百万回目の大好き

柴野日向

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1章 夏実と麻斗

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 来る七月七日。市民センターのエントランスには季節を象徴する笹の葉が飾られ、様々な人が願い事を書き込んだ短冊がかかっていた。土曜日の夕刻、観客の入りは上々で、親子連れから学生に初老の夫婦と、老若男女問わない客層が訪れていた。
「ポップコーンとか売ってないかな」
「まさか映画じゃないんだから」
 夏実のいつものふざけに応える彼の声も、心なしか弾んでいる。並んで席に着いてしばらくすると、煌々と点っていた明かりが徐々に照度を落とし始めた。ざわめいていた人々も、水を打ったようにしんと静まり返る。
 海外から来日し、現在国内ツアーを行っている最中の著名なピアニストが姿を現すと、波のような拍手が起こった。
 将来は、ああしたピアニストになりたいのかと、夏実は麻斗に問うたことがある。
 だが、そんな夢は微塵もないと彼は首を横に振った。秀でた才能もなければ、一生を捧げる熱意もない。ただ楽しくて弾いているだけなのに、それに責任を持たせれば、どこかの段階で辛さを感じるようになるかもしれない。それならば、大それた夢なんて抱かずに、趣味の範囲で長続きさせていきたいと彼は笑っていた。
 そして部活をやめて一人になっても未だに弾き続けているというのは、やはり弾くことに楽しみを感じている証拠だろう。だから、彼が今でもピアノを弾いていることを知ったとき、この上なく夏実は安堵したのだ。
 麻斗がピアニストを目指さないからといって、関心がないこととはイコールでは繋がらない。
 ショパンの「別れの曲」。
 ゆったりとしたメロディーが流れ出す。それに耳を澄ませながら、夏実は薄暗い照明の中、こっそりと隣を盗み見た。
 もっとリラックスしなよ。そんな台詞を堪えねばならないほど、彼は真剣そのものの表情で舞台を見つめていた。ピアニストは指で音楽を表現するのではない。ペダルを踏む足、リズムを取る身体、まさに全身を使って音を表現するのだ。鼓膜を震わせる音楽、それだけではなく光景さえも記憶しようとしているのか、彼は微動だにしないまま、じっと目を見張っている。
 一曲が終わりを告げると、沸き起こる拍手。そうして「幻想即興曲」に曲が移り変わったとき、彼は夏実の視線に気がついた。
 どこか恥ずかしかったのか、ばつが悪そうに目を逸らしてしまう。だがそんな不器用な姿に、すごいねと口の動きだけで伝えて笑いかけると、彼も笑って頷いた。
 美しい音色が、一曲一曲を実に丁寧に作り上げていく。「上手」なんて言葉は如何にも烏滸がましく幼稚な感想かもしれないが、CDやテレビから流れる音とは異なる生の演奏は、流石だと唸り聞き入ってしまう。緩やかな川岸のごとく、時には襲い来る津波のように音楽が空気を打つ。それに包まれる感触は何とも心地がよい。
 すっかり音の虜になっていた夏実は、あっと小さな声を上げた。幸い、隣にいた彼にも聞き及ぶことのない声量だったが、更に声に出さず唇の形だけで呟く。

 ――雨だれだ。

 ゆったりしたメロディーから始まり、左手でとんとんとんと鍵盤を押さえて降りしきる雨粒を表現する。この曲はつい数週間前に聴いたばかりだ。
 それでも、弾く人間が違えば、こんなにも違って聴こえるのか。
 じっと耳を澄ませ、記憶と重ね合わせる。ショパンの雨だれには違いない。しかしこちらは、嘗て聴いた雨音よりも激しい勢いで迫ってくる。
 音の洪水は容易に心を呑み込んで、この場を支配してしまう。その中心にいる心地よさを感じながら、夏実は目を閉じた。


「すごかったですね」
 閉幕後、通路の隅にある自動販売機の傍ら。カルピス飲料の缶を手にする麻斗は、些か興奮気味に言った。楽しげな顔をした観客たちが、それぞれ感想を語り合いながら目の前を流れていく。
「そだねー。どれがよかった?」
 同意しながら、夏実も缶ジュースをあおる。
「どれもよかったけど」
「強いて言うなら」
「それなら……」
 僅かに考え込んでしまう麻斗が、妙に小さな子どものように見えてしまう。いつもどこか冷めたふうに見せている彼が、こうして身を乗り出してくることなどそうそうない。だから夏実は、からかうことはやめて麻斗の返事を待った。
「幻想即興曲かな。ぼく、一度挑戦したけど、なかなかできなくて諦めちゃったんですよ。それをあんなにすらすら弾いちゃうなんて、やっぱりプロの人は凄いんだなって」
「弾くだけなら、練習すればいつかできるんじゃない?」
「将来できるようになったとしても、こんなに人に聴き込ませるようになんて、そう簡単にはできませんよ。……表現力、っていうのかな。人の心を奪うのがとてつもなく上手だなって。やっぱり、音楽って凄い」
 凄い凄いと繰り返す麻斗と顔を見合わせて夏実も笑う。彼は今でも音楽が好きなのだ。それを肌で感じられるだけで、今日は来ることができて本当に良かったと思う。
「心を奪うって、泥棒だね。音楽って」
「絶対に捕まらないけど」

 そう言う君の音も、ずっと前から盗んでいたんだよ。

 そんな言葉が喉元まで出かけたが、夏実はぐっとそれを堪えた。あまり彼にとって恥ずかしい台詞を吐けば、麻斗は思い直して黙り込んでしまうかもしれない。その表情も見ていたいが、今は屈託のない笑顔を見せていて欲しかった。

 ただ、あの一曲は麻斗の方が優っていた。

 空き缶を捨ててくると、二人分を持って人ごみに消えた麻斗を待ちながら、夏実はせめてこれだけは伝えておこうと思う。
 雨だれは、あの時聴かせてくれた音のほうが心を奪っていった。人の心情を震わせ、音に没入させる力を充分に持っていた。もしもこの場で演奏をしても、あのピアニストに引けを取らない一曲となるだろう。大勢の拍手を浴びるはずだ。
 そうすれば麻斗も、揺るぎない自信を持てるかもしれない。
 それは夏実にとって随分と楽しい想像だった。どちらかといえば消極的で、前に出るよりは人をサポートして後ろで鍵盤を押さえることが好きな彼は、一人舞台に立つことは望まないだろう。しかし、自分が見上げて尊敬する人と同じステージでピアノを弾き、同じように喝采を浴びることがあれば、自分の可能性を信じてもっと音楽が好きになるかもしれない。
 そんなことを考えていたから、夏実はようやく、自分に声がかけられていることに気がついた。
「お姉ちゃん、中学生?」
 振り向くと、私服姿だが恐らく高校生であろう男が三人いた。もちろん夏実にとって顔見知りですらない学生たちだ。茶色く染められた髪や耳に嵌まるピアスは、この場に似つかわしいとはあまり思えない。
「ま、まあ……」
「へえ。俺らとタメかと思った」
 突然のことに夏実は言葉を詰まらせ、ぎこちなく愛想笑いを浮かべる。明らかなお世辞だが、今は微塵も嬉しいとは思わない。
「さっきのすごいよかったね」
「え……」
「演奏。お姉ちゃんも聴いてたでしょ」
「そう、ですね」
 知らぬ間に湧いてくる緊張に、手をぎゅっと握り締める。
 いつも見ている麻斗や五樹や、まだ中学生のクラスメートとは違う。幾分大人に近づいた男たちはあくまで笑っているが、そこはかとない威圧感がある。慣れない肩幅や背の広さ、低い声は夏実にとって近寄りがたく、自然な対応を不可能にしてしまう力がある。
「よかったらさ、ちょっと話さない? 奢るよ」
「えっと」
「まだ帰るには早いじゃん。すぐそこだからさ、行こ行こ」
 腕を掴まれ、夏実は思わず息を呑んだ。力強く太い指に、節の立つ手。抗うには勇気の必要な男の手に対し、咄嗟に拒絶の言葉が出てこない。
「でも……」
「大丈夫だって、そんなに時間取らせないからさ」
「先輩!」
 聞き慣れた声に振り向く前に、反対の手を取られた。指は細く手のひらは薄い、まだ大人になれない彼の手だ。
「何してんですか。早くしないとバス出ちゃいますよ」
「え、バスって」
「ほら、もう行かないと」
 麻斗に引っ張られ、腕を掴む相手の手がするりと解けた。すたすたと大股で歩を進めるのに、夏実も慌てて早足で彼の背を追う。
 男はお呼びではないのだろう、なんだツレがいたのかと、三人組はそれ以上しつこく付きまとうつもりはないようだった。
 足を動かしながら、夏実は手を握る麻斗の手を見つめた。今はまだ、自分とは手のひらの大きささえ大差がない。ピアノを弾いて、丁寧な文字を書く繊細な手。それは今、力強く右手を握って離さないでいてくれる。
 人の溜まる出入り口を抜け、夜の帳を下ろした空の下までやってくると、麻斗はようやく速度を緩めた。
「麻斗、バスって」
 夏実は疑問を口にする。団地から市民センターに向かうにはバスを使うほどの距離ではなく、二人は自転車でやって来ていたのだ。
「嘘に決まってるじゃないですか」
 気が強いとは言えない彼にとって、先ほどの一件は勇気の必要な場面だった。だからいくらか緊張していたのだろう、応える麻斗は憮然とした顔をしている。
 道路を挟んだ駐輪場に向けて信号を待ちながら、それでも麻斗は夏実を見て小さく笑ってみせた。
「夏実先輩って、意外と不意打ちに弱いですよね」
「そんなの……!」図星を突かれ、軽く唇を噛む。「……あるけど」と小声で呟いた。
「でもでも!」
 だが、すぐさま声をあげて普段の元気を取り戻すと、ぎょっとする麻斗に顔を近づける。
「麻斗、初めて自分から手握ってくれたね!」
 たちまち麻斗は笑顔を引っ込め、目を見開く。自分が夏実の手を未だ握っていることに気づくと、慌てて離した手を後ろに隠してしまった。ほんのり赤くなってしまう顔を懸命に夜に隠そうとしているが、近くにいる夏実にはそれも見抜けてしまう。
「ありがとー! やっぱめっちゃ好き!」
「ちっ、違う! そういうのじゃなくって」
「ツンデレかあ。そんなのも全然ありだよ」
 信号が青に変わったのをめざとく見つけ、麻斗は横断歩道の白線を踏みつける。
「あーあ、助けなきゃよかった」
 さっさと駐輪場を目指して歩き出す麻斗は、夜空を睨みつけてそんなことを言う。不器用な照れ隠しを見ながら、隣を歩く夏実は堪えられずに小さく笑ってしまう。

 ほんの数時間だったが、特別楽しいひと晩はやがて終わりを告げる。
 家に帰って寝る支度をしても、耳の奥には先ほど聞いたばかりの美しい旋律が残っている。今夜は一際良く眠れそうだと、布団に潜り込み、枕に頭を乗せた。
 ふと、枕元で充電中のスマートフォンがちかちかと明滅しているのに気がつき、夏実は手を伸ばす。薄闇の中でぼんやりと光を投げる画面に目をやり、思わず笑みをこぼした。

 ありがとう。

 その五文字だけが、静かに並んでいる。音楽会についての麻斗からの礼だった。彼ももう、眠りにつくところだろう。

 ねえねえそれって告白に対してってこと? やっと頷いてくれた?

 そんないつものふざけた言葉を書き込み、送信ボタンを押しかけた指を止める。思いとどまり、デリートボタンでメッセージを削除した。その間に届くのは、次のメッセージ。

 おやすみ。

 星が流れる絵文字だけを付け足し、夏実も同じ言葉を返す。

 おやすみ。

 画面を暗くしたスマートフォンを置き直し、右手を仄暗い天井にかざしてみる。それをぎゅっと握り締めると、ほんの数時間前に感じたぬくもりが戻ってくる気がする。胸の奥がきゅうっとすぼまる。
 握った右手を左手で包み、胸元に押し当てて瞼を閉じた。残存するメロディーと共に、幸福感が優しく心の中に響いてきて、心地よくてたまらない。
 ふふっとこみ上げる微笑みが自分に対して恥ずかしく、それでいて止める術を知ることのない、幸せな夜だった。
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