿を消して二週間が経ち、不安の芽がいよいよ茎をのばし成長し始めたある朝のこと。緑ヶ丘第二中学校の始業時間十分前、最後の曲がり角で、少年はいきなり後ろから腕を掴まれた。
咄嗟に声も出せなかった彼の前に立つのは、制服姿の少女だった。他の生徒の姿もぱらぱらと見られる場所で二人が出会うことなど、これまでに一度もないことだった。
喜びよりも戸惑いに、前髪の奥で目を見開く彼の腕を、彼女は至って落ち着いた表情でぎゅっと握っている。これから駅まで走ったとしても高校の始業時刻にはとうに間に合わない頃合いだったが、彼女にそれを気にする様子はまるでなかった。
「ねえ、今晩空いてる?」
唐突にそう問いかける彼女に、「今日?」と彼は短く返した。彼にとっても、周囲に気づかれないか、囃されないかと思い悩む余裕などまるでなかった。それだけ、腕を掴む彼女の手には力が入っている。
「空いてなくても来てよ」
いつも通り強引だが、それ以上に彼女の台詞には焦りがあった。
「でも」彼は言い淀む。「明日も学校だし、新聞配達あるし……」
「いいの、お願い。これだけだから」
少女は少年に、夜になったらみどり公園に来てくれとだけ言い放ち、手を離した。二人一緒にいる姿を、既に通学路の五、六人に目にされたが、そんな避けたいはずの状況にも彼女は全く動じる様子がない。
ただ事でない緊張感に逡巡する彼がようやく頷くと、彼女は踵を返し足早に去っていってしまった。
みどり公園は、比較的広々としていて人気のある公園だが、時計台の文字盤が午後九時を示す平日となれば、人の姿はすっかりなくなった。
夜闇が蹲る中、なんとか街灯の光を得るベンチに向けて明るい声がかけられた。
「待った?」
秋の虫が鈴の音に似た声を雑木林で響かせる中、いつもの通学鞄を手に下げた少女が、ベンチに座って眠っているように俯いている少年に歩み寄る。
果たして眠っているはずのない彼は、ぱっと顔を上げた。不安げな情けない目にも、どこか安堵を抱いて首を横に振る。
「嘘つき。あんた、家にも帰らなかったんでしょ。もう九時だよ」
そんな言葉に、彼は言い訳がましく呟く。「もし、行き違いになったら、困るから……」そう、時間の指定は一切なく、彼の言い分は至極正しいものだった。
「いいの、帰んなくって。家は」
「電話、しておきました」公園の電話ボックスに視線をやる。
「なんて」
「急用で、泊まってくかもしれないって。……友だちと」
「大嘘つき」
ひどい台詞を口にしながら、彼女は誰もが認める愛らしい笑顔を咲かせる。咲き誇るコスモスのように可憐で、細やかな金木犀のように儚ささえ感じさせる。
「来てよ」
言い放ち、背を向けながら促すのに、少年は黙ったままベンチから腰を上げた。肩に下げる鞄はいつもより重く感じられるが、嫌な予感などはとっくの昔に過ぎ去った。彼女が再び目の前に現れた。この現実を覆す落胆や悲観を携える未来が、彼には想像できなかった。どこに連れていかれるのか。例え驚きはしても、決して後悔はしない。それよりも彼女が伝えようとすることを絶対に逃してはならないと、信念を固めた。
不機嫌にさえ見えるほど、口角が下がるまで口を引き結んだ彼は、今回は鍵の落ちる音に動揺する気配はなかった。挑発的な笑みを浮かべ、彼女が鍵を手にして見据えても、その視線を真っ直ぐに受け止める。やれやれとわざとらしく肩をすくめて歩き出すのに、彼は無言でついて行く。
「生意気な目しちゃってさ。がきんちょのくせに」
階段を上がり、二階の廊下を誰ともすれ違わないまま、少女はドアを開けた。
「鍵、締めときな。逃げたかったら今のうちだよ」
言い放ち、さっさと奥へ進む彼女が聞いたのは、かちゃんと鍵のかかる音。
今更怖気づいて逃げ帰るつもりなど、毛頭ない。いつまでも説明をしない彼女の様子に、彼は憮然とした表情のまま、部屋の入り口に立ち尽くした。
「疲れたでしょ。寝ちゃってもいいよ」
鞄をぽいと床に放り、彼女は硬いソファーに勢いよく腰を下ろした。反発性の強いソファーは、彼女の体重程度では大きなへこみを見せない。
「なに? もしかして、緊張して寝れない?」
にやにやしながらいたずらっぽく問いかけるが、彼は自分の鞄を足元に下ろすと、何も言わないまますぐに視線を彼女に戻す。
以前とはまるで別人のような姿だが、その真摯な思いは変わらない。前髪に隠れる瞳は相変わらず 深く真っ直ぐに彼女を見据え、今度こそはと離さない。この二週間の出来事を、彼女の今の考えを、この状況を、一つ余さず話してくれと彼は言葉もなく問い詰めていた。
変わんないやつだなと軽い笑みを浮かべ、ようやく彼に向き合った彼女は笑って言った。
「私、あんたが嫌いになっちゃった。別れてよ」
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