9 / 51
1章 暝島
9
しおりを挟む
「ほれ、これ喰ってみな。旨いぞ」
一人の男が皿を手にやって来た。五十を迎えた頃か、葛西将吾より年上だろうと陽向は当てをつけた。船乗りの武藤に似た浅黒さにがっしりとした体格の男は、白樫と名乗った。一際声が大きく、本当にガハハという笑い声を陽向は初めて聞いた。半袖から伸びる腕は毛深く、肉食の獣を思わせる。
皿に載っているのは刺身だった。ハマチだという。噛み締めると、しっとりした旨味が口の中に広がった。
「旨いです」
「だろ。俺が釣ってきたからな」
「捌いたのはあたしだけどね」
コップを持ってやって来た律が口を挟んだ。彼女は魚も捌けるのかと、陽向は内心で驚く。だがそれよりも……。
「それ、もしかして」
律が手にするコップを指さした。金色の液体は、白い泡を被っている。
「ん? ビール飲みたい?」
「そうじゃなくって……未成年じゃなかったの」
歳上には見えるが、二十歳以上には見えない。陽向を尻目に、律はごくりと喉を鳴らしてビールを飲んだ。
「あんた、意外と細かいこと気にすんだね。いーの、あたしは妖怪なんだから」
彼女は都合よく妖怪を盾に取る。
「陽向も飲んでみろ、酒と刺身は合うぞ」
白樫が座卓のビール瓶を手に取った。「無理させるなよー」と凪が隣から口を挟む。
だが律と白樫に勧められ、陽向はコップにビールを注いでもらった。母は酒を飲まないし、葛西の飲み残しなど口にしたくないから、今まで酒を飲んだことはない。期待を交えて一口含む。その苦さから眉間に皺を寄せる顔を見て、律たちが笑った。
「ほらほら、無理して飲まなくてもいーんだよ?」
妖といえど女の子にからかわれ、陽向は無理矢理コップの中身を飲み干した。苦くてちっとも旨くない。
しかし、料理をつまみ、律たちと話している内に頭がぼんやりとしてきた。ふわふわと浮かんだ気持ちになり、寝落ちしてしまいそうな心地よさがある。
「……二人は、ほんとに妖怪なのか?」
目を擦りながら問いかけると、「そうだけど」と少なくとも三杯目を口にしながら律が言う。
「ふーん」
「妖怪ってのはいるんだ。怖えぞ」
にやつきながら白樫が両手を前に垂らし、ふざけた格好を取る。何が妖怪だ。陽向はゆらゆらした意識でそう思った。皆して、俺を怖がらせようとしているんだな。
「妖怪なんていないよ」
「なんかあんた、生意気じゃない。都会人ぶっちゃって、あたしより年下のくせに……」
「こんなのも、作りもんだろ」
つまんでみると、指先にフェルトのような感触。短い毛がふわふわしていて、触り心地が良い。昔、近所の犬の耳を触った時のことを思い出す。あの犬も、同じような三角耳を持っていた。
ぽかんとした律の顔が視界に入ったと思うと、絶叫した彼女に思い切り頬をぶたれ、陽向の記憶はぷっつりと途切れてしまった。
ビールに酔い律の耳を触ってしまったのは覚えている。眠っていたのは、酔ったせいか律に殴られた衝撃か。目を覚ました頃には、既に縁側の向こうで夕陽が沈もうとしていた。
宴会の後片付けを手伝っていた残りの数名も帰ってしまい、古く広い家はさっきまでが嘘のような静けさに満ちている。
「この部屋、使っていいよ」
暗くなってきたので、凪が灯りを点けた。十畳はある和室の布団に陽向は寝かされていて、隅には唯一の持ち物であるボストンバッグが置かれていた。
「凪は帰っちゃうの」
「陽向がいる間はこの家にいようと思ってるんだけど、いいか」
その言葉に安堵しつつ、半身を起こしたまま頷いた。母以外の他人と暮らすのは初めてだが、気疲れよりも知らない土地で一人で暮らす心細さの方が勝っていた。それに凪は、出会った時から全くの他人とは思えない親しみやすさを感じさせる。不満などない。
ふと、ぺたぺたと裸足の足音が近づいてくるのが聞こえた。縁側にコップを持った律が現れる。
「やっと目え覚めた? 全く、世話が焼けるなあ」
彼女が差し出すコップには、ビールでなく水が入っていた。礼を言って受け取り、喉に流す。冷えた水が身体の隅々まで行き渡るようで心地よい。一気に半分を飲み干し、一息ついた。
「陽向、あんたね、女の子の耳を掴むなんてどういう神経してるのよ」
「ごめんってば。……でも、殴ることないだろ」
「はあ? 悪いのはあんたでしょ」
「まあまあ。陽向、律の弱点は耳なんだ。知らなかったんだからしょうがないけどな」
そばに胡坐をかく凪が仲裁に入り、律は大袈裟にため息をつくとくるりと踵を返す。
「あーあ、お酒臭くなっちゃった。先、お風呂入ってるから。覗いたら殺すからね」
「誰が……」おまえなんか覗くか。そう言いかけて、疑問が浮かぶ。
「律は、家に帰らないのか」
去りかけた律は、ひらひらと手を振り事も無げに言った。
「あたし、しばらくここに住むから」
一人の男が皿を手にやって来た。五十を迎えた頃か、葛西将吾より年上だろうと陽向は当てをつけた。船乗りの武藤に似た浅黒さにがっしりとした体格の男は、白樫と名乗った。一際声が大きく、本当にガハハという笑い声を陽向は初めて聞いた。半袖から伸びる腕は毛深く、肉食の獣を思わせる。
皿に載っているのは刺身だった。ハマチだという。噛み締めると、しっとりした旨味が口の中に広がった。
「旨いです」
「だろ。俺が釣ってきたからな」
「捌いたのはあたしだけどね」
コップを持ってやって来た律が口を挟んだ。彼女は魚も捌けるのかと、陽向は内心で驚く。だがそれよりも……。
「それ、もしかして」
律が手にするコップを指さした。金色の液体は、白い泡を被っている。
「ん? ビール飲みたい?」
「そうじゃなくって……未成年じゃなかったの」
歳上には見えるが、二十歳以上には見えない。陽向を尻目に、律はごくりと喉を鳴らしてビールを飲んだ。
「あんた、意外と細かいこと気にすんだね。いーの、あたしは妖怪なんだから」
彼女は都合よく妖怪を盾に取る。
「陽向も飲んでみろ、酒と刺身は合うぞ」
白樫が座卓のビール瓶を手に取った。「無理させるなよー」と凪が隣から口を挟む。
だが律と白樫に勧められ、陽向はコップにビールを注いでもらった。母は酒を飲まないし、葛西の飲み残しなど口にしたくないから、今まで酒を飲んだことはない。期待を交えて一口含む。その苦さから眉間に皺を寄せる顔を見て、律たちが笑った。
「ほらほら、無理して飲まなくてもいーんだよ?」
妖といえど女の子にからかわれ、陽向は無理矢理コップの中身を飲み干した。苦くてちっとも旨くない。
しかし、料理をつまみ、律たちと話している内に頭がぼんやりとしてきた。ふわふわと浮かんだ気持ちになり、寝落ちしてしまいそうな心地よさがある。
「……二人は、ほんとに妖怪なのか?」
目を擦りながら問いかけると、「そうだけど」と少なくとも三杯目を口にしながら律が言う。
「ふーん」
「妖怪ってのはいるんだ。怖えぞ」
にやつきながら白樫が両手を前に垂らし、ふざけた格好を取る。何が妖怪だ。陽向はゆらゆらした意識でそう思った。皆して、俺を怖がらせようとしているんだな。
「妖怪なんていないよ」
「なんかあんた、生意気じゃない。都会人ぶっちゃって、あたしより年下のくせに……」
「こんなのも、作りもんだろ」
つまんでみると、指先にフェルトのような感触。短い毛がふわふわしていて、触り心地が良い。昔、近所の犬の耳を触った時のことを思い出す。あの犬も、同じような三角耳を持っていた。
ぽかんとした律の顔が視界に入ったと思うと、絶叫した彼女に思い切り頬をぶたれ、陽向の記憶はぷっつりと途切れてしまった。
ビールに酔い律の耳を触ってしまったのは覚えている。眠っていたのは、酔ったせいか律に殴られた衝撃か。目を覚ました頃には、既に縁側の向こうで夕陽が沈もうとしていた。
宴会の後片付けを手伝っていた残りの数名も帰ってしまい、古く広い家はさっきまでが嘘のような静けさに満ちている。
「この部屋、使っていいよ」
暗くなってきたので、凪が灯りを点けた。十畳はある和室の布団に陽向は寝かされていて、隅には唯一の持ち物であるボストンバッグが置かれていた。
「凪は帰っちゃうの」
「陽向がいる間はこの家にいようと思ってるんだけど、いいか」
その言葉に安堵しつつ、半身を起こしたまま頷いた。母以外の他人と暮らすのは初めてだが、気疲れよりも知らない土地で一人で暮らす心細さの方が勝っていた。それに凪は、出会った時から全くの他人とは思えない親しみやすさを感じさせる。不満などない。
ふと、ぺたぺたと裸足の足音が近づいてくるのが聞こえた。縁側にコップを持った律が現れる。
「やっと目え覚めた? 全く、世話が焼けるなあ」
彼女が差し出すコップには、ビールでなく水が入っていた。礼を言って受け取り、喉に流す。冷えた水が身体の隅々まで行き渡るようで心地よい。一気に半分を飲み干し、一息ついた。
「陽向、あんたね、女の子の耳を掴むなんてどういう神経してるのよ」
「ごめんってば。……でも、殴ることないだろ」
「はあ? 悪いのはあんたでしょ」
「まあまあ。陽向、律の弱点は耳なんだ。知らなかったんだからしょうがないけどな」
そばに胡坐をかく凪が仲裁に入り、律は大袈裟にため息をつくとくるりと踵を返す。
「あーあ、お酒臭くなっちゃった。先、お風呂入ってるから。覗いたら殺すからね」
「誰が……」おまえなんか覗くか。そう言いかけて、疑問が浮かぶ。
「律は、家に帰らないのか」
去りかけた律は、ひらひらと手を振り事も無げに言った。
「あたし、しばらくここに住むから」
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
伝える前に振られてしまった私の恋
メカ喜楽直人
恋愛
母に連れられて行った王妃様とのお茶会の席を、ひとり抜け出したアーリーンは、幼馴染みと友人たちが歓談する場に出くわす。
そこで、ひとりの令息が婚約をしたのだと話し出した。
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
百合を食(は)む
転生新語
ライト文芸
とある南の地方の女子校である、中学校が舞台。ヒロインの家はお金持ち。今年(二〇二二年)、中学三年生。ヒロインが小学生だった頃から、今年の六月までの出来事を語っていきます。
好きなものは食べてみたい。ちょっとだけ倫理から外(はず)れたお話です。なおアルファポリス掲載に際し、感染病に関する記載を一部、変更しています。
この作品はカクヨム、小説家になろうにも投稿しています。二〇二二年六月に完結済みです。
余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました
結城芙由奈@12/27電子書籍配信
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】
私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。
2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます
*「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
※2023年8月 書籍化
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる