完全少女と不完全少年

柴野日向

文字の大きさ
上 下
42 / 48
9章 航

しおりを挟む
 はあ、と大きくため息をついて、彼は再びベッドに背を預けた。ぼんやりとした視線を天井に向け、脱力している。
「……気持ち悪いよなあ、俺」
 手首にできた痣を見つめていた亜希は、顔を上げた。
「どうして……」
「そういうことを言われても、揺らげないんだ。それは、ただ俺が相手に興味を持てないだけだと思ってた」
「違うんですか」
「俺には、ずっと好きな人がいたんだ」
 彼はそう言うが、春乃を愛することになんの気持ち悪さもないように思える。
「それは駄目なんですか」
「姉さんのことは、家族として好きなんだと思ってた。これはそんな感情だと思ってた。けど、結婚するって聞いて、分かったよ。俺は、違う意味でも、姉さんのことが好きだったんだ」
 家族に対する愛情と共に、彼は恋愛感情を春乃に抱いていたのだ。そして今日まで彼は、自分のその気持ちに気づいていなかった。
「その相手に嫉妬して納得できない自分に気づいて、気持ち悪くて愕然としたよ。義理でも、姉さんは姉なのに。俺が持ってたのは、家族への愛情なんてもんじゃなかったんだ」
「……春乃さんは、素敵な人ですから」
 亜希の台詞に、彼は小さく笑う。ただ頬が軽く動くだけの、微かな笑い。
「……俺の親父は浮気性のクズだけど、姉さんの母親も悪い人だったんだ」
 あぐらを抱え、航はぽつりぽつりと話し始める。
「女側からすれば、金目当ての再婚だった。だから俺みたいなコブは邪魔だった。毎日が地獄だったよ」
 春乃と家族として過ごした二年間。彼は決して、幸福ではなかった。
「テストで一問でも間違えれば、一日飯抜きだった。冬に一人だけ台所で寝かされたし、雨が降る夜に裸足で外に追い出された。冷めてないアイロンも投げつけられた」
 彼がさする足首の皮膚には、微かに色の濃い部分がある。普段靴下や服の裾で隠れているそれは、火傷の痕だった。
「親父は滅多に帰ってこないし、それも明らかに不倫してるし、だから八つ当たりもあったんだろうな。服を汚したとか字が汚いとか、最後には目つきが気に入らないとか、どうしようもない理由つけてさ。俺は傷だらけだったよ」
 彼の他人に興味を示さない人格は、この時に形成されたのかもしれない。心を閉ざして表面だけを上手く取り繕う生き方は、彼が学んだ生存戦略だったのだろう。
「だから余計に、あの時の楓を放っておけなかった」
「楓くんを……」
「痩せこけて、腹を空かして……まるで当時の自分を見てる気がしたんだ。一歩踏み違えてたら、俺もあいつと同じ間違いをしてたかもしれないって思った」航は楓に過去の自分を見出していた。「けど、俺には姉さんがいてくれた。だから俺は、間違ったことをしなくて済んだんだ」
 淡々と語る彼は、「姉さん」の言葉を口にした時、ほんの僅かに顔を歪めた。
「いつも、姉さんが助けてくれた。飯を抜かれた時は、後でこっそり食わせてくれた。締め出された時は鍵を開けてくれたし、火傷の手当てもしてくれた。俺が叩かれるのを必死に止めて、自分がとばっちりを食らっても、文句さえ一度も言わなかったんだ」
「子どもの頃から、優しい人なんですね」
「そうだよ。誰よりも優しくて、何があっても笑ってて。一生懸命、庇ってくれて。……だから俺は、勘違いしたんだ」
 彼は、小さく笑う。
「俺だから、優しくしてくれるんだって、馬鹿なことを思ったんだ。こんなに笑ってくれるのは、きっと俺にしかない理由があるんだって、くだらないことを考えたんだ。けどさ、姉さんは優しい人だから、そこに居たのが俺じゃなくても、きっと同じことをしてただろうな」
「違いますよ」亜希ははっとする。「春乃さんは誰にでも優しくできる人だけど、相手が来栖くんだから、そこまでしてくれたんです」
「俺もそう思ってたよ。けどきっと、そんなの思い上がりだ。俺には、そんな価値はない」
「違う!」
 咄嗟に出した大声に、航がきょとんとしてこちらを見る。
「初めて会った時、春乃さんは弟がいるんだって、すごく嬉しそうに話してくれました。写真も見せてくれたんです」
「俺の写真?」
「そう。笑って、自慢の弟だって言ってました」
「そんなの……」
 社交辞令だという台詞を、亜希は遮った。
「この前だって、来栖くんは優しいって。いつだって一生懸命な来栖くんが、大好きだって。あなたが弟だから、春乃さんはそう言ったんです。春乃さんにそう言わせているのは、あなたです」
 航は目を丸くして驚いている。
「だから自分に価値がないなんて、思わないでください。春乃さんの行動は、あなたを愛する結果なんです。来栖航という存在は、必要とされているんです。もっと周りを信じてください」
 彼には、周囲を信用してほしい。少なくとも、自分を傷つけて貶める人間だけではないことを知ってもらいたい。来栖航は、愛されてしかるべき存在なのだから。
「……そっか」彼は目を伏せた。「そんなこと、言ってたんだ」
 軽く頭をかいて、もう何度目か分からないため息を吐く。「俺は、馬鹿だな」
 航は足首の傷を右手の親指でさすり、亜希は目を伏せたまま止まない雨音を聞く。静寂の深夜、夜明けはまだ来ない。
「ずっと、姉さんの幸せを願ってたんだ」
 彼が囁く。
「進学することができれば、幸せになれると思った。金で得られる幸せなら、俺にも何とかできると思った。……だけど、俺は、姉さんを幸せにする俺が欲しかったんだな」
 こちらを向いて、航は失笑した。
「俺が、自分の幸せを叶えたかっただけなんだ」
「……来栖くんが、春乃さんを想っている気持ちに、変わりはないです」
「水無瀬に言われてわかったよ。俺のやり方は、間違ってた。好きだなんて思うなら、もっと信じればよかった」
 彼の笑顔がとても弱々しく見えて、亜希はふいに不安になる。奮い立たせていたものが姿を失ったせいで、来栖航は歩く理由さえも失くしているように見える。
「来栖くんは……これから、どうするんですか」
「さあ、どうしよう。仕事だの勉強だの、全部辞めてもいいんだけど」
「もったいないですよ。バイトも、学校も……」
 彼はすっかり弱気になり、今はもう眠たそうにも見える。目元を擦り、まるで子どものようにうっかり眠りに落ちてしまいそうだ。
 しっかりしてと、無責任な言葉を言うべきか。目標を失い疲れ切った航に、その言葉は残酷ではないだろうか。
 静かな部屋に、ふと甲高い機械音が響いた。ピリリリ。電話の呼び出し音。
 亜希は咄嗟に、転がっている自分のスマートフォンを見下ろしたが、それは何の反応も示していない。呼び出されているのは航の方だった。
 彼は面倒くさそうに身体を動かし、放ったままになっている自分の鞄を引っ張る。ずるずると引きずり、チャックを開け、中に手を突っ込む。取り出したスマートフォンを見ると、眉を顰めた。「誰だ……」と呟く。通知されているのは覚えのない番号のようだ。その間も、呼び出し音は鳴り止まない。
「……はい……」
 画面に触れ、渋々という顔で電話に出る。その途端、彼は大きく目を見開いた。
「……楓?」
 それは楓からの着信だった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。

矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。 女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。 取って付けたようなバレンタインネタあり。 カクヨムでも同内容で公開しています。

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

泥々の川

フロイライン
恋愛
昭和四十九年大阪 中学三年の友谷袮留は、劣悪な家庭環境の中にありながら前向きに生きていた。 しかし、ろくでなしの父親誠の犠牲となり、ささやかな幸せさえも奪われてしまう。

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち

ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。 クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。 それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。 そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決! その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

校長先生の話が長い、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
学校によっては、毎週聞かされることになる校長先生の挨拶。 学校で一番多忙なはずのトップの話はなぜこんなにも長いのか。 とあるテレビ番組で関連書籍が取り上げられたが、実はそれが理由ではなかった。 寒々とした体育館で長時間体育座りをさせられるのはなぜ? なぜ女子だけが前列に集められるのか? そこには生徒が知りえることのない深い闇があった。 新年を迎え各地で始業式が始まるこの季節。 あなたの学校でも、実際に起きていることかもしれない。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

フレンドシップ・コントラクト

柴野日向
ライト文芸
中学三年に進級した僕は、椎名唯という女子と隣同士の席になった。 普通の女の子に見える彼女は何故かいつも一人でいる。僕はそれを不思議に思っていたが、ある時理由が判明した。 同じ「period」というバンドのファンであることを知り、初めての会話を交わす僕ら。 「友だちになる?」そんな僕の何気ない一言を聞いた彼女が翌日に持ってきたのは、「友だち契約書」だった。

処理中です...