一年後に君はいない

柴野日向

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1章 浮月川の神様

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 しばらく川面を眺め、佑がおもむろに浅瀬に入り、それを月子が追いかけ、水しぶきに瑞希が辟易していると、自然に時間は流れていた。
「お、やば。もう四時じゃん。バイト行かなきゃ」
「月子さん、今日バイトだったんですか?」
「そーそー。んじゃ、そろそろあたしは抜けるね」
 月子はライブハウスでアルバイトをしている。何て元気な人だと、キャップを被り直す月子を見ながら瑞希は思う。
 背を向けかけた彼女は、「あっ」と言って振り向いた。「ここの神様が一番叶えてくれやすい願い事、知ってる?」
「そんなのあるんですか? 先に教えてくださいよー」
 サンダルの足をすっかり水に濡らした佑が、口を尖らせる。
「ごめんごめん、今思い出したのよ。あのね、ここの神様は、その人の心に映った人に会わせてくれるんだって」
「心に映った人?」思わず瑞希と佑の声が被る。
「そう。心にある大事な人を、鏡みたいに映して、会わせてくれるんだって」
「どういうことですか」
 瑞希の質問に、月子は首を傾けた。「あたしも詳しくは知らないよ。おばあちゃんがそんなことを言ってただけ。でも、大事な人なら誰でも……例えもういない人でも、会わせてくれるって」
「もういない人……」佑が呟いた。
「んじゃ、今度こそあたしは行きまーす。今日は楽しかったよ」
 大きく手を振る彼女に、礼を言って瑞希と佑も手を振った。月子の小柄な背中はとことこと土手を上がると、もう一度振り向いて手を振り、去っていった。
 残された二人は月子の向かった方角を眺めていたが、顔に散っていた水を腕で拭い、佑が川面を振り向いた。瑞希も穏やかな浮月川を見つめる。流れは緩やかだが、最も深いところは水深が三メートルを超えるらしい。せいぜい浅瀬でじゃれる程度ならともかく、泳ぐには適していない。
 少し傾いた陽光を受け、川の水は相変わらずきらきらと輝いている。鏡みたいだと瑞希は思う。
「会いたい人、いるの」
 彼がその鏡を覗き込んでいるようで、瑞希はつい口にしていた。彼の心には誰かが浮かんでいて、それが水面に映り込んでいるような気がしたのだ。
 少し沈黙を挟んだのち、彼はもう一度、少し乱暴に顔を拭った。
「いますよ」
「……誰?」
 おとうと。彼は囁くように返事をした。佑に弟がいただなんて初耳だ。彼は、「もう、いないけど」と続けた。
 どう言うべきかわからず、そうなんだと瑞希が口にすると、佑は頷いた。
「二歳下の弟で、ともっていう名前で。七歳の時に亡くなりました」
 そうなんだと、言えなかった。自分は彼のことを何も知らないのだと、改めて気が付いた。
「江雲に来る前……延山のべやま町っていうところに住んでたんです。ここよりずっと田舎の、山だらけの土地でした。お母さんは、離婚してから女手一つで僕らを育ててくれて。……ほんとに、毎日楽しかった」
 瑞希は聞いたことのない土地の名前だった。それどころか、佑が片親家庭であることも、弟を亡くしていることも、初耳だ。
「それから、引っ越したの」
 弟が亡くなってから、という台詞は口にできなかったが彼は頷き、「お母さんが再婚して、引っ越しました」と繋げた。
「先輩はどうですか?」
 暗くなってしまった空気を誤魔化すように、彼はいつもの笑い顔を瑞希に向けた。そこでようやく、彼の真っ直ぐな笑顔には、言葉にできない憂いが込められていることに気が付いた。
「……おばあちゃんかな」
 じっと見つめることができず視線を逸らすと、佑はおうむ返しに呟いた。
「先輩、おばあちゃん子だったんですか」
「まあね。うち、親が共働きで、私の面倒はおばあちゃんが見ててくれてたから」
 帰宅して一番に「おかえり」を言ってくれるのも、おやつや夕飯を用意してくれるのも、寝かしつけてくれるのも祖母だった。瑞希が物心つく前に祖父が亡くなってから、江雲の祖母宅に移り住み、三世帯で暮らしていた。母方の祖母だったが瑞希の父親とも仲が良く、母が出張でいない夜、三人で外食に行ったことを覚えている。
「私が十二歳……小六の時に亡くなったけど。癌で」
「会えたら、なんて言いたいですか」
 佑の言葉に、口を閉ざして考える。言いたいことなんて山ほどある。今までのことを余さず語り尽くしたい。部活のことや、サークルの話や、受験を頑張ったこととか、いくらでも話題はあふれ出る。
「ありがとう、かな」けれど、一番に言いたいのはこの言葉。「私のおばあちゃんでいてくれて、ありがとうって」
 どうして佑に語ったのかわからない。誰にも話したことなどなかったのに、いつの間にか口から言葉が転がり落ちていた。
「おばあちゃんが亡くなる前、私、時間を戻したんだ」
 佑が目をぱちくりさせた。だが彼は瑞希の想像通り、馬鹿にしたりなどしなかった。
「前に言ってた、時間を戻せるって話ですか」
「そう」
 佑も、四月の会話を覚えていたようだ。
「おばあちゃんが亡くなった日に、強く思ったの。時間よ戻れって。そしたら、八日、巻き戻ってたんだ」
「八日戻して、どうしたんですか……」
 真剣に佑が問いかけ、瑞希は軽く首を振った。
「病気だし、私には何もできなかった。ただ、話をする機会を手に入れただけ。こんなの誰も信じてくれなかったけど、おばあちゃんだけは、私が時間を戻せることを信じてくれた。それで、言ってくれた」
 たくさんのチューブをまとわりつかせた枯れ枝のような腕は、温かかった。泣き腫らす自分の手を、祖母はしっかり握ってくれた。
「瑞希ちゃんの力は、もっと大事な時に使いなさい……って」
 その時、もう自分のために時間を巻き戻すのはやめるよう言われていることを瑞希は悟った。何度でも繰り返したかったが、その度に祖母が亡くなる姿を見るのも嫌だった。巻き戻せるのに助けられない自分自身も嫌だった。
 沈黙が下り、瑞希はこんな話を語ったことを少し後悔した。特に佑には弱みを見せたくなかったのに、両親にすら教えていない話をなぜ口にしたのだろう。
「馬鹿にしてるでしょ」
 横目で睨むと、「してないしてない」と佑は大袈裟に両手を振る。
「やっぱり先輩はすごいなあって」
「馬鹿にすんな」
「してないってばあ」
 到底信じられる話ではない。照れ隠しに表情を固くする瑞希に、佑はいつも通りへらへらと笑ってみせる。
 ぷいとそっぽを向いた瑞希の前で、浮月川は変わらずきらきらと輝いていた。夜になれば、水面に美しい月が浮かぶ。お供えの団子を、神様は水底でゆっくり食べてくれたりするだろうか。なんとなく、そんなことを考えた。
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