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9章 航
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はあ、と大きくため息をついて、彼は再びベッドに背を預けた。ぼんやりとした視線を天井に向け、脱力している。
「……気持ち悪いよなあ、俺」
手首にできた痣を見つめていた亜希は、顔を上げた。
「どうして……」
「そういうことを言われても、揺らげないんだ。それは、ただ俺が相手に興味を持てないだけだと思ってた」
「違うんですか」
「俺には、ずっと好きな人がいたんだ」
彼はそう言うが、春乃を愛することになんの気持ち悪さもないように思える。
「それは駄目なんですか」
「姉さんのことは、家族として好きなんだと思ってた。これはそんな感情だと思ってた。けど、結婚するって聞いて、分かったよ。俺は、違う意味でも、姉さんのことが好きだったんだ」
家族に対する愛情と共に、彼は恋愛感情を春乃に抱いていたのだ。そして今日まで彼は、自分のその気持ちに気づいていなかった。
「その相手に嫉妬して納得できない自分に気づいて、気持ち悪くて愕然としたよ。義理でも、姉さんは姉なのに。俺が持ってたのは、家族への愛情なんてもんじゃなかったんだ」
「……春乃さんは、素敵な人ですから」
亜希の台詞に、彼は小さく笑う。ただ頬が軽く動くだけの、微かな笑い。
「……俺の親父は浮気性のクズだけど、姉さんの母親も悪い人だったんだ」
あぐらを抱え、航はぽつりぽつりと話し始める。
「女側からすれば、金目当ての再婚だった。だから俺みたいなコブは邪魔だった。毎日が地獄だったよ」
春乃と家族として過ごした二年間。彼は決して、幸福ではなかった。
「テストで一問でも間違えれば、一日飯抜きだった。冬に一人だけ台所で寝かされたし、雨が降る夜に裸足で外に追い出された。冷めてないアイロンも投げつけられた」
彼がさする足首の皮膚には、微かに色の濃い部分がある。普段靴下や服の裾で隠れているそれは、火傷の痕だった。
「親父は滅多に帰ってこないし、それも明らかに不倫してるし、だから八つ当たりもあったんだろうな。服を汚したとか字が汚いとか、最後には目つきが気に入らないとか、どうしようもない理由つけてさ。俺は傷だらけだったよ」
彼の他人に興味を示さない人格は、この時に形成されたのかもしれない。心を閉ざして表面だけを上手く取り繕う生き方は、彼が学んだ生存戦略だったのだろう。
「だから余計に、あの時の楓を放っておけなかった」
「楓くんを……」
「痩せこけて、腹を空かして……まるで当時の自分を見てる気がしたんだ。一歩踏み違えてたら、俺もあいつと同じ間違いをしてたかもしれないって思った」航は楓に過去の自分を見出していた。「けど、俺には姉さんがいてくれた。だから俺は、間違ったことをしなくて済んだんだ」
淡々と語る彼は、「姉さん」の言葉を口にした時、ほんの僅かに顔を歪めた。
「いつも、姉さんが助けてくれた。飯を抜かれた時は、後でこっそり食わせてくれた。締め出された時は鍵を開けてくれたし、火傷の手当てもしてくれた。俺が叩かれるのを必死に止めて、自分がとばっちりを食らっても、文句さえ一度も言わなかったんだ」
「子どもの頃から、優しい人なんですね」
「そうだよ。誰よりも優しくて、何があっても笑ってて。一生懸命、庇ってくれて。……だから俺は、勘違いしたんだ」
彼は、小さく笑う。
「俺だから、優しくしてくれるんだって、馬鹿なことを思ったんだ。こんなに笑ってくれるのは、きっと俺にしかない理由があるんだって、くだらないことを考えたんだ。けどさ、姉さんは優しい人だから、そこに居たのが俺じゃなくても、きっと同じことをしてただろうな」
「違いますよ」亜希ははっとする。「春乃さんは誰にでも優しくできる人だけど、相手が来栖くんだから、そこまでしてくれたんです」
「俺もそう思ってたよ。けどきっと、そんなの思い上がりだ。俺には、そんな価値はない」
「違う!」
咄嗟に出した大声に、航がきょとんとしてこちらを見る。
「初めて会った時、春乃さんは弟がいるんだって、すごく嬉しそうに話してくれました。写真も見せてくれたんです」
「俺の写真?」
「そう。笑って、自慢の弟だって言ってました」
「そんなの……」
社交辞令だという台詞を、亜希は遮った。
「この前だって、来栖くんは優しいって。いつだって一生懸命な来栖くんが、大好きだって。あなたが弟だから、春乃さんはそう言ったんです。春乃さんにそう言わせているのは、あなたです」
航は目を丸くして驚いている。
「だから自分に価値がないなんて、思わないでください。春乃さんの行動は、あなたを愛する結果なんです。来栖航という存在は、必要とされているんです。もっと周りを信じてください」
彼には、周囲を信用してほしい。少なくとも、自分を傷つけて貶める人間だけではないことを知ってもらいたい。来栖航は、愛されてしかるべき存在なのだから。
「……そっか」彼は目を伏せた。「そんなこと、言ってたんだ」
軽く頭をかいて、もう何度目か分からないため息を吐く。「俺は、馬鹿だな」
航は足首の傷を右手の親指でさすり、亜希は目を伏せたまま止まない雨音を聞く。静寂の深夜、夜明けはまだ来ない。
「ずっと、姉さんの幸せを願ってたんだ」
彼が囁く。
「進学することができれば、幸せになれると思った。金で得られる幸せなら、俺にも何とかできると思った。……だけど、俺は、姉さんを幸せにする俺が欲しかったんだな」
こちらを向いて、航は失笑した。
「俺が、自分の幸せを叶えたかっただけなんだ」
「……来栖くんが、春乃さんを想っている気持ちに、変わりはないです」
「水無瀬に言われてわかったよ。俺のやり方は、間違ってた。好きだなんて思うなら、もっと信じればよかった」
彼の笑顔がとても弱々しく見えて、亜希はふいに不安になる。奮い立たせていたものが姿を失ったせいで、来栖航は歩く理由さえも失くしているように見える。
「来栖くんは……これから、どうするんですか」
「さあ、どうしよう。仕事だの勉強だの、全部辞めてもいいんだけど」
「もったいないですよ。バイトも、学校も……」
彼はすっかり弱気になり、今はもう眠たそうにも見える。目元を擦り、まるで子どものようにうっかり眠りに落ちてしまいそうだ。
しっかりしてと、無責任な言葉を言うべきか。目標を失い疲れ切った航に、その言葉は残酷ではないだろうか。
静かな部屋に、ふと甲高い機械音が響いた。ピリリリ。電話の呼び出し音。
亜希は咄嗟に、転がっている自分のスマートフォンを見下ろしたが、それは何の反応も示していない。呼び出されているのは航の方だった。
彼は面倒くさそうに身体を動かし、放ったままになっている自分の鞄を引っ張る。ずるずると引きずり、チャックを開け、中に手を突っ込む。取り出したスマートフォンを見ると、眉を顰めた。「誰だ……」と呟く。通知されているのは覚えのない番号のようだ。その間も、呼び出し音は鳴り止まない。
「……はい……」
画面に触れ、渋々という顔で電話に出る。その途端、彼は大きく目を見開いた。
「……楓?」
それは楓からの着信だった。
「……気持ち悪いよなあ、俺」
手首にできた痣を見つめていた亜希は、顔を上げた。
「どうして……」
「そういうことを言われても、揺らげないんだ。それは、ただ俺が相手に興味を持てないだけだと思ってた」
「違うんですか」
「俺には、ずっと好きな人がいたんだ」
彼はそう言うが、春乃を愛することになんの気持ち悪さもないように思える。
「それは駄目なんですか」
「姉さんのことは、家族として好きなんだと思ってた。これはそんな感情だと思ってた。けど、結婚するって聞いて、分かったよ。俺は、違う意味でも、姉さんのことが好きだったんだ」
家族に対する愛情と共に、彼は恋愛感情を春乃に抱いていたのだ。そして今日まで彼は、自分のその気持ちに気づいていなかった。
「その相手に嫉妬して納得できない自分に気づいて、気持ち悪くて愕然としたよ。義理でも、姉さんは姉なのに。俺が持ってたのは、家族への愛情なんてもんじゃなかったんだ」
「……春乃さんは、素敵な人ですから」
亜希の台詞に、彼は小さく笑う。ただ頬が軽く動くだけの、微かな笑い。
「……俺の親父は浮気性のクズだけど、姉さんの母親も悪い人だったんだ」
あぐらを抱え、航はぽつりぽつりと話し始める。
「女側からすれば、金目当ての再婚だった。だから俺みたいなコブは邪魔だった。毎日が地獄だったよ」
春乃と家族として過ごした二年間。彼は決して、幸福ではなかった。
「テストで一問でも間違えれば、一日飯抜きだった。冬に一人だけ台所で寝かされたし、雨が降る夜に裸足で外に追い出された。冷めてないアイロンも投げつけられた」
彼がさする足首の皮膚には、微かに色の濃い部分がある。普段靴下や服の裾で隠れているそれは、火傷の痕だった。
「親父は滅多に帰ってこないし、それも明らかに不倫してるし、だから八つ当たりもあったんだろうな。服を汚したとか字が汚いとか、最後には目つきが気に入らないとか、どうしようもない理由つけてさ。俺は傷だらけだったよ」
彼の他人に興味を示さない人格は、この時に形成されたのかもしれない。心を閉ざして表面だけを上手く取り繕う生き方は、彼が学んだ生存戦略だったのだろう。
「だから余計に、あの時の楓を放っておけなかった」
「楓くんを……」
「痩せこけて、腹を空かして……まるで当時の自分を見てる気がしたんだ。一歩踏み違えてたら、俺もあいつと同じ間違いをしてたかもしれないって思った」航は楓に過去の自分を見出していた。「けど、俺には姉さんがいてくれた。だから俺は、間違ったことをしなくて済んだんだ」
淡々と語る彼は、「姉さん」の言葉を口にした時、ほんの僅かに顔を歪めた。
「いつも、姉さんが助けてくれた。飯を抜かれた時は、後でこっそり食わせてくれた。締め出された時は鍵を開けてくれたし、火傷の手当てもしてくれた。俺が叩かれるのを必死に止めて、自分がとばっちりを食らっても、文句さえ一度も言わなかったんだ」
「子どもの頃から、優しい人なんですね」
「そうだよ。誰よりも優しくて、何があっても笑ってて。一生懸命、庇ってくれて。……だから俺は、勘違いしたんだ」
彼は、小さく笑う。
「俺だから、優しくしてくれるんだって、馬鹿なことを思ったんだ。こんなに笑ってくれるのは、きっと俺にしかない理由があるんだって、くだらないことを考えたんだ。けどさ、姉さんは優しい人だから、そこに居たのが俺じゃなくても、きっと同じことをしてただろうな」
「違いますよ」亜希ははっとする。「春乃さんは誰にでも優しくできる人だけど、相手が来栖くんだから、そこまでしてくれたんです」
「俺もそう思ってたよ。けどきっと、そんなの思い上がりだ。俺には、そんな価値はない」
「違う!」
咄嗟に出した大声に、航がきょとんとしてこちらを見る。
「初めて会った時、春乃さんは弟がいるんだって、すごく嬉しそうに話してくれました。写真も見せてくれたんです」
「俺の写真?」
「そう。笑って、自慢の弟だって言ってました」
「そんなの……」
社交辞令だという台詞を、亜希は遮った。
「この前だって、来栖くんは優しいって。いつだって一生懸命な来栖くんが、大好きだって。あなたが弟だから、春乃さんはそう言ったんです。春乃さんにそう言わせているのは、あなたです」
航は目を丸くして驚いている。
「だから自分に価値がないなんて、思わないでください。春乃さんの行動は、あなたを愛する結果なんです。来栖航という存在は、必要とされているんです。もっと周りを信じてください」
彼には、周囲を信用してほしい。少なくとも、自分を傷つけて貶める人間だけではないことを知ってもらいたい。来栖航は、愛されてしかるべき存在なのだから。
「……そっか」彼は目を伏せた。「そんなこと、言ってたんだ」
軽く頭をかいて、もう何度目か分からないため息を吐く。「俺は、馬鹿だな」
航は足首の傷を右手の親指でさすり、亜希は目を伏せたまま止まない雨音を聞く。静寂の深夜、夜明けはまだ来ない。
「ずっと、姉さんの幸せを願ってたんだ」
彼が囁く。
「進学することができれば、幸せになれると思った。金で得られる幸せなら、俺にも何とかできると思った。……だけど、俺は、姉さんを幸せにする俺が欲しかったんだな」
こちらを向いて、航は失笑した。
「俺が、自分の幸せを叶えたかっただけなんだ」
「……来栖くんが、春乃さんを想っている気持ちに、変わりはないです」
「水無瀬に言われてわかったよ。俺のやり方は、間違ってた。好きだなんて思うなら、もっと信じればよかった」
彼の笑顔がとても弱々しく見えて、亜希はふいに不安になる。奮い立たせていたものが姿を失ったせいで、来栖航は歩く理由さえも失くしているように見える。
「来栖くんは……これから、どうするんですか」
「さあ、どうしよう。仕事だの勉強だの、全部辞めてもいいんだけど」
「もったいないですよ。バイトも、学校も……」
彼はすっかり弱気になり、今はもう眠たそうにも見える。目元を擦り、まるで子どものようにうっかり眠りに落ちてしまいそうだ。
しっかりしてと、無責任な言葉を言うべきか。目標を失い疲れ切った航に、その言葉は残酷ではないだろうか。
静かな部屋に、ふと甲高い機械音が響いた。ピリリリ。電話の呼び出し音。
亜希は咄嗟に、転がっている自分のスマートフォンを見下ろしたが、それは何の反応も示していない。呼び出されているのは航の方だった。
彼は面倒くさそうに身体を動かし、放ったままになっている自分の鞄を引っ張る。ずるずると引きずり、チャックを開け、中に手を突っ込む。取り出したスマートフォンを見ると、眉を顰めた。「誰だ……」と呟く。通知されているのは覚えのない番号のようだ。その間も、呼び出し音は鳴り止まない。
「……はい……」
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