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2章 妖
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随分と深く、夢も見ないまま眠っていた。目が覚めた頃には陽はすっかり昇っていて、朝の涼やかな風が吹いていた。開けっ放しの障子の向こうには、青くきらきらと光る海が見える。家が坂の上にあるおかげで、まさに夏を感じる景色を部屋から眺めることができる。狭苦しい団地の暑苦しい夏とは比べ物にならない爽やかさだった。
その上、自分と同年代の女の子と同じ屋根の下で暮らすなんて、予想だにしない夏休みだ。だが向こうはなんとも思っていないらしく、驚愕する自分を見て、「何か?」と言い放った。あたし、年下には興味ないから。そう言い残して颯爽と風呂に向かっていった。
律がいなくなってから、凪がこっそり教えてくれた。食事係が必要だといって、同居の話をねじ込んだのは彼女の方らしい。絶対に認めないだろうが、ああ見えて寂しがり屋なんだと苦笑した。
部屋を出て顔を洗いに行くと、二人は既に目を覚ましていた。三人で朝食を摂る。白米に焼き魚、卵焼きに味噌汁。普段、パートに出る母の代わりにトーストを焼いて齧るだけの陽向には、滅多にお目にかかれない立派な朝食だ。
「スミレっていう子がいるんだけど、昨日来られなかったから、今日会いに来るそうだ。その後で暇になれば店に来てくれ」
「適当過ぎない?」
凪と律は朝食を片付けると、呆れる陽向を置いてさっさと外に出て行ってしまった。
あっという間に暇を持て余し、仕方なく座卓にノートを広げ、夏休みの課題を始める。時間があるなら、もう少し教材を持ってくるんだった。そんなことを思いながら、数式を書きつけていく。今日も良く晴れているが、家の中は涼しく心地よい。クーラーがないのが嘘みたいだ。
ぎい、と乾いた音がして、ふと顔を上げた。
ぎしぎしと、建材の軋む音が聞こえてくる。柱か壁か、天井か。もちろん、この家には今、自分以外に誰もいない。いないはずだ。もしかして二階に誰か隠れているのかと天井を見上げる。すっと背筋が寒くなる。
途端、がらりと引き戸の開く音が聞こえ、びくりと身体を跳ねさせた。「すみません」と女性の声が聞こえてくる。慌てて玄関に向かい、そこにきちんと人がいることに安堵した。
二十代半ばから後半ほどの、線の細い女性だった。眼鏡をかけ、黒く長い髪を一つに結って右肩に流している。
「凪から聞きました。陽向くん、ですよね」
はいと返事をすると、彼女は軽く頭を下げる。
「昨日は来られなくてごめんなさい。スミレっていいます」
「い、いや、その……わざわざ、ありがとうございます」
丁寧な物腰に却って戸惑ってしまう。この島だけでなく、街でもこんな風に応対されたことなどない。まごついていると、「ちょっと上がってもいいですか」とスミレは微笑んだ。
炊事場でコップを探すのに手間取っていると、彼女が棚から取り出してくれた。冷蔵庫で冷やしていた麦茶を注ぎ、座敷に持っていく。卓について一息つくと、彼女は開きっぱなしのノートや参考書を見て、「勉強ですか」と言った。
「えっと、夏休みの課題です」
「偉いですね、お家を離れてもきちんと勉強するなんて」
スミレは軽く両手を合わせる。
「それなら、今度、図書館にも来てみてください。色んな本があるから、気分転換にもなるし」
「図書館って、どこにあるんですか」
ここから更に上った高台にあるらしい。そこで司書の役目をしているのだと彼女は説明した。なるほど、清楚な司書のイメージにぴったりだと陽向は思った。
「……あれ」
ふと、目が留まる。
向かいのスミレの額、前髪の生え際が、一ヵ所だけ小さく盛り上がっている。島暮らしにしては白く綺麗な肌をしているが、ニキビだろうか。思わずじっと見てしまい、彼女がそれに気付いて額に手を当てる。
「これですか」
陽向が言葉に詰まると、彼女は「角です」と言った。
「つの?」
「私、鬼と混じっているので」
前髪をかき上げて見せてくれる。中に硬い骨でもあるかのようにぐっと盛り上がっていて、ニキビにしては大きすぎる。昨日律に殴られ、まだ赤みの残る頬を抑えた。しかし、こんなに大人しげな女性が、鬼と混じっている?
「昨日はずっと本の入れ替えをしていて。体力には自信があったんですけど、流石に疲れて寝てしまって、歓迎会に行けなかったんです」
彼女は、夜中の二時から翌日の昼まで本を運んでいたらしい。
「それって、一人で?」
「図書館に住んでいるのは、私だけですから」
本の運搬は想像以上に重労働だと聞いたことがある。思わず彼女の腕を見てしまう。この白く細い腕で十時間も本を運んでいただなんて信じられない。鬼と混じっているのは恐らく真実だ。
ギシギシと、先ほどと同じ音が耳に入った。
天井を見上げる陽向の視線を、スミレが目で追う。
「屋鳴りですね」
「やなりって、動物か何かですか」
「いえ、妖怪です」
はあ、と声が漏れる。もう何でもこいだ。
「こうして家が軋む音を立てるだけで、心配しなくても特に害はありません」
「へえ……」
変な現象に次第に慣れてきたのだろうか。見知らぬ人が隠れている可能性が解消されて、ほっとしてしまう。音だけならそれでいいか。そんな風に思う。
「そういえば、凪から、陽向くんはお手伝いをしてくれると聞きました。一つ頼みたいことがあるのですが」
ようやくそれらしい話が出た。背筋を伸ばす陽向に、スミレは庭の一角を指さした。
その上、自分と同年代の女の子と同じ屋根の下で暮らすなんて、予想だにしない夏休みだ。だが向こうはなんとも思っていないらしく、驚愕する自分を見て、「何か?」と言い放った。あたし、年下には興味ないから。そう言い残して颯爽と風呂に向かっていった。
律がいなくなってから、凪がこっそり教えてくれた。食事係が必要だといって、同居の話をねじ込んだのは彼女の方らしい。絶対に認めないだろうが、ああ見えて寂しがり屋なんだと苦笑した。
部屋を出て顔を洗いに行くと、二人は既に目を覚ましていた。三人で朝食を摂る。白米に焼き魚、卵焼きに味噌汁。普段、パートに出る母の代わりにトーストを焼いて齧るだけの陽向には、滅多にお目にかかれない立派な朝食だ。
「スミレっていう子がいるんだけど、昨日来られなかったから、今日会いに来るそうだ。その後で暇になれば店に来てくれ」
「適当過ぎない?」
凪と律は朝食を片付けると、呆れる陽向を置いてさっさと外に出て行ってしまった。
あっという間に暇を持て余し、仕方なく座卓にノートを広げ、夏休みの課題を始める。時間があるなら、もう少し教材を持ってくるんだった。そんなことを思いながら、数式を書きつけていく。今日も良く晴れているが、家の中は涼しく心地よい。クーラーがないのが嘘みたいだ。
ぎい、と乾いた音がして、ふと顔を上げた。
ぎしぎしと、建材の軋む音が聞こえてくる。柱か壁か、天井か。もちろん、この家には今、自分以外に誰もいない。いないはずだ。もしかして二階に誰か隠れているのかと天井を見上げる。すっと背筋が寒くなる。
途端、がらりと引き戸の開く音が聞こえ、びくりと身体を跳ねさせた。「すみません」と女性の声が聞こえてくる。慌てて玄関に向かい、そこにきちんと人がいることに安堵した。
二十代半ばから後半ほどの、線の細い女性だった。眼鏡をかけ、黒く長い髪を一つに結って右肩に流している。
「凪から聞きました。陽向くん、ですよね」
はいと返事をすると、彼女は軽く頭を下げる。
「昨日は来られなくてごめんなさい。スミレっていいます」
「い、いや、その……わざわざ、ありがとうございます」
丁寧な物腰に却って戸惑ってしまう。この島だけでなく、街でもこんな風に応対されたことなどない。まごついていると、「ちょっと上がってもいいですか」とスミレは微笑んだ。
炊事場でコップを探すのに手間取っていると、彼女が棚から取り出してくれた。冷蔵庫で冷やしていた麦茶を注ぎ、座敷に持っていく。卓について一息つくと、彼女は開きっぱなしのノートや参考書を見て、「勉強ですか」と言った。
「えっと、夏休みの課題です」
「偉いですね、お家を離れてもきちんと勉強するなんて」
スミレは軽く両手を合わせる。
「それなら、今度、図書館にも来てみてください。色んな本があるから、気分転換にもなるし」
「図書館って、どこにあるんですか」
ここから更に上った高台にあるらしい。そこで司書の役目をしているのだと彼女は説明した。なるほど、清楚な司書のイメージにぴったりだと陽向は思った。
「……あれ」
ふと、目が留まる。
向かいのスミレの額、前髪の生え際が、一ヵ所だけ小さく盛り上がっている。島暮らしにしては白く綺麗な肌をしているが、ニキビだろうか。思わずじっと見てしまい、彼女がそれに気付いて額に手を当てる。
「これですか」
陽向が言葉に詰まると、彼女は「角です」と言った。
「つの?」
「私、鬼と混じっているので」
前髪をかき上げて見せてくれる。中に硬い骨でもあるかのようにぐっと盛り上がっていて、ニキビにしては大きすぎる。昨日律に殴られ、まだ赤みの残る頬を抑えた。しかし、こんなに大人しげな女性が、鬼と混じっている?
「昨日はずっと本の入れ替えをしていて。体力には自信があったんですけど、流石に疲れて寝てしまって、歓迎会に行けなかったんです」
彼女は、夜中の二時から翌日の昼まで本を運んでいたらしい。
「それって、一人で?」
「図書館に住んでいるのは、私だけですから」
本の運搬は想像以上に重労働だと聞いたことがある。思わず彼女の腕を見てしまう。この白く細い腕で十時間も本を運んでいただなんて信じられない。鬼と混じっているのは恐らく真実だ。
ギシギシと、先ほどと同じ音が耳に入った。
天井を見上げる陽向の視線を、スミレが目で追う。
「屋鳴りですね」
「やなりって、動物か何かですか」
「いえ、妖怪です」
はあ、と声が漏れる。もう何でもこいだ。
「こうして家が軋む音を立てるだけで、心配しなくても特に害はありません」
「へえ……」
変な現象に次第に慣れてきたのだろうか。見知らぬ人が隠れている可能性が解消されて、ほっとしてしまう。音だけならそれでいいか。そんな風に思う。
「そういえば、凪から、陽向くんはお手伝いをしてくれると聞きました。一つ頼みたいことがあるのですが」
ようやくそれらしい話が出た。背筋を伸ばす陽向に、スミレは庭の一角を指さした。
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